勝新の若いころは愛嬌タップシで可愛いですね。

『どことなくいかがわしい雰囲気のお部屋、そして絡み合う男女。ここは世界的に有名な売春宿です。室内に設置されたカメラが出てきますが、これは室内での行為を全てを撮影するカメラなのです!撮影を許可した客が格安の入場料を払って利用し、撮影された動画は有料ネット会員へ配信されるという、驚きのサービスを提供しています。』
『G: 私が驚いたのは、プラハのラブホテル街の雰囲気です。あそこは2日間かけて撮影をしたんですが、凄くきれいな場所だし、皆さん親切な人たちで、とても喜んで働いているんです。もっと売春宿っていういわゆるダーティーなイメージを持っていたんですが、逆の意味で驚きました。』
バージョーンズ展(3日。三菱一号館)→オズの魔法使い(7日。シネマベーラ)→ゴッドブレスアメリカ(シネマライズ)→眠れぬ夜の仕事図鑑(14日。イメージフォーラム)→ザ・インシデント(ヒューマントラストシネマ渋谷)→酔いどれ博士(15日。神保町シアター)とみまして、上記『』内は眠れぬ夜の仕事図鑑パンフから抜粋したモノ。眠れぬ夜の仕事図鑑はいのちのたべかたから引き続き欧州の夜間仕事に勤しむヒトビトの光景を淡々と映してくアレですけど、このテの説明がなにもない淡々としたドキュメンタリーものってわかりやすい娯楽モノとはかけ離れてるんで万人にお勧めはしづらいんだが、音のソノリティとかこれとか好きな向きはしずかにツボると思う。説明のないドキュメンタリーではフレデリックワイズマンのがあるけど、個人的にゲイルハルター映画の淡々としたリズム感が心地いいような気がする。しかしその心地よさに浸かってるといつのまにか寝てるのでこまる。今回も上記で抜粋した売春宿のシーンでガッツリ寝ててみのがしてしまったよ…。あとでパンフみてくやしかったのなんの。パンフに数字つけられてるシーンでいうと8から18までガッツリ寝てたじゃねーか。仕事後に駆けつけたからよけいにすんなりねた。クッソ!!もうね、ねむいなら前半で寝てまんなかへんはぜったいおきるふうにしたほうがいいよ。みたシーンで印象にのこってるのは未熟児病棟で夜間つきっきりで赤ちゃんの世話してる女医さんのとこかな。すげーちっちゃくてぐにゃぐにゃの未熟児を慣れた手さばきでひょいっと裏返したりしててエェッて思ったのと、あと火葬場で淡々と棺が炉のなかにいれられてくとこかな。なんかパンフの内澤さんインタビューで監督さんが「あれちょっと他人の骨まざってるかも」とか答えてるけど、欧州のヒトはそうゆうの気にしないのかね。ちょっとゲイルハルターに日本の火葬場も撮影してってほしいわ。目が覚めかかったところでいきなり骨装飾的な舞台のあるレイヴ映像が流れてきたんで目こらしてみてましたけど、なんかあれが最後のシーンなのね。もっとみたかったわ。あとパンフの郵便仕分け会社のとこに『日本では、郵政民営化後の2004年に、特に仕分け作業の効率化を図るために、より過酷な夜勤体制を敷くなどして合理化を図り、労働者の自殺、過労死が続いているそうです。』て説明があるけど、郵政民営化押し進めた人にそれについてどう思うか聞きにいきたいね。
仕事図鑑といえば酔いどれ博士は風来坊的な無免許医師の勝新が人助けをしたり暴れたりするおはなしですが「法律に背いて人の命を救う」「いかさまで巻き上げた金で手術費をまかなう」みたいな、悪行といわれる行動と善行とが混ざり合ったシチュエーションをこれでもかと見せつけつつ笑いあり涙あり手に汗にぎらされる娯楽道徳映画だった。こういう映画こそ子供たちによっくみてもらうとイイと思うけどな。なんかさーPTAだの思想団体のおばさんだのが子供のみる漫画やゲームに暴力描写やエロ描写を描くな見せるな?アニメに酒やタバコを描くなとかバカな文句つけるけど、描いてはいけない物をふやせばふやすほど人間の真の姿を描けなくなっていくんだよね。酔いどれ博士で本当は腕利きの医師である勝新が診療中でも浴びるように酒飲んでるわタバコふかすわで無茶苦茶なんですけど、その破天荒さがあるからこそ「本当は腕利き」て設定が活きてくるんだよね。あの話で勝新から飲酒と煙草をなくしたら全然魅力的なキャラじゃなくなると思う。それと勝新がしけこんでる区域がなんかボロ家がいっぱいたちならんでて、勝新に医者やってもらおうってんで空き地に突然みんなして家建てはじめたりしちゃうんよ(あの無軌道なシーンは絵本での唐突な展開と通ずるもんがありますね)。診察に必要な道具とかはどっかから「拾って」きたりして持ち寄ってさ。国の決め事の観点からすると悪い事だらけなんだけど、貧しさを生き抜くにはパワフルな暮らしっぷりにならざるをえないわけで、そのパワフルさを描くに「法律に反すること」を全部削ぎ落としたら面白くもクソもなくなるっつーかさ。たとえば現実の人間は赤ん坊のころから暴力的なのは当たり前であって、その当たり前から目を逸らしたいがゆえにひたすら「かわいいもの」としてしか描かなくなったら、人間の暴力についてどう対処したらいいのかも描けなくなる。特に創作物で悪徳といわれるもんを見せないようにすると道徳も同時に見えなくなるんすよ。勝新の風来坊医師モノでは悪にまみれた中での善を描いていて、それは誰にも断罪することはできないし、断罪しないことが唯一の解決方法なんだよね。生きていくうえで判別のつきにくいもんに出くわしたときにどうすればいいか、そのときに働かすべきは善悪や白黒つけることじゃなく、義や理で判断するしかないという。白黒つけるべきところと灰色のままそっとしておいたほうがいいところの兼ね合いを学ぶのが道徳教育てもんなんだろうな。自分の子をイイ学校とイイ会社にぶちこむことしか頭にない親御さんにそういうことの大事さを教える余裕はないだろうね。そんで汚職に走ってもなんの呵責もない悪徳ズブズブの大人ができあがるわけだ。「いい会社に入りさえすればいい」て一見子供のためを思っているようで実はぜんぜん子供のためを思ってないよね。善悪の判断もつかない恥ずかしい大人でいいから給料のいいところにはいれって卑しいことこのうえねーな。このテの親のお手本は東電か?(笑)そもそも凄惨描写みせるなって親はニュースで流れる血なまぐさい事件について、子供と話したりしないんだろうか。そっちのがおかしくねえか。
『セレブ気取りのモンスターチャイルド&ペアレンツ、大衆マナーを守れぬバカップル、なんでも携帯撮影する無礼者、カルト宗教指導者、過激な発言で有名なTV司会者…おいおいこれはもうアメリカに限らず日本でも毎日テレビで街中で電車内で見かけるバカ共と同じじゃないか!大義なく殺しまくる二人に現実の通り魔殺人や無差別殺人事件を重ね合わせ不快に感じる人もいるかもしれない。いや、ひょっとしたらほとんどの真っ当な人間はそう思うはずだ。だがこの映画に、フランク&ロキシーにたまらなくシンパシーを感じてしまったオレはそんな奴らに言いたいね…「死ねばいいのに!!」
 言い忘れていたがオレにはもう一つ口癖がある…「死にたい」だ。「死ねばいいのに」と「死にたい」。オレのネガティブな欲求を満たしてくれたこの映画を観終えて思った。生きるぞ!と。「ゴッド・ブレス・アメリカ」は、フロイトが説いた人間誰しもが持つ【エロス(生の本能)とタナトス(死の本能)】を肯定する映画でもあるのだ。』
上記『』内はゴッドブレスアメリカのパンフの大根仁さん文から抜粋したモノ。ゴッドブレスアメリカは仕事も私生活もうまくいってないし、テレビつけりゃタンポン投げてるし、なにもかもに心底うんざりしてたやもめオヤジが余命数ヶ月宣告されたのをきっかけに殺人でもして自殺しようとしてたところ、怖いものしらずな女子高生に焚き付けられて殺人行脚をはじめてしまうとゆう現代版ボニー&クライド的なアレ。主人公を焚き付ける女子高生(ロキシー)はスーパー!で気に入らない奴をブッ殺してはしゃいでた頭のおかしい女とほぼ同類なんですけど、主人公(フランク)にとっては精神的つながりを感じられるはじめての相手なんですね。フランクは軍隊に入ってたかなんかで銃の扱いはかなり慣れていて、ロキシーに銃の撃ち方指南なんかをするんですけど、なんかこれが古き良きアメリカの精神なのかな…とかぼんやり思ってしまった。フランクは高尚な思想を掲げてるとかではなくて、ほんの少しの思いやり(=一般常識)を周囲に求めてるだけなんだけど、それが欠けまくってる相手に対して正面きって求めるとなぜか鼻で笑われたりバカにされたりするので、弾が尽きるまでお見舞いしてやるわけです。言っても直らない相手にはこうするしかないといわんばかりに。フランクの銃が火を吹く際の動機は人間であれば誰もが感じたことのある日常のささいなモヤモヤネタなので、ということは誰もがほんのちょっとのスイッチが入っただけでフランクやロキシーのようになりかねないということなのであろう。つーか大根仁さん文からして日本の自殺者は「本当はフランクみたいに大量殺戮したいんだけど優しくてできないから自分を殺してる」数だったりしてな…。殺意は誰でも抱くもんである、て前提は道徳教育では絶対に語られないんだろうなあ。あたりまえのことなんだけども。ゴッドブレスアメリカにもどしますけど、フランクとロキシーの抱く怒りや空虚が万人に身に覚えがあるであろうたいへん身近なモノなので、彼らの気ままな殺人行脚がどうも心地の良い光景にみえてしまって否定するのがむずかしいかんじですよ…。フランクのやるせない人生模様を鑑みるにしても、ようやく得た同志との生活の輝きっぷりを頭ごなしに否定することができない…。まあ彼らにかるく殺されるほうはたまったもんじゃないですけどね。現実のみなさんは人殺し以外の方法で発散しような。説得力なにもねーすね。
ザ・インシデントはフレンチ方面のヒトのつくるアメリカン映画。ヒューマントラストシネマさん、このテの最近すきね。こんなとこ現実にあるか…?て疑問がちょっとよぎる系はたいていこのオチね。
バージョーンズは演劇の舞台を真っ正面から並行に撮った的な構図をこのんで描いてたヒトで、たいていは神話とか騎士譚をお題にしてて、人を描き込む際はかならず全身をきっちり描く系の画風。描かれてる人物はたいていクチが閉じてるか、開いててもうっすらと半開きになっている程度で、表情としてははかなげな雰囲気。その人物の周囲やあしもとには常にちいさな花が咲き乱れていたり散らばっていたりするあたり、少女漫画のはしりといっていいのかしら。図録には耽美的て書いてあるけど。あと特徴的なのが、画面中に何人かのヒトが描かれてても、そのヒトたちの視線はそのなかに描かれている誰とも合ってないんだよね。他の絵も図録で見直したけど、体や顔は向かいあってるのに、視線がそれぞれ全然ちがうほうに向いてる。これピグマリオンに顕著なんだけど、あえて描き込む人物同士の視線を外し続けて描くってのはどういう意図があってのことなんだろうね。鑑賞者のほうに目を向けている絵はごくまれにあるんだけど、画面中に描き込まれた人物同士で視線が合ってる同士がぜんぜんいない。バージョーンズは描き込むキャラたちの邂逅をゆるさなかったんだろうか。今展にでてるのでは眠り姫の緑ぐあいとかメドゥーサの死の濃青(翼部分に白のチョークでハイライトつけてる効果が面白い。バージョーンズはチョークの質感が好きだったみたいだ)の色気がすばらしかった。最後のほうのタペストリーも発色が最高によかったけど、最後からちょっとまえのエッチングもわりとすき。女性の髪をほわんとやわらかいかんじで描くの、あのへんのヒトの流行だったのかしら。単にバージョーンズ個人の嗜好かな。あとバージョーンズてロセッティと画風が似ててなんかちょっと見まちがえるんだけど、クチビルがめくれあがってなくてやさしげな女性のほうがバージョーンズで、気の強そうなクチビルのめくれあがった女のほうがロセッティだなーと思った。