ほんとうはなにが欲しかったのか

・後醍醐帝の生まれ変わりの件で再三書いてきましたけど、とりあえずなんとかなりそうなんで、その人んとこに武装してカチ込むとかしないでくださいね。マジで。彼はなんか、もとは菩薩的に聖なる存在だったくさいんすけど、地上にきていろいろあってねじまがっちゃっただけぽい。こまかいことはわからんのですが、なんだか自分の本性をだすのがヤな理由があるみたいで、そこに向き合ってなんとかだすようにするしかなさげな感。恥なんか捨てるに限るけどな。彼はまだそれに至るまでの納得を得られてないようなんで、おいらがギャースカ言ったとこでしょうがないのかもしらんです。彼がすべきことつったら…とにかく「自分を知る」訓練をちょっとずつしてく方向くらいしか思いつかん。「似合ってる服」を着た時の感覚と「似合ってない服」を着た時の感覚のちがいを鏡みながらよーく覚えてく(=自分の姿形がどうであるのかを把握する)とか、あとはへんな客がきたときに抱いたわだかまりを言葉にして紙に書き付けたりするとか。「ポジティブ(と世間で言われてる)表現しかしない」て決めちゃうと、自分が抱いた心持ちの大部分を削除することになっちゃって、結果的につくったモノ―歌や歌詞が貧相なもんになってしまうと思う。自分の中のほんの1部分しか語らないことになるから。ポジティブなんて言葉じゃ表現しきれない色んなことが込められてるほうが創作物はずっと面白いのよ。そもそも「明るい」なんて言葉だけじゃ表現できないほど人の心は複雑なはずなのに、それしかしないなんて決めつけてたらつまんねえもんしかつくれなくなっちまうよ。自分の傷をえぐってつくったもんは、他人の心を動かしうるものになる可能性大よ。自己愛の殻を破って自己犠牲ができるようになれば、しぜんと豊穣な作品がつくれるようになってると思う。傷や痛みを通じてはじめてわかる世界があるてのは今回の件で身にしみたなあ。河合先生の本で再三よんではいたものの、身体感覚として実感できた、てのはすっごく重要だった。ここらへんにたどりつくまでに実はちょっと予兆じゃないけど、お参りしてて気がついたことがあってさ。神社仏閣内にはよくお地蔵さんの石像だとか庚申塚だとかがあるんだけど、古いものほどえげつない傷がついていて、おそらく廃仏毀釈なんかで壊された痕だとは思うんだが、見てて痛々しいんだよ。真一文字に首のあたりで切られてたり、銅がまっぷたつにされてたりすんのね。そのうえ地蔵菩薩さんて、お願いにきた人なんかの身代わりになって傷や傷みをぜんぶ引き受けるヒトなんだよね(某寺で311んときにたくさんある像のなかで地蔵菩薩像だけが倒れてて、それ以外に被害がまったくなかった話を聞いてよけいに確信した)。ちょっとスゴすぎない?痛いのをぜーんぶ引き受けてるのにいつでも健やかな心持ちのままでいるんだよ?ちょっと人間にはマネできないよねえ。お地蔵さんてもしかして菩薩中では最強なんじゃねえか…?て思わずにいれません。んでお地蔵さんについた傷をみてて怒りや悲しみを抱いたりしてたんですけども、そのうちに傷あとから身体感覚に至る、傷や苦しみから深いつながりをもつに至る自己犠牲的なアレがよぎってきてさ。よくわからなかったんだが、ものすごくだいじなことがお地蔵さんにつけられた傷からもたらされたかんじがした。如来になったらいいじゃないですか、て心のなかでいうと首を横に振る。やさしくて強くて自然のなかが大好きで、わいわい騒がれるのを嫌う人。修行好きなんだろうなあ多分。というようなことなんかがあって、なんとなく解決つーか収束に向かったのかな。よくはわからん。それと、おいら霊感がないもんだから確かめることができなくてはがゆいんだが、なんか多方面に飛び火したくさいのが申し訳ないつーか自分の外薗化がおそろしいつーか。俺に触れると負った傷からより深くつながるぜ!(そもそも外部の方がおいらに近づいたんじゃなくおいらが近づいた結果火傷してるので外部の方は避けられないじゃねえか。自分は災害だったのか)そういえば菩薩さんだとか如来さんとかとはおいらが自覚せずに失礼なことしでかして怒り現象くらわされたのちに深く関わることに…的な展開がすごく多かったんですけども、こんどはわしの番か。よーし。菩薩さんてちょっと今から来いよ!!的に強引で、まんま関係が続いた結果おもしろいつながりが出来たりしてるからまあいいんスけど、菩薩より上の如来さんはもっとオトナな静かしいかんじなのかなーと思ったら強引気質が菩薩さんより輪をかけて強烈なんでわろた。なんだこれ。むきだしなんですねーいろいろと。人間の世界で強引な態度とる人て精神的に問題抱えてる(支配もしくは依存したい)から関係が長引くにつれどんどん気持ち悪い展開になるものですけど、神仏てそういうのがぜんぜんないからたとえ最初が強引でもその後はおもしれー展開にふくらんでくとこがイカしてますね。なにしろマンドクサい存在との関わりを苦に感じなくなったときに真の利益(=成長)がもたらされる、てのは前の勤め先で夫人と関わりつづけてさんざんわかったことですがもういちどしつこく書いておきます。たとえ考えは対立しても友達でいることは変わらないフレンチ人的なつきあいがポンニのおとなの間でもしぜんと交わされるようになれば吉かなとは思う。あと、白黒のがチカチカしてるときは生きてるヒト(もしくは最近まで生きてた人の魂)がなんか来た際のアレなんだなーとゆうことをなんとなく学んだ。自己犠牲がらみで余談ですが、絵本が発売された当時アンパンマンの自己犠牲的な設定がグロテスクだと非難されたらしいですけど、これってマザーテレサガンジーを非難するのと同じで超バカですね。そういえばアンパンマンてお地蔵さんぽいビジュアルですな。パンがひとりでに飛んでって自分をちぎり食わす、てファンタジーが受けつけないとしたらどんだけ創作物への免疫のない弱者なんだろうか。突飛な空想にふけるのすら禁じそうなほど弱い子だな。いちいち痛みを恐れてたら大事なことにたどりつけんよ。他者を活かすための自己犠牲を強制されてやってるのならグロテスクだけど、自分で納得したうえでやるのならグロテスクでもなんでもないがなあ。アメコミヒーローとちがって食べ物あげてるんだし。ぜんたいアンパンマンに関しては子供がどう、つーよりアンパンマンが放映されてることですごく助かった親御さんがめちゃくちゃいるであろうことのがなによりスゴい気がする。丸と食べ物の組み合わせ、てのが1〜2歳児さんの奥に突き刺さるんだろうなきっと。身体感覚と食といえばさー料理へたな人はつくるときに味見をしないせいだと思う。自分の身体感覚から離れたままつくったモノ食わせて相手の身体感覚に訴えよう、てのがそもそもムリな話なんでは。自分が感じた「おいしい」感覚を基準につくろうって気がないんだろ。でも相手のおいしいと自分のおいしいがぜんぜんちがう場合もあるしなー。贈り物はむずかしい件同様に、自分の選んだもんを客観視しつつ相手を思いやる、てのはある程度の訓練をしてかないと身につかんふう。かといってその道のプロが考え抜いてつくった給食ですら食べれない子がわりにいたりするしなー。学校給食なんかで好き嫌いなくせを強迫的に実施してた時期がありましたけど、あれって「お百姓さんが汗水たらしてつくった食べ物を大事にする」前提に於いては「個人の嗜好などさして大事ではない」という考えのもとにやってんですかね。たしかに食べ物は大事なんですけども、特定の食べ物への苦手意識は動物としての防衛本能からくるもんだから誰もが当たり前に持ってるし、防衛しようとしてるとこへ無理にたべさしたら攻撃と見なしてよけい意固地になってたべなくなる気がするんだがな。学校給食の「とりあえずぜんぶ食べとけ(つくった人に申し訳ねーだろ)」的なのは子供ゴコロをないがしろにしてるんで、なんだか矛盾してんだよな。だからといってしらないうちにたべさすのも舌を慣れさすて意味ではいいんだろうけど…なんとなく子供を騙し討ちする的なのがなんかな…。給食で出る野菜なんかを実際つくる体験さすしか生産者への感謝て生まれないんじゃないんすかね。そこらへんからして「生産者への感謝」と「多様な食べ物への理解」を合体さして強制さすのはムリがありすぎるような気がする。もともと別個の行為が必要なもんをてきとうに合体させたのは誰なんだろう(戦時期のアレか?)。個性を重んじる教育をするんであれば好き嫌いは個性だからみんな違っててあたりまえなので、しぜんと「好きなもんだけ食べるが正義」とかなりかねないねえ。そもそもさー食べれるもんの大部分て特別「好き」てわけではなくて「好きではないけどべつに平気」てのが現実だと思うがなあ。「好き」と「嫌い」ていう極端なのを引き合いにだしてる時点でなんとなくおかしいような気がしなくもない。とりあえず好き嫌いなくしたい問題の結論としてはちかくに置いとけばそのうち食べるから気長にだしつづけとくしかないと思う。実母も同じことゆってた。おいらもちいさいころ野菜で嫌いなの多かったんだけど、なんだかいつも食卓にでてるからってある日たべてみたらおいしいかった。へいきになった。むしろスキだった。食といえばさー、途上国では食べられなくて死んでる子もいるというのに私たちは捨てるほど余らしちゃって…的なのをたまに新聞なんかで見かけるけど、でも日本の大昔の飢饉だの戦時中の飢餓状態とか考えると食への妄執に駆られた当時の霊魂が現代の状況にさせてるとしたらあんま非難もできねえ気がしたりして…。
まわりの人をたいせつにするが一番の開運法てのは、つまり自分以外のヒトを活かす暮らしをしていれば巡り巡って自分を引き立てることになるっつー昔ながらのアレなのかな。すると家族の心と体を気づかう、てのは生きる上でかなり重要なことになんのか。主婦を見下す風潮に踊らされたりする人もいるくさいけど、家族が元気でいるのであれば(病気=主婦業をしてないという意味ではなく、主婦業=人を活かす根であるという意味で)それだけで立派に仕事をこなせてる証だし、ふつうに尊敬されてしかるべきと思う。へんなやっかみで主婦という仕事を見下す人がいるのかな。おいらは主婦どまんなかなヒトに育てられたので主婦を悪くいうことはぜったいにできん。それは自分を否定するのとおなじになる。中心となるヒト次第で家庭は地獄にも天国にもなる、てあたりはヒトの心身が育つ上で重要な点だろうに、なぜ世間では軽んじるふうになっているんだろうか。重要視しすぎるのはヘンだけど、幼児期に培われた精神状態が長きにわたって人生に影響を及ぼすことを思えば主婦や家庭がなにより最優先されてあたりまえとすら思えるけどねえ。性別関係なくできるほうがやるようにしてくが吉、つーのはわかるんですけど。主婦や家庭を軽んじる風潮じゃないけど、業務内容が多忙なのに加えて締め付けキツいとストレスがどんどんかさんで精神的に病む可能性も大きくなると思うが。いまのケーサツみたいに。重圧仕事請け負ってるヒトのストレス解消を優先してくのは当たり前と思うんだが、ポンニではどうもそれを軽視する風潮ぽいのが気味悪い。権力者や経営者には自国の自殺者をへらす気が一向にないってことなんだろうか。心持ちがいまだにバブル期成り金の残党感全開だな。家族話にもどしますけども、前の職場にいた女性から昔の話なんかをちょっと聞く機会があったんだが、夫人が若くて全開だったころって他の親族も全開だったからやりとりがものすごかったらしいんだよね。おいらが勤めはじめたころはもう夫人のキツさも終息しつつあったころだったらしいんだけども、やたらにキツかったなあ。客がいる前で平気で怒鳴り散らすんだぜ。気持ちもなにもあったもんじゃないよ。夫人の夫である社長なんかはいちばん下っ端のおいらに鬱屈をぶつけて突然怒りだすしさ(発散してる自覚をせずにやってるのがまたタチ悪かった)。いろいろ最悪だったよ。むかしの大家族ドラマとか、関係ない第三者として眺めてるかぎりは面白いなーで済むんだけど、実際に登場人物の1人になると気力体力をこれでもかと消耗してくんだなと痛感した。でもそこで鍛えられるんだよなあ。怒鳴り合いみたいな壮絶な体当たり関係を経験してると、大抵のことをサラッと流せるようになんの。頃合いみてそういうのから離れるのもまたすごく大事です。
ギャンブル依存の人ホメられたい人と同様に幼少期から満足感や家族との一体感をあんまし得たことがなくて、ちょっとやそっとでは癒せないほどの渇望感に駆られてるってことはないんだろうか。大王セーシの息子さんなんて欲しいって思う前になんでもかんでも与えられちまうから、ろくに満足感も感じたことないんじゃねーのかな。すっごくほしいモノがあって、ようやくもらえた!てなると満足感もスゲエと思うんだが、ほしい感覚を熟成する間もないくらい次々に与えられてたら前記の状態の子よりずっと薄い満足感しか得られないんじゃなかろうか。何年もかかってお金ためてようやく買えたモノって、大切にするじゃん。でも、なんでもじゃぶじゃぶ与えられた子はそういう感覚をもしらないんじゃないんだろうかね。もしそういう状態だったなら、なにを手にしても満足できないのはなぜのか、理由すらわからないでいるだろうと思う。そこへ失う+得るコンボでのスリルや快感をおぼえちゃったら、もうそこから離れられないだろうなあ…。すべて満ち足りているようにみえて、実はモノからもヒト(=家族)からも満足いくものを得られない状態てのは悲惨なもんだなあ。なにが必要なのか自覚できないんじゃなかろうか。心を置き去りにしたまま、やたらにモノやカネだけ与えて放り出す、てのがどうも成り金くさいアレだなあとしみじみと。育てられた子がどうなるかで親の心持ちが成り金なのか貴族なのかってのが1発でわかってしまうものですね。
自然にノイローゼはない=自然から離れるにつれノイローゼに近づく件が河合隼雄先生の本にでてたけど、そこらへんから考えると自然から離れたしくみのもんをたべるのがちょっとコワイ気もしてくる。育てる手間いらず!つーてもなあ…受粉不要てことは生殖能力を無にするのと同じだろ。なんだか滅びは肉体感覚の喪失からはじまる件とか思い出さずにいれねえなあ。生殖から離れる、て部分だけ考えると西洋のおとぎ話によくある結婚=大団円展開は肉体とはかけ離れた神々の行う関係性であって、人間が同じ事やるといろいろ崩壊しだすてアレもよぎる。男女が永遠に連れ添うのはそもそもムリという真実が七夕話で再三語られてるとゆうのに、完無視しながらヒトビトは今日も実現ほぼ不可能な聖なる結婚観にポワーンとしつつ手痛い失敗をくりかえすのであった。
『「シェルター」とか「秘密基地」に賭けるロマンていうのは世界共通なんだなと思いを新たにしました。 私も金と暇さえあれば、シェルター超作りたい。超欲しい。いっぱい備蓄とかして一人でこっそり悦に入りたい。 こんなことを言うと不謹慎かもしれんが、缶詰とか水とか買って溜めてるときって超わくわくしますよね。あとなにが足りないんだっけ?ってリスト作りたくなる。』
マグマ噴き出るにしてもあくまでヒトの世界が大変、てだけなんだよなー。地震なんて鳥にはほぼ関係ねえしさ。しぜんに於いてはほんとはあたりまえのことなんだけど、あまりにも恐怖という観点がまかり通りすぎてそれがわかりづらくなってるのがなんかなー。いつナニがどうなっても 淡々と対処できるように、心身ともに準備万端でいられるがあたりまえになれれば恐怖に踊らされることもなくなるんじゃねーのかなーと思って上記『』内のをのせてみた。災害後の状態をどう切り抜けてくか、RPGに於けるミッションコンプリート目指してたのしむ、てノリはダメなんすかね。ちなみにポンニでけっこうな自然災害があってもわりに早く立ち直れてるのは神社仏閣があるからなんじゃないかなーとなんとなしに思ってる。被害はいまだに各地のこってるけど、この現状でも相当やわらげられてる方じゃないかと思う。ところでおとぎ話にでてくる皮膚を痛めつけるシーンは「結界や境界からはじき出されて傷負った」隠喩てみなしていいんだろうか。ちなみにロシア民話では最強キャラとして皮膚病の子馬がでてきておもしろい。境界がらみで生死とあの世のしくみといえば出生時期と性質にはある程度の法則じみたもんが設定されてんじゃねーのかなとちょっと思う。