チャンピオンでの演技があってこそのスパルタカス出演だったのかな。

問66 江沢民元主席がやったのは反日教育ではなく、愛国教育だ
  確かに愛国教育だろうが、愛するに足りるほどの自国の歴史がなかったから隣国の日本を憎ませたのでしょう。中国共産党創立以来、革命当時、数百万人の地主を殺し、その結果二千万と言われる餓死者が出た。その後、文化大革命でインテリ層はほとんど殺された。国を愛しようがない。隣国を憎ませることによって国をまとめようという戦時プロパガンダ的発想です。』(中国を永久に黙らせる100問100答p.91)
ポール・デルヴォー 夢をめぐる旅(28日。府中市美術館)→亡命(30日。オーディトリウム)→都会の牙(シネマベーラ)→インブレッド(シアターN)→アイアンスカイ(TOHOシネマズ渋谷)→ヒッチハイカー(1日。シネマベーラ)→チャンピオンとみまして、亡命は中国の民主化を望んでいるがために中国共産党から命を狙われて海外へ亡命した中国人活動家や思想家が、いま現在どのように生きたり考えたりしているかを撮りおさめたドキュメンタリーで、どのヒトもできれば中国に帰りたいと切望していて克つ中国を愛してやまない中国愛に満ちた方ばかりだった。市民の声に耳を傾けてくれる誠実な人柄の胡耀邦てヒトが80年代に指導者だったそうなんですが、その胡耀邦さんが失脚させられたことに抗議して学生たちが集会してたらそれを新聞がさも暴動かのように書き立てたもんで、純粋に追悼の気持ちでやってたことが突然政治利用されたことに驚いた学生さんたちは政府と話し合いをしたがったんですけど、中国共産党はいつまでたっても無視しつづけるもんで、それでも学生さんたちは辛抱強く対話と民主化を求める集会を続けていたところ、ある日突然軍隊が学生さんたちに機銃掃射を始めて大量の死者が出てしまった天安門広場での出来事が語られて、そこからさまざまな国に身を置く活動家たちの談がつづくんですけど、ひたすら対話を求める学生さんたちの穏やかな気持ちと、従わねえ奴は片っ端からブチ殺す的な中国共産党の思考の落差がものすごいね。もともとちゅーごく市民間には「まずは穏やかに話し合おう」という姿勢があったのに、中国共産党の頭ごなしな暴力的支配のせいで本来的な性質を貫いていては生きていられなくなっちゃって、その果てに今の暴動とかがあるようにみえたけどな…。この映画に関しては中国人の亡命者のことをぜんぜんしらないのでなんとなくみにきただけだったんですけど、なんかこの映画終わったあとに突然監督さんご本人がいらして長々といろんなお話を披露してくださったんですが、その監督さん談中でへーえと思った件をいくつか。
孔子儒教は権力者(特に中国共産党)にとって都合の良い思想
・中国国外に亡命した中国人思想家たちは、国内では「国賊」とされ、儒教のとうりに生きる者こそが「愛国」とされている
・中国では仏教の腐敗がひどく、僧侶に愛人が数人いたりする
・中国で高速道路をつくることに地元住民が反対すると「6発の銃弾を撃ち込まれる」(それってリボルバーの全弾をお見舞いされるということだよね…)
・中国の歴史はおおまかに「4期」あり、現在は「GOLD」の時代だそう。市民を踏みにじった多大な犠牲のうえに無理やり築き上げた金ぴか時代
天安門広場で軍隊が学生にむけて銃を撃ち始めたときのことについて、映画中で楊建利さんてヒトが『日本軍が農村に攻めてくる映画を見ているようだった。小さい頃、よくそういう映画を見た。日本軍が村に侵入し、乱射する。この(天安門広場での)シーンはまさにそれだった。』て話すくだりがあるんですけど、中国共産党てちゅーごく市民が抱いてる「極悪イメージの日本」と同じことしてんじゃん。ちゅーごく市民のヒト、そんなんされてまだ中共にひれ伏してるんだねえ。なんか…現在の韓国や中国の「日本がいくら謝罪しても支援しても永久にゆるさない」的な心根の源がどこからきてんのかがなんとなくわかったような…。子供のころからずうっと日本への憎悪を植え付けられ続けてて、その果てしない憎悪煽り喧伝のはけ口として日本にいつも謝罪を求めずにいられないんでしょ…。それこそ過去の首相が謝罪したかどうかなんてことがどうでもよくなるほどにさ。もう毎日のように極悪な日本を憎めといわれつづけてるから、謝罪もそれと同じくらいしてもらわないと気が済まないほどになってるんでしょ…。だって憎悪を抱きつづけて生きるほどつらいことはないから、どこかで吐き出さずにいられないもんねえ。それを「怨」という伝統的思考なのだと思わされてしまってるんじゃないのかな。なんか…ことあるごとに日本に謝罪求めるヒトたちが覚醒剤中毒者かのようにみえてしまうよ…。日本への憎悪植え付けされてる間に直視しないでいる国内問題がどれだけあるか、わかっているのかな……。中国や韓国のヒト、自分とこの政府から洗脳されてる中だって自覚できるかな。民主化してもそれとわからないふうに憎悪中毒にされてしまう危険性はあるけれど、それでもおいらはちゅーごくが民主化するのを待ってるよ。ちゅーごくの情報やりとりが解禁されたらクソ面白いネタがしぬほど出てくるにちがいないし。そういえば亡命の監督さんは上映後のお話中にキリスト教をなにげに礼賛してたふうだったけど、監督さんのキリスト教解釈がビミョーにまちがってたような…。なんか「殴られたら殴られたまま」みたいなことチラッと言ってた気がするんだが。つーかキリスト教礼賛なんならまず「ゆるし」を実践すべきなんじゃないのかな。どうなってんのかようわからん。この監督さんは前作が慰安婦がらみの作品だそうで、お話中に90代まで生きた元慰安婦のヒトが妊娠できなかったのは梅毒のせいだったとかゆってたんですけど、梅毒って進行するとヒドいことになるんだが、その元慰安婦さんは梅毒が治った?それとも梅毒病みのままだった?妊娠できなかったのは元々の体質とかが原因ではなく、マジに梅毒が原因だったんだろうか。そういえば監督さん談中で、なぜか慰安婦の件を話した直後に現在の中国国内で売春や人身売買が横行してるのに政府が何も手を打たない件をつなげるように話しはじめたけど、それとこれとは問題がぜんぜん別なのにひとつなぎでさも日本が関わってるかのように思わせられる話しかたをするのはよくないですよ。幼少期から叩き込まれた日本への憎悪教育が根にあるとはいえ、日本を責めるためなら多少のデタラメをまぜこんでもいいと思ってる相手にまっとうな謝罪をする気にはどうしてもならないのですが。憎悪植え付けをされた中国人や韓国人への謝罪を日本に求めてる日本人ね、あんたそれは中国や韓国政府の憎悪煽りを容認したうえ乗っかるということになるよ。むかしのことがにくい!あやまれ!あやまれ!てそれ続けてたら永久に「加害者と被害者」のまんまで対等の友達関係にはなれないだろ。慰安婦に関してはねえ、下半身産業が必要とされていた事実を否定したらこれからの下半身産業の存在否定につながるような気がするので「悪かった」ていうよりも「ツイてなかったね…」という個人への同情の気持ちであたるのが最適に思う。そうやってだまされてヒドい目にあう向きは戦時下でなくともいつの時代だって変わらずに起きることです。だまされてツイてない事態に陥ってしまうヒトを生み出さないなんて不可能よ。監督さんは映画後のお話のなかで日本人が中国・韓国を見下してたから慰安所なんかつくったんだろうとかゆってたけど、慰安所は吉原の延長としてつくってたんだと思うけどな。日本人の慰安婦だってけっこういたみたいだし。ぜんたい亡命はちゅーごくをしるためにすごくためになる作品でしたよ。ちょっと遅れて前半15分くらい見られなかったんだけど、タクシーに4000円払ってでもみた価値はあった。亡命者のなかではアメリカ在住の黄翔さんが刺さったな。いつでも母国へ帰れるように、英語を決して使わないの。だから働いたりはできなくて奥さんが生活のことは大体やってるから彼にはあまりやることがなくて、でもだからこそ物を書いたり表現することが自分自身との勝負になるのだ、という旨のことをゆっていて、なんというか期せずして芸術家の原初にむきあうことになってしまってるんだなーと思った。だれがみるでもないけれどやる、という気持ちを持てるかどうかという。中国国内で彼らがふつうに活動できるようにはやくなればいいのに。そのための準備はもう十二分にできているよ。ところで亡命のパンフは映画中のセリフが全部掲載されててたいへんおトク。買っとくと吉よ。ちゅーごくの現在のリアル知識人のがんじがらめなかんじがよくわかる。中共はほっとくと中国の頭いいヒトをマジに根絶やしにするかんじ。あの対話を求め続けていた学生さんたちの穏やかさからしてほんとうは日本人とはふつうにマブダチになれるんだよ。なのに中共がそれを阻んでる。
 
チャンピオンはロスのダイナーの経営権(なのかな)を買った貧乏兄弟ふたりが、カネがないんでその店までのヒッチハイクをして拾ってもらった車にボクシングの試合会場にいくという金持ちの男女が乗ってて、カネがほしけりゃその会場内でビールの売り子でもしとけよーとか言われたんで、かるい気持ちで貧乏兄弟が売り子志願したらド素人のてめえらを雇う理由がないし(笑)とか無下にされたんでカッとなった兄カークダグラス(ケツアゴ族)が暴れだしたところ、直前にドクターストップがかかって試合に出られなくなったボクサーの代わりに唐突にリングに立たされてしまう。当然なんの訓練もしてないのでカークダグラスは対戦相手のボクサーにさんざんボコられて負けるんですけど、カネがもらえればいいやーとばかりにマネージャーのおっさんとこ行くといろいろ丸めこまれて当初の言い値の3分の1の報酬しかもらえず、暴れようにも止められて渋々はしたカネを手に会場を後にして弟と共に権利を買った店までたどりついてみると、頑固親父がでてきて店の権利を売ったおぼえはないし兄弟が権利を買ったあたりはちょうど店で雇ってたバカを解雇した日だった(兄弟はまんまと騙されたんですな)旨伝えられて兄弟は落胆するものの、ちょうど人手不足だったので貧乏兄弟はこの店に雇ってもらうことに。この店には頑固親父の娘がいて、まあ店で働いてるんですけど、美人なので兄弟がふたりともホレちゃって、調子のいい兄カークダグラスがソッコーで手出して娘とラブラブになるんですけど、頑固親父は娘にちょっかい出されるのが我慢ならない方向(おそらく今までも何回か娘がテキトーに遊び捨てられたからなんじゃないかね)なんで逢瀬もコソコソやってたんですが、ある日イチャついてたところを親父にみつかって強引に結婚させられてしまう。でもカークダグラスは結婚する気がまったくないので、一瞬で嫌気がさして弟と共に店をでてゆく。なにしろカネがないんで職業斡旋所にいってみたところ、ボクシング会場でボクサーになるよう誘われた際に聞いたジムの張り紙があったんで、かるいきもちで兄弟がそのジムにいってみると、ボクサー勧誘してきた当人がいたものの話しかけてもイマイチやる気ないんで、この俺をいっちょ儲けられるくらいにしてくれや!とカークダグラスが強引に焚き付けてボクサー修行を積むことに。そうしてカークダグラスに修行させた男がどうやら名トレーナーだったらしくて、ボクサーとしてめきめきと頭角を現してくカークダグラス。んで順調に試合を勝ち進んでいくんですけど、なんかカークダグラスは貧しいときの精神的飢えが心に巣食ってるらしくて、ファイトマネーを手にしてもそれを上回るほど浪費して周囲の人間に常時借金してるんすよね。おまけに美人みると旦那がいようがいまいがおかまいなしに食いまくって、女のほうが結婚チラつかせると即別れるという責任いっさいとらない態勢を謳歌しまくる。その女ってのがどれもボクシングでの八百長がらみの男の奥さんだったりしてさ、ふつうそういうのに手出したら殺されてもおかしくないんじゃないかと思うんだが、でもカークダグラスはなんか殺されるまではされないんだよね。あの映画中でカークダグラスが名ボクサーとして巷に取り沙汰されすぎるほど名を成してたからなんだろうけど、でも裏世界の人間に対してあんな傍若無人に振る舞ってるのにリング外で無事ってのもなんか牧歌的だなーと思った。んで調子こいたカークダグラスがより金を効率良く手にいれるために、長年共に歩んできたトレーナーや弟を切り捨てはじめるんですけど、最近のハリウッド映画ではそういうことするとすぐ落ち目になってく(→その後に改心して復活)的な展開になりがちですが、カークダグラスが冷血漢的な行動をしてもべつにボクサーとしては落ち目にはならないんだよね。のちの強豪相手との試合前にまたなじみのトレーナーを平然と呼び戻すし。カークダグラスと寝ちゃうおんなたちも、最初はカークダグラスのこと見下してたのに付き合い続けて別れるってなると必ずすがりついていっちゃってたしなぁ。ファムファタルの男版つーの?あとさークライマックスの強豪相手との試合前に、母親の危篤がらみでかつて強引に結婚させられたダイナーの美人娘とか出てきたんで、カークダグラスさすがに改心展開なっちゃうのかなーと思ってたら結婚する気が相変わらずないくせしてまた欲望が赴くままに手出ししやがるんだよな。この娘さんもカークダグラスがヒドいことをよくわかってるんで忘れようとがんばってるんだけど、ホレちゃってて当人を前にするともう拒否できないのよ。んでさ、始末悪いことにカークダグラスの弟がこの娘さんにずうっと片思いしてて、でもこの娘さんはいくら弟に言いよられてもカークダグラスへの想いがなくなることはないんだよねぇ…。この作品でのノワールどころはこの報われない弟さんのやりきれない存在感(最後のほうの灯りがいくつかともった暗い廊下をゆく後ろ姿のシーンがなんか印象的だった…)と、あとカークダグラスを動かすカネへの渇望感だなあとしみじみ思った。この作品は勧善懲悪的な予定調和に陥らせないのがすごくイイけど、どうやっておとしまえつけるのかなーと思ったらカークダグラスが貧乏を味わった際に取り憑かれてしまった狂気ともいえるカネへの執着があぶりでてくる終わり方で、すごく納得いった。あの男の中にはいくらカネを手にしても埋まることのない空洞がぽっかりとあいているのだな、ということがよくよくわかる良いラストだった。だからこそ女に対してもカネに対してもひたすらむさぼるだけで、たいせつにして手もとにとどめておくことができないのだと思った。あんまし数はみてないけど、この時代のフィルムノワール映画としてはチャンピオンはわりと傑作なんじゃないのかな。みおえてすごく充実したので。チャンピオン観終えた帰途になんでノワール映画に惹かれるのか考えてたんだけど、土曜のトークショーで柳下さんがゆってた「素材や技術の(当時の)限界によってしぜんと生み出された白黒の強烈なコントラスト」の部分はそれだけで明るさ(善)と暗さ(悪)の暗喩みたいだし、制限時間内で効率良く客の心をつかむ、ていう縛りのもとで見世物やる方向のせいで「愛」にしろ「欲望」にしろごく短い時間にむきだしの感情が濃縮されて表現されてることが多くて、極端に狭い部屋の中でみたことのないモノが異常に培養されてるふうな濃厚さがあるんだよね。そのうえ時間が経って劣化して画質が荒いところがぼんやりとしかおぼえていない夢に似た質感にしぜんとなっちゃってるし。何から何までおいらのスキなシュルレアリスムとかぶるんだよなー。デルヴォーの絵みたいなパッと見おかしいとわかるもんて、たいてい道具立てが単純でいて克つ自分の欲求が簡素に異常濃縮されてるもんが多いんだよね。それとすごくにてる。今回ベーラさんでやってるノワール映画って公開当時にはアチラの巷でどういう扱いだったんだろう。ピンク映画的ないかがわしい上映館でひっそり、みたいなかんじか。それともふつうに老若男女のみる娯楽映画として親しまれてたろうか。そういえばこのころのノワール映画でヒッチハイクネタがやたら出ますけど、貧乏の証=犯罪に関わりがちってあたりが素材として最適だったんだろうか。あとさ、あのころのボクシングって腕を盾にガードしないの…?なんか、チャンピオンのボクシング試合シーンがボクサー同士お互いに打たれるままでガードをいっさいしてなかったふうにみえたんだが。映画的な演出でしかたなかったのか…?打たれるままなビジュアルもわりとショックだったけど、そのうえグローブがわりかし薄いのとこもなんかハラハラしますなぁ。それをスーツにネクタイ(&帽子)いでたちなリーマン風の男どもがみてるのでなんか面白い。なんだろうあの時代の建前と本音がそうとうズレてるのにみょうにしっくりきてるかんじ。すごい美女がダイナーでしがないウェイトレスなんかしてるはずないのに、このフィルムノワール世界ではそうでなくてははじまらないんだよなー。
ヒッチハイカーはヒッチハイク追いはぎを乗せてしまった男ふたりが、追いはぎのいうままメキシコ砂漠を走らされる話。砂埃と汗にまみれた男くさい画ヅラの映画ですけど、これ女性が監督したんだねえ。あの追いはぎの片目の閉じない不敵なツラがまえがいかにも非道な世界をくぐりぬけてきたふうでイカスものでしたし、聞いてもねーのにツラい生い立ちの件とか話し出したり、つまるところ悪事を正当化するにいいトシこいてもまだ子供のころの生い立ちなんかを引き合いにだしたりするおとなはやっぱし歪んでいるのですと言いたいのだね。アベンジャーズのロキもいいトシこいてやっぱしぼくがもらわれっ子だからなんだろ!!とかやってたしなー。まあ犯罪者といわれるヒトの多くは幼少期の件が少なからずあるっぽいけど、でもそれは悪事の理由にしたらいかんアレだしな。しかし追いはぎは短銃しか持ってなかったし、あれちょっと手で払いのけられそうなかんじだったけどな。できそうでできないもどかしさ。
都会の牙は純愛すぎてウザい彼女から逃れるようにバカンスにきて羽をのばそうとしてた会計士の男が、いつのまにやら一服盛られて余命数日宣告されて、どうしてなのかをさぐるために痛む腹を抱えながら暴行されたりしたりしつつあちこち駆けずり回る話。この会計士の男が盛られたのがイリジウムとかいう発光物質で、よくしらんけど今トレンドの放射性のナニかなのかな。医者は男を即入院さそうとすんですけど余命数日宣告がショックすぎて病院からとびだして、そのまま心当たりをたずねあるくんですけど、くわしくはよくわからんがたぶんそのイリジウムの売買自体が違法なんで、その売買経路の痕跡を全部消すがてら主人公も消されようとしてる(ただ書類にハンコを押しただけなのに、てつぶやいてた)ふうなかんじだった。死にそうで死なななくて、いろいろやってからガクッとなる展開は時間の都合で突然ヘンな死に方させられる役とおんなじだな。死と並走する焦燥感もノワールには欠かせないわね。
デルヴォー展は今現在出回ってる絵柄にたどりつくまでの黎明期に試行錯誤してた中に描いた絵が中心なんで、デルヴォーの重度マニア向けかな。あんまし点数ないし。「若い娘のトルソ」て絵が薄暗い色合いなのに透明感があってきれいだった。デルヴォーはなんか母親が息子溺愛のヒトで、悪い女がつかないようにと母親がデルヴォーから相思相愛の女性を引き離してしまって、その十数年の間デルヴォーは女性ばっかし描いてたらしい。母親がデルヴォーにやったことはいいことではないけれど、でもデルヴォーがあの絵にたどりつけたことを考えると彼にとっては悪いことだったとも言えないんだよなぁ…。デルヴォーの絵から裸の女とったらおもしろくねーもんな。母親の狂気に近い行いのおかげでああいう絵が生み出されたとも言えるしなー。十数年のちに思い焦がれた女性と結婚することもできたみたいだし。んでふたりが老いてその奥さんが先逝くと、もうデルヴォーはかつてのような絵をぱったり描かなくなったんだそう。愛とかいうよりも執着に近い想いだったんだろうけど、でも最盛期に描かれたデルヴォー絵の裸の女性の背後に描かれている夜の神殿のなにもないところがなんとなく神社とかの神域の静けさに似てるんだよな。何者もいないはずなのに、なにかの息づかいが感じられるふうなあの雰囲気。石畳に置かれたランタンは誰が点け、なぜ置き、いつか取りにもどるのか。
府中市美術館常設展示の牛島さんは風景なんかをまるっこくちぎったおモチのような筆致であらゆるモノをもにゃっと描く画家で、ゲームとか漫画の世界観でまんま使ったら可愛くておもしろいんじゃないかなーと思った。顕微鏡でのぞきこんだ微生物の世界っぽい雰囲気でもある。微小な有機体がたえまなく分裂をくりかえしているような。そういえば牛島さんコーナーとは別の常設展示のなかに犬2匹を描いた屏風があって(その犬の屏風と同じ部屋にやたらきれいなピンク色の牡丹の花を描いた絵があった)、片方の犬はメスらしくて子犬たちがおなかにくっついてたけど、神社の狛犬でも「阿・吽」のやつとちがって片方だけに子供の狛犬が足元にいるやつがあるよね。大國魂さんの本殿前の狛犬もそれなんだよな。
アイアンスカイは第二次大戦直後に逃げ延びて月の裏側で暮らしてたナチスが地球に攻めてくる話で、宣伝写真にパツキンのナチス高官とおぼしきねーちゃんが全面に出てたもんだからさぞ拉致った地球人を鞭で痛めつけるのだろうな〜と思ってたらなんかイイひとキャラだったのでガッカリした。でも黒人さんを漂白して白人化さしたりしてた。全体的にかるい政治風刺傾向なんですけど、ナチス側の独裁上等体制が堅苦しい言葉づかいとか格式ばった制服ありきなゆえに過去の遺物感ふんぷんなのに対して、アメリカ側はえげつない欲深さをドギツいほど明るく元気のいい建前でくるんで喧伝するカンジで、ビジュアルは正反対なのにどっちの権力者もやってるこたさしてかわらないのでむしろ全裸になって殴り合いして勝ち負け決めたほうがさっぱりするかもしれません。ナチス側の巨大基地内の歯車を中心にしたしくみがレトロフューチャー感タップシでよかったです。総統閣下はお怒りですのパロ場面あったな。あのシリーズでは震災直後につくられてた「べつに好きじゃないのに納豆まで買い占めちゃって……」みたいなやつがツボ。
インブレッドは軽犯罪やらかした中高生にお灸をすえるかなんかで社会奉仕さすために、社会福祉士2人がその中高生4人を深田舎まで連れ立って車でやってきたんですけど、滞在した村でアレコレやってるうちにヒマな地元住民によって面白半分に切り刻まれる話。なんかだいぶ寝ちゃってよくわからんすけど、パンフのスジによると村の人が動物を焼き殺すとこを中高生に目撃されたんで、中高生を取っ捕まえてどうかしようとしてたら福祉士のおばさんが中高生を助けだしたんだけど、ひと安心したところで福祉士の男のほうがころんで大けがして、その男をリヤカーに乗せて運んでたら頭の弱いウチのアレがしでかしたか…!とばかりに勘違いした酒場の主人が頭の弱い村人ののど笛をかき切るんですけど、あとからぜんぜん違ってたことに気づいて見られちゃったからヤツら殺すかーとばかりに福祉士一行を追い詰めてゆくらしい。ころんで大けがする福祉士のおっさんが若者に対してなんの役にも立たん自己満足な説教をかますイライラキャラなのと、あと村で出されるメシや飲み物がマズそうすぎるとこが絶妙でよかった。ヒマは人格を破壊するのだなーとしみじみした。殺されるほうも殺すほうもわりといい勝負のバカだった。