シシリーバーカーの花妖精の原点かな

【手】

『当時の児童書との本質的な違いは、何よりもクライドルフが絵やテキストに教育的、あるいは愛国的な目的を盛り込まなかったことにある。クライドルフは第一に子供と子供の経験世界に向き合おうとしたのである。彼の描いた絵は動物と植物の世界に添ったものであり、大人の視点から見た道徳的な価値体系にのっとったものではなかった。従順の義務や道徳律、間違った行動や罰の必要性、戦争行為への意志や階級秩序といったことは彼の本のどこにも見当たらない。
(中略)
 クライドルフ自身の本は、さまざまな個人的な要素の影響を受けている。クライドルフが自分と自分の作品にとっての意味についてしばしば語っていた夢もそこに含まれる。クライドルフは夢を絵に描いた。夢のヴィジョンを絵に融合させても、夢の多面的な意味の一部しかとらえることができないため、いくつかのヴァージョンを描くこともしばしばだった。
(中略)
 「ちょうちょ」は、アルノルト・ベックリンマックス・クリンガーと並んでクライドルフの目標であった友人の画家アルベルト・ヴェルティに捧げられている。解釈の道しるべとなるこの献呈についていうと、これらの画家たちはみな絵画の中で語り、物語を生み出す名人であった。クライドルフも彼らと同じような語りの才能を持っていた。「ちょうちょ」は誕生から死までの一続きの物語である。その終わりには「お別れ会」が開かれ、「ドクロ」という意味深い名前の蛾が最後の、深紅の杯を飲み干すことになる。
(中略)社会的な圧力と愛国主義によって規定されていた1900年前後の児童文学の方向性に反抗を始めたのはリヒャルト・デーメルだった。デーメルは「もじゃもじゃペーター」を超える絵本を創作し、「児童の世紀」における新しい意識を確立することを目指した。彼と妻との詩を集めた本は「フィッツェブッツェ」という題で、人形に変えられてしまったそういう名前のアステカの神が「年齢訛り」で語る詩で幕を開けることになっていた。この子供の言葉をデーメルは娘デッタのおしゃべりから書き取り、そこに子供本来の感じ方、表現方法への回帰を見出していた。この本のために挿絵画家を探していたデーメルは、多少の寄り道を経てクライドルフのもとにたどり着いた。
(中略)
 ドイツでの進歩的な勢力はこの本を好意的に迎えたが、保守派は幼児性の押しつけだと真っ向から反論し、さらにこうした幼児性は従順であるべきという一般的に認められた子供の義務に反するとした。そのため書評での反応はまちまちだった。
(中略)
 クライドルフが再び「犬の祭り」で動物の世界を擬人化して表現すると、書評は「おかしな解釈の数々」からまったくの無理解にまで分散した。出版者は画家詩人に「書評はおしなべて好意的ですが、いつもと同様、意見が対立しています。でも子供たちの評価はきっとはっきりしたものになるでしょう」と書き送っている。しかしクライドルフは迷うことがなかった。(中略)クライドルフは、社会環境の変化によって子供たちの状況が変化してきていたのにもかかわらず、自分の絵の表現と文章とが子供たちにとってごく身近なものだと確信していた。
(中略)
ある者は、クライドルフがかなり写実的に率直に描いた子供の顔の表情が気に入らず、醜く、十分な魅力がないと非難した。とはいえ、クライドルフは単に子供をかわいらしく愛らしい決まりきった型にはめ込んで描くことは決して望まず、彼らを複雑さそのものの中で描こうとしたのだった。
(中略)
 雪のような白いリスが助けにやってくる、モミの木からだらりと垂れ下がった「魔法使い」(cat.no.207)の姿、あるいは白い手が生えている、緑のキャベツ畑の真ん中で手押し車を押す画家自身の姿(<運命の夢と幻想>、cat.no.213)の見事な描写は、極めて超現実的に生と死を表現している。』(p.10-13・16・224)

スイスの絵本画家 クライドルフの世界(21日。文化村)→BEAT TAKESHI KITANO 絵描き小僧展(22日。オペラシティ)→デイヴィッド・リンチ展(ヒカリエ)→ひっくりかえる Turning around展(ワタリウム)とみまして、上記『』内はクライドルフ展図録から抜粋したモノ。西洋の美術界では1800年代あたりまで「芸術に於いては原画(original)こそ至上」であって、原画の複製である印刷物には原画ほどの価値など見出されようもなかったらしいんですけど、西洋の価値観とまるで逆の日本の浮世絵版画(原画が存在しないうえ「刷りの良さ」に絶対的価値を置く)が流入してきて西洋のヒトはそうとうびっくりしたとかで、版画寄りの出自をもつクライドルフはそこらへんの文脈と絡めても語られるっぽい。クライドルフは石版画の工房で何年か修行してて、初期の作品も自分で刷ったらしくて水彩画を石版画に写す作業がかなり大変だった旨図録のp.10に書いてありますけど、版画がどうこうって時代の自費出版てどんだけ金と手間がかかったでしょうね…。図録のp.9に『いくつかの児童書出版社が興味を示したものの、結局は挿絵の斬新さと、そのため読者に受け入れられないのではないかという懸念のために出版計画は取りやめとなった。』とかあってさー…世界中で作品が売れつづけてるレベルの絵本作家の本の出版を躊躇する編集者って……………。その後絶大な人気が出て的な作家の作品を華麗にスルーした編集者について誰もなんもいわんけど、これまで様々な国・時代で確実に仕事(スルー)をしてきていますよね?まあ儲けなけりゃならんが第一だからしょーがないこたーよーくわかってますよ。でもバーバー。展示の最初のほうにクライドルフの描いた油彩の風景画とか植物画(すげー巧い)とかあるんですが、それが絵本にたどりつくまでの試行錯誤中の作品群なんですけど、そのなかにたくさんヒトが描かれてる作品があって、なんかクライドルフは基本的にヒトが好きだったんだなーと思った。人間と自然界それぞれの好きなとこがほどよくまざってあの画風が確立したんだなーとしみじみした。植物や動物の擬人化絵はグランビル(ヒト嫌い)が有名だけど、クライドルフはグランビルのような悪意描写がまったくないほうのヒトで「市井でみかける微笑ましい人間生活」と「自然界のユーモラスなありさま」を融合させて柔らかい色鮮やかさで描いてるのでどの絵もみてて癒されますよ。それと「子供のみるもの」ということで(教育的な)配慮をしてかリアリティを追求してかどっちかはわからないんですけど、初期の花の絵本で同じ画面に違う花をいっしょに描き込む際、かならず特定の季節に咲く花しか描かないんですよね。違う季節に咲く花を同じ画面に描くことはしないんすよ。植物、特に花の擬人化絵つーとキレーどころをとりあえず盛りこんじまえとばかりに形のよさだけを念頭になんでもかんでも描き込んじゃう向きがいるけど、それやると花の擬人化ではなくて意味不明の架空キャラでしかなくなるんすよ。季節ごとの花同士や虫とのやりとりを描くからこそ植物擬人化の歓びがあるのであって、表層や形にだけなんでもかんでも盛り込む向きは擬人化をたのしむ向きとは根本的にベクトルがちがう。ミュシャの背景模様だけをそんなん簡単じゃねーかとばかりにマネる絵描きとか日本になぜかすげー多いけど、あれもたしかビザンツ方面のでちゃんとミュシャの出自表明て意味があるんすよね。日本の絵描きさんは絵を描くに際して形は巧みだけど「意味」の観点では無自覚すぎるんだよなあ。絵だっていくらもトンチもりこめるのにさ。たったひとつの模様に意味をこめるだけでいいんだよ。そうゆう語りだっておもしろいじゃんよ。明確な意味を表明するのが怖いのかね。そんなこととは無縁の平和主義者ですよーと常に表明していなければならないんだろうか。主張が激しい絵描きといえばグランビルもそうだったらしいけど、クライドルフも物語の書き手と挿絵の描き手でどっちがどの程度主導権握るか的なやりとりをものすごい真剣にやりあってるのね。当時は印刷物が今でいうテレビ並に重要な媒体だったからそうなったのかもしらんけど。描き手の主張といえば図録のp.196に『(ケラー作「女どもについて」は)ほぼすべての詩は女性を題材とし、女性への称賛、恐れ、あこがれ、裏切りそして女性の魅力を扱っている。クライドルフが遺言のなかで明確に希望しているにも関わらず、今日までこの挿絵は出版されていない。』て部分があるんですけど、まさかの喪男案件ですかね?愛らしい作風がアンデルセンを思わせなくもないけども。なにしろ作品中でも解説でもクライドルフの性的な側面に関していっさい触れてなくて、唯一この部分だけがそれとなくニオうふうなんですよね。出版しないのも遺族の要望でとかかね。ちょっとーくわしい続報求むー>独児童文学周辺のどなたかー。つーかアンデルセンもクライドルフもなぜか子供の読み物がらみなのな。子供がらみといえばクライドルフの時代にいた自称良識人のように「子供は従順で可愛くあるべき」みたいな勝手な思い込みを真実と思ってる向きは今もふつうにいそうだけど、それって小児性癖者の願望とさして変わらないように思う。ちびっこから漫画や映画を取り上げる思想団体が「創作物と現実の区別がつかないから」みたいな論理を振りかざすことがあるけど、凄惨描写を子供にみせまいとする心根には「子供は従順で可愛くあるべき」論理が少なからずあるからで、そのそもそもの論理自体が身勝手な思い込みから派生しているので現実の(従順ではなく可愛らしくない)子供にはそぐわないんだよね。願望と現実の区別がついてないのはどっちなんだよ。ところで同じp.196にでてる「昔の子どもの詩」のなかのテントウムシのうたはポターのチュウチュウおくさんのおはなしにもでてくるけど、家が燃えてるから帰れだとか故郷が焦土と化してるだとか、なんでそんな物騒な投げかけをテントウムシにするんだろうか。単に赤くて火を連想させるからかね。
なにしろ今回のクライドルフ展の図録は買っといて損はない出来ですよ。復刻絵本もついてるし。そもそも原画がこれだけ展示されただけでもすごいと思う。ベルン美術館かっこいいぞ。

『日本には「いじめ」っていうのがあってね、中学のときは、おれもその「いじめ」に遭ったよ。みんながおれのことバカにするんだよね、「ペンキ屋の子供」とか言って。辛かったよ。中学の同級生は、うちが貧乏なことや、親父の仕事がペンキ屋とか大工ってことで、おれのことをバカにしてたんだ。』(p.77)

『死と隣り合わせってことがわかっている人間を題材にして、その男がどう動くか。死なないために、ありとあらゆることを必死になってやっている姿を、安全な場所から見ることほどおかしいことはない。見てる人たちは、ホントは笑ってはいけないことだってわかっているんだけれども、たまらなくおかしいわけ。この展示では、悪魔のささやきのようなものを見せたかったんだ。』(p.90)

上記『』内はBEAT TAKESHI KITANO 絵描き小僧展の図録から抜粋したモノですが、今となっちゃ「ビートたけしをペンキ屋の息子という理由でバカにする」て行為自体がコンセプチュアルアートなのかと思うレベルに意味不明。いじめる人てのは常日頃から自分がみじめな目に遭ってて、どうにかして自分よりも下の存在をつくりだしていつも見下してないと安心して生きていられないかわいそうな人なのかなーとちょっと思った。いじめる理由をみると「ペンキ屋だから」「大工だから」とか、理由のようであって理由でもなんでもねー単なる難癖だし。つーかさー人のどこをバカにするかでその人がどこに引け目を感じてるのかがわかっちゃう気もすんだが。いじめる理由なんてつくろうと思えばいくらもつくれるわけで、数ある理由のなかで「貧乏」や「職業」を選ぶのなら金銭や社会的地位を重視するように親から育てられてるんだろうし、容姿や頭の良し悪しを引き合いにだす場合は「いじめる相手よりも自分のほうが優れている」という側に立たないといられない不安感を抱いてる(マジに頭がいい人はべつに見下す相手をつくりだす必要がない)んだろうし。いじめっ子が明確な理由を持って特定の相手ばかりいじめている場合は、その理由によっていじめっ子の心根を丸裸にできるやもしらん。いじめてる自覚がないまま誰かをいじめてるのなら、自分が常日頃みじめな目に遭ってる自覚も持てないでいる(もしくは目を逸らしている)てことだと思う。みじめな目に遭っていないヒトは他者を見下したり暴力をふるったりなどしない。誰かを見下してる自体がそうせずにいられない状況に陥ってる証拠のように思う。たけちゃん展にもどしますが、『』内に抜粋した「死と隣合わせのヒトの滑稽さ」についてはたけしさんが芸人としてコントでさんざんやってきてる十八番なわけで、今展でもそこらへんが映像作品でかるく発揮されています。映像作品はたけし軍団出演してるコントなんですけど、なんか…なぜかフレンチ語字幕のみで音声きこえなくてすげー残念だった。なんとなくはやりとり想像つくんですけども。これが日本だ!では「普通の日本の社長宅」として常に太夫が付き添ってたり寿司職人がスタンバってたりしますし、その社長の経営する会社では不良品の責任をとって水道橋博士切腹をします。この映像作品に関してはとにかくネタがぶっこまれすぎてるのでしりたいヒトはいってことこまかく記録してくれたまえ。このテの映像作品がわりとあって、ベタな囚人コントのは若者客が神妙な面持ちで鑑賞しているところにおばちゃんたちがきてふつうにギャハハハて笑ってた。わし人吊り書道でブフッてなった。映像作品のなかでさーなんかの番組の一部みたいのあったけど、あれなんの番組なんだろ。いろんなキャラのやつ。カラス人間がダッコちゃんぽかった。ひと昔前のドリフ的なコントはほんのちょっと視点を変えただけでたちまち現代美術と化すんだなーとしみじみした。現代美術の見世物感覚なんて長年テレビでお茶の間を笑わせてきた側からすれば造作もないこったよなぁ。まったくべつのもんを組み合わせるのもシュルレアリスムとかいうと高尚にみえるけど、秘宝館的な見世物小屋でさんざんみてるアレ(展示ブツでいうと首すげ替えた動物ハリボテ群)としてみせられると卑近すぎてどうしても高尚なもんにはみえなくなっちゃうんだよな。縁日的な即席感あふれるつくりの甘さに安易に儲けたい作為がみえちゃうからなんだろうか。ずっと前からあんたらのすぐそばにあるじゃないの。どうして気がつかないの?て半笑いのたけちゃんから言われてるような気持ちになる。「現代」のバカさをよりわかりやすくあぶりだしてるっつー意味ではどの現代美術家よりもたけしさんのがずっと巧みよ。美術家さんはどっかにカッコつけが入りがちなんだけど、たけちゃんは芸人として恥を捨てた先にあるところから気持ちよくバカ一辺倒をむきだしています。バカをむきだせるてのは芸術家としていちばん大事な要素だと思う。リンチもそうなんだけど、自分がマジに快楽を感じるポイントまで掘り下げていくと(巷の感覚からすれば)ものすごくくだらなかったり幼稚だったりすることが出てきて、他人にみせれば間違いなくバカにされるからふつうだとそれは恥ずかしくて出せないと思いがちな形態のものなのよ。パウルクレーの抽象画の線画部分とか誰でも描けるようなものだけど、それが惰性や適当さから成されたモノではなくてちゃんと彼の快楽に基づいてあぶりだされたもんだから形が愛らしかったり、色がすごく綺麗だったりするんだよね。バカにされるとわかっていても自分の快楽をあらいざらいぶちまけることができるか?「自分」を選ぶのか「世間」を選ぶのか?たけちゃんはお客が芸人の何を娯楽とするのかわかってる見世物師のところと、自分を出せばいいだけのところとをちゃんと把握できててすごいなーと思う。ピカソちっくな目のとびでたアクリル絵とかは「巧い絵」が好きな人からするとなんで描いたのかわからんとか思うやもしらんけど、たけちゃんが素直に快楽をむきだした結果なんだと思う(つーかたけし映画で凄惨な暴力ふるってるヒトの頭の中にあの絵があるのかと思うと怖ぇよ…)。人体絵のなかに「たまじい」と「魂胆」てわざわざ字を書き込んでるのもさ、稚拙さしか感じないやもしらんけど、あの感覚はちいさい子がよくやるんだよね。描いた車の絵の下に「く る ま」てわざわざ大書きするような。川崎チェーンソー大虐殺の娘さんもジムキャリのマスクの絵描いたときに「マ ス ク だ ぞ !!」とか書いてたな。あの感覚。絵を描いてさらに字を書かずにいれないかんじ。リンチの絵にもなぜか字がぜったい書いてあるんすよね。家の絵を描いてその下に「家」て字書いて、さらにそれを指差して「家。」て言わないといられないかんじ。たけちゃんとリンチはその原初感覚は共通してるんだけど、絵については真逆だったな。たけちゃんの絵は色彩豊かで物の輪郭線がくっきりはっきりわかれているのだけど、リンチの絵はおもに黒と白と灰色で、物の形が溶けかかったりぼんやりしたりしていて判然としないんだよね。たけちゃんの描く人物が地に足がついているのに対して、リンチの描くものは常に浮かんでいるし。原初は共通なんだけど快楽ポイントがまったくちがう。輪郭がハッキリ分かれてる、という点でたけちゃんの絵は緊張感があるのに対して、リンチの絵は記憶の影がぼんやりと溶けゆく恐怖と恍惚感が混ざってるというか。リンチのは最初のほうにカラフルな木版画が3枚あったけど、あれもわりとすきだな。アメリカの民芸感覚あふれるかんじで。リンチ即売展みてたら若いお父さんに抱かれたちいさい子が「これなーに?これなーに?」とずーっと言い続けててなんか面白かった。リンチの初期の短編映像でも「同じ音のくりかえし」がわりとあるんだよね。みたもののマネをくりかえす快楽てのもあるんだろうか。それ聞く側は快楽よりも苦痛になりがちだろうけど。手のことは画像でだしてみたけどよくわからない。リンチとクライドルフの手の夢の絵に関しては上に向いた手の背景や空に切れ目があって、その切れ目の中からのぞいてる誰かがいるって点が共通してるくらいか。
そういえばリンチ即売展の受付の人に「作品のリストのようなものがありますか」て聞いたら「展覧会じゃないのでありません」とかつめたく言われた。しかたないんで全部の題を書き写したけど特に使わなかった。
 
ひっくりかえる展な。うーん。どっかの外人さんのやってたやつとか、男気は認めるけど笑いがない破壊行為ていまいち爆発力が欠けるよね。真剣すぎて笑いがゆるされない的なのがなんか。お客さんは若い方が多かったけどみんなすっげえ真剣にみててしずかーだった。あと善行の側面が目立ちすぎるとちんぽさんはボランティア活動に熱心なギャル男大学生的な雰囲気が出てきますな。展示に広島でピカッの写真でもあるとよかったのに。ワタリウムで実行犯買ったけど、なんかメンバー中に元パンクな方がいらっしゃるのね。チャラ男感覚保ってほしいわ。
 

 
上記画像は最初の2枚がクライドルフ展図録のモノで、あとの3枚はここここここのです。