「自分でいる」ということ









大森「先生はひょっとしたら怨霊と関係されてますか」と言うんです。そんなこと、全然言ってなかったんですけどね。「私程度では見ることができない格の高いものが、真っ黒く光っています」とおっしゃっていました。それ以来、僕は怒っちゃいけないってことがわかったんです。だから僕は二十年間、一回も怒ったことがないんです。家でも。
 加門 素晴らしいですね。
 大森 家族にも学生にも、絶対怒らない。怒ると発動しちゃう(笑)。
 加門 え?発動したことが?
 大森 二十年ほど前、阪神タイガースが優勝した年がありましたが、僕は当時巨人ファンだったんですね。そのとき阪神ファンの人に、いつも飲んでいるスナックに招かれたんです。楽しく飲もうと思っていたのに、阪神ファンが浮かれて「土下座せえ!」とか悪ふざけしたので、そんなつもりで来たんじゃないよ、と珍しく怒ってね。それで仲間たちと怒って出ていったら、次の日、そのスナックが丸焼けになったんです。
 加門 あららら。
 大森 その後も、怒ったら火事になるというのが二軒ほど続いたんですよ。お前、放火したのかって言われるぐらい(笑)。それだけ続いたので、ああ、怒っちゃダメなんだなと。だから、人格をとにかく穏やかにして、静かに、受け皿のようにしているんです。荒れてとんでもないものが出てくるといけないから。おとなしく。女房の言うことなんか全部聞くようにして。
(中略)
 加門 怨霊は敵にしたら怖いけど、味方にすると強いという感じですね。味方になってもらうには何が重要なのでしょう。
 大森 自分を空っぽにすればいいんじゃないですか。現代人は自分の欲ばかり出してしまっているから、何も見えなくなっている。自分をできるだけ空にして受け皿のようにすれば、味方になってくれるんだと思います。それこそ宮沢賢治の精神ですよ。「雨ニモマケズ 風ニモマケズ…… 決シテ瞋ラズ イツモシヅカニワラッテヰル……」。私はいつもその精神です。有り難いなという気持ちを持っていることが大事だと思います。本当に無欲になるのは難しいかもしれないけれど、与えられたものを有り難いと思って受け取るという、そんな気持ちを持っていれば、いろんなものが向こうからやってくるような気がしますよ。』(心霊づきあい p.211-214)
稲川「稲川さんは平気で樹海にひとりで入っていったりするし、怖くないんですか?」。そんなふうに、よく訊かれます。そんなことないですよ。怖いですよ。でも、私は思うんです。もしも世の中に、そんなふうに悪い力というものが働くことがあるのなら、それに勝つ力があってもいいんじゃないかと。私はそれを見たいんですよ。それを知りたいんです。子供のことを思ったら、自分の命は惜しくはない。どんなに怖い場所でも、自分の愛する者がそこにいて、死にそうで、医者が向こうにいるのだったら平気で突っ切りますよ、人間は。だから、私は決して無鉄砲に人が行かないトンネルに突っ込んでいくわけじゃない。真理を見たいんです。
 ラジオでやっていた頃の怪談は「楽しもう」怪談だったけど、今は「知りたい」怪談になっていると思います。十七年前(対談当時)、次男が生まれた頃から、私の怪談は変わったと思います。あのときから私の心霊探訪が始まったんですよ。もし何か因縁があってそれが自分のせいならば自分がどうにかしたい、みたいな感じといいましょうか。生意気ですけどね。「負けるもんか」「見てやりたい」という気持ちになりました。』(心霊づきあい p.257)
『ご本人はそれなりに悩まれたのだと推察するが、肝の小さい人間だったら、怖がって鎧を処分するか、それこそ霊能者や宗教者に相談するに違いない。
 なのに、鎧の気持ちを汲み取り、椅子に座らせるという手段で解決してしまうとは、お見事だ。
 ときどき聞く話だが、霊に対する対処法として、話しかけない、相手の要求を呑まない、という方法がある。
 対話をすると、向こうは自分をわかってくれるものだと思って寄りかかり、相手によっては取り憑く、というのだ。
 私なんぞはビビリなので、そう聞くと、怖くて敢えて怪異を無視する。しかし、工藤氏はそういった意識的な無関心は装わない。己と他者という、飽くまで対等な関係をもって、心霊にも対応していく。
 それが可能なのは、工藤氏に包容力と強さがあるからだろう。
 霊能者に頼らないのは、霊たちが自分の手に余るものでもなく、日々の負担にもならないからだ。
 「可哀想じゃない。追い出したりしたら」と言えるのは、強靭な精神力を兼ねた優しさを身に備えているからだ。
 こういう人に巡り合った霊魂は、きっと幸いに違いない。
 そして、全面的な肯定でも、もちろん無視や拒絶でもなく、適度な距離を保ちつつ心霊に接することができる工藤氏は、きっと人間付き合いにおいても同等の「上手」であるのだろう。』(心霊づきあい p.121-122)
山本 (中略)無理やり見せてくる霊に共通する特徴ってあるんですかね。
 加門 そういうヤツは性格が悪いですよ、みんな(笑)。
 山本 性格ですか(笑)。性格って、生前の性格をそのまま引きずっているのか、それとも霊になってから変質するのか、どっちなんでしょうね。
 加門 生前の性格が影響している部分もあるんじゃないですか。こいつ、生きていた時も絶対依存心が強かったに違いないと思うようなのもいますし(笑)。ただ、生きている人間であっても、常日頃はしっかりとしたいい人なのに、何か不幸があったり、強く訴えたいことがあったりしたら、なりふり構わず人にすがることもあるじゃないですか。霊でも、そういうことがあるんじゃないでしょうか。だけど、単なる行きずりの人間にちょっかいを出してくるようなのは、ほんっとに性格が悪い(笑)。
(中略)
 加門 それと、バカ話やお笑い話、それから下ネタに弱いんですよ、幽霊って。
 山本 へぇー。どうしてなのかな。
 加門 わからないけど、生きている人間がわいわい盛り上がっている場所って、すごいエネルギーが出ているんじゃないでしょうか。とにかく、下ネタをすると結構いなくなりますよ。
 山本 そうなんですか。じゃあ、しょっちゅう下ネタばっかり話している僕は憑かれても大丈夫だな。
 加門 そうかもしれない(笑)。でも、偶然くっついてきたというのではなくて、なにか明確な目的があって憑いているものに関しては、単純に祓えばいいというものでもないように思うんですよね。
 山本 と、いいますと。
 加門 これはあくまで私の考えですが、本来、理由があって憑いているものに関しては、憑かれている人間がその理由なり因果なりをちゃんと見極めて対処しない限り、むやみに離してはだめだと思うんです。例えば、何か悪いものが憑いているからお祓いしました、と言ったところで、根本的には解決していないわけでしょう?原因は生きている人間の側にあるんだから。だから、何度お祓いしても、原因が無くならない限り、また同じことの繰り返しになるんじゃないの?という話で。』(心霊づきあい p.274-277)
『「ザ・ファイター」は、ダメ人間ばかりの家族がボクシングを通じて立ち直っていく物語だが、それを演じた俳優も監督も問題児ばかりだった。ラッセルはついに一度も喧嘩せずにこれを完成させた。「ザ・ファイター」はヒットし、クリスチャン・ベールメリッサ・レオアカデミー賞助演賞に輝き、ラッセルも監督賞にノミネートされた。現実と映画がひとつになる瞬間だった。
 そしてラッセルは「ザ・ファイター」の前にやろうとしていた「世界にひとつのプレイブック」に取りかかった。これもまたダメ人間ばかりの一家が更正するドラマだ。ロバート・デ・ニーロ演じる父親は地元フィラデルフィアの野球チーム、フィリーズと、アメフトのイーグルスに賭け続けるギャンブル中毒。この物語の時代設定が2008年というのはポイント。その前年までフィリーズイーグルスも負けばかりの弱小チームで、特にフィリーズ前人未到の一万敗を成し遂げた(?)ばかりだった。そんなものに賭けるなんてどうかしているわけだ。』(「世界にひとつのプレイブック」パンフより抜粋)
『ベーコンの作品の特徴をよく言い表しているのが、彼の次の言葉です。「アーティストは、感情のバルブのロックを外すことができるんだ。そうやって、絵を眺めている人たちを、無理矢理にでも生(life)に立ち戻らせることができるんだよ。
 見る人の、いつもは閉じている「感情のバルブ」を開ける絵。本当の「生」を感じさせてくれる絵。』(フランシス・ベーコン展チラシ文より抜粋)
フランシス・ベーコン展(22日。国立近代美術館)みてきましたが、特に1940-50年代の大きく口を開けているふうな人物像のは実話系幽霊漫画にたまに描かれてる真っ黒い空洞じみた目や口をぽっかり開けたままの霊のありさまにすごく似てると思った。生きる者を脅かすほどの暗い思念がかいま見せる爛れた有様とおなじモノがあの丸っこい顔のおっさんの内側にあるのかと思うとちょっとこわい。それとベーコン絵ではぽっかりと開いた真っ黒い口のほかに、目ははっきりと描かれてないのに骨(背景のインテリアの骨組み含)や歯だけがやけにくっきりと描かれてることが多くて、そこらへんは上記画像で女性幽霊ぽいモノが笑いながら歯だけをみせつけてるのとも似てるし、あとこれに夢のシーンにでてくる女の頭部がそのまま列車になったふうなデザイン画があって、それもなぜか歯だけがむきだしになってんですよね。目のとこは肉のようなモノに覆われててみえないのに。ベーコン絵や実録霊漫画で描かれてる「真っ暗な口を開けている者」はその口でなにを言おうとしてるんだろうか。ベーコン絵の人物も実録漫画の霊も、背景の家屋らしき場所の骨組みや歯だけがくっきりとしているのに、肝心の肉体部分はモヤついていてはっきりと定まらないふうなんですが、それはつまり思念や魂そのものが混乱していることを表しているんだろうか。ベーコン絵に描かれた、冷酷なほどくっきりと表れた骨組みや歯と、それにまとわりつく形の定まらない何か…それらすべてを包む背景の色ってのが何故かめちゃくちゃ鮮やかなんですよ。その色鮮やかさは印刷物ではぜんぜん再現できてなかったんで興味ある向きは現物みないと損するレベル。あの混乱した物体だけだとブキミなだけだと思うんですが、あの鮮やかな背景色があるがゆえになんというか…ある種の荘厳さみたいなもんを孕んでるふうな。なんていうんだろ、なんかむずかしい。どういったらいいかわからん。ベーコンの絵て描き手の欲求や情念がうねってるところをそのまま叩き付けたふうなんで漠然と「禍々しい系」だと思ってたんですけど、なぜか女性の方とかオサレふうなかんじの方がお客さんに多いんすよね。今回はなぜか社長夫妻といっしょに展きたんですけど、こわいもんとかキモいもんが嫌いな夫人が(ベーコンの絵)すごくきれいだったわ〜絶賛してて、えっ…と思わずにいれなかった。例によってオカルト的な話なんですけど、なかにいるへびちゃん(女子)はホラーとかキモい映画とか嫌いでそういうのみてると全然でてこないんですけど、ベーコン絵みてるとき出てきて(えっ…コレみたいの?)て聞いたらうなづいてるふうだった。女子に好かれるベーコン絵。なんだろう。この「鮮やかな色によって飾られた混乱した思念」てのがなんとなく多くの女子にとって刺さるモノなんだろうか。ベーコン絵では真っ黒い口を大きく開けている系は年を追うごとにだんだんなくなって、あとになるほど人物自体の色がはっきりしてってるかんじだった。ごく最近の絵でもすべてが明確ではないけれど、以前の絵からするとだいぶ色ははっきりとついてるふうだったし。だんだんと受肉してゆく絵というのかな。一貫して混乱してるふうであることは変わりないんだけども、それでも透けずに血の通った皮膚の色にちかい配色が多かったし。ベーコンの彼氏を描いた肖像画があるんですけど、その顔あたりに黒丸が描きこまれてるのがあって、あれはなんなんだろうか。銃弾でも撃ち込みたいほど執着してるってことなんだろうか。とか思ってたらその彼氏後年自殺したそうで。ぽっかり開いた暗い口を描かなくなったと思ったらこんどは弾痕じみた黒丸を描き出すベーコン。それらを包む色は一貫してとても鮮やかというね。そしてそれらの作品はほとんど全部がガラス板に覆われていて、鑑賞者と壁を隔てたいふうだったそうなんだが、よくみようとして近づくとこちらの姿がガラス板に写ってどうしてもベーコン絵に重なってしまって、そのようにしてしか鑑賞することをゆるさないということなのかな。なんだろうなあ。形状はたしかに禍々しいのに荘厳で美しくもある、てのは。形状が禍々しいといえば実録霊漫画なんかでよく体の一部(手足・頭部)が欠損した状態の霊だとか、たとえば事故死した時の姿のまま(これ稲川淳二がみた子供の霊とか)であらわれるくだりがあって、そのありさまを怖がらせる仕掛けとして使ってる作品がわりとあるんだけども、そういう霊は心根までがおそろしいとは限らなくて、単に見た目がそうなってるだけで実際は助けを求めてたり、悲しくて話を聞いてもらいたくて近づいてるだけかもしらんのに、見た目のマズさだけでことさら恐怖を煽るてのはなんか…ちょっとどうかと思う。障害者のヒトの欠損部分を怖がったら失礼だろ。それと同じで肉体欠損状態の霊に対しても欠損部分だけみて怖がったりなんだりするってのはなんかちがうんじゃなかろうか。ヤなやつが死んだらそのままヤな霊になるのでいちいちかまってられないってのはあるし、悪巧みしてる霊とかいるんで素人にはちょっと判別がむずかしいんだけどさ…。向き合って対話して吉な霊とそうでない(追い払うほうがいい)霊の区別がつけられたらいいんだけどねえ。これに出てる、血まみれで傷ついた落ち武者の霊が世話されてくうちにきれいなお侍の姿に変貌していった件とか、これに出てる、街の汚れで黒ずんだ霊を世話してくうちに汚れが落ちてきて、きれいになると腕に水紋模様がついた神様がみえてきた件とか読んでて思ったんだけど、霊体で体のどこかが欠損してたり傷ついてたり、汚れがまとわりついて黒ずんだりしている状態、てのはつまり人間でいうと心根が混乱して定まらない状態と同じなのかなとちょっと思う。汚れた神様を淡々と世話し続けてると汚れがとれてきて本当の姿がみえてくる、てくだり、なんとなく…混乱してるヒトの話をずっと聞いてそばに寄り添いつづける、というのをずっとやってるとなんかそのヒトの本当の姿がでてくるのと似てると思って。あのさ…。夫人てさ、すごくヒステリックでたとえばあきらかに夫人が原因の失敗なのに、それを平然と他人のせいにして怒鳴りまくったりしてきてたんよ。いまでもたまーにあるけど。なにかにつけて理不尽なふるまいをしてたんよ。おそらく自分が責められないようにするためにだと思うんだが、いつも防衛してキーキーいうかんじだったのね。ひどい人だなあ…と思って6〜7年はちょっと辞めたくてしかたなかったんだけども、なんかねえ、2〜3年前くらいからそういう性質がだんだんなくなってきて、穏やかに対話することが多くなると、夫人は悪人でもなんでもなくて、相手の気持ちをちゃんと察することもできるし、映画に関して独自の観点で語らうこともできるし、ふつうにイイひとなのよ。なんらか…わからんのだけど、自分ひとりで色々やらなきゃならないことがあって、それに伴う労苦や悲しみや怒りで混乱してるだけだったのかなとちょっと思った。それをすべて受けとめられて落ち着いてくると、そのヒトの本質がようやくでてくるのかなと。それには自分を失うことなく(=相手に同調せず、自分自身を保ちつづけながら)辛抱強く世話をしつづけるしかないというか。もうねえ、こんなことしてなんになるのかまったくわからないし時間のムダにしか思えなかった。あと、家のヒトがいなければ絶対にできなかった。夫人からの精神的暴行に近い理不尽なふるまいを受けとめ続けるとか、それによって積もる愚痴を吐き出すところがなければできなかったよ。手間と時間がハンパないかかった。でも、それではじめて友達ができた。おいらは夫人を友達だと思ってるし、夫人もおいらを友達と思ってくれてる。ふつうに自信もってそう言える。それほどはっきりした自信がもてるまでお互いにやりとりができた。心の底からわかりあえた。すごくよかった。無駄だけど無駄じゃなかった。怖いといわれてる神様がいるじゃん。聖天様とか荼枳尼さんとか。怖い神様が怒ってくれるのっておいらはなんか嬉しいんだけど、それは本気だからなのかなと思う。自分に対して心を動かしてくれていることがわかるから、うれしいんじゃないかと。魂をもつ者はどんなモノであれ、自分以外の誰かから本気で関わってほしいというのを共通の欲求として持ってるんじゃないんだろうか。「混乱したモノの世話をする→本来の姿にもどす」はどの世界でもすごく基本的であってたいせつなことなんじゃないかと思う。神様に関して世話してとれるレベルの汚れならいいんですけど、そういった汚れとか、へんな思念を落とさずにずっと過ごしてるとそれが自分自身であるのだと勘違いしてって体の芯までその汚れが染み込んでしまう、なんてこともありそうな気がする。たまに手足の一部とかにへんな痛みがちくちくすることがあって、おいらは霊はみえないんだけどもそれはおそらく外部からの干渉のたぐいかなと感じることがあって、そんなときは痛みにむかって心のなかで「君は誰?痛い事しないでね」て告げながらシッシッてやったりすると痛みがなくなったりする。これで角大師描かせたお坊さんが、小指に取り憑かせた疫病の神を指ではじいて追い出すくだりがあるけど、自分のからだにくっついてきたヤな感覚を、ちゃんと「嫌」だと自覚するってことが大事なのかなと思った。そのヤな感覚はもしかすると外部からの干渉(他者)かもしれないのに、それが自分の内からわきおこったモノだと勘違いしたままにしてるとどんどん自分のモノとして取り込まれてしまうっていうか…。違和感をちゃんと違和感として処理するのが大事なかんじがする。「自分」と「そうでないモノ」をちゃんと自覚しておくというか。聖なるモノであれ邪悪であれ、なんに対しても「自分」を保ちつつ対峙するのがすごく大事なんじゃないかと思う。取り込まれたり感化されないようにするという。ヒステリックだった夫人がだんだん落ち着いてって本質がでてきた件じゃないけど、沖田×華さんとか安倍結貴さんの精神疾患実体験漫画よんでるとなんか安心感より悲しみや怒りが大きいがゆえに心を保つバランスを大きく崩してるふうで、そのありさまが限りない愛情を求める赤ん坊時代をやりなおしてるふうにも思えるんだが、精神疾患のヒトに関しても「私なんか…」みたいに思わなくなるまでとことん世話しまくるってのはどうなんだろうか。こういうふうに考えてくと霊の対処について「対話しない」方向てのはつまり人間関係においても深く関わりたくないというのと同じな気がする。まあ生身でも話が通じないのがいるからわからなくはないんだけど…。
上記抜粋した加門さん本の大森さんとの対談で、怨霊の守護がついたことで大森さんが怒りをむけた先が火事になるってくだりがあるけど、上記画像のテープを引き取った寺が全焼したくだりと同じ「憎悪の火」てことなんだろうか。霊の世界の火というと不動明王の火を密教のお坊さんは使わせてもらうし、火てのはなんらかアチラでは不穏なモノと結びつきやすいのかしら。大森さん対談ではよく大雨や雷雨に遭うくだりもあるけど、たしか霊方面で雨というと浄化の意味もあったような気がする。ふしぎな怨霊の世界。それと、ちょっと話逸れるけどこれのどれかに出てた、ひとんちのドアに向かってブツブツひとりごと言ってる狂人を目撃する話(たしか元は平山さんの実録話じゃなかったかな)で、そのブツブツ言ってる人がたしか頭から布をかぶって素っ裸のいでたちなんすよね。その布をかぶってなんかやってる有様がマグリットこれにすごく似てて、なんか心をむきだしにする美術方面と魂がむきだし状の霊や狂人の世界てのはやることがすごく似通ってしまうのかなと思った。「壁にむかって立ち尽くしてる」とか大きく口開いたままでいるとか、なんかやることなすことシュルレアリスムの画ヅラすぎるんですよ。


上記画像はこれこれこれから抜粋したモノ。