年末にみたモノ


デイヴィッド・リンチ展 暴力と静寂に潜むカオス(11/17。ラホーレ)→亡命×ノワール対談(ビブリオテック)→駄作の中にだけ俺がいる(11/23。ユーロスペース)→死闘の伝説(11/25。東劇)→陸軍→女→チキンとプラム(ヒューマントラストシネマ有楽町)→サラゴサの写本(11/28。イメージフォーラム)→愛される方法(11/30)→ミラクルツインズ(12/2。アップリンク)→ボス その男シヴァージ(ヒューマントラストシネマ渋谷)→情熱のピアニズム(イメージフォーラム)→ダーケストアワー 消滅(シネマート新宿)→シャルダン展-静寂の巨匠(12/7。三菱一号館)→メトロポリタン美術館展-大地、海、空 4000年の美への旅(12/14。東京都美術館)とみまして、シャルダンは300年前のフランスの静物画家さんで、当人としては静物画を好んで描いてて実力もちゃんとあったんですけど、当時の画壇は静物画に対する評価が低かった(&家具職人の子という出自)ゆえにシャルダンも画家としてあまり評価されずにいたんですが、最初の奥さんが死んで2番目にもらった奥さんがなんか上流階級のヒトで、以降は(好みの生活調度品を揃えられる程度に暮らしに余裕のある)中産階級の慎ましやかな生活風景をまろやかな色合いで描いたりしてくうちに名実共に認められてって、生活に心配がなくなったところでまた静物画描きにもどっていったとゆうヒトだそう。人物画はおもに女性や母子の室内での生活風景が多いんですけど、人物に窓からの自然光をあてて室内(背景)の暗さから浮き上がらす効果を採用してるあたりはちょっとだけフェルメールくさくはある。フェルメールが(画面上のコントラストが強いという意味で)先鋭的なのに対して、シャルダンコントラストが弱めでほんわりした筆致なので、構図含めて控えめでやさしいかんじ。1700年代のフランスのノーマンロックウェルというふうな。このほのぼの生活風景絵が好評を博した背景として『この作品(食前の祈り)は、人々が遊蕩で浪費好きの貴族階級と好んで対立させた、ブルジョワジーという徳の高い働き者の社会階級のイメージとなった。また同様に、イタリアの権威にも、北方画家にも無関係な、国民的絵画のシンボルとなった―その主題は、多くのオランダ画家が17世紀に扱った主題であったにもかかわらず。』(図録p.96より抜粋)とのことで、当時の市民としては指標とすべき「良き理想像」にそれだけ飢えてたということなのかな。やさしさを基底とした視点を持つ者にしか切り取りえない構図であって、筆致もほんわり柔らかなかんじだし、みていて安心できる平穏の象徴としてちょうどよかったのかなーとも思う。「理想を描く」をやりすぎると現実から目をそむけすぎた夢見がちファンタジーになりかねないんだけども、リアリティから遠ざかることなく生活感に根ざした絵に仕上がってるから、市民としてはごく身近な「崇高」をみせられてズキューンとしたんだろな。んでシャルダン静物画のほうなんですけど、薄暗がりの室内のテーブル上に置かれた果物やら食器やらがおもに描き込まれてるんですが、これシャルダン当人が意識してかどうかわからないけど、なんか…キリスト画の隠喩ぽく思えてしかたなかった。ちょっとハッキリとは断定できないんだけど、ウサギが吊り下げられてるとことかなんかキリストくさいかんじなんだよな。あと果物といっしょになぜかフチの形が円になってる皿や鍋が必ず置かれていて、勘ぐるならそれがキリスト画における頭のまわりにある輪っか、その脇に置かれた果物や野菜の数がかならず3つとかなのね。ちょっとそこらへんにくわしいヒトは現物みて確認してほしいんですけど、シャルダン静物画に出てくる「フチが円になっている器・食器」と「置かれた果物の数」に着目して分析したもらいたいんだよな。今展でずっとその共通項に気をつけながらみてたんだけど、どうもなにかある気がすんのよ。考えすぎだろうか。たまにパンや肉にナイフが刺さったままになってる絵とかあって、それって例の槍なのかなとか勘ぐったり。静物画の形を借りたキリスト画を描いたんじゃないのかな。単純に構図上の関係で描いたとは…ちょっと思えないくらいなにか…配置が意図的なかんじがすんだよな。果物の数とかあきらかに何かこめられてるように思うんだけど。そんで上記画像の絵に顕著なんだけど「水のはいった器」が描かれてる絵があって、これの100〜102頁で紹介されてる自家製パワースポットづくりで配置する水入りのコップとすごく似てる。や、シャルダンがそっちの魔術知ってるわけないとは思うんだけど、ではシャルダン絵がなぜ「水をいれた器」でなければならなかったのか、置かれた果物の数、花はなぜ白で2輪なのか…?とか考え出すときりがないんですよね。意味とかぜんぜんなくて単に感覚だよりで構図や色彩の調和を決めてっただけなのかもしらんけど、それにしてもちょっとなんか…なんかあるようなかんじするんだけど。そんでその…これは蛇足なんだけども、シャルダンみにいった日はなんか朝から両目が妙に開けづらくて(どっかからきた思念が絡んでる風味)、なんなんだろう…と思いながら仕事後にシャルダン展鑑賞してて、展示の真ん中へんまできたら目の開けづらさが消え去ってていつもどおりに見開けるようになったの。マジ。シャルダン絵には邪悪浄化の作用があんのか?!と思ってびっくりしたですよ。かなみさんの手作りパワスポと同程度のなにかがこもってるのかもしらんなーと思わずにいれなかったです。図録の説明にはまったくでてこないけど、シャルダンキリスト教に傾倒してたんだろうか…?それとも自分の美的観念を追求してった結果、しぜんとああいう絵になったってだけなんだろうか?すごいふしぎ。ふつうの静物画とひと味ちがうかんじがする。聖をこめたというか。なんか象徴くわしい向き分析たのむ。絵はなんでも性格がでちゃうけど、なんてことないようにみえる静物画でそれが顕著になるんよねえ。室内は暗いのか明るいのか、描かれる物の量は?汚れ具合は?みたいにさ。ちょっとした違いがえらい違いになってあらわれるんだぜ。シャルダンは背景暗いけど、やっぱりモノにあたった光が描きたいからだよね。それが際立つようにさ。
メトロポリタン美術館のは動植物がもりこまれた作品を集めた展ですけど、1500年代のでかいタペストリー2つが気になった。花々が咲き乱れる園に羊飼いと動物がいるモノなんですけども、花の色は赤と青てのが必ず中心になってるんですよね。ほかは黄・白がすこしまじってるかんじで。シャルダンみたときのように同じ色・形とか種で共通項を探ろうとしたんですけど、ちょっとわからんかったな…。こんど貴婦人と一角獣展がくるからそこらへんの象徴分析できるヒトに図録の説明とか書いててもらいたいなー。なんかありそうなんだけど。こういうの詳しいヒトじゃないと詳細な分析はできなそう。たぶん貴婦人と一角獣のほうでも出ると思うけど、青と白の旗や盾てのは何を指してるんだろうな。獅子と一角獣はたいてい貴族の紋だったりすんだよね。あのころのタペストリーで使われる赤・青・白てのがどういう意味なのかが知りたい。
サラゴサの写本は300年前くらいのスペインで、軍人さんが戦のどさくさでみつけた妙な写本に魅入られたと同時に悪霊姉妹に身も心も吸い取られそうになりながら現実と夢幻をなんどもさまよう話し。シュルツ映画撮った監督さんのなんで観に行った。悪霊姉妹やかつて彼らに吸い取られて死体になった男の霊に翻弄されてどこまでが幻で現実なのか区別がつきづらいのにくわえて、逸話を語り聞かされてる中でさらに昔話がはじまるんでどこからどこがいつ聞かされてる中の話なのか、区別がすっげえつきづらい。主人公の軍人さんが悪霊姉妹の色香にデヘデヘなりつつも死体となった男の霊にギョギョッとなって逃げ出したり、一貫しない。完結しない小話が詰め込まれたスクラップをいつ終わるともなく牛のよだれ的にダラダラみせられてるかんじ。
死闘の伝説は大戦時に満州任務で同じ隊にいた2人の兵士が同郷である村で対面して以降、いがみあう不穏な空気が村中にまで広がって暴動じみた魔女狩りにまで発展するサスペンスというのかな。兵士の1人(加藤剛)は穏やかな性格で家族思いの頼もしい好青年なんですけど、もう1人(菅原文太)は気位が高くて敬意を払われないとすぐ怒鳴ったり嫌がらせしたりするめんどくさい男で、この男が満州にいるときに現地のヒトに暴力はふるうわ強姦はするわ狼藉三昧はたらいてたのを加藤剛が止めに入ったという過去があんですよ。もともと加藤剛んちは村では貧乏なので妹が文太んち(たしか村長の息子)に嫁ぐことになってたんですけども、妹は文太の性質を知ってて毛嫌いしてるし、兄である加藤剛としても文太がどうしようもねえ奴だというのをよくよく知ってるんでとりあえず文太との縁談はお断りする方向になるんですが、気位高くて体面がすべての文太としては「女にフラれた」ことが村に広まることが我慢ならんわけです。それ以降加藤剛んちの畑が何者かの馬に踏み荒らされるわ、他のヒトんちの畑が荒らされたのがなぜか加藤剛んちのせいにされてるわと加藤剛んちへのあてつけやイヤがらせが発生しはじめたんで、村を出ていくしかないか…という方向になってその関係でたしか加藤剛が遠方まで行くことになって、数日かかるとかで加藤剛が村をでるんですね。その間なるたけ加藤剛んちの家族はしずかに暮らしてたんですけど、あるとき縁談を蹴った加藤剛の妹と、馬に乗った文太が1本道で偶然出くわして(この長回しが緊張感タップシでよかった)、何事もなくすれ違うのか…と思いきや文太が加藤剛の妹に絡んできて襲いかかったところで加賀まりこ(加藤剛に惚れてる)に助けられて一応事なきを得るんですけども、強姦されかかったショックで剛の妹はグッタリしてるし、加賀まりこに殴られた文太死んでるし、いろいろ大変なので加賀まりこはとりあえず剛の妹を連れて山へ逃げるわけです。んで息子である文太の死体を目の当たりにして逆上した文太父に焚き付けられたり、それまで文太からあることないこと吹き込まれてたことも手伝って、何重にもトサカにきた村人たちがこうなったら剛の妹と加賀まりこを私刑にしてやんべと山へ押し寄せる。そこへ加賀まりこの父ちゃん(加藤剛から留守をまかされてる)が立ちふさがるんですけども、この父ちゃんがなぜか押し寄せた村人たちに真相をいつまでたっても話さないんですが(正当防衛の結果間違って死んじゃったんだから剛の妹も加賀まりこも殺されるいわれはないわけだし)、あれって詳細を公表することによって剛の妹と文太を辱めることになるからなのかな。剛の妹はべつに強姦されたわけではないけど、文太は強姦しかかって殺されたとか知れたら恥ずかしいことこのうえねーしな。つーか娘を大事に思うんならそこらへんはちゃんと公表しようよ父ちゃんよ…。命がかかってんだしさ。最後の最後でようやく加藤剛が村に帰ってきて完となるわけですが、この木下さんて監督さんは長回しシーンの緊張感がなかなかいいすね。いがみあう男女が1本道ですれ違うところと、あと冒頭の満州での文太の狼藉のくだりは必見。なにしろ文太の最低野郎っぷりがシビレますなぁ。文太さんはこんな悪役やってたんすね。何やってもうまいのう。結論として戦地で非道を行う輩は母国でも同じことをするというか。鬼畜はどこにいても不和の元、という真実が描かれてました。死闘の伝説後にまたこの監督さんの撮った陸軍て映画みましたが、なんか旧陸軍のお墨付き映画だったとかなんとか。スジとしては身体検査(だっけ)が不合格で兵隊になれず悶々とした思いを抱きながら渋々教師になった男とその家族が、常に前向きに暮らしながら息子を出征さしてくまでを追ったホームドラマ的なアレ。旧陸軍がリアルタイムに良しとした巷の精神状態がどういうかんじなのかと思ってみた。この映画の中では「戦地で死ぬ」ということが「天主様から授かった命を天主様にお返しする」という意味で語られてたのと、あとなにかツライことが起きると「おとなりは戦死者がいるのにこの程度で悲しむなんて申し訳ない」とか言い出すんだよ。もうねえ、徹底して「戦争で死ぬこと」が美化されてるのね。死ぬのがつらいと思うことそのものが悪であるといわんばかりのすりかえがまかり通ってるのよ。これ究極のブラック会社だよねえ。ワタミとかわかってやってんのかねえこういうノリをさ。監督の木下さんはあの文太鬼畜兵を描けるんだからちゃんとわかってやってたとは思うんだけど、主人公格の教職やる父ちゃんがさ、なにげにバカなのよ。知人と戦況の話してて知人がこの戦争ちょっと勝てそうにないよなーみたいにデータ出しながら話しだすと逆上すんだよ。そんで反論として650年前の元寇の時は神風が吹いてどーたらこーたらとか並べだすの。とにかく日本が負ける話に我慢がならないんよ。こんなバカキャラが主人公の映画を旧陸軍が推奨してたってのはつまりこのくらいの頭の悪さを市民間に推奨してたってことだよね。これ、木下さん的にはやんわり風刺してるような気がすんだけど、それも気付けない時点で終わってるね。この能天気父ちゃんが戦争についての床屋談義するシーンがわりとあるんだけども、なんかねえ、べつに現地にいったわけでもないのに「植民地はあすこまで進出して現地市民はコレコレこうして統制したほうがいい」とかすごく上から目線の考え方をしてるのね。もう市民までもが普通に支配者きどりなのよ。これさー…最近のちゅーごくのヒトがチベットについて語ってるときの調子とやたら似てるかんじがした。「こっちが支配してやってるんだ(そうしたほうが幸せだろうといわんばかりの調子で)」みたいな考えが前提になった話し方なんだよね。 自分とこの権力者が他国を侵略してるって意識がまるでないの。侵略国の市民てどこであろうとそういう考えになってしまうんだろうか…てちょっと思った。ちゅーごくのヒト、日本責める前にそっちの現在進行の侵略を自覚するところからはじめたほうがよくないか。
シヴァージはやたら踊るインド映画ですが、インドはいまだに思想統制があるんでまっとうな体制批判を盛り込んだりはできないらしいとは聞いてましたけども、今作でもなんとなくもりこめてんじゃん。でも腐敗に対する怒りを鑑賞者にあまり抱かせないよう、深刻なつくりになりすぎないように要所要所にやたら歌と踊りをブチこんで見た目を中和しまくってるかんじではあった。なんつーか、わざと笑いとバカっぽさを散りばめて杜撰なかんじのつくりにしてるのかな…?スジとしてはアメリカで成功して故郷に帰ってきたシヴァージが、築いた財力を駆使して無料で利用できる病院や学校を地元に建設しようとするんですけど、シヴァージに無償機関をつくられると自分とこの機関の儲けがあげづらくなるのに危機感を抱いたライバルの差し金によって土地使用のたぐいの許可を国からもらうまで何重にも申請くりかえさなきゃならない&莫大な額の賄賂を渡さなきゃならんくなって、ようやく全部クリアできるってとこでまた白紙になるのくりかえしで、いいかげんトサカにきたシヴァージが裏金つくりだすんだったかな…(ここらへん寝たんでよくわからん)。んでそれを豪快な手段で資金洗浄ー!!みたいにしてうまくいきそうだったんすけど、その手法データが入ったPCの暗号をシヴァージの身を案じる奥さんがポリに吐いてしまったことからシヴァージがム所にぶちこまれたうえ、くだんのライバルの策略で息の根をとめられた…かと思いきや!!みたいな流れ。なんかスジの全編にわたって賄賂・裏金・脱税・貧困をやりすぎなほど過剰に描いてて、ああいう事にインドのヒトたちはそうとうウンザリしてるのかなと思った。本来的に明るい調子で面白おかしく描けるようなネタではないとは思うんですけど、それを深刻に描くと上映できないとかなんですかね。シヴァージが殺されそうになるくだりで、悪者の手下たちが「そのヒトのつくった所に家族がお世話になってるから痛めつけたりできない」て言い出してちょっとじーんとした。人情至上なんだな。あと奥さんになる女性にシヴァージが求婚するくだりで、シヴァージが一方的にホレちゃって女性宅にやたらに押し掛けるんですけど、女性の方はまだシヴァージになびいたわけでもないっぽい、むしろ迷惑してるふうな流れなのに「シヴァジーシヴァジーシヴァジー♪すてきな♪あなたは♪誰〜♪」「アナタの口ヒゲで♪わたしの感覚を解き放ってー♪」みたいな力強いダンシングがはじまるのでなんか唐突。踊り&歌のシーンの入り方がちょっと前後の話の流れをぶった斬ってはじまるのが多くて、そこらへんはどうかならんのかなあと思った。イギリスらへんのミュージカルはそういうのの導入がごくしぜんなんですけどね。劇中でキャラの感情が昂ったところでその情感をうたう歌〜みたいに自然に入るからさ。インドのヒトはそういう流れ上で自然かどうかはあんま気にしないのかな。でもまあなんか…エンドクレジットの「みんなシアワセになるよー!!」みたいなとこでまあいいか〜みたいな気持ちにさせられる不思議。ぜんたいとしてつくりが大雑把でぶつ切りで過剰だけど、見終えると許せる。


 

他は順次かいていきます。