ギアの愛人デヘデヘシーン詰めください







古今無双の強者(6日。シネマベーラ)→真昼の決闘→征服されざる人々→ジャンゴ 繋がれざる者(10日。丸ピカ)→汚れなき祈り(ヒューマントラストシネマ有楽町)→キングオブマンハッタン 危険な賭けとみまして、汚れなき祈りは微妙にレズビアンの話なんだろうか。ルーマニアで修道女生活を送っている女子ヴォイさんのもとに、かつて孤児院で親友だった女子アリーナさんが訪ねてきてドイツでの共同生活のお誘いをするんですけども(思いつきとかでなくけっこう前から計画してたぽい)、おそらく一時しのぎ的にしていたはずの修道院生活が気に入ってしまったヴォイさんはアリーナさんのお誘いを断った挙げ句に、体調不良のアリーナさんから頼まれてハンコ押してもらってきたドイツへの移民申請書類を隠してしまったうえ、アリーナさんにも修道女として同じとこで暮らすよう説得しかかってくる。アリーナさんは修道院生活とかまったく興味はないんですけども、ヴォイさんのことを慕ってるので当初は修道女になろうとするんですけども、アリーナさんが同室で暮らすことになったヴォイさんといっしょのベッドに入ろうとすると「そういうことは汚れてるから」と言って別々に寝る要求をしてくる(あのシーンはつまり「同じベッドに入る=ただ眠るだけではない」という意味のことが孤児院時代から行われていたと解釈していいんだろうか)。おまけに修道女になるにはそれまでに犯した罪を告白しなければならないからといって、アリーナさんが懺悔室で神父(男)へ思い当たることを告白させられるんですけども、なにを告白したかは映らんのですが、なんか懺悔室から出てきたアリーナさんが茫然自失状態でへたりこんでしまうんですね。この後から修道院の生活がままならなくなるほどアリーナさんが暴れるようになってしまって、困った神父が病院に連絡して入院さそうとすんですけど、病院側は救急車が出払ってるからとかいって来てくれないし、アリーナさんの里親に引き取ってもらおうとするも里親家はアリーナさんの部屋を仕事の働き手用にしてることを理由に引き取り拒否するし、押し付けようにも押し付ける先がまったくないので、しかたなく修道院はアリーナさんを引き受けるのですけども、あいかわらずアリーナさんは大声だしたり物壊したりするんで礼拝すらもままならないんでとうとう神父は修道女たちといっしょに暴れるアリーナさんを板に縛り付けて猿轡をかませて個室に放置してしまう。天涯孤独のアリーナさんとしてはヴォイさんをおそらく家族以上の存在と思っていただろうから離れるなんて考えられず、一時は修道院で暮らしてもいいかとも思ったかもしらんけど、それまで普通にしていたであろう体に触れ合う行為を「汚れている」として拒否されて出来ず、じゃあ出て行こうと思っても移民申請書類をヴォイさんによってうやむやにされてしまったうえ、おそらく懺悔室で告白した性癖についても神父によって全否定されてしまって、どこへも行きようがなくなってしまってるわけです。修道院の人間が愛を掲げていながら「意志だすな」「本音で生きるな」という精神的暴行に近いことを全力で押し付けてるわけで、アリーナさんとしてはもう暴れるしかなかったんだろうな。入室禁止の聖所に踏み込んだのも「こんなろくでもない事しかやらないのが神なの?」としか思えなくてやったんだろうなと思う。ヴォイさんはアリーナさんに頼まれた移民申請書類をなんで隠してしまったのかというと、ヴォイさんはヴォイさんなりにアリーナさんといっしょにいたい=アリーナさんにも修道女になってほしかったんじゃないかなと思う。レズビアン的な性行為はせずに、ただ同じ場所にいつまでもいてほしい、という身勝手な思いを無言で強要してるんですな。アリーナさんとしては修道院なんざ興味ないし、ドイツで働いてふつうに暮らしたいだけなのに、なんだかわからんうちにドイツへの道は閉ざされるし、好きな相手には触れられないし、とどまるしかない場所で意志も性癖も全否定され続けるという望んでもない苦行を課されるというね。この修道院の神父てのがこれもまたはっきりとは描かれてないんですけども、なんだか頭の固い偏屈野郎くさくて、最初のほうの修道女たちとの食事中の会話で「巷では離婚だのなんだのと堕落しきったことばかりで辟易するねえ。その点ここは品行方正そのものだね(笑」とか市井の問題を見下す言動をかるくかましていて、そういうことで悩んでる万人を受け入れて共に悩んだり答えにたどりつくまで寄り添ってくのが神父の仕事じゃないんかいと思いました。この神父が信者が増えないことを悩んでるんですけど、まあふつうに考えて迷える子羊を見下して遠ざけてあざ笑うしかしないような体制のとこには誰も近寄ってきませんよ。本来的に教会は問題を抱えたヒトこそどんどん受け入れてしかるべきって場所だろうに、たったひとりやってきたアリーナさんに関しても誰ひとり向き合う人がいない状態で、暴れることに怯えて追い出すか閉じ込めるかしかしないっていうね…。ちょっとわからんことに出くわすと「悪魔だ」とか決めつけちゃってさ。ヒトの心をたいせつにできない人間がいくら戒律に従ったところでなんの意味もないんじゃないの?という真実を描いてたふうだった。どの描写についてもはっきりと提示されてるわけではないんでどれについても推測でしかないんですけども、アリーナさんが暴れるに至るに際して、わたしの思う思慕はなんなの?同性への愛は愛ではないの?ていう思いが少なからずあったんではないかと思う。これのp.38に『魂は、支配されたり命令されたり、束縛されたりすることが大きらい。』とあるんだけど、自分以外の誰かが心の底から望んだ生き様について、それを理解できないからってねじまげるのを道徳として説くのはいかんよな。宗教における同性愛禁止てさ、なんとなく教育に於ける暴力肯定論とちょっと似通ったノリをかんじなくもない。「私たちも我慢してきたんだからあなたも我慢しなさい」的な。突き詰めてくとたいした理由とかなさそう。生殖の問題つーてもたとえ無理やり異性といっしょにさしたところで同性好きなのは変わりませんしね。汚れなき祈りにもどしますが、要所要所でちょこっと出てくる役所とか警察官とかがいちいち配慮なさすぎな会話をしていて(他人がいるのに身内の痴話ゲンカ話をあけっぴろげに繰り広げる)、そこはかとなく公的機関に於ける下品な雰囲気が漂っています。はっきりとは描かれないけど、監督さん、わりと気骨ある御人なのではないかと。そういえばパンフに出てる元になった実話がわりとひどかったな。孤児院での虐待の件とか。ちょっとこの映画みる前に有楽坐の下んとこで酒のんだアレで冒頭間に合わなかったし、わりと寝たりしたんで読み違えた部分あるかもしらん。ヒトの心をたいせつにできない人間がいくら戒律に従ったところでなんの意味もないんじゃないの?といえばさー…数ヶ月前に部屋整理したらなぜか何年も前に買ってあった浅草寺のお札(どうして買ったのかまったく覚えてない)が出てきたんすよ。いまはちゃんと出して棚の上に置いてるんだが、よくよく考えたらその…お札を忘れきってないがしろにしたあたりからずーっと片手のある部分が爛れてるんすよね。これもまた推測でしかないんだが、おそらくこれお札ないがしろにした年数だけ爛れ続けるのかなー…。つい1週間ほど前に沖縄の頑固オヤジにこの爛れが治るかどうか聞いたら「それ聖観音さんのパワーがむちゃくちゃ出てるからねえ」などと指摘されたのち応急処置されたんですけど、原因が原因なので完治はしなかったのでかかりつけのヒフ科で調合してもらった薬でなんとか抑えてる状態(ヒフすぐ下に汗の粒がたくさん出来てて[※蓮コラ苦手な向きは吐き気もよおすビジュアル]、それが破れると汁が出て周辺皮膚が固くなってしまって割れて傷になる状態。たまにすごく痒くなって、起きてる時は耐えられても寝てる時にバリバリ掻いてしまって傷が広がる。よく清水が湧き出てる岩の表面が細かいツブツブになってるけど、ちょうどあんなかんじ。神の力が下からでてくるとなんでもああいうふうになるんだと思った。片手の1部分のみで他の部位にはまったく出ていないので、皮膚科医に説明するのが大変だった。まさか聖観音ちゃんのパワーがでてるとはいえんし。皮膚科医は何かに触っているor食品が原因のアレルギーだと思ってて「お茶のむのやめてください」とか言ってたけど仮に食品が原因だったらとっくにじんましんが出るだろ。なんで片手だけだよ。まあでも柔らか汗出し薬でなんとかなってますどーも)ですが、お札と手の爛れが関係があるんじゃないかと気づいた時点で聖観音さんに怒りを覚えてしまってなんだかものすごく混乱してくたびれきってた日々がわりと続いてたんですけども、これは聖観音さんが悪いんじゃなくて完全においらが悪いんですね。そんな簡単なことに気がつくことができなかった。おいらの手の爛れに関しては、お札をないがしろにされていたときに聖観音さんが感じていたツラい思いが噴き出してるんじゃないのかなと思った。ベーコン回に書いた件じゃないけど、混乱したモノには落ち着くまで根気よく世話するしかないのと同じで、この爛れ部分が痛むときには優しい感覚を注ぎつづけるしかないのかなーと思う。あとお札の前には一応お酒とかあげてるけど。神仏関連にはどっぷりつかるなと摩陀羅さんから言われてるんで現状での最善つーたらそれくらいしか。相手が怒っていたら、むしろ自分に間違いがあるのではないかとおそれなさいじゃないけど、向き合った相手が怒ったり荒れたりしている場合、相手に変わる事を強要するよりもまず自分が変わってみることが大事なのだなーと思った。汚れなき祈りに於いてはアリーナさんが荒れてるので、まず変わるべきは周囲の者てことになるんだろな。このお札買った時分は霊だの神だのにまったく興味がなかった(たしかブログすらも書いてなかった)んで、もうなんか…聖観音さんには申し訳ないとしかいえん。つらかったろうな。ていうかお札1コ1コにもちゃんと聖観音さんは意志をこめて買ったヒトのことをみているんだね。誠実きわまりない。だからこそないがしろにされるとつらくて悲しかったんだろう。よりによって信心ゼロ時代にそんな絶大なもんを気軽に買って放置してしまうおいらもどうかしてるとしか…。うっすら覚えてるのはねえ、前の会社の忘年会かなんかで浅草のどぜう屋にいったついでかなにか…?だったような気がすんだよ。そんときたしか夫人といっしょだったような…。愛憎入り交じる関係がコンボできた。あーあ。聖観音さん、なんかやたらナイスな女子として夢にでてきた(インドで屋台でてる道をいっしょにぶらついてて、おいらがなんか買った隙に屋台の豆的なメシをササッて盗み食いしてた)んで、なんのしがらみもなくごくフツーに関わってたら他のおなかのヒトビトみたいにすんなりダチになれた気がすんのに!!つーかそういうふうに関わりたかったのにー!!なんでこんなヒドイ関係に(泣)まー…該当年数が過ぎればふつうの関係になれるかもしれんが…。そういえばさーコックファイターみる前に映画館近くの飲み屋の店主さんと話してたんだが、人間同士でもなんでも互いに深くわかりあうにはなんらか…縛りでもないかぎりはちょっとした仲違いで終わりになっちゃいがちですよね。現状においての縛りとしてありうるのは「貧しさ」で、カネのために辞められない状態でやむなく問題のある上司や同僚と付き合うほかなくなる→お互い深くわかり合う、という流れしかないでしょうねーということを話していた。おいらも現にそうだったし。深入りするってのは心身共に体力のいることだよ…。その上司や同僚が悪意を持っていない、という条件付きだけども。心身共にすり減らしてまで深く付き合う価値がある相手かどうか見極めるのもむつかしいしな。人間関係はものすごくむずかしい。でもできてみるとすごい。すごい清々しい。理不尽な苦さを「まあいいか」まで出来るとこまでいけるかどうかとゆう。
キングオブマンハッタンはデカい投資会社の社長であるリチャードギアが、仕事も家庭もうまいことこなしてると思いきや段々とうまくいかなくなってって、ある日とりかえしのつかない出来事がおきて大ピンチになる話。ギアはウソつくのと罪をうやむやにするのがすごく巧くて、愛人から捨てられそうになってもうまく言いくるめちまうし、生真面目な娘から会社の金が400億ちょろまかされてるのを突きつけられても「何百という社員がどうなるかわかっているのか!」とかさも博愛的立場でモノ言ってるんだ的な逆ギレで黙らせちゃうし、なんていうか詐欺と思われずに堂々と詐欺的手法でのしあがってる&なんか許されちゃう愛嬌を持っているという最強の男であった。劇中にやたらロスコの絵とかでてくるんだが、あれは愛人にしてる巨乳イタリアン美女に画商をやらせてる関係上でなのね。しかもエンドクレジットみてたらどこそこのギャラリーのコピーライトとかズラズラでてきたから、映ってる絵は基本的に全部本物なのかな。イタリアン美女はギアに本妻と離婚してもらいたかったみたいなんすけど、あんな巨大企業の頭やってる男がおいそれと離婚するわけなくて当然イタリアン美女は遊びで利用されてるだけで、イタリアン美女はようやくそれがわかってきて別れようとしてんですけど、ギアとしてはイタリアン美女(のたぶん肉体)にメロメロでまだまだ愛人としてたのしみたいらしくて、色々いいくるめて真夜中に車で別荘へ向かっていたところ、ウトウトしかかったギアが運転ミスって車ころがってく。ギアは助かったものの、イタリアン美女即死。ギアが車の外でたところで車爆発。ギアはある黒人少年を頼ってこっそり帰宅するんですけども、刑事のティムロスがイタリアン美女の経営する画廊の権利者を嗅ぎつけて…という展開。なにしろギアの周囲の人間はギアの詐欺師ぷりをよくわかって呆れ返ってるんだけども、多くの社員のためにそれを黙ってあげている、というアレ。デカい組織ほどお互いの悪いとこに目つぶってやりすごしてるってことなのかな。結局トサカにきた奥さんが最後の最後でギアに究極の選択をさすわけだが、あの選択いかんでギアがマジに社員たちの将来を考えてるのかどうかがわかるってことなんだろうか。慈善団体にデカい企業1コ寄付されるとどうなるんだろう。慈善団体が経営を引き継ぐ?まあ売っぱらっちゃうか。
ジャンゴは虐げる側への怒りがあんましわかなかったから、ジャンゴがする復讐にもさして爽快感を感じなかった。そういうのは黒人メイドもののヘルプ!とか偽りなき者とかのがずっと深く感じたけど。偽りなき者で主人公の息子が嘘ついてる幼女に「嘘つくな!」て唾吐きかけるシーンとか、ヘルプ!で悪魔的な白人女にうんこパイ食わすほうのがグッとした。虐げられてる感がひどければひどいほど、それに抗する者がでたときの共感もすごい。ジャンゴねえ、なんか…残虐シーンと虐げられシーンがつながってないかんじがした。残虐シーンは個々としてはちゃんと非道なんだけども、それが虐げられてる側への共感になるかというとそうでもないのよ。残虐シーンだけがいくらひどくても虐げられてる感がでるわけじゃないの。むしろ抗する場面はほんのちょっとでもいいのよ。虐げられてるところを丁寧に丁寧に緊迫感こめてつくらんと意味ない。正直いってジャンゴよか偽りなき者のが何倍もショックだった。手足をもがれるのと心を痛めつけるのとでは意味がちがうのよ。見世物ってさ、客をドン引きさしたらいけないんだよね。ジャンゴは基本的に見世物なので無理なのかもしらん。その点真昼の決闘は西部劇の皮をかぶった社会派映画だったなー。かつて町人と保安官(ゲイリークーパー)とでお縄にした殺人者が釈放されて保安官に復讐しにくることがわかったので、かつてのように町人たちと協力してまた殺人者と戦うために有志を集めようとクーパーが呼びかけるんですけど、てめえの私怨で巻き添えなんてゴメンだぜ!などといって町人はおろか友人も妻ですらもクーパーから離れていって、孤立無援のひとりきりで襲いくる殺人者に立ち向かわなければならなくなるという話なんですが、我が身可愛さに平気で人を見殺しにする輩しかいない社会は遅かれ早かれ腐ってゆくというものですな。殺人者の仲間のひとりにリーバンクリーフがいて、若い時分から目つきだけで即それとわかるイイつらがまえですね。真昼の決闘に顕著なんですけども、孤立無援モノをつくるに際して「客の心を痛めつける」に9割あてるのが基本なんだなと思った。それには主人公が心身共にひたすら痛めつけられないとだめなんすよ。こんなんで戦えるのかってくらい。他が痛めつけられても分散するだけ。そういえば真昼の決闘の説明で「孤立無援で戦う平凡な初老の男という、これまでにないヒーロー像」てあるけど、その5年程前につくられた征服されざる人々でも似たような役やってますけどねクーパー。1700年代のアメリカの土地争いの話というのかな。死刑になることを選ばなかった白人の犯罪者が奴隷として売買されるために船で運ばれていて、白人の女奴隷がセクハラされてたのを見かねた大尉のクーパーが大枚はたいて女奴隷を買って自由にしてやったんすけど、セクハラしてた男に売買契約書をうやむやにされてあちこちで働かされるうちに土地売買がらみのインディアン抗争に巻き込まれてって…みたいな話。恋!奴隷!戦!インディアン!みたいな色々ぶちこんだやつ。なんか、パルプ小説の表紙に描いてある扇情的な絵あるじゃん。白人美女がドレスをビリビリに破かれて荒縄で巻かれて土人さんに火炙りにされだした中みたいの。ああいう画ヅラのシーンが連発する映画だった。こういう映画てほんとにあるんだなーと思いながらみてた。基本的に主演女優さんのコスプレ大会みたいなかんじではあった。
古今無双の強者は元兵隊あがりの私立探偵が仮面強盗に扮して強盗団の魔手から救った令嬢が私立探偵にポワーンとなったりする話。サイレントなんでよくわからんがたぶんそんな話。馬の爆走と列車並走シーンとかなかなか見応えがあった。列車の車輪のすぐ脇にハンモック張って無賃乗車してるおじさんがいるんですけど、ハンモックもぎれて腕だけつかまりながらパタパタアワアワしてるとこが面白かった。サイレントでピアノ伴奏が勇ましくてとても合ってましたけど寝た。昔の無声映画にでてる俳優は白黒なのにわかるほど白塗りしてるくさくてこわい。

上記画像はこれこれこれのモノ。自分の保身のために他人に効率良く嘘をつかせようとする(自分のために人を踏みにじることを悪いことだと自覚せずにやっている)ところは若ければ甘えだし、老いてからは執着によってそうなるのだなと思ったので。小利口な人ほど組織に入っても本気で仕事をしているように見せかけるのが巧いだろうけど、それは自分にとっても周りにとっても結果的によいことにはならんだろうね。会社にぶら下がるために嘘をつき続けてるわけだし(そういうのが多いほど汚職的なことが当たり前の組織となりやすいんだろう)。おいらにも身に覚えがあるけど、どうしても本気になれなかったり結果が出せないのであればそこそこで切り上げるほうが吉かもよ。生きるのをつまらなくしてるのは会社でなくてあんた自身かもしれん。その都度思いやりを持ちつつ本気であたってさえいればあとでそれなりのもんが返ってくると思うけど。