ヴィゴが患者でいいんじゃね>クローネンバーグ新作

『キレやすい子、人間に関心のない子なら存在する。しかし、生まれつき”母親だけ”に反抗する子はいない。母親は、子にとって最初の保護と愛着の対象だ。生後間もなくから数年間は、母親と密着して過ごすのだから当然である。その母親から見捨てられることは存在を否定されたも同然。だからこそ子供は、どんなに虐待されても母親にしがみつく。ここに父親への敵視が加われば、エディプス・コンプレックスの完成である。』

ブラックブレッド(29日。テアトルシネマ)→少年は残酷な弓を射る(しね)→崖っぷちの男(丸の内ルーブル)→闇を生きる男(テアトルシネマ)とみまして、上記『』内は少年は残酷な弓を射るパンフの斎藤環さん文より抜粋したモノ。少年は残酷な弓を射るは母親の心を意図的に傷つけつづける男の子の話ですが、幼児が養育者である親に対して「だっこ」や「笑いかけ」のような愛情表現をすこしも求めることなくひたすら逆らい続けるてのは(2〜3歳のイヤイヤ期は別として*)現実にはありえないすぎなので「怪物を産み落としてしまった女性の困惑」ファンタジーとゆうことになるのかな。「泣きも笑いもせずにただ母親の顔をにらみ続ける幼児」の画ヅラがやたら不自然なんで、ネグレクトによって情を司る脳の部位が萎縮してサイコパスに…的な分析がまったくあてはまらないファンタジーキャラ造型。その男の子を産む母親がティルダスウィントンで「伝説の冒険家」として知られてるけっこうな有名人らしいんですが、ほんとはまだ世界中を飛び歩きたいふうな欲求を抱えながらも子育てのために家庭におさまっている。そういう欲求はありながらもどうにか生まれた子(ケビン)を愛そうとするんですけど、そのケビンは赤ん坊の頃からスウィントンが近くにいると泣きつづけるし、歩けるようになってからも常に怖い顔でスウィントンをにらみ続けてるし、挙げ句はわざとスウィントンを苛つかせるような事をくりかえして暴力をふるわせて罪悪感を増させることばかりくりかえす。愛情をもって接しても憎悪でしか返されないので憔悴してゆくスウィントン。このへんの「何をしても赤ん坊が泣き止まない」「明け方に赤ん坊がようやく寝たけどその苦労を知らない夫が台無しにする」的なところだけはリアル子育てあるあるかな。ふつうならこうしてがんばってると子供は母親にべったりなるはずなんですけど、ケビンについてはスウィントンがどんなにがんばっても「大泣きしながら両手をさしだして全力でだっこを要求する」的な愛情を求めるしぐさをなにひとつしないんですよね。ただ怖い目でにらんでんの。ケビンはスウィントンにどうしてほしかったんでしょうね。スウィントンがケビンに対して抱いてる本音をぶつけてほしかったんだろうか。それともその本音(本当は子育てしたくない・子供は嫌い等)をわかっていて、その絶望を承知の上で「母親が自分のことを四六時中考えざるをえない状態に陥らせる」という生き様を選択したってことなんだろうか。2歳でそれ把握できるか?天才で怪物なマザコンかよ。ケビンは怖い目でスウィントンをにらみながら青年になるんですけど、スウィントンは息子であるケビンが自分を嫌ってることをわかってるので、どうしていいかわからなくてあまり目も合わさないし、話もろくにしないんすよね。腹割って正直に気持ちをぶつけてもケビンはなんにも話さなかっただろうか。スウィントンのほうも歩み寄ってるふうでいで実はぜんぜん歩み寄っていない(本音をぜったいに出さない)のがなんか気になる。原題のとうりに対話があるようでまったくない不自然さ。今年はじめにユーロスペースでエンジェルオブザユニバースつー映画をみたんですけど、この映画もある家庭の長男(だっけ)が精神に変調をきたして家族が崩壊してく話なんですが、息子がものすごい荒れてるのに、そうなってる理由をだれも彼にたずねないんですよね。親は「(息子を)愛してる」とかクチでは何度もいうわりにその息子の気持ちを考えないで、いつも世の中の標準的「らしい」表層だけを求めつづけてんの。「一般的な家庭像」を保つことがいちばん大事で、共に生きる者の気持ちはどうでもいいふうに。家族崩壊譚の中には情をないがしろにしたり、長いこと対話をしないでいたりする件が必ず据えられているかんじ。ファンタジーサイコパス映画にもどしますが、ケビンが事件おこしたあとにスウィントンが知らない人から暴力を受けるんですけど、このケビンの事件は巷ではどういうふうに伝えられたんでしょうね。スウィントンがマスコミに対して正直に(子供が嫌いな旨)打ち明けたんだろうか?それともひたすら謝罪を繰り返してたらああなっちゃったんだろうか?よくわからん。腕のいい精神科医がちゃんとケビンを診ればスウィントンも被害者だったってことはわかるはずなんだが。そもそもケビンがどうこうつーより気丈げなスウィントンが精神的にガタガタになるところをたのしむ映画のような気がする。エリート女性が憔悴したふうなとこをスウィントンにやらすと骨ばった体つきも手伝って天下一品だよね。外反母趾も痛々しい風情2倍増だし。映画に関しては血を思わすビジュアルは頻出すんのに生々しいぶつかりあいがまったくない冷えきった家族ごっこの光景を描いてるふう。

闇を生きる男はテアトルシネマでホルモンマフィア…?!と思って急遽みてみたベルギーのノワール映画。畜産業者が牛を効率よく育てるためにホルモン剤を打つらしいんですけど、畜産業を営む親が違法ホルモン剤を入手するためにマフィア(か?パンフがないんで細かいことがよくわからん)の営む農場に子(主人公)連れで向かって、そこでマフィアの悪ガキによって主人公の金玉が潰されてしまうんですね。思春期に金玉がないと成長ホルモンが出なくて成長できなくなるとかで、それ以来主人公はおっさんになってもずーっとホルモン剤(ステロイド?)が手放せない体になってしまっている。しかもその性器欠損という引け目からおっさんになっても女性を知らないままで、あるときずっと片思いしていた女性の居場所を割り出してアタックしようとするんですけど、それまで女性と関わった経験がゼロなんでどうしていいかわからなくて、酒のみすぎてライバルと思しき奴を半殺しにしてしまったりする。それが片思いの相手に知れてしまって、想いを寄せる女性が主人公のことを警察にタレこんでしまう…というのが大体のスジなんですけど、トンプスンの失われた男じゃないけど、あれは男にとって死ぬよりもつらいだろうな…と思った。酒びたりで半分死んだ気分になってでもいなければ生きていられないんじゃ。勝手な思い込みだけども。クライマックスで医者から禁じられてるヤクをありったけのんで主人公が暴れるとこがあるんですけど、実話がもとになってるとはいえもうちと暴れさしてもよかったんじゃないだろうか。なんかいろいろ切なくてつらい映画だった。あと出てくるメンツがむさいおっさんばっかで、わしはいいですけどそこらの女子への娯楽映画としては不向きじゃろうなあ。この話で男にキレーどころがいるとまた妙な話になりかねないかな。

ブラックブレッドはなんかスペインの田舎町で赤狩りがどうこういう話っぽい。ちょっと寝たしパンフの粗筋よまないとなんだかわからん映画だった。えーとなんかお父さんが金のために殺人請け負ってて、それだけでもヤなのにその殺人を依頼したのが村の金持ちで、主人公んちは貧しいのでその金持ちに後援してもらって学校に通うようになるという話。屈辱まみれだけど貧しさから抗うことができないっつーたぐいのアレ。なんか全編シリアス話なはずなんだけど、おばさん役とかが始終べらべらしゃべりどおしで情感に欠ける。怒りの場面でもあんましまくし立ててると緊迫感がなくなるよ。途中ねて目覚ましたら隔離されてる美青年が去勢されてた。

崖っぷちの男セルラー系列のアメリカ製かならず満足させます映画。最近はフレンチ製のかならず満足させます映画もわりとできてますな。サムワージントン物件なのと家族映画なのがうれしかった。こうゆうキチッと仕上げる職人仕事が好きだ。仕事後の平日の夜にみるとちょうどよいよ。エドハリスが例によって悪役だけど、ちょっとしおれててかわいそうになった。
 
あと映画前宣伝みてて思ったけど、ナチがヒドいことしてまわってたのはもうよくわかったからそろそろ彼らの編み出した優れた政策の側面なんかも取り上げてほしいわ。それを取り上げたうえで同時にヒドかったとこもバランスよくやるっていう。良い政策を実践していた一方で市民の暴力性や鬱屈の発散のしかたを間違ったことが失敗のひとつだったようにも思うので。ひどい連呼ばかりだと理解から遠ざかってくかんじしね。



 
*…いつも世話をする養育者が絶対に自分から離れない、ということをわかった上で把握したばかりの「自我」をださずにいれない状態なので一種の甘え