勝ちも負けも同じだという気持ちで立ち向かうんですby桜庭和志

・今日(20日)の朝日新聞14面の記者有論てコーナーで藤えりかてヒトが『ハリウッド映画「銃=かっこいい」変えよう』と題して『(銃多用映画の)犯罪への影響を立証するのは難しい。だが、全くの無実だとも言い切れまい。』『安直な銃の乱用はストーリーとしても貧弱だ。』とか、いかにも「銃使用の多い実写映画が銃を世の中にのさばらせている原因なのだ」といわんばかりの調子で記事書いてるんですけど、映画どうこうの前に銃の所持を禁じろよ。
何回も書いてますけど、映画にしろ漫画にしろ創作物は現実を映す鏡でしかないですから。現実を変えなきゃどうにもならないもんに関して、先に創作物を潰すってなんだよ。ふつうに考えて現実で銃の所持が禁止されれば映画や漫画でもその現実を反映したモノがつくられるだろ。なのに「創作物があるから銃がのさばってる」て何?映画はあくまで銃がのさばる現状をもとに描いてるのであって、映画で描写されたから銃が生まれたんじゃねえだろ。「映画が銃の生みの親」とか頭沸いてんじゃないんですかね。そもそもストリートにいた黒人ギャングのヒトとか銃ぶっぱなすゲームが楽しすぎて家こもってるらしいじゃん。仮想空間の疑似体験で欲求昇華できるってことは映画や漫画でも同様の効果があるんじゃないんですかねえ。なんかさーなにかにつけて創作物を潰そうとする向きはどこの国でもいるけど、現実を変えられない腹いせに創作物(特に映画や漫画やゲーム)を消し去ることで溜飲を下げようとでも思ってんですかね。銃をなくすより先にまず銃のでる映画をなくそうとするとか、児童ポルノ呼ばわりしてエロ漫画を弾圧しようとしてたエクパット日本ユニセフとまったく同じ何の解決にもならないカラッポ論理なんだよねえ。そのテの空虚な理由で創作物を潰そうとする向きは「わきでる欲求を何で昇華したらいいの?」ていう難題から全力で目を逸らし続けるんですよね。「とりあえず見目悪いモノは世の中から消し去って、以降それに違反した奴は牢屋に放り込む」とかいう考え、ポルポトみたいな残虐な独裁者と同じノリですから。銃の所持禁もできないくせして「銃のでる映画を潰せ」は社会や人間のことを考えているようで実はその逆だと思うよ。貧しい地域で子供に売春さす犯罪者を摘発しもせずにエロ漫画弾圧に邁進するバカもしかり。欲求を昇華するための創作物を敵視する思想てのはなんなんですかねえ。他者を理解するためのモノがなくなるんだから人の世にとっていい方向になるわけないのに。なにしろ銃で人命が失われる原因は銃の所持禁しない人であって、創作物は誰も殺しません。
『面会者の男性の携帯電話が鳴りました。
 途端に患者たちが殺気立ちました。
 しかし彼は、平然と電話に出て話し始め、その妻らしい人も止めません。
 やばい!暴動が起こるか?
 でもそれは、ナースステーションから飛び出してきた看護師によって阻止されました。
 私も、私の周りの人もホッと胸をなで下ろしましたが、でも、後になって考えると、「あのオジサン、誰かに一発、殴られればよかったのに」と思ったのも確か。それでなくてもケータイを取り上げられている患者たち。非常に癇にさわりました。
 こういうマナーのなっていない無神経な人。世間にはいっぱいいますね。みなさんはどう思いますか?』(入院しちゃったうつウーマンp.102より抜粋)
決まりを守らない人が許せない心理、それは誰にでもあるけど行き過ぎる(許せないあまりに集団リンチになる)と精神疾患にいきつくのかな…とちょっと思ったので抜粋。「自分以外の他者が許せない」てのは…うーん。許されずに育ってきたのかな…とも思う。ありのままの自分でいることを許されない、という考えの人に縛られ続けてるというか。「自分は許されてないのにお前は許されやがって」が外に向くと他者への暴力、内に向くと自傷や自殺になるのかな…。精神疾患についてなんもしらないけど、安倍さん漫画をよんだかぎりでは安心感と愛情をたくさん必要としてるヒトたちなのかなと思った。生きてくのに必要な安心感よりも悲しみのが多すぎて、それで心のバランスを崩してるかんじがした。
・沖縄の米軍基地周辺てたしか売春してるヒトがわりといるらしいんだが、それでも性犯罪(強姦・痴漢・家庭内暴力)は無くならなくて、それはどうしてかというとおそらく日常生活でうまくいかない鬱憤晴らしとしてやってしまう側面が大きいのでそこらへんの心理サポート的な機関がないとならんのだろうなと思うんだが。そこへきて歴史修正主義とか持ち出すと物事がこんがらがってよけいに解決から遠ざかる気がすんですけど。フェミニズムのヒトは問題の本質を明確にすることよりも、ヒステリックな感情を先立たせすぎて関係ない事までもりこんだ挙げ句に解決から遠ざかったところで騒いでることが多いかんじがするんだが。
世界にひとつのプレイブック(2月24日。武蔵野館)→逃走車(新宿ミラノ)→HIT & RUN(ヒューマントラストシネマ渋谷)→クロッシングデイ→飛騨の円空(3月1日。東京国立博物館)とみまして、円空さんの仏木像は大きいのに関してはトーテムポールとかモアイ像とか青銅立人像のノリに似てるかんじで、像の顔面の彫りはたとえば川や海の水流で削られた岩肌とか、風雨にさらされてしぜんに刻まれて出来た造型というかんじがした。誰の手でもない、いつのまにかできてた割れ目とかヒビとか、まつぼっくりのヒダのかんじ。ヒトにちかいところでいうと木造家屋の天井の木目が顔みたいにみえるときがあるけど、あれのかんじ。菩薩像の目が横ひとすじにスッと彫っただけだったりして、単にこれが円空さんの持ち味なんだろうけど、単純化をつきつめた造形ほど意図したり狙ってつくろうとした小細工もみえやすくなっちゃうから難しいんじゃないすかね。「巧く」つくろうとするとその作為がまるだしになるし。そこで短時間で手早くササッとやるを課すことで自分でも意図してなかった「自然」なかんじがでてきたりすんじゃないだろうか。円空さんはべつにヘタクソとかじゃなくて、やろうと思えばかなり緻密できれいにつくれるんだなーと思った像がわりにあって(会場入って突き当たりにあった大きめのやつとか)、あえて短時間仕上げを選ぶことで思わぬ自然造型が生み出される(=心が無になる)のを望んでたふうなかんじがした。「雨ざらしになった岩肌」を意図してつくるってのはむちゃくちゃむずかしいから、キツイ目標を課すことで「自然」の無の形をものすることを思い立ったんだろうか。それでもヒトの手によるつくりものには変わりないので個性がすごくあるわけですが、円空さんのつくった像てのはなんかこう…どれも微笑ましい雰囲気がありますな。17世紀のゆるキャラ的に。顔がまるっこくて穏やかなのが多いからなんだろうか。顔がまるっこいのは菩薩系に多いんですけど、わしは異形の神様像(大体ちいさい)がツボだった。烏天狗迦楼羅像はでっかいクチバシがあってもろカラスですし、宇賀神さんは頭がおじいさんで体が蛇の神様なんですけど円空像だとなんかソフトクリーム的になってますし、八大龍王さんは鼻の上あたりに蛇腹状に皺が寄り過ぎてて一見つぶれた靴みたいになってるんですけど、下からみるとちゃんとカッコイイ龍になってます。角度でだいぶちがう印象かんじるのがわりとある。稲荷三尊坐像は顔がプレデターぽかった。聖観音菩薩像も出口あたりにあったけど、なんかちょっとコワイふうな顔につくられてた。どういうヒトなのかなー。なんか変わってる。ヒトと関わるのが長かったからより色々知ってるだけなんだろうか。あとさー右手の平をお客さん側に向けながら立ってる薬師如来立像の脇に阿弥陀如来坐像と如来坐像が座ってるんだけど、阿弥陀如来坐像のほうの顔、ドリフターズのだれかにすっげえ似てる。高木ブー加藤茶をまぜたような。いやちがうな…えーと昔からいるお笑いで…誰だっけ…てずーっと考えてたんだけど思いつかないまま閉館になった。あれわかったヒト、完全に一致画像まとめで挙げといてほしいな。あと両面宿儺坐像はなんとなく魂はいってるかんじがした。基本的に全部入ってるのかな。よくわからん。歓喜天立像はなんか造形が簡略すぎて全体的におむすびちっくになってたけど、目のあたりはおだやかなようにもコワイようにもみえて、そこはちゃんと緊張感あった。それと狛犬が歯だしてイーとしててわしもイーとした。


世界にひとつのプレイブックは奥さんの浮気現場に出くわした際に相手の男を暴行したことが原因で精神病院に入院させられて以来、そのときのショックによって精神的不安定さと周囲に危害を及ぼしてしまうほど激しい思い込みに陥りがちになってしまった元高校教師が、同じような精神的不安定さを抱えてる女性と出会ったことがきっかけになって自分の生き様をみつめなおしてく話。主人公の元教師はもとからそういう性質だったのかどうかわからんけど、ひどく傷ついた際に味わった感情と同じようなたぐいのモノ(別離やバッドエンドとされる場面)に直面するとパニックを起こしてしまって暴れ出したりしてしまうんですが、あんまり暴れるとまた病院に押し込められるもんで両親総出でなだめるなどしてどうにかやりすごしていて、そんな中友人の奥さんの妹で同じように傷ついてる女子と出会って嫌々ながらも会話をするうちに、アタシなら(接近禁止令がだされて会えないでいる奥さんに)手紙を渡せるかも…という話からだんだんと親密になってく。ほんとは奥さんに手紙すらも渡しちゃいかんのですけど、傷ついてる女子としてはダンスコンテストに出るための相方ほしさで釣りにかかるわけです。この主人公の元教師の男がなぜか妙に潔癖で、近づくのも禁じられた奥さんとかもう諦めてさっさと新しい方向へ目をむけたらいいのに、奥さんにばかり異常に執着していて、身近にいて仲良くなりかけてる女子には頑として手を出そうとしない。そうして貞操を異常なまでに守りつつヒドイ目に遭わされて傷ついているのだというわりに対話相手の気持ちには無頓着で、せっかく会話してる中の相手が心を開いて本音を話してくれたというのに、それについて受け止めもせず批判するような返事をかまして怒らせてしまう。この女子というのが夫を失ったショックを癒そうと職場中の男とセックスしまくったという過去をもっていて、まあ彼女にしろ主人公にしろ、自分のことしか考えてない状態にも関わらず安易に他者との「愛情」を築こうとして痛い目に遭いまくってる同士なんですね。んで成り行きで同じ目標にむかって努力するうちに「大事にする」「信頼しあう」てのはどういうことなのか、自分は誰を大事にすべきなのか、というのをだんだん学んでく展開になるんですが、クライマックスはまあ色々あって主人公の父ちゃん(デニーロ)が関わったアメフト試合に絡んだ賭けの損失を一発逆転して補うためにダンス大会で指定された点数以上をとらないとならんことになるという。このデニーロ父ちゃんの賭けに勝つための験かつぎに凝りすぎなありさまがちょっと精神疾患の一端のようにみえて、ああ…だから息子がああいうふうなのかな…と思わされるふう。自分の思いどおりに物事を進めることに対する執着が異常に強いんですよ。それを手放すのがものすごい困難なの。つまり自分のちからで現実をねじ曲げられると思っている=他者の気持ちを尊重しない(自分がどうするかしか考えておらず、周囲などどうでもいい)てことであって、その思考にしがみついてる状態からどうやって脱するか=他者の気持ちを尊重できるようになれるかってのが主題なんでしょうな。一応良きアメリカン家族像を描いた作品てことになるのかな。それぞれが問題を抱えながらもひとつの目標に向かってくところとか。ちょっと現代のおとぎ話風だった。上記画像はこれので、なんとなくボーズ君の潔癖ぷりと主人公のお堅い貞操観念がにてるふうだったんでのせてみた。×華さんの大切な女友達が真面目に付き合う価値のないチャラ男にいれあげてたんで、女友達の目を覚まさそうとして実際にチャラ男とヤッていかにダメな男かをわからせようとしたら女友達に号泣された挙げ句につめかけた女性軍団にマジギレされた話おもしろかった。これから食おうとしてるカレーを完食した挙げ句「このカレーまずいから食べない方がいいよ。」とか言い放つようなものです。ちがうか。そもそもカレーに例えるのがアレか。
 
本日題はこの前テレ東のニッポンのミカタにでてた桜庭さん談のモノ。