トーさんちの写真アルバムをみたい


エドワード・スタイケン写真展 モダン・エイジの光と影 1923-1937(11日。世田谷美術館)→高橋秀の世界 版画1959-2010→ロバート・キャパゲルダ・タロー 二人の写真家(横浜美術館)→レッドライト(17日。武蔵野館)→よりよき人生→アルマジロ(K’s cinema)→映画監督ジョニート香港ノワールに生きてとみまして、高橋秀展は展自体の開催はおろか当人の存在すらしらなかったんですけど、スタイケン目当てで行った世田谷美術館内の告知で知ってみてみたらアタリだったっつー。世田谷美術館はバス乗らないとキツいくらい駅から離れてて不便は不便ですけども、なんか美術館内包する公園では親子連れがいて賑わってるしほのぼのしていいとこですね。館内も装飾とか凝ってて。世田谷美術館のすぐよこに青果の卸売り市場があって、おいら行ったの日曜だったからやってませんでしたけど多分平日にいけば場内のメシ屋が利用できていいんじゃなかろうか。たいてい業者市場内のメシ屋てプロ御用達だから味はわりといい場合が多いし。高橋秀さん展は青いカボチャが縦長に伸びた的な告知ポスターに惹かれてみてみたんですけど、ひと筋の干渉がすべりこんだ円形のやわらかい物体が、干渉をうけてモニッと変形したふうな色鮮やかで大きめの版画群が中心。まま平面の石版画のもあるんですが、こう…なんつーのかな、よく菓子箱の文字部分で使われてるようなちょこっと浮き出てるふうの立体効果が使われてる作品が面白い。後ろからすこし押し出された型押し手法が使われてるもんだから、なだらかな曲線や円形部分のやわらかいふうな感覚がよりきわだってかんじられる。その手法が使われてる作品は表面がツルツルの素材になってるから照明のぐあいですこし光ってたりするんで、ツルリとしていながらいかなるかたちにも変形しうるやわらかさを感じさせられるというのかな。告知ポスターのは伸びた青いカボチャ風で不可思議野菜ぽい雰囲気でしたけど、なんかこう…子宮の断面図にしかみえないのとか、尻からみたまんこにしかみえない作品が多々あって正直だなーとしみじみした。めちゃくちゃ抽象的だけど、やってることは会田さんとさして変わらないよな。女体全体をリアルに描いたうえで局部だしたり色々切ったりするとキー!!てされるけど、子宮そのものを単純化して描くと見向きもされないとゆう。なにしろ高橋秀作品は円形と線のみでモニモニした感触を視覚から感じさせられる。そのノリの延長で日本神話お題の作品とかもあるんですが、なんとなく細胞を拡大したモノを思わせるふうでもあるし、神社の本殿内でみかける道具の形状を思わせるふうでもあった。単純化をつきつめると結局そこらへんにいきつく不思議。高橋さんのあきらかにまんこ風作品(例えば「ufu(空間の中の6つの形)」)と、会田さんの切腹女子高生はやってることほぼ同じだと思う。カラフルかつやってることは相当エグいっつー部分で。この展わりとお客さんいて、スタイケンから流れてきたヒトなのかな。いつもくる地元のヒトビト風でもあったかんじでしたけども。上記画像は高橋秀展みてよぎったエルンストの「surrealism and painting」つー絵。ヒトの中にあるモニモニしたやわらかいところを表したところが共通してるかなと思ったので。人間はひと皮むくとこんなかんじの異形が誰しもでてくると思う。展図録は掲載数の多いふくやま美術館版買ったけど、高橋さん作品はどうもちっさくしちゃうと体感しづらいねえ。あの大きさだからこそモニモニ感がすごいんだなと思った。スタイケン写真はなんか白黒映画時代のアメリカ映画の女優・俳優さんらがたくさん映されてた。スタイケンつーヒトは時代の移り変わりと共にうまいこと生きてきたんだなーと年表みながらしみじみした。芸術家でそこらへんうまいことできずに不遇なことがわりとあるけど、スタイケンは商業としていろいろうまくやってたふう。勘が良くて器用だったのかな。スタイケンがお気に入りだった女優さん写真がわりとありましたけど、その女優さんはファッションとかまったく興味ないヒトだったらしいんだが、いざドレス身にまとって映るとなると「どうすればいちばん映えるか」を熟知していてキマったポージングをさくさくこなしたヒトだったんだそう。各写真がわりとちいさめなんで、近寄らないとよくみえなくてちょっと難儀だった。わりと数もあったし。横浜美術館のはゲルダタローの写真がみたくて行ったんだが、それまで痛くなかったのに美術館に近づくにつれ生理痛がひどくなりはじめて(なんか頭痛もはじまった)、痛いわだるいわでまともに鑑賞できなかった。ツラすぎて歩くだけでも精一杯だった。行くといつも気分の悪くなる横浜美術館…。お客さんわりといて、首からカメラ(デジカメじゃないやつ)下げてるヒトが多かった。写真女子/小僧のナンパにいいやもしれません。真っ青状態でみたかんじ、なんとなくゲルダタローのは兵士の笑顔とか子供映したほのぼのふう写真がわりとあったような…?や、キャパもそれは映してたよな。別段男女差でのちがいみたいのはなかったかな。タローも兵士の死体とか映してたし。せっかくのイイ展をフル鑑賞できなかったのが悔やまれる。世田谷美術館同様に横浜美術館でも予想外にイイ併設展やってたんですけど、なんか光に関する作品展とかで立体のガラス作品とかきれいでしたし、シュルレアリストの絵画があってうれしかったけどツラかった。いろいろ残念だった。極上作品が目前に並べられているというのに体がツラすぎてうれしさをあんまし感じれないとゆう…。横浜美術館=ツラいイメージしかいまのところない…。頭痛と子宮痛の嵐状態でシュルレアリスム絵に囲まれるという地獄と天国がまざりあったものでした。
アルマジロは派遣されたアフガニスタンデンマーク兵たちが直面する軍隊生活をドキュメンタリー風に撮った映画ですけど、デンマークは徴兵制でごくふつうの青年が2週間ぽっちの訓練で実地に向かわされたりするとかなんとか。映画ではビンラディン狩り名目でアメリカの肩もつ形でタリバンと戦うためにアフガンに派兵させられたあたりが舞台ということなのかな。なんか…現地ではやることが全然なくて退屈が大半占めてて、偵察に出てもなんにも出ないなんてことが長らく続いて、そんな中で突然タリバン兵に出くわして血なまぐさい事態に陥ったことだけが唯一の楽しみになってしまって、結果的にそれが色々な意味で忘れられなくなってまた戦場にもどってしまう的なことが描かれてた。なんか、ものすご〜くなが〜い退屈感の中で唐突に「爆撃・銃撃・死・血・内臓」という退屈とは対極にあるモノに襲われるふうなのよ。体感する振り幅がひどすぎるというのかな。倦怠(ものすごい長い)と緊張(一瞬)のくりかえしというか。永遠につづくかと思われた退屈のなかで突然瞬時に血にまみれて唖然となるふうな。それは戦地に向かう前に想定してた光景そのものであって恐れていた事態なはずにも関わらず、モノもヒトもなにもない砂漠の退屈のなかでそれが待ち望まれてしまうんよね。娯楽ではないけど、その妙なリズムが心地よくなってしまうふうだった。戦地では特に退屈は猛毒なのかもしらん。なにもない中だからこそ、起きる出来事が際立って感じられてしまう。それが生死に関わることならなおのこと刺激を感じずにいられないだろう。しかもそこでの死は大音響と火花が散る。平坦な退屈のなかでは刺激以外の何者でもない。それを求めずにいれなくなるという。これ直接自国が関わってる件ならまだしも自国が関わってないことで自国民をこういう事態に陥らすってのはちょっと…ないと思うよ。殺しという非道を行っているのにも関わらず相手に憎悪とかなにも抱いてないふうだし。あんたの敵ではないならどうして殺すのよ。
レッドライトは本物が偽物を狩ってまわるという意味ではバンパイアハンターD的な話で。さいごあたりで主人公の「すべて僕がやったんだ…」独白があるけど、えーと…つまり小鳥がガラスにぶつかるのとか、舞台裏で機器探知してる際に火花飛んで壊れるのとか、部屋の書類が散乱してるのとか、あれはすべて「詐欺師から脅されてる」風に周囲に思わせる(=ことさら詐欺師の悪評を高める)ために自分が念力で起こしたという意味なんだろうか。意味わかんね。自称超能力者の化けの皮を剥いでやりたいならさー、自称超能力者の興行中に主人公が念力で失敗さすように仕向けてやりゃいい話じゃん。なんであんなまわりくどいことばっかしてんの?そもそも主人公が詐欺師狩り人生を生きる発端になったという母親が詐欺師に騙されて云々のくだり、自分が超能力者なんなら母親の病気も見抜けたんじゃねえの?念動力しかないからわからんのかな。主人公が本物の超能力者でしたバァァーン的な種明かしされてもそこから遡って考えると納得いかないことだらけで「主人公ほんとに超能力者なの…?」としか思えない。シガニーウィーバーは結局詐欺師に殺されたっつーことなんだろうか。なんというか…「念力もってても使いどころを間違ってると意味ない」という真実をサスペンス風に描いた的な作品。
よりよき人生は求職先でナンパした女子(子持ち)とデート中にみつけた廃屋買ってレストラン開業しようとするも改装費と各種義務が壁になって追い詰められたところで儲け話に踊らされた彼女が子供を主人公に押し付けて高飛びしてしまい、育児しつつ開業に際する借金かさむしでつい手出しした知人経由のサラ金でさらにどん底生活に追い詰められてくとゆう明日はどっちだ話。この主人公がいろんなヒトから「やるべきこと」をアドバイスされてんのに、それをせずにやっちゃダメだっつーことばっかしさくさくやる安上がり人間さがハラハラする。貧乏なのにサラ金に簡単に手を出す光景の薄ら寒さったらねーな。自分のこだわりを押し通す欲求が強すぎて、優先して「すべきこと」がどれであるのか判別がつかないふうなんよ。くうにこまるほど金がないというのに、高飛びした彼女から押し付けられた子供が万引きしたブランド靴返しにいったら「買うor通報」を迫られて数万ださなきゃならんはめになったりする。盗みについて子供を叱るんだけども、この主人公がどうしようもなさすぎてなんの説得力もねーの。んでサラ金都合してもらった相手がまあふつうに裏世界の人間なので、そいつが管理するボロアパートに住まうことになるんですけども、まあなんか…そこでもいろいろヒドくていいかげんキレた主人公が決起するわけですが、要するにヘタ打ってどん底いったらもうなにしてもいいからとにかく脱出しろということなんでしょうかね。んで高飛びした彼女がいるであろうとこに向かうわけですけど、彼女は彼女でまたどん底状態という。一応メデタシ状態ではありましたけど、主人公ちゃんと労働できるビザ的なもんとったんだろうか。あの主人公いちいち詰めが甘いことが原因で泥沼になりがちさんだから心配すぎる。