慰安婦さんの逞しさに敬意を抱く人間は差別者なんだろうか

『サック使用量と慰安婦について、実績数値が判明しているのは、一九四二年の上海地区(陸軍)である(表12-12参照)。一四〇人の慰安婦が一か月約四・三万個を使用しているので、一人一日当りの接客数は一〇人(兵は二か月に一個交付)となる。慰安所は「増加の必要なし」とあるので、この程度が妥当な負担と考えられていたのだろう。
 最後に平凡だが無難という意味で、全兵力に対する慰安婦の「適性比率」から推算するAの手法を検討してみる。
(中略)二〇万人の慰安婦が毎日二〇人に接客すると、全軍で四〇〇万回、五万人としても一〇〇万回となり、全兵力三〇〇万人が戦争もせずに毎日一・三回か、三日に一回の割で慰安所通いをせねばならぬバカバカしい話になってしまう。慰安婦数かサービス頻度をうんと減らさないと、兵士の余暇と収入に見合う計算は成り立たない。
 私は母数を三〇〇万人とするのは問題があると考える。この時点からあと南方は全軍敗退期に入っていて、その数か月前に続々と満州、中国、内地から送りこまれた増援部隊は着くとすぐに決戦場へ投入され、慰安所へ通う余裕はなかった。したがって母数を二五〇万人としておく。問題のカギは「適性比率」と「実際比率」であろう。』(p.404)
『他の職種や平時の娼婦稼業と比べて、何よりも戦場慰安婦の有利な条件は、高水準の収入だった。
 料金自体もやや高かったが、経営者との配分比率(玉割)が良かったことも影響している。表12-8が示すように、内地では戦争中に吉原の玉割が二五%から四〇%へふえた頃、戦地では五〇%が普通で、末期の沖縄のように七〇%まで上昇したところもあった。
 ミチナの丸山連隊長が慰安婦の不評を買ったのは、彼女たちの取り分を六〇%から五〇%へ引きさげたからだ、と米軍報告書は評している。
 これを収入金額で見ると、内地の五倍以上、平壌遊郭の女たちに比べると一〇倍以上を稼ぎ出していたことが知れる。前借金を早ければ数か月で返済し、あとは貯金や家族送金にまわすことができた。
 文玉珠の場合は売れっ子だっただけに、三年足らずで二万五戦円を貯金し、うち五千円を家族へ送金している。今なら一億円前後の大金である。
 送金は軍事郵便を利用する例が多かったが、内地へ飛ぶパイロットに頼む例もあったようだ。ラバウルの海軍爆撃隊にいた市川靖人飛行兵曹は、遊んだ相手の朝鮮人慰安婦に頼まれ、木更津から朝鮮の両親に二百円の現金を送ってやったが、山梨県の田舎なら小さな家が一軒建てられるなあと思ったそうである。
 ベテランの日本人慰安婦も負けていない。
 吉原で十年暮らした高安やえは、「昭和十七年秋、抱え主から戦地へ行ってみないかと言われすぐに応じた。内地では若い男は減っていたし、戦地に行けば今の一〇倍は稼げるし……稼いだら内地へ帰って商売を始めようと考えてラバウルへ……一人五分と限り、一晩に二〇〇円や三〇〇円稼ぐのはわけがなかった」と回想しているから、ビルマの文玉珠とほぼ同列だろう。
 日本軍は彼女たちが早く借金を返して帰国することには、むしろ好意的だったと思われる。
 一九四三年二月、漢口兵站司令部の慰安係長として着任した山田清吉少尉は、慰安婦全員を集め、「贅沢や無駄遣いはやめて、一日も早く借金を返して内地にもどり、幸せな家庭生活に入れるよう」と訓示したが、彼自身は「一年半ぐらいで借金を返し、それ以上働けば少しは貯金もできて」と判断していたようだ。
 山田の同僚だった長沢健一軍医のメガネにかなったのは、朝鮮の親元へ送金して田畑を買い戻した春子とか、「三万円を貯金し、五蔓延になれば京城へ帰って小料理屋を―」と励んでいた慶子という女で、聞き知った兵站司令官が「感心な女だ。表彰しよう」と言い出したそうである。
 その長沢が認識を変えたのは一九四〇年、第四師団の通過部隊が積慶里の慰安所へ殺到したときであった。過重労働で性器をはらした女が続出したので休業を命じたところ、喜ぶかと思えばさにあらず、ふだんはヒマな所へ盆と正月が一度に来たような稼ぎのチャンスなのに、と彼女たちから抗議されたという
 女性たちが演芸会や運動会にも参加した積慶里は、おそらく条件に恵まれた場所だったにちがいないが、ほど遠からぬ湖北省当陽という辺地ですごした一下仕官は、「花子という娘が年期あけで祝いをするとかで、招待されたことがあった」と回想している。送別会をしてもらったわけだ。
 兵士たちと慰安婦の心情的交流もないわけではなく、極端な事例をひいて彼女たちに「性奴隷」のレッテルを貼るのは失礼と言うべきだろう
 もちろん、慰安婦たちに乱暴を働らく将校や兵士が時にいて手を焼いていた事実は否定できない。だが雇い主にとっては大金をつぎこんだ大事な営業財産であり、軍にとっても欠かせないサービス集団だから度を超した虐待は例外的だったと思われる。
 女たちも泣き寝入りしてはいない。朝鮮人慰安婦が「天皇陛下同じよ」の殺し文句を使うと、乱暴な兵もシュンとなったと伊藤桂一は書いているが、文玉珠は「その軍人の股ぐらを足で蹴っとばして拒否したり、それでも言うことを聞かなければ憲兵に申告し」と体験を語っている。
(中略)
 兵士たちの生活条件と比較してみる必要もあろう。「大東亜戦争陸軍給与令」(昭18・7・28勅令六二五号)によると、二等兵の月給は七円五十銭、軍曹が二三〜三〇円、戦地手当を入れても約倍額にすぎず、慰安婦たちの一〇分の一ないし一〇〇分の一である。中将の年俸でも五八〇〇円だから、文玉珠クラスになると、在ビルマ日本軍最高指揮官より多く稼いでいたことになる。
 戦地に勤務した女性は、慰安婦だけではなかった。看護婦、タイピスト、日本語教員などの職種があったが、十八歳で見習看護婦として山西省陸軍病院に勤務した木内幸子は、三年働らいて約千円の貯金を作り、故郷に小さな家を買ったと回想している。
 また傷兵保護院付属看護婦養成所を出て、海南島海軍病院で働らいた江川キクは、九〇円の月収だったが、定期検診に来る慰安婦は二五〇円の収入があって、仲良くなると缶詰めや菓子をくれたと記す。二人とも内地で働らくよりは好遇だが、慰安婦に比べて格段に低いのは、当今のOLとソープランド嬢の格差に似ている。
 同じ戦場勤務でも、女性集団の相互関係は微妙なものがあった。前記の江川キクは、仲間と「あの人たち、あんなきれいな着物を着て楽をして暮らせていいわね」とうらやましがったら、軍医から「お前たち看護婦が無事でいられるのは、こういう人たちのおかげなんだ。それを忘れるな」とたしなめられたという。
 大阪製麻会社のタイピストとして四四年秋ジャワの支店へ向う途中の磯崎隆子は、乗船が米潜水艦に撃沈され、着のみ着のままでマニラへたどりつくと、軍の副官から「ごくつぶしの女ども」とどなられたあと、小声で「慰安婦になるなら面倒を見てやる」とささやかれた。
(中略)
 廃業の自由や外出の自由について言えば、看護婦も一般兵士も同じように制限されていた。この点は、現在のサラリーマンも変らない。年齢では少年飛行兵、海軍年少兵など十五歳前後、従軍看護婦は十七歳でも戦場へ出動していた。芸妓の仕込っ子は九歳前後から訓練され、小学校卒(十二歳)と同時に客を取らされるのが内地の慣例だったが、男児松下幸之助が九歳で丁稚奉公へ出たように、似たような低年齢で就労していた。
 「十五でねえやは嫁に行き……」と赤トンボの歌にあるように、結婚自体が早かった。現代の基準で軽々に論じるべきことではあるまい。
 かれこれ総合して「従軍慰安婦の方が民間より待遇がよかった」(倉橋正直)と判定する人もいるが、「兵隊も女も、どちらもかわいそうだったというより外ない」(伊藤桂一)のかもしれない。』(p.391-395)
C井上源吉憲兵曹長(中支憲兵隊)の証言―
  一九四四年六月、漢口へ転勤、慰安所街の積慶里で、以前に南昌で旅館をやっていた旧知の安某という朝鮮人経営者から聞いた内幕話。
 「この店をやっていた私の友人が帰郷するので、二年前に働らいていた女たちを居抜きの形で譲り受けた。女たちの稼ぎがいいので雇入れたとき、親たちに払った三百―五百円の前借金も一、二年で完済して、貯金が貯まると在留邦人と結婚したり、帰国してしまうので女の後釜を補充するのが最大の悩みの種です。
 そこで一年に一、二度は故郷へ女を見つけに帰るのが大仕事です。私の場合は例の友人が集めてくれるのでよいが、よい連絡先を持たぬ人は悪どい手を打っているらしい。軍命と称したり部隊名をかたったりする女衒が暗躍しているようです」
(中略)
 E総山孝雄少尉(近衛師団)のシンガポールでの体験―
  一九四二年、軍司令部の後方係りが、早速住民の間に慰安婦を募集した。すると、今まで英軍を相手にしていた女性が次々と応募し、あっという間に予定数を越えて係員を驚かせた……トラックで慰安所へ輸送される時にも、行き交う日本兵に車上から華やかに手を振って愛嬌を振りまいていた。
 F梁澄子が挺対協の日本大使館デモに参加している元慰安婦の金ハルモニから聞いた身の上話―
  一九三七年、十七歳の時に、金儲けができるという朝鮮人募集人の言葉に誘われて故郷の村を出た。どんな仕事をするかは行ってみればわかる、働いて返したあと、たんまり儲かる、そう言うので親の反対も押し切っていった。
  どんなとこでもここよりましだと思って朝鮮人が経営する上海の慰安所へ行った……日本人のイズミ少尉に助けられ、一九四〇年に帰郷した。日本人を憎いとは思わない。手先になった韓国人が憎いので、デモには来たが、韓国政府に対して怒ってやったつもり。』(p.382-383)
『一見すると、中央部がお膳立てして配分したかに思えるが、実際には出先艦隊の要請と現地進出を狙う業者との仲介役を果したというものらしい。
 たとえば四二年末、マニラへ進出した台南の女将の身の上話として「マニラが落ちると直ぐに、台北の海軍武官府にお百度をふんで、現地での営業希望をお願いし……許可が下り……私の家に居た妓を中心に十三名の芸者を集め、それに板前、髪結、大工、左官まで全員三十名で……海軍の特務艇に便乗……サンマルセリノのフリーメーソンのお寺を割り当てられ、改装して料亭にした。海軍関係は士官以上のが私共一軒、下士官兵さんのが外に四、五軒ありました」という話を紹介している。』(p.134)
『平時から米海軍の大根拠地だったハワイでは、水平たちを相手にした「組織的売春」(organized prostitution)が確立していた。売春宿は登録され、医師の定期検診もあった。
(中略)
 前に登場したカール・ヨネダは四五年春には雲南省昆明に移っていたが、「街頭では美女がGI(米兵)に媚を送っている」のを見た。軍医は兵士たちに「一〇〇%病毒を持つ」中国女性の危険を説き、「絶対にさわるな」と戒めていたそうだが、タイム記者のセオドア・ホワイトも、その三年前に昆明駐屯の米義勇空軍(フライング・タイガース)が「昆明の有名な売春宿のおかげ(性病)で、時に空軍の半数が飛べなかった」と書いている。
 手を焼いたシェンノート司令官は米軍機をインドへ飛ばし、病毒を持たぬ十二人のインド人売春婦を運んできた。ところが、ピューリタンのスチルウエル総司令官が激怒して閉鎖命令を出したので、それいらい両人の関係は最悪になったと、ホワイトは回顧する。』(p.163-164)
『高宮は京大を卒業して拓務省官吏に就職した直後に召集され、主計将校として四三年初めフィリピンへ赴任した。この頃の占領地風景を、彼は「安きに慣れた派遣軍は、一体何をしていたか。軍司令官黒田中将は、ハンチングスタイルで部隊を巡視し、将兵は紅灯の巷で女とたわむれ、平和の村で恋をささやき、酒色に溺れて―」と記す。高宮自身もマニラの慰安所に友人から借金してまで通いつめたあとセブ島に赴任、ゲリラ討伐戦に明け暮れたが、合間に慰安婦集めをやらされた。「進んで応募する者もいたが、かたぎの女性を間違えて連行し、後で返すという失敗」もあったという。
 四四年三月、高宮少尉の独立歩兵大隊は北ルソンのツゲガラオへ移駐した。宣撫工作の社交パーティを開いて若い男女と交流するかたわら、農婦や野菜納入業者の美少女と関係、後者とは「婚約」した。ゲリラは、この程度の「対日協力派」も容赦せず、後に彼女は輪姦のあと殺されている。
 そこから浮かびあがってくるのは、社交を通じて日本軍幹部に「協力」しつつ、巧みに子女を自衛した上層階級、ダンスホール慰安所での商取引の世界、日本兵の発作的なレイプにさらされていたゲリラないし下層階級の女性たちという、今も残るフィリピンの多重的構造である。
(中略)
 軍法会議にかけられたのは、おそらく氷山の一角で、実際のレイプははるかに多かったと思われるが、ゲリラが横行するなかで民心が離反しては元も子もないから、軍幹部は頭を悩ませた。そのためにも、慰安所の開設は不可欠と考えられたようである。
 奈良兵団に属し、北部ルソンのバヨンボン地区に駐屯した下津勇中尉は、四二年五月頃札付きの部下兵士が酔っぱらって民家に侵入、妻女をレイプ(未遂)した事件で大隊長が激怒、町長を呼んで陳謝、償金を払い、本人を思営倉一〇日に処したと回想する。
 そのあと中尉は大隊長から慰安所の開設を命じられ、各地をまわって町長たちに募集を依頼すると、「生活に困っていたその道の経験ある婦女子がたちまちわんさと応募」してきたので、面接して「若くて健康な美人五十数名を採用」した。どうやら性サービスを志願するフィリピン人女性は不足しなかったようだ。』(p.196-197)
『一連の証言から観察すると、慰安婦になった動機は各人各様、千差万別としか言いようがない。「だまし」と言っても、女たちでなく業者自身も乗せられたらしいケースが混るとなれば、詮索は不毛の作業になりそうだ。
 おそらく、第六章で紹介したビルマやフィリピンで米軍捕虜となった慰安婦たちのほぼ全員がそうだったように、大多数を占めるのは、前借金の名目で親に売られた娘だったかと思われるが、それを突きとめるのは至難だろう。在日朝鮮人柳美里は、次のように書く。
 
  どのような方法で朝鮮人慰安婦が戦地に赴いたか想像するに難くない。貧しい一家に年頃の娘がいる……そこへ女衒(業者)が現れて言葉巧みに身売りをすすめる。なかには軍の威厳を笠に強要めいた言動をする女衒もいる……両親に売られ、泣く泣く慰安婦になった女性もいれば、父親が自分を売ったと言えず、軍の強制だと囁き、そう思い込んでしまった女性もいるだろう……様々な慰安婦のなかに強制連行されたと思い込むに足る状況証拠があったもだろう……
 
 やや意外にも思えるが、新聞広告などで公募していた事例もいくつか見つかっている(表12-7参照)。』(p.386)
『分遣隊の旧部下(木庭喬曹長)にも確かめたが、部隊の兵舎は、憲兵分遣隊と目と鼻の近くにあり、そこでこの種の非行をやれるものか疑問だ。
 しかも兵舎には入口に日イ双方の衛兵が立っているので、ひそかに女をつれこんだり、長期にわたり監禁するのは不可能である。いずれのケースも、銃剣でおどして兵舎へ拉致したと同じパターンなのは不自然で、誰かの入れ知慧ではないか。また倉本部隊には馬はいなかった。
 住民は性観念がきわめてルーズで、インドネシア人、華僑、混血(ユーラシアン)の売春婦が至るところにいた。ジャカルタの川べりには、立ちんぼの女たちが並んで客引きをしていた。事を荒立てなくても、いつ、どこででも用は足せたはず。
 レイプをやった曹長を女が戦後オランダ軍に訴えて刑を受けた例もあり、このように悪質な事件が続発していたら、戦犯にされたろうし、その前に現地人の兵補が黙ってはいまい。』(p.211)
『面長の全員、駐在所巡査の大多数は朝鮮人だったから、極端な「強制連行には歯止めがかかったはずである。当時の総督府官吏たちは、慰安婦の調達にこのルートを使おうとしても、面長と巡査が拒否したろう、強行したら暴動が起きたろう、戦後早々から対日非難が沸騰して報復を受けただろう、と語っている。
(中略)
平時と同じ身売り方式で女性集めが可能なら、植民地統治が崩壊しかねないリスクをはらむ「強制連行」に官憲が乗り出すはずはないと考えられる。
 それを裏書きするのは、四四年夏テニアン島で米軍の捕虜になったリー・パクドら三人の朝鮮人による陳述である。「面長は自由選挙でえらばれた指導力のある実力派の老人」とか「労務動員を拒否すると投獄される」と語ったあと、朝鮮人慰安婦について次のように述べている。
 
  太平洋の戦場で会った朝鮮人慰安婦(prostitutes)は、すべて志願者(volunteer)か、両親に売られた者ばかりである。もし女性たちを強制動員(direct conscription)すれば、老若を問わず朝鮮人は憤怒して立ちあがり、どんな報復を受けようと日本人を殺すだろう。
 
 尋問官が「今まで尋問した百人ばかりの朝鮮人捕虜と同じく、反日感情が強い」と評している朝鮮人軍属の証言だけに、何よりも説得力を持つのではあるまいか。』(p.380)
『削った箇所は「一九二〇年十二月二十八日生れ」と「斬首された仲間の肉を食べさせられた」話である。私はすでに九六年に、慰安婦の身の上話のなかでもっともばかばかしいと指摘しておいたが、さすがのク女史も一九三三年の出来事では第二次大戦のはるか前になるので、今回は生年を削ったのかもしれない。人肉食の話もやはり信じる人がなく、逆効果と判断して落したものか。
 またチョンは韓国ではなく北朝鮮の女性で、ヒアリングしたのはク女史自身ではなく助手なのに、原注で「韓国訪問時」と記述したのは、やはり意図的としか考えられない。』(p.326)
『一九六五年の日韓条約で植民地時代の請求権問題は「完全かつ最終的に解決」(第二条1)とした条項を意識してか、早くから政府レベルでの補償交渉は無理と判断していたようである。そのせいか、名乗り出た元慰安婦の来歴調査はおざなりですませた。それをやれば、イモヅル式に当時の朝鮮人官公吏、警察官、業者、ブローカーの責任問題に波及するのを恐れたからでもある。
 むしろ韓国政府は、盧泰愚前大統領が来日時に浅利慶太との対談で「日本の言論機関の方がこの問題を提起し、我が国の国民の反日感情を焚きつけ、国民を憤激させてしまいました」とこぼしたように、日本のマスコミやNGOが、挺対協などと結んで大問題に仕立てたのを迷惑がっていたようだ。』(p.302)
『九八年九月二日、私は吉田へ電話で「吉田の著書は小説だった」という声明を出したらどうか、とすすめたが、「人権屋に利用された私が悪かった」とは述べたものの、「私にもプライドはあるし、八十五歳にもなって今さら……このままにしておきましょう」との返事だった。
 表7-1でわかるように、一九九二年八月の読売報道以後、マスコミの吉田報道は漸減し、九三年以降はほとんど見られなくなっている。
 やっと、吉田の巧妙な詐話に気づいたと見てよいのだろうが、韓国では、挺対協のような支援団体はもとより、政府も九二年七月三十一日の「日帝下軍隊慰安婦実態調査中間報告書」で、吉田の著書を、「慰安婦強制連行」の証拠として収録し、その後も修正していない。
 それでも、韓国側は積極的に吉田証言を取りあげるのはためらうようになっていたが、九六年春、吉田は国連のクマラスワミ報告書で久々に息を吹き返す。それも前年夏にク女史が来日したさい、私から吉田は「職業的詐話師(professional liar)と念押ししておいたのに、彼女はそれには触れず、吉田著の英訳(NGOの誰かが部分訳したものか)を引用して、一千人の慰安婦を狩りたてた彼の「体験」を紹介したのである。』(p.246)
『一九八九年に吉田著が韓国語訳(清渓研究所現代史研究室)されたとき、「済州新聞」の許栄善記者が書評を兼ねた紹介記事を書いていたのである。一九八九年八月十四日付の記事の邦訳は次の通りだ。
 
  解放四四周年を迎え、日帝時代に済州島の女性を慰安婦として二〇五名を徴用していたとの記録が刊行され、大きな衝撃を与えている。」しかし裏付けの証言がなく、波紋を投げている。(ついで吉田著の概要を紹介)
  しかしこの本に記述されている城山浦の貝ボタン工場で一五〜一六人を強制徴発したり、法環里などあちこちの村で行われた慰安婦狩りの話を、裏づけ証言する人はほとんどいない。
  島民たちは「でたらめだ」と一蹴し、この著述の信憑性に対して強く疑問を投げかけている。城山浦の住民のチョン・オクタン(八五歳の女性)は「二五〇余の家しかないこの村で、一五人も徴用したとすれば大事件であるが、当時はそんな事実はなかった」と語った。
  郷土史家の金奉玉は「一九八三年に日本語版が出てから、何年かの間追跡調査した結果、事実でないことを発見した。この本は日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物と思われる」と憤慨している。
 
 いわば吉田説の全面否定に近いが、その日の夕方には、今は「済民新聞」の文化部長に移っている許栄善女史に会うことができた。敏腕記者という感じの彼女から「何が目的でこんな作り話を書くんでしょうか」と聞かれ、答に窮した記憶は今も鮮やかである。』(p.232-233)
『彼女たちの身の上話に共通しているのは、ほぼ全例が親の身売りから苦界へ身を沈めていることである。貧家の生れが多いが、家業の破綻とか、不良少女でぐれたりのケースもあり、一様ではない。
 軍専用の慰安婦(多くは酌婦の名目で)へ転じた動機は、石川たま子が「みんな借金はよ返したいばかりでね」と語っているように、高収入が魅力だったようだ。「民間で四分(の分前)が慰安所だと五分」(石川)とか「徴用がくるという噂あり抱主から声をかけられ、今の一〇倍稼げるし、帰って商売を」(高安やえ)とあるが、期待どおりだったとの証言もある。
 「南洋の島で二年働らけば貯金も、結婚も」と父親の反対を押し切りトラック島の海軍士官用慰安所へ出かけた菊丸は、二年足らずで四千円の借金を皆済したし、同輩は一万円の貯金を作った。
 敗戦ですべてはゼロになってしまったのだが、戦後の生活はいろいろである。
 彼女たちには中年にさしかかる頃から、結婚、身請け、楼主の女房、小料理屋経営、やりてババ、女中や仲居といった進路があったが、九例ともほぼ標準どおりといえよう。
(中略)
彼女(柴岡トシオさん)の楽天的な心情に触れ、意外な気もしたが、八十歳まで病気ひとつしたことがない頑丈で健康な体が理由の一端かもしれない。
 テレビもよく見ているというので、「なぜ日本人慰安婦は名乗り出ないのでしょうね」と聞いてみたら、「二百万円じゃだめでしょう。二千万円ならいるかもしれんが」と彼女は笑いにまぎらせた。』(p.224、228)
朝日新聞慰安婦煽りはじめたくさい(まとめ頁ドゾ)ので手もとにあった秦郁彦先生の本をよみなおしてみた。つーわけで上記『』内はすべて慰安婦と戦場の性からの抜粋です。結論として郷土史家の金奉玉さんのおっしゃる「日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物」に韓国や中国の方々が追従してきて現状に至る、とみなしていいんだろうか。それと上記抜粋箇所から察するに、朝鮮の慰安婦の方々は当時はたっぷり稼がせてもらった兵隊さん相手に送別会までやって爽やかに応対してたのに、数十年経ったところでもうおぼえてる奴もいねえだろうと「蛮行への謝罪」名目で日本人からもう一度ふんだくる腹なんですね。なにしろ慰安婦を「性奴隷」という観点でしか見ない、て姿勢自体が「戦争という出来事への理解から遠ざからせる」ことであるってのが秦先生の著作を読んでものすごくよくわかった。ガッツリ稼ぐ目的でアグレッシヴに戦地に来てた女のヒトたちに対して、当人たちの意思を尊重したうえで気づかいも忘れなかった山田清吉少尉みたいなヒトの存在をも踏みにじることになるよね。現地人の怒りをむやみと買ったら制圧しづらくなるってのはあたりまえのことで、だからこそ強姦や暴力行為に及んだ兵はちゃんと軍法会議にかけられたりして罰されてるんすよね。現地のヒトだって蛮行に及ばれたら怒らないわけないのに、それが「被害者」語りになるとまったく考慮されなくなるのもブキミ。そもそもさー、一部の犯罪者だけを指してさも全体がそうであったかのように言う、てのは戦争に関わった人すべてへの侮辱にしか思えないんですけど。朝日新聞て読者欄なんかで戦争体験者の投書をよく載せてるけど、そういった人も侮辱してることになるってのがわからんのだろうか。あの投書してるヒトが仮に慰安所を利用してたなら、朝日はその人を極悪人として糾弾するんだろうか。語りつぐ戦争?だったら犯罪に走ったバカ兵士のことだけでなく戦場で紳士だったヒトや荒稼ぎした女性についても語られるべきなんじゃないんですか。なぜ偏った理解のまま定着さそうとするような記事を掲載するんだろう。「被害者」てひとくくりにして済ましたら詳細な事実がなんにもわからなくなってしまう。意図的に被害者くくりにしがちな件のいちばん根深くなってる箇所として、リンクした秦さん本の第十章にアジア女性基金のすったもんだについて書いてある(朝日新聞の煽り記事のヒドさについてはp.240あたりにも出てくる)んだが、女性基金からの償い金をもらった人とそうでない人との間で諍いやイジメがあったりして(p.305)、なんか思想団体の名誉とかお金が絡んでドロッドロになってる感。ところで慰安婦の方で性病体験を語る方がたまにいらっしゃるんですが、本当に性病だったなら兵士にも伝染したろうし、そうなら戦うどころじゃなかっただろうなあ。そのあたりどうなってるんだろう。悪化もせずにスルッと治ってよかったっすね。なにしろ綿密に調べれば調べるほどに「慰安所」ひとつでものすごいバラエティに富んだ事情がでてくるんで、戦争を直視しろというのなら日本政府はいまこそ慰安婦について綿密に調査すべき…とも思うけど、ガッチリ調査したのを公表すると当時のこと(慰安所が強制名目で糾弾されるんなら、ここぞとばかりに参入してきた現地の女衒さんとか楼主さんも人身売買の名目で糾弾しないとおかしいことになるんじゃないのカナー)を知られたくない当事者さんがかわいそうでもあるし、とりあえず日本政府がそこらへんを正面きってほじくりかえさないのは彼らに対する思いやりも少なからずあってのことなんじゃないのかなーとも思う。ちなみに13日の朝日新聞2面の記事にジャーナリストのエカ・ヒンドラティさんが制作に関わったという元慰安婦の生涯をたどる映画が今夏ほぼできたと書いてありますが、当時のおかねのやりとり調査(慰安婦さんたちが帰国後になにをしたかを追跡すれば何がどうなったかよおくわかると思います)と上記事実をふまえたうえでのドキュメンタリー映画なら濃密かつ素晴らしく面白いのができあがるにちがいないので、ものすごい期待しながら待っています。ただし「性奴隷」観点でしか慰安婦をみなさない偏った内容のドキュメンタリーなどできようものなら真の戦争理解を阻む作り手とみなします。その点からすると韓国の方から催促されるがままに被害者としての慰安婦像の設立を容認してるアメリカンは戦争への正しい理解から遠ざからせる行為に加担してるも同然ですね。結局アメリカは事実を知ることよりも場当たり的なヒステリーにのっかるほうが大事という意思表示をしてるわけだ。さすが戦勝国はどんなウソついても正義の味方(笑)なわけですね。
結論じゃないけど、抜粋しててやっぱアジアはおもしれーなーとか思ってしまった。その山師くさいあつかましさと混沌ぷり、嫌いじゃないぜ韓国中国さんよ。戦時のどさくさの活力からかんじる魅力ったら他にゃないしろものだね。