いろんな性癖は知ってて損はないと思うよ。

『安んじて稚気を発散できる、男だけの親密な共同体がそこにある。そんなつながりを「絆」と呼んでもいいだろう。”鹿狩り”と”酒”によってむすばれた地域の絆。ただし、「絆」という言葉の本来の意味が「人の自由を奪い拘束するもの」であることも忘れずにおこう。
(中略)
 危機の渦中に彼を支えたのも、あの「絆」だ。しかし、それほど固かった絆が、ある少女の、ほんの一滴の悪意で反転してしまう。』
愛、アムール(1日。ル)→偽りなき者→テッド(シネマカリテ)→キャビンとみまして、上記『』内は偽りなき者パンフの斎藤環さん文より抜粋したモノ。偽りなき者は勤め先の小学校が廃校になったんで幼稚園に務めてるミケルセン(離婚済&息子持ち)が園児への性暴力者として仕立てあげられて、それまで仲が良かった村人たちからいっせいに村八分にされる話。ミケルセンは性暴力などやってないうえそもそも小児性癖者でもなんでもない、ふつうの女好き(前妻との間に子供もいるし、新しい彼女ともヤってる)なんですけども、ある女児がついた嘘からミケルセンが園児の目前で勃起&射精するド変態という噂がみるみる広まっていってしまう。その女児はなんでそんな嘘ついたかというと、日頃からなにくれとなく世話してくれる(というかその子の趣味や意志をちゃんと覚えていてくれる気づかいがとっても嬉しかったのだと思う。この子の家庭では夫婦でいがみあってて気づかいなどしてくれないが日常なのでよけいに)ミケルセンに対して幼いなりに恋心を抱いてラブレター的なモノを渡したのですけども、ミケルセンはそんなに深い思いがあるとはつゆしらず「こういうものは他の男の子に渡しなさいね。」てやさしく女児に返してしまうんですね。自分の思いを受け止めてもらえなかった女児は内心激怒したのでしょう、思いつきでミケルセンが傷つくであろうことを並べ立てて他の先生(女)に言いつけたらあらふしぎ、ミケルセンが女児の前で射精したということに。それを耳にしたおばさん先生はおそるおそるガチムチの強面尋問員(あれは…児童心理の人間じゃねえよな…どう考えても警察関係だよね)を呼びつけて女児にもういちど問いただすも、むつかしいことがわからん女児に誘導尋問じみた質問ばっか(「つらいことをされたんだね?」→「うん」)した挙げ句ミケルセン=小児性癖者判定くだして起訴する方向となる。このガチムチ尋問官の質問がけっこう具体的で、そういう性表現を聞いたことがなかったふうな幼稚園園長のおばさんがその衝撃的な言語表現によってものすごい想像を膨らませてしまったんでしょうな。それ以降ミケルセンが関わるあらゆる方面にその想像したことをもとにミケルセンがいかにヒドい小児性癖者かということを吹聴しまくって、その結果ミケルセンが仲良くしていた男友達に近寄ればぶん殴って追い出されるし、買物いっても品物売ってもらえないし、息子はおなじ目にあうし飼い犬は惨殺されるしと非道が畳み掛けてくる。これって元凶は女児と思いがちなんですけど、女園長が諸悪の根源な気がする。性方面にも児童心理にも疎い(後者に関してはそのはずはないんだが…)ことから、ガチムチ尋問官が繰り出した性表現を耳にするや真っ赤になってよく調べもせずに暴走するっつーね…。ミケルセンも人がいいかなんかでさして反論しないんですよ。無実なのに。そんなもんだからよけいに間違った噂が広まっちゃって、たとえ証拠がなくて釈放されてもその噂を信じ込む勢いにいっこうに歯止めがかからんのですね。こういうときこそ声高に無実であるということを並べてかなきゃ誤解は解けないだろうに、ミケルセンは目立った反論行動をしようとしない。さいごは一見誤解はとけたふうで村人には元のように受け入れられてるふうな場面にはなるんですけど、あいかわらず誤解したままミケルセンに殺意を向ける何者かは確実にいて、なんというか…あの村人たちは噂をもとに自分の考えた「極悪人」像をミケルセンに対して抱いたままになっていて、それは誤解だろうともうどうでもいいんだろうなと思った。それまでの自分の経験では判別することのできないような異質なモノに直面したときに「とりあえず排除」を脊髄反射的にやってしまうというのかな。なんかさーナチがユダヤ人を「敵」と定めて殺したり狩ったりしてたのとか、新大久保での韓国人嫌いのデモ騒ぎとか、アレと同じ傾向なんだろうか。ナチのほうは血気盛んな若者の暴力性を体制に向けさせないようにするためにユダヤ人を狩らせたり殺させてたふうなことをなんかの本で読んだ気がするけど。新大久保の韓国人嫌いデモやってた向きにはなにか共通性とかあるんだろうか。なにしろただでさえ危ない男の鬱屈や暴力の矛先が女のヒステリーにのせられるとろくなことにならないというアレですな。そういえば偽りなき者パンフで大辺理恵さんが『デンマークではしばしば子供が嘘をつかず、真実を告げる存在として捉えられている』と書いているんですけども、スーパーで買い出ししてるとチビッコがお菓子ほしさに嘘泣きしつつ駄々こねる光景をたまにみかけますがあれはデンマーク人的にはどういうことなんですか?子供は嘘つかないとか子供世話するプロがどのツラ下げて言うかー?としか思えないけどな。そもそも「子供は嘘つかない」とかいう決めつけ自体が子供を個性ある存在と捉えてないのでものすごく差別的にみえますけどね。「子供は嘘つかない」て子供に対する偏見ていうかファンタジーじゃん。子供をそういうファンタジー的存在としてみていたいっていう欲求がデンマーク人にはあるんだろうが、その決めつけ視点からまず脱却したほうが子供にとっても大人にとっても健全なんじゃなかろうか。嘘つかない子供つーと「おっぱいだいすき」をずっと言い続けておとなのおっぱいをさわりつづけるということだと思うけど、そんな子はいますか。大半の男の子はおっぱいやおしりが大好きだけれども言わないし、べつにすきじゃないとか真っ赤になって言うものだと思います。「子供は嘘つかない」てなんとなく「女には性欲がない」みたいなのに似てる。なにしろいいトシこいて性方面の表現に免疫がなさすぎるおばさんが社会にとっていかに危険か、という事実を描いていて大変おそろしいです。ヒスで真っ赤になった挙げ句善人踏みにじって大喜びとか、女はバカだと言われるわけですよ。まあ今作では男もそれに同調してましたけど。知識と冷静さがいかに大事かつーアレですな。ところで『「絆」という言葉の本来の意味が「人の自由を奪い拘束するもの」である』件じゃないけどさー…夫人と心を通わせることができたつっても会社内での「上司と部下」関係に於いて発言が許される(であろう)範囲内(意志100%中40%程度)でしかおいらは発言しなかったわけで、たとえば意志80%くらい解放したおいらでも夫人は親しくしてくれるかどうかはわからんな。うーん…。夫人に対してはちょっと複雑なんだよな。つーか真の友人と同じ職場にいるとちょっとこじれるってだけなのかもしらんが…。ガマンにガマンを重ねて相手の勝手を受け止め続けなければ夫人の本質がみえなかったのも事実であって、それ(苦痛と忍耐と親密さがないまぜになってるのよ。そのうえでこちらの意志をぶちまけたら傷つくであろう弱さも知ってるのでなんか…)が真の友人をつくる唯一の方法なのだとしたら「他人と心を通わせる」というのはそうとうに困難なことなんじゃないかと思う。友達つくれないほうがおかしいみたいにみる風潮があるくさいけど、むしろこんなむずかしいことできなくて当たり前なんじゃないのか…。お金稼がなきゃならん年齢の人間が友人つくるつーといやがおうにも仕事関係ということになるんだろうが、仕事のたんびにいちいちダチになるとかどう考えてもマンドクサすぎる&ウザいのであくまで仕事相手としてしかみれないだろうし、それでもつくるとなれば夫人とのようなくたびれる関係しかないことになるよな。あーあ。どっちかが我慢しないと成り立たないような妙な依存的関係じゃなくて、意志をある程度だしても互いに受けとめあえるふつうの友人関係がつくりたいんだが…。ちなみに社長夫妻はおいらが入社して最初の何年かは頭ごなしにバカにする傾向の扱いをことあるごとにくりかえしていた(趣味や性質上のことを「まだ若いからねえ(笑」的にすべてを幼稚であるとして嘲笑していた)んだが、夫人はおいらと会話を重ねるうちにそういう頭ごなしに嘲笑するような態度をしなくなって「そういう趣味の人なのだ」と了解したうえでおいらの性質を尊重してくれるようになった。それには6年以上かかったけども、夫人がそうして人としてふつうに接してくれるようになったので、夫人についてはもう怒りや苦痛はそんなにも感じないのだけれども、社長のおいらに対する態度は当初から辞めるまでまったく変わらなかった(ニコニコ笑いながらこちらの趣味・性質を踏みにじるような言動をするので、おそらくそれが悪いことだなんて微塵も思っていないのでしょう。それと「ホの字さんは幼稚なのだ」と思いこんでいるせいか何か物が壊れたりすると調べもせずに「ホの字さんがやったのだ」と平気で濡れ衣を着せてきた)ので、マジ吐き気がします。夫人とは遊びにいってもいいけど社長とは金輪際関わりたくないです。あのさー…こういう性質傾向ておそらく世代的なもんがわりとあるんじゃなかろうか。慎太郎のクチの悪さとかさ。ああいうの頭で考える前にでてきちゃうんじゃないかと思うよ…。あとこの前のイッテQの出川さんコーナーで、デビ夫人が戦車のってる際に女性カメラマンの試し撮りみて自分でOKだしてたくせに後になって「アタクシはOKしてません」とか言い出して女性カメラマンをみんなして極悪人扱いしてたけど、あれテレビに映像としてのこってるからまだいいけど(つーかあれをみてのんきに笑えるんだね視聴者さんたち…自分があのカメラマンの立場になったことがないんだね…)、狭い会社内で10年以上続けられるとヒトによっては歪むと思うよ。ポップ1280じゃないけど、クソみたいな上司から何年もクチにクソをつっこまれすぎて挙げ句にクソになってしまうふうだよ。あんなふうなことがあらゆる社内で行われていて、それに家族の為にずっと耐え続けてるヒトが何万人いるのかと思うと暗澹たる気持ちになるよ…。シゴキ前提の精神論をふりかざす年代の方からすると苦難をやりすごすために清濁あわせ飲むための柔軟さや強靭さてのは大事と言うかもしらんけど、じゃあ死ぬまで永遠にあんたがそのクソを受け止める立場やってろよ。そういうのって仕事を円滑に進めさすどこか仕事やる気がなくなるんですけど、それでも必要とでもいうんだろうか。このままクソの下で働くことを考えると怖気が走ったので無事やめることができましたけども(とはいいつつもそのクソのもたらす金があったので映画も展も感想をかくことができたわけだが…)。慎太郎・デビ・社長の世代はおそらく「他人の気持ち」について一切考えずにきた世代なんだろうね(思想家がとかではなくて市井の思考傾向として)。ちょっとでも異質とみるや嘲笑するような態度したりさ。それが彼らのいう「懐かしい時代」の土台だったんだろうか…。いろいろカキましたけども、社長は男くさい映画へのアンテナが異常に敏感で、ちょっと広告みて「これはいいゾー」と言う映画はどれも佳作・傑作だった(3時10分は社長にいわれてみた作品だ)。あと経営者とか統率者というのは優れた仕事(大きな采配)が即座にできるヒトほど人間関係における細かいこととか察することができないのかもしれないとも思う。そんなこまかいこといちいち気にしてるとデカい振り分けの良し悪しが嗅ぎ分けづらくなるのやもしらん。それは性質上しかたないのやもしらんけど、仕事をしていてもいちいち苦痛の多い間柄だったことはたしか。ひとえに商品への偏愛がそれを癒してくれて、それで10年以上いられた。ひどいことと好きなものがひどく入り交じっていて、あそこでの勤務はひとことではいえないかんじ
愛、アムールは題が残酷だな。最終的に愛を注げなくなる話なので。あの老夫婦は元音楽家なのかな。老いても素敵なかんじの奥さん(元ピアニスト?)が、ある日突然数分間動かなくなって、ヘンだというので検査したら手術が必要だというので脳を手術したら失敗されて半身不随的になってしまって、プロ介護人に週3日きてもらいつつ夫が自宅で奥さんの世話してく話なんですけども、知的でしとやかなかんじだった奥さんが自分の体が自分で制御できなくなってくにつれ体も意識もどんどん悪化してくふうな展開。その…はっきりとは描写されてないんですけども、奥さんの症状が悪化する転換点として「奥さんにとってはショックが大きかったであろう事」が配されてて、いちばん最初に朝食中に動かなくなるときの直前に「強盗によってうちの鍵を壊されたかもしれない」ということを夫から聞かされてたんですね。それを聞かされた当初は奥さんは特に反応してる様子はないんですけども、たぶん…内心震えあがる思いだったんじゃなかろうか。それまで経験したことのないような怖い思いをはじめて抱いて、体が若かったならだんだん忘れてなにごともなく過ごせたと思うんですけど、老いた肉体のほうがその精神的衝撃に耐えきれなくていきなりヒドいことになってしまったとか。その次に術後に帰宅して夫に介添えされながら寝起き・食事をするんですけども、あるくのもままならない状態で、それにショックを受けたっぽいというか。あの奥さん、病気前まではおそらくすごくプライドの高い知的女性なかんじで、そういうヒトがいきなり起きることもできずに腕も動かないとなるとプライドがズタズタになるんじゃないだろうか。それだけならまだしもこんどは排泄が制御できなくなって、ある日漏らしてしまうんですよね。それが…おそらくなんですけど彼女には耐えられないほどショックだったんじゃないかな。介護人にオムツ巻かれたりする自体もなんかもう屈辱そのものだったんでは。その後食事を拒否するようになるんですけども、常に自立して生きてきてて成果をだしてナンボとか思いこんでるヒトほど「(成果主義からした)無用の長物」的な存在になってしまうともうどう生存理由を考えたらいいのかわからんくなってしまうんじゃないのかと思う。現実には四肢が動かずとも経営者や研究者やってるヒトはわりといるんだがね…。自分がそうなるとは思ってもいなくて、そういう知識すらもおそらくなにもない方だったのだろう。ここは彼女の気持ちを尊重してあげるしかないんじゃなかろうかと思うが、夫はやっぱり奥さんには生きていてもらいたいから献身的に世話をしていて、食事も流動食的なのを彼女の口の前まで運ぶんですけども、彼女は口を閉じたまま食べようとしないんですね。こんなに頑張ってるのにッ…と思ったかどうかしらんが、ついカッとなって夫は奥さんを平手打ちしてしまう。妻も夫も悪くないのに悲しい。彼女にとってどう対処していいかわからないひどいことが積み重なって、最終的にはアルツハイマー的になってしまうんだよな。老いて肉体が朽ちていく悲しみを共有することができればいいのかな…。その立場に立てないものだから、もうひとり雇った介護人(美容師なのか?)が自分はプロだから!とかいいながら奥さんが嫌がってることばかりやる思い込みの激しい女みたいのがきてしまうのかもしらん。肉体が老いて四肢が不自由になったときの「余生をおくるための心情」としてどういう傾向でいればいいんですかね。そうゆうハウツーをだれも編み出してないんだろうか。あんなんなったら誰だって死にたくなるよ。ああなっても前向きになれる考えってのはあるとしたらどんなもんなんだろうか。作品としてはハネケ映画なので淡々としていますが、要所要所でなんか他の階のニブい物音じみた音響が入ってて、あれがちょっとブキミだった。それと夫のみた床が水びたしになってる夢もちょっと怖かった。どうやって落とし前つけるのかなと思ったらラッキーマッキーのメイと同種のアレで。最善だな。よい監督はちゃんと腑に落ちるオチをつけてくれる。夫がみた幻か、それともほんとうにいっしょにいったのか。
キャビンはなんか…地球を守るために地底に封じられてる邪神(クトゥルー系じゃないんだろうな。なんか巨人的な手だったし)を鎮め続けてる機関があって、その邪神を鎮めるには定められた性質をもつ人間の血と彼らの苦痛の両方を供物として捧げることが必要なので、てきとうな大学生たちをターゲットに定めて超音波とか薬物噴霧して目的地まで誘導してってまんまとえじきにしかかるも…という話。マシスン映画みたいな「地球のためと言いながら勝手に人間を操ってるよくわからん機関」系列の映画てことになんのか。んでその機関が大学生の性質ごとにふさわしい「苦痛」を抱かせるためにいろんな種類の怪物を用意してるんですけども、基本的に供物となる人間自身にどれで死ぬか選ばす風習的なもんがあるらしくて、地下室に誘導して居並ぶ骨董品から彼らが何によってどう死ぬか確定してくわけです。今作ではシンプルな前住人ゾンビ的なアレだったんですけども、愚者キャラにあたる麻薬好き男子学生が監視やコントロールの存在に気づいてどうにか生き残っていて、処女キャラである女子学生とコントロール室まで向かうんですけども、中枢に向かうまでのエレベーター的なもんが強化ガラス張りのちいさな個室の前をいくつも通り過ぎてくんですが、そのちいさなガラス張りの部屋ごとに供物となる人間を襲わす異形が1ケずつ入れられてて大変たのしいです。中枢到着後はこの異形たちをすべて解き放つ展開になるのですけども、このシーンみるだけでもこの映画はなかなかよいですね。主人公たちを襲う住人ゾンビの元となってる存在の丸い刃がいくつも刺さったヒトもかっこいいですし、解き放たれた異形たちが機関内の人員を喰い散らかして血まみれの有様のなかでひとりだけくるくる踊ってるバレリーナ異形が優雅でよかったです。あのバレリーナ異形はサイレントヒルの音と熱に反応する看護婦ゾンビと並んでイイ異形キャラですね。邪神復活するとあの異形たちも地上に解き放たれて地獄になっちゃうんだろな。それに付随して「苦痛」を供物とする、てのはどういうことなんだろうな?と考えたけどよくわからなかった。酷い目に遭ったときはそれを糧にして立ち上がるのが大事なんだけども、酷い目に遭ったときの苦痛だけが永遠に続くと憎悪になるから、そういうモノを世に満たしたいのか。しかし人類こっそり操る機関モノに顕著なんすけど、もっと効率のいい方法がありそうな気がするが。あれが最善ですかね。もどかしすぎねーか。
テッドはなんか民放で9時頃やるのにちょうどいいのでは。そんときは冒頭のいじめられっ子にまで嫌われる主人公の子供時代シーンとデブガキぶん殴るシーン削るなよ。なんか客席に大学生くらいのカッポーがすげえ多かった。平日いったのになんで。学校いけよ。