竹書房の未公開!恐怖ビデオつームックでルイス映画の存在を知ったよ

2000人の狂人(12日。シアターN)→カラーミーブラッドレッド→血の魔術師ゴッドファーザー・オブ・ゴアとみまして、ゴッドファーザーオブゴア以外の3本の映画をすべて監督したルイスさんは当初ジャーナリズムとか心理学とか人類学とか勉強して広告業界で手堅くやってたみたいなんですけど「より高い利益を求め、黎明期のエクスプロイテーション映画界に参入」(パンフの来歴より抜粋)したということで、映画自体にはさして思い入れがなく、単に「大企業がやりたがらないもので、客がみたがっているもの(*)」という商い上における隙間条件を満たしていたのが「惨殺されて血と内臓がドブドブ出る」怖がらせ映画(=「ゴア」ジャンル)だったからっていう理由でスプラッタ映画を生み出してしまった根っからビジネスマン気質のヒトで、ゴア映画で儲けられなくなると映画づくりをさっさとやめて、以降はマーケティング会社をはじめてビジネス書をたくさん出版したり、それがらみの講演したりしだすんだよね。ハーシェルゴードンルイスといえばスプラッタですけど、参入したいちばんはじめは「セックス場面のないヌード映画」を手がけてたらしい。ゴッドファーザー・オブ・ゴアはルイス監督の来歴に関するドキュメンタリーもので必見なんですけど、1960年初頭は映画での性描写に関する規制がけっこう厳しくて、すっぱだかの女子たちが野外でキャッキャ遊んでるくらいがギリギリセーフだったそうでそのテの映画をやってたらしいんですが、それからなんか惨殺映画をやりはじめるんだよね。当時はエロ描写の規制はあったんだけど、スプラッタ映画自体が存在してなかったから当然血しぶきとか切り刻むとかそういう描写に関する規制もまったく無くて、ルイスがはじめてつくったゴア映画「血の祝祭日」は最初はけっこう大きい映画館でかけられたんだったかな。そしたら批評家連中からはゴミ呼ばわりだったんだけど、話題が話題をよんで全米各地に上映館が拡大してってかなり儲けたとかなんとか。客が吐き気をもよおした、て聞くとそれはイイ!!とばかりにさっそくゲロ袋に「血の祝祭日のご鑑賞にはこの袋が必要です…」とかおどろおどろしいタイポ印字して嬉々として観客に配る商人ルイス。カッポーが車乗ったまま野外で映画みるとこで上映されるとけっこうな好評(賛辞のかわりにクラクション音の嵐)だったとかで、若き日のジョンウォーターズはそういう野外上映をこっそりみてて、ルイス映画の血しぶきっぷりに驚嘆してたらしい。肝心のルイス監督のゴア映画についてなんですけど、ほぼセリフ棒読みの素人に近い俳優が演じてるうえ、最初にやったシーンとか最初のほうで言った説明的セリフとかを、あとになってもまたしつこく同じふうにやるんですよね。ゆっくりしっかりした口調で。なんか、誰もがわかりきった取り扱い説明書の文面を幼児でもわかるように繰り返してるみたいなかんじ。どのゴア映画もその構成だから冗長なんですよすごく。それと血の魔術師上映後に篠崎さんと佐々木さんのトークショーがあっていろいろ解説してらしたんですけど、篠崎さんが言うにはいっぱしの映画はひとつの動きに関しても最低2カ所くらいから構図を変えて撮るのに対して、ルイスの映画はカメラを1カ所に置き去りにしたまま延々と撮ってたりするみたいで、なんか若手芸人のでるコント番組的な安上がりさなんですよね。画ヅラが。構図をアレコレ変えて展開のスリリングさを感じさせようとかぜんぜんねーの。ゴッドファーザーオブゴアでやってたんすけど、ルイス監督て映画1本つくるのに最長で2週間とかで(いちばん短いと5〜6日らしい)、おそらくビジネスマン的な見地から効率を最優先してのことなんでしょうね…。元手と手間隙をなるたけ切り詰めてより多く儲けるつーさ。トークショーでは「ルイス映画にでてくる、あきらかにハリボテとわかる杜撰なつくりの人体の一部から感じられる禍々しさ」についても語られてたんですけど、ルイスの映画は基本的に切り刻まれるシーンでよりひどい悲鳴をあげさせることだけを目的につくられてるかんじがする。その目的で来る向きは映画なんかどうでもよくて、ただ夜闇でイチャつければそれでいいとしか思ってない男女が多いと思うんだけど、その人たちが悲鳴あげる脊髄反射に対してつくられてるかんじ。誰かにむけて作られているのではなく、瞬間的にしか発生しないヒステリックな驚きや恐怖にすべてが向けられているというか…なんとゆうのかな。簡単にいうと「消費」のためだけの装置的な発想というか。エロ本でスッキリするのと似てるけど、それよりももっと簡素なかんじ。絶叫マシーンには心なんかないけど、それにちょっと近いかな。映画が好きでたまらなくて…とか、映画監督業務になんらかの愛着があるヒトってのはたいていが観客に感じさせたいこととか、自分が訴えたいことがよりよく伝わるように作品づくりをするから映画をみることで「つくったヒトの思い」的な、なんらか血の通ったもんを間接的に感じ取れるんですけど、ハーシェルゴードンルイスの映画てどれみてもそういうのがみじんも感じられないんですね。人間にむけてつくってるんじゃなく、瞬間的反射そのものに向けてつくられてるつーかさ。映画のなかでは血や内臓がドブドブでてるのに、作り手のぬくもりがどこにも感じられないんだよ。画面は血であふれてるのに血が通ってないの。その寒々しいつくりから感じられる禍々しさ、それはスプラッタや映画になんの興味もない門外漢だけができるんでしょうな…。でもトークショーで触れられてたけど、そうやってハリボテや撮り方なんかはどうでもいいカンジなのに、前半の客席の画ヅラと後半の客席の画ヅラはちゃんとちがって(構図は同じなのにメンツも衣装もちゃんと展開に沿って替えて)撮ってあって、そこらへんはやたら誠実(職業監督がよくやるような既出シーンの使い回しをしない)ということで、なんかふつうとはなにもかもが真逆なんだな。門外漢だけができる禍々しさといえばね、ハーシェルゴードンルイスのゴア映画は門外漢が抱く特定職業への偏見とか「単なるイメージ」だけでつくった殺人鬼キャラが多いですな。魔術師なり芸術家なり。ほんとは影で殺してんだろー?とかほんとは血で描いたりしてんだろー?みたいな。まったく知らないモノへの偏見から派生したイメージってのは恐怖ジャンルではなかなか活きるもんなのやも。ぜんたいえぬのルイス映画祭に関しては2000人の狂人みてたら電話が昔ながらのラッパ型のアレだし、映画中で「今は1965年だから…」みたいなセリフがあって気づいたんですが、奇しくもベーラさんのフィルムノワール特集からアメリカ映画の正統な歴史をたどってきているのだなーと思ってじーんとした。ノワール映画も時間の都合でさっさとしぬキャラとかいたしな。時間の都合でみょうなことになるってのはわりかし侮れないもんだよ。ルイス映画ではやっぱ2000人の狂人がよかったかな。スクリーンでみると画面の色がめちゃくちゃ鮮やかで、なんつーかアメリカの深田舎の病みが進行しすぎて軽薄になっちゃった殺意があの作品全体にみなぎっててすごくよかった。あと他の作品でも同じなんですけど、さして切られてもいないうちから被害者のヒトは内臓みたいのをデロデロ出し過ぎ。ゴッドファーザーオブゴアではあれ家畜の内臓つかったらしいですけど、なんか半分腐ってたとかやってた。あそうそう、ゴッドファーザーオブゴアでカーネルサンダース当人がでてくるくだりがあったよ。カーネルおじさんが50回くらい撮り直しを要求してきたけど、1回撮ったきりで「またあとで撮りますから!」とかいってそのまま使ったらしい。ゴッドファーザーオブゴアで老いたルイスが2000人の狂人のテーマ歌うラストはちょっと燃えたなあ。劇中の会場のお客さんはなぜかさして盛り上がってなかったふうだったけど。


 
*…ゴッドファーザー・オブ・ゴアで語られてた。