あなたに必要なのは送電線

レオ・レオニ 絵本のしごと(22日。文化村)→メラニー・プーレン写真展(バニラ画廊)→偽りの人生(しね)→鯨神(28日。神保町シアター)→ノーコメントbyゲンズブール(ル)→バーニー みんなが愛した殺人者(30日。シネマカリテ)→ABC・オブ・デス(武蔵野館)→ペーパーボーイ 真夏の引力(31日。武蔵野館)→サウンド・オブ・ノイズ(シネマカリテ)とみまして、バーニーは多彩な仕事をなんでもこなしつつ、人付き合いも面倒見もよく人格者として名の通ってる中年男性(バーニー)が、ケチで強欲な富豪おばさんにホレられて以降面倒をみることになったものの、財産管理までまかされたところで富豪おばさんを射殺してしまって、それが発覚してから彼をよく知る町のヒトビトがいっせいに彼を擁護しはじめた実際の事件をもとにつくられた映画。ヒトの心を動かすに際して必要なのは「どれだけ親身に接してくれたか」であって、利益がどうこうとは別物なんだよな。人間ならばおそらくだれもが持っているであろう「人と関わりたい」欲求が満たされる、てのは、ふつうに思うよりもひどく重大なことであって、重大である証拠としてはそこらへんがうまくいかないだけで凄惨な事件となってしまうあたりか。件のバーニーさんはなんか仕事1コきりじゃ満足できないレベルに器用で、本業である葬儀のお膳立て仕事ぜんぶを完璧にこなしただけじゃ飽き足らず、町内会のおそうじ推進委員だとか大学の演劇部の音楽指導だとか、いろいろ掛け持ちしつつも全部をイキイキとこなしてるんすよ。それも疲弊しながら無理やってる、とかじゃなくて、それらを各々カンペキにサラッとこなしてるふうなの。ある種の天才というか、できるからやってるし楽しくてしかたない(しかも各々の仕事してる中は情に流されてる様子がぜんぜんなくて、淡々と完璧に遂行してるふうなところがすごい)ふうで、克つ関わったヒトの名前から職業からほぼ記憶していて「弟さんは○○郡に引っ越して結婚したんだったよね。どう?○○の仕事はうまくいってる?」みたいに具体的なネタを会話にだしてくるもんだから、バーニーさんと話してるほうは「覚えててくれてるんだ!(=自分を大切に思ってくれてるんだ)」と思うからいやがおうにも親愛の情を抱いちゃうんすよ。バーニーさんは政治家になったらもう不動の地位を築くんじゃないのかなとも思うけど、基本的にそっちは興味がないのかな…?チマチマ働くのがスキくさいんで、事細かく手が届きづらくなる仕事はしたくないのやもしらん。んでバーニーさんは各方面で多彩に仕事をこなしつつも、関わったヒトへの面倒見も物凄くイイもんだからもう近隣一帯のヒトほとんどが「バーニーさん大好き」状態なわけです。特に熟女をほぼ全員味方につけてる状態なんで、評判に関しては無敵状態なんすよ。あるときバーニーさんが石油王の葬儀を手がけた際に、未亡人となった奥さんを(いつもの業務の一環として)慰めたわけなんですが、未亡人さんからするとなにくれとなく世話をしてくれてナチュラルに親切なバーニーさんがだんだん気になりはじめるわけです。この奥さんてのがわがまま放題のドケチばあさんで、血縁者すらも口汚く罵って近づけようとしないもんで当然友達はいねーし、もう町でも一族内でも鼻つまみ者で通ってるんすよ。このおばさんがなんでバーニーさんを受け入れたかつーと、バーニーさんが生来の世話焼きてのもあるんだが、最終的にはなんかライバルがすっごく多い人気者を独占したい、ていう欲張りな面を刺激されたのが決定打になったくさいふうなシーンがあった。教会で歌うバーニーさんに色目を使ってる他のばあさんがいて、それをドケチ奥さんが目の当たりにしてからバーニー獲得への猛攻がはじまるんすよね。この欲張り奥さんがバーニーを彼氏と定めてからは金満旅行に連れ回したりしてデートしまくるんですけども、結局結婚はしなかったのかな。パンフの説明では「(バーニーが)マージョリー専属のマネージャーとして彼女の所有する会社の社員となり」て書いてあるんで、なんか…おそらく結婚がムリだったか(家族は反対するだろうし…)、財産管理の問題でそうしなかったか、理由があるんでしょうね。完全に気をゆるした奥さんはバーニーに全財産をゆずる遺言書とかも書いちゃって、それからバーニーへのわがままがエスカレートしはじめるんすよ。もう全部やるんだから言う事を聞けといわんばかりに。「お金をわたす」と「そばにいて話をする」は種類が全然ちがうものなんだけども、この奥さんはなんだかそこらへんの観念がふつうと違うんだろうな。自分の荒すぎる気性がどうにもならないことを知っていて、富をさしだしたことを方便に人を傷つけて弄んでいいのだ、と思ってるふうだった。彼女は親からこんなふうに育てられたんだろうか。バーニーさんはそれに耐えて耐えて耐え続けて、ある日、なんてことない、彼女からいつもいうようなつまらんイヤミを言われた直後に、ぼんやりと目についた銃で彼女を撃ってしまうんですね。もうなんか、夢遊病者みたいなカンジで。そのあとに自分のやったことが信じられない、といったふうにうろたえて泣いてましたけど、映画でこういうふうに描写されてるってだけで、本当はどうだったのかはちょっと判別がつきませんね。悪意があって計画的に殺したのなら死体をどうにでも処理できたはずなのに、そうしなかったのは発作的にやってしまった証拠だ、てのが後で出るし、そこは本当なんだろうなとも思うんですけども。奥さん殺害後にバーニーさんは財産をじゃんじゃん使いはじめるんですけども、その使い方も教会建設のための資金だとか、学生の奨学金設立だとか、ボーイスカウトに寄付だとか、使ったもんがほぼ善行的なアレばっかしなんすよ。バーニーさんは基本的に三大欲求を振り回す的な豪遊なんかに全然興味がないヒトで、こんなにおカネがあるなら困ってるヒトのために使おう!と純粋に思ったんだろうけども、奥さん殺害発覚後に(建設されたもんとかも)全部没収になっちゃったんで、結局役には立たなかったしなあ。クリスちゃん的な善を標榜するならばまず自首して罪を告白するのがスジだとは思うが、莫大すぎるお金を前にしてこれを活用しないテはない!とつい思っちゃったんだろうな。根っからの善人が血迷うとこういうことになるんだなーと思った。しかし仕事を全力でこなすのが生き甲斐のヒトが、いちいちそんなん止めろだのなんだの文句いわれて暮らすのは相当ツラからったろうなとも思う。善人だろうがなんだろうが殺人は殺人なんで地方検事のマコノヒーがバーニーさんを起訴すんですけど、マジギレた町民から四六時中「バーニーさんはわるくない」「あんなババア死んでよかった」と言われ続けてもうこの町で公平な裁判できない!とばかりに離れた町の裁判所で裁くことに。ふつうに殺人犯として刑に服すことにはなるんだが、バーニーさんを無罪放免で野放しにしたところで危険でもなんでもない(むしろ地域の安定のためになる)と思いますけどね。状況が特殊すぎたし。猫も杓子も殺しちゃう凶悪犯と同等にみなすのもどうかと思うけど。とはいうものの、バーニーさんは男が好きなほうの性癖持ちくさいので、そういう意味ではむさ苦しい男の園にいるのは苦痛ではないんじゃないのカナーとも思う。なにげにム所で人気者らしいし、料理教室みたいのやって活躍してるらしいし。なんか結果的に良かったんじゃないすかね。よくわからんけど。主人公のバーニーはジャックブラックが演じてるんだが、常に俺様に歌わせろ的な目立ちたがりのおっさんが、他人にまめまめしく奉仕しつづける善人役をにこやかにやってる自体がなんか笑える。あとマコノヒーのテキサスい地方検事がヘンでよかった。いつもは大雑把くさいのに、再選のためにバーニーさん挙げるのにクソ真面目になっちゃって。動物の剥製がいっぱい並んだ部屋でそんなふうだからなんかリンチのド田舎コメディくさいニオイが漂っててツボった。マコノヒーは歪んだ性癖もっていながらどっか間が抜けてるふうなヘンな役がすごく似合うなあ。それとちょうど監督さんの誕生日にこの作品をみたっぽい。すげー面白かったです>監督さん江。小デブのオヤジが動き回る映画はおもしろい。そうそう、あと書き忘れたけど、世話をしてまわるってのは「(世話をしたところを)自分の支配下に置きたい」という欲求が少なからずあるんじゃないかなと思う。相手を尊重した態度でいるかぎりは問題ないし、求められているのなら尚いいと思うが、自分のちからの影響力をみて満足する、ていう欲求に関しては誰しもが無縁ではないはず。多かれ少なかれ誰でもある程度もってるんでは。問題はそれがどう影響してるかであって。他者と関わる、てのはムズい。そういうのと無縁でいられないから。
ペーパーボーイは大手新聞社の記者やってるにーちゃん(マコノヒー)が、冤罪疑惑のある保安官殺害事件の取材のために同僚の黒人記者を連れて実家に帰ってきて、打ち込んでた水泳をやめて腐ってた大学生の弟がその取材を手伝う内に人間の暗部にズブズブ踏み込んでトラウマが植え付けられてしまう話。保安官殺害事件の犯人として死刑確定とされて刑務所に入ってるのがキューザックなんですけども、彼は犯人ではないということで冤罪疑惑調査取材を頼んできたのがパツキンのグラマラス美女(ニコールキッドマン)で、面会室で透明の壁ごしにお互いを目の当たりにした途端にテレフォンセックスじみたオナニー合戦がはじまってしまって、2人はム所に入る前からの深い仲だったんだなあとか思ってたらあの時点でまったくの初対面なのな。冒頭で寝こけちまってパンフ読んでわかったんですけど、キッドマンが殺人犯マニアで、キューザックじゃなくとも他の殺人犯なら誰でもよかったつーアレらしい。いろんな殺人犯に向けてたくさん手紙だしたなかでキューザックとたまたま気が合っちゃって、憧れの芸能人にでも会いにいくようなノリでウキウキ取材をたのみこんでるとゆう。そんでお互いに実像をみたら好みだったかなんかで燃え上がっちゃったんでしょうな。キッドマンもキューザックも好きというよかお互いにヤリてえ感マンマンなんすけど、そんな中でただひとりキッドマンに純粋な思いを寄せる青年―記者マコノヒーの弟がいて、なんか…キッドマンも十分エロいですけど、どういうわけかこの弟さんの裸が映るたんびに妙になまめかしいエロスが漲っていて、あれ…?監督さん、もしかして…?と思ったらやはりアッー方面の方なのだった。わかりやすいなー。なんかね、ホモ監督さんが撮った映画て男の裸がエッロいんだよ。もしくは女がぜんぜんきれいじゃないふうに映ったりする(今作ではちゃんとビッチエロさが充満していますよ)。映画のほうにもどしますけど、殺人犯マニアのキッドマンとしてはキューザックと一刻も早くヤリたくて取材に協力してるわけで、女性経験もろくにない純な大学生の弟さんなんて眼中にないわけですよ。浜辺で寝っころがりながら、ホラあすこにいるギャルに声かけてきなさいよ!て弟くんをけしかけたりして適当にあしらったりからかったりしてやりすごしてるんですけども、いざ弟くんの身が危機にさらされるとたかってきたギャルどもを蹴散らして「さわんなサルども!!このコにションベンかけていいのはアタシだけだよ!!」などと縄張り意識を全開にしだすキッドマン。結果的にキッドマンに放尿されたおかげで弟くんは一命をとりとめるわけですが、それでもまだ弟くんに心を許したわけではなく、やきもきする弟くん。なんか、キューザックと面会室でエアセックスに興じたときのキッドマンは触ると火傷するたぐいの危険なあばずれにみえるんですけども、弟くんをあしらってるときのキッドマンは思いやりがあって肝っ玉の座った、強くて優しいイイ女にみえるんですよね。この時点でキッドマンは弟くんに物足りなさを感じて心をゆるさないでいたんでしょうけども、ム所から出て来たキューザック(冤罪が証明されたんですっけ?)と実際にヤッてみると、キッドマンをモノとしかみなしていないような乱暴なセックスしかしないうえ(思ってたより良くなかったんだと思う)、暮らすところもワニのいる沼地の真ん中なんですよね。ファッションなんかに気を使ってたいであろうキッドマンとしてはそんなとこに暮らすなんてまっぴらゴメンだろうし、全体的にコレジャナイ感にうちのめされたんだろうなあ。思い描いてた殺人犯と、実際の殺人犯との差がありすぎでさ。アメコミヒーローのようにでも思ってたんだろうか。弟くんからの熱烈アプローチを断る際に、アタシのろくでなしの部分と彼は合うんだよ…みたいにさも年齢が上の自分のが自分をよくわかってる、みたいなふうにゆってたくせに、実際にはぜんぜんわかってなかったつーね。キューザックとのヒドい暮らしをするなかで、もう耐えられないとばかりに弟くんからの親の結婚式の招待状を口実に出ていこうとするんですけども、まあ、ろくでなしのキューザックがせっかく手に入れたエロいバービー人形を手放すわけもなく、クライマックスの沼地での陰惨なアレに突入していきます。弟くんのそばにいたときのキッドマンのビッチ可愛い輝きっぷりと、キューザックと沼地の家で暮らしはじめてからの輝きを失った貧乏白人ぷりの落差がすごく巧かったなあ。あの境遇に左右された女のみてくれのちがい描写がすごくリアルだった。あと書くの省いたけどキューザックがム所からでるまでに、アリバイ証明のための情報集めでキッドマンが黒人記者とヤッたんじゃねえか的なところとか、弟くんの兄キである記者のマコノヒーの性癖が無意味に全開にされて凄惨なアレになってしまったりするシーンがあって、なんつーか、登場キャラ全員下半身つかいすぎが原因でヒドいことが畳み掛けてるふうな展開ですよ。仕事期間中に性癖を全開にしたらいかんなと思った。最近おかしいマコノヒーを何度かみかけておトクだかなんだかわからない心持ちです。結末としてはキューザックが件の事件でたとえ冤罪だったとしてもなんも意味ねーとゆう方向です。
サウンド・オブ・ノイズはふつう音をだすためには使われない器具(病院の手術室と中の道具全部とか銀行の受付とか工事現場の作業車とか)をむりやり乗っ取ってその場でゲリラ演奏をしては逃げ去る音テロリストグループがいて、被害者もでたんで警察が捜査にのりだすんですけども、その捜査に音楽一家に生まれついていながら音楽が苦手でしょうがないアマデウスさんがのめりこみはじめて…てスジで、なんだろう、はっきりとは描かれないんですけども、アマデウスさんが耳にする際に、他のヒトたちにとってはうるさい雑音でしかないっぽい音がなぜか無音になってるふうなシーンがけっこうあって、アマデウスさんの耳に無音として届く音、てのはつまりアマデウスさんにとっての心地いい音であるという証拠てことなのかな。あの無音シーンの説明がされてないからよくわからんのですけども。警察が捜査にのりだした音テロリストを率いてるのがひとりの女性で、彼女は音楽学校にいた頃に学校中を水浸しにする音楽実験をやって追い出された経験があって、そのときからおそらくずっと「譜面どうりのお仕着せの音楽」が嫌いでしかたなくて、それらを破壊するために「音をださないもの」の音をだしつづけてるってことなのかな。音をだすためにつくられたわけではない物から出る音、てのはほぼ環境音に近いというか、たとえばスイッチの入った冷蔵庫や空調が出し続ける低音だとか、ボタンをカチリと押したり、あとは火がボッと点いたり、あとは雨粒が落ちる音だとか、そういう音だけを使ってチャカポコするたのしい流れがつくりだされてた。ぜんぶがうまく調和しだすとかぎりなく音楽に近くはなるのだけども、じゃあ心臓の音が音楽かというとそれは音でしかなくて、やはり心地いい音の感覚や組み合わせ方を追求してくと「音楽」になってしまうふうな。音楽になる以前の「音」の状態のままを愛好しているということなのかな。ふしぎなんだが、職業ごとに特有な道具の音だけ出してるだけでも、その職場ならではの雰囲気音楽が立ち上がってくるふうなのな。クライマックスは無茶めな大掛かり電気音楽が繰り広げられてましたけど、ああいうくだりはハリウッドで大掛かりにリメイクしてみても面白いんじゃね?とちょっと思いました。音テロリストのメンバーはボスの女性以外は全員男で、それぞれプロの音楽家として暮らしてるヒトばかりなんですけども、好き勝手やりたい欲求がどうにも抑えきれなくなってしまう破綻者ぞろいでおもしろかった。演奏中に黄色い蝶がとんでるとこをみるや、演奏を中断して蝶のとぶ光景を音で表現せずにいられない「詩人」さんわろた。そうそう、最後の発電所に侵入するシーンのとこでリンチのザ・ビッグ・ドリームのビジュアルに使われてる「雷撃が男性の胸元に刺さりかかってる」図の三角標識が一瞬だけ映ったんだが、あの標識てアチラの発電所でふつうに使われてるもんなのかな?それとも監督さん(パンフみたらバリバリの美術家2人組なのな)がリンチ好きでオマージュがわりにちょっと使ったとか?どっちなんだろう。映画中の手術室と銀行でつくられた音みたいの、ジャンルはなんつーの?ああいう環境音のって面白いすね。
ABC・オブ・デスは世界のいろんなホラー監督さんが割り振られたアルファベットから始まる内容の恐怖短編を競作する企画ですが、さして期待してなかったんだが好みのがけっこうあって結果的に満足した。いちばんスキなのはセルビアン・フィルムの監督さんのかな。さすがサービス精神に満ち満ちててアガる。内容としては爛れた皮膚の男が病院の一室に監禁されてて、彼の爛れた皮膚が生きながらに医者によって切り取られてんですよ。その切り取った皮膚を白濁した汁にひたして肉を削ぎ取ってくと、内側から映画のフィルムの断片がでてくるんですね。それをつなぎあわせるとなんらかの映画になるんだろうか。こういうモノがでてくる男というのは一体なんなのか。男が鎖につながれたまま大衆の面前にひきだされると、興奮した人々が彼に向かって群がってくる。いちいちそれがどうしてなのか説明がされてないんでわからんのですけども、ただ、この生活や痛々しい手術なんかに彼はうんざりしてるらしくて、あるとき脱走をもくろむんですね。爛れた体を引きずりながら。あの最後の操車場の光景とかも何を意味してるのかハッキリとはわからんなー。なんかこう…スパソイェヴィッチ監督の映像テイストはロシアの映画よりも湿り気や陰がだいぶあって克つ見世物感が充満してる点かなり好みです。同じくらいこのみなのがジェイソン・アイズナー監督のペド爺さん話ですかね。あのペド爺役のヒト、たしかすごいベテランの方ですよね。何に出てたんだっけ…?思い出せんがあのペド爺さんのブキミさは今年度中ではトラウマ級なので必見すぎる。ペド爺に立ちふさがる幻影が鹿というところも個人的にツボ。あの鹿のほうも正義ではなさげな気味の悪い雰囲気がイイ。次点はティヤハヤント監督のザメッティ的な闇オナニー対決に強制的に参加させられる男の受難話。仮面かぶった特権階級と思しき連中が高みから見物するなか、それぞれの椅子に縛り付けられた2人の前に全裸の女性がでてくるんですね。んで、その女性で手淫して先に射精したほうが勝ちで、負けた方はその場で串刺しになってしまう。主人公視点側の男がなんとか射精つづけてどんどん勝ち進んでくんですけども、出てくるオナネタ女性が最初はキレイどころが裸なったり寝そべってたりするだけなんですけども、回を追うにつれだんだんヒドいことになってくんですよ。拷問系の。それで抜いたら鬼畜だろっていう方向になってくもんで、ふつうは萎えちまいますわね。で、串刺しになるかというと、もっともったいなくない方向でヒドい目に…的なスジ。あとカーレ・アンドリュース監督の新人類SFみたいのも手がこんでてよかったな。ふつうに1時間20分くらいの映画でみたいですよ。あと全編スローモーでちょっとオサレCM風ではあったけど、マルセル・サーミエント監督の犬と人間が死闘を繰り広げるやつもみごたえがあった。あとふつうのアニメとクレイアニメがあって、どっちも便所ネタでおもしろかったな。みなさん1発で刺さるブキミさを何で表現するか、てのに苦心したんだろな。痛覚に訴えかける描写と俳優さんの個性が過剰に出てるのはだいたい面白かった気がする。あそうそう、あとアヒルちゃんが可愛いかった。
鯨神は刀もった侍風味のヒトがまだ少し居る頃の九州あたり(なのか?)に、いくら挑もうともぜんぜん殺せないヌシ的な巨大クジラを殺すことに地域全体で執念を燃やし続けてる漁村があって、そのクジラに立ち向かってく名乗りをあげたひとりの青年と、流れ者の荒くれである勝新との対立から互いを認め合うまでにいろんな人間模様が絡んでく話。その漁村では過去に何人もの村人が巨大クジラに殺されてるもんで村人全員がクジラを敵視してるんですが、つーか巨大クジラからしたら自分を殺そうとして向かってきたもんを蹴散らすのは至極当然なんですけども、なんだか村人たちは自分らから出向いてって返り討ちされただけにも関わらず一方的に巨大クジラを悪の権化かのように見なしてるんですね。「クジラが村を襲った」とかなら憎悪を募らすのも仕方ないなと思えるけど、自分らから襲いかかっといてそれがうまくいかんかったのを恨む、てのもちょっとお門違いすぎなんじゃないのかねえ。「魚の分際で人間様をブチ殺すなんざ生意気だ」的に思ってのことなのかな?そんな凶暴クジラほっときゃいいじゃんとは村人(特に男たち)はどうしても思えないらしくて、巨大クジラが近場の海を通りかかる時期になるたんびにイキリたってクジラ殺しに湧くんですが、毎年のように立ち向かった者が死んでるのでさすがに怖じ気づいてしまって名乗りをあげる男がいなくなってきてるんすね。それを重くみた村の長(刀さしてる)が、巨大クジラ殺した奴にうちの娘と財産全部くれてやると言い出して、そこに名乗りを上げたのが前述の青年なんですけども、彼はべつに村の長の言ったモノが欲しいんじゃなく前々から個人的に巨大クジラ殺しへの妄執を募らせてのことだったので、たまたま村の長の思惑と彼の思惑が同時に出てきてしまったという。この村の長が提示した条件に含まされてしまった長の娘は頭もよくてプライドの高い娘さんで、自分の心がないがしろなうえ物(=賞品)同然に扱われるなんて我慢がならんわけです。なので村の長がクジラ殺しの景品として娘との婚姻を含ませたものの、娘としてはクジラを殺した者と結婚する気なんざさらさらないし、そもそも名乗りをあげた青年には付き合ってる彼女がちゃんといるので、アンタ長の娘と結婚したくてクジラ殺しするんかと詰め寄ってくる。当の青年としてはいつ何時もクジラを殺すことしか眼中にないふうで、おれはただクジラが殺したいだけだ、長がどう言おうと長の娘とは結婚しない、との一点張り。村の長の提示を聞いてクジラ殺しに名乗りをあげたもうひとりは流れ者の勝新なんですけど、隙あらば暴れたい困ったちゃんで、事あるごとに青年に勝負を挑んでくるものの、クジラ殺しにしか興味のない青年は血気盛んな勝新を静かに受け流す。イラついた勝新はほうぼうでケンカした挙げ句、それでもおさまらないので海岸の岩場に青年の彼女を追い詰めて強姦してしまう。当の青年の暮らす家屋にはある男がやってきており、その男は青年の妹の婚約者なんですけども、彼は医師の勉強をするために都会である長崎へ1年ほど赴くことを妹さんに告げにきたんですね。1年たったら君の妹さんを迎えにくるということで。それを聞いて、兄である青年は逆上するんですよ。この村を愛していないのかと。エ…?と思ったんですが、なんというかこの青年含む村人ほぼ全員が「村を愛する=クジラ殺しに賛同する」が当然の道理と思いこんでいる状態なんですな。「巨大クジラ殺しに執着しつづけるのはおかしい」ていう至極まっとうな論理を主張してるのはこの村では妹さんの婚約者と、それと青年の彼女だけなんですね。婚約者さんは「医師になりたい」という願望があるし、青年の彼女さんは「クジラ殺しが達成されたら自分は結婚できなくなるかもしれない」という危惧を抱いてて、つまるところ「自分の望む生き様」を諦めてまで優先させなくてはならない巨大クジラ殺しってのはいったいなんなんだと考えざるをえない状況に陥ったヒトだけが村全体を包む「常識」のおかしさに気がついてる。巨大クジラ殺しを忘れさえすればこの漁村はたちどころに穏やかになるんですよ。でもどういうわけかできないんですね。なんだかここらへんの強固な思い込みから離れられない雰囲気てのは戦争に突入する前の市民の心理状態と似通ってるのかなと思ったりした。んで妹さんの婚約者さんは結局長崎へ行って医者の勉強して帰ってくるんですが、そのころに青年の彼女さんが草むらで苦しんでいて、勝新に強姦された際に出来た子供を自分ひとりで生もうとしてるですよ。そこへ彼氏である青年が出くわして出産を手伝ってやって、とにかくその子の父親ということにして彼女と結婚する。誰の子かとかはいっさい聞かない青年。この一連のことを偶然みていた(んだっけ?)村の長の娘は、青年の心優しさを知ってひそかに心動かされて、でも青年は結婚してしまったのでどうにもならないから、わざわざ青年に向かって「お前なんか嫌いだ」とか言いにくるんですよね。本当はちょっと惚れちゃったのに。青年と奥さんが生まれた子をあやしているところへ、なんか勝新がやってくるんですね。バツが悪そうにしながら。そうこうしてるうちに巨大クジラが近場にくる時期になって、勝新と青年が殴り合いしたりしたのちに船にのって狩りにでてくことになんですがね。クジラとの格闘シーンで、孕ませた子を黙って引き取ってくれた恩義のために勝新が命がけで青年にいいとこを譲ったりすんですよ。荒くれで腕試しに流れ者やってる勝新の死に様はいさぎいいのだけれども(自らの欲求に忠実に生きた結果だし)、村全体の妄執代表みたいになって死んでく青年てのはなんだか「犠牲者」とか生贄の側面が強くてやりきれないふうなかんじだった。ラストねえ、その青年の妄執が巨大クジラになってくふうな幕切れなんだよね。この映画の原作てのは芥川賞とったらしいですけど、なんかこう…人間の妄執とか極端な感情がいくつも混じり合ってるふうなのはやっぱしなんらかの賞とったりするんだなーと思って納得した。ちなみに原作者さんはポルノ作家らしい。濃厚な関係、てあたりで共通してもんがあるのか。あとなんだかこの漁村の信仰がどうもクリスちゃんらしくて、各家庭は聖母子像の絵を拝んでたり、お墓に十字架がついてたりした。劇中に映ってた村長さんちの床の間に「○○上音天」「○○女」みたいに毛筆で書かれてる掛軸があったんで検索してみたんだが(ちなみにこれで検索するとこういうのがやたら出るんで一瞬オウムの造語なのかと思った)、キリシタン向けの天地創造話でそのテの表現があるんでそのたぐいだったんだろうか。ところで鯨神みたあとに実家内でチラシに書いてある俳優名読んでたら実母が「大映の映画ね。」て突然言い出して「東劇は外国の映画をやってて、築地の方に向かって右手に大映、向かい側の左にセントラルがあったの。松竹の映画だったかな。」「姿三四郎やってた人の名前がでてこない。本郷功次郎に似てるんだけど、名前がでてこない。たつのひろし(?)に似てる。パッチワークやってる奥さん知ってる?御殿場に住んでたんだけど東京にきたみたい。娘さんがいてガンで死んじゃったのよ。」などと突然クチばしるので、なんでそんなくわしいの?映画みまくってたの?て聞いたら、もっぱら映画の看板みてたら覚えちゃったとのことで。本編はみてないけど看板でそういうの叩き込まれたらしい。当時の看板て情報量がすごかったんすね。

レオニは手作り感覚がすごく強いんだなーと原画群みて思った。レオニのねずみの灰色の胴体や耳の形に切り抜いた紙が筆箱大の編みカゴの中にいれてあって、それを取り出して自由に組み合わせて物語をつくってたらしい。あの切り抜きの入ったカゴ萌えた。現実に子供のころからレオニは箱庭をもってて、そんなかで育ってく植物や生き物をみてるのがスキだったそうで、そこらへんが絵本作品にまんま出てるんすな。絵本の絵はベタ塗りのもあるんだけど、千代紙だとかマーブル紙なんかの模様をまんま地面や木々の模様、動物たちの体毛なんかに見立てて貼付けてあるコラージュ作品がアガるよなー。あれはなんなんだろう。身近にある生活用品が獣や自然現象の質感になってしまう変身譚じみた娯楽感がアガる要因なんだろうか。レオニのコラージュ絵本ではこれがなんかスキなんだよなー。この絵本は主人公のネズミが恥ずかしさと悔しさをこじらせるあまりに詐欺師になってしまう話で、ビアトリクスポターのカルアシチミーとかジンジャーとピクルズやじゃないけど、ちょっと犯罪とか暴力のニオイがする絵本てのがどういうわけかあってさ。子供の時分にそのテのを目の当たりにするたんびに「どうしてこれ絵本にする必要が…?」と思いながらもどういうわけか惹かれてもいて、今になってよくよく考えるとやっぱし優れた作家さんてのは「この世には危ない世界がある」ということと、それは気をつけなきゃならないのと同時にすごくヘンで面白いということを何歳であろうときちんと知っておくべきって思ってた可能性が高いんじゃないかと思う。シオドアに関しては「犯罪者と呼ばれる者はどのように生まれるか」がものすごい端的に描いてあって震える。レオニの絵本にはあんましそういうのはなくて、どちらかというとポターの絵本に顕著なのだけども、悪者くさい存在とどう付き合うべきか、みたいのが説教くさくなく、あくまで娯楽として描写されてる点がすごいんだよな。たのしんでるうちにしぜんと理解しちゃえるから。大人じゃなく子供がだよ。余談だけどポターの絵本は「奇妙な隣人」について描いてる点もかなりすごいと思う。そこらへんはこれに顕著。みんな仲良くしましょうなんてことはまったく描かれておらず、ニガテなら適度に距離をとるとよいのでは、という至極あたりまえの真実がサラッと描かれています。そういえばアレキサンダのスジは今あらためて考えると「愛されていないネズミ」が「愛されているネズミ」をみて、自分には[人間から愛されてないので]価値がないと思いこんでいるのだけども、気まぐれな人間に愛好されていることは素晴らしいことでもなんでもなく、自分の意思でどこにでも自由に行ける自分の体こそが素晴らしいのだと気づく話なんだね。自分が憧れてた「人間からの愛」てのが実は憧れるようなシロモノではなかった、ていう。これはちょっとSFの部類に入るのかしら。機械の体がらみだし。レオニの作風て描く側としては縛り(一部地域でしかわからないような固有形態は使わない)が相当多いはずなんだけど、地球上ならばどこにでも見受けられるモノ(動植物)だけしか描かれてないので、受け入れられるであろう範囲が異常に広いんだよな。その作風で自分の正体をみつけにいくとか他者との邂逅だの仮面の祝祭と狂気なんかを主題にしてるあたり、なんか哲学とか宗教ちっくな…?とか思ってたら「空海に捧ぐ」ていう仏教の積んだ石くさい絵があったりした。レオニはなんだか石ころがスキだったらしくて、けっこうそういう絵があったよ。小石がぎっちりしてる絵はちょっと黒坂さんテイストでもあった。平行植物もまるっこいブツから上と下にニョキニョキなんか生えてるのが多かったな。まるっこいのが転がってたり浮かんでたり、あるときには細長いナニかがまるっこいのを突き破って伸び始めてるのとか。まるっこいモノとそこからなんか突き出てるふうな造形がスキだったのかもしらん。ちなみに上記画像はここのモノです。
偽りの人生は子供がニガテなのに小児科医やりつつ、子供ほしがる奥さんとの結婚生活にも倦みきってるヴィゴモーテンセンが、自分と激似の兄(弟だっけ)を殺して彼になりかわって別人生を歩もうとするも、兄が足つっこんでた犯罪仲間に正体を見抜かれて…的な筋。人生がどうこうつーより単に女子大生くらいのコとヤリたいだけにしかみえなかった気も。ぜんたい成り代わったほうも成り代わられたほうも同じくらいろくでなし感が強いふうな。つーか…なんか、ヴィゴの夢想するナルシスティック死に様を見せつけられただけだったふうな気がしなくもない。
メラニー・プーレンは女性の死に様をドラマチックで色鮮やかに撮り上げた創作写真の展で、どれも映画の1場面ぽい劇的さが充満してて面白かった。吊り人シリーズの納屋のすみっこで吊られてるやつがノワール臭がしてこのみ。
ゲンズブールはなんか夫人に誘われたんでみたんだが、なんだかマニア向けの特典映像の詰め合わせぽいやつだったな。ドキュメンタリーていうには1本筋の通ったもんがなくてとっちたかったネタを寄せ集めた感が強かった。最後のほうで童顔の女性歌手とゲンズブールがデュエットしてる映像があって、ゲンズブールがキャバ嬢にセクハラしてるおっさんにしかみえなかった。