考える事とかんじること

監視機関つくったとしても機能しっかりさせないことには悪名高い首相として名を残すはめになっちゃうかもよ。あと今回の件で引き合いにだすにはちょっと極端かとも思いますけど戦時中は天気まで暗号化されてて市民にろくに伝えられなかった件はネタとしてはおもしろいなあ。そんなとこまで暗号にしてたわりに攻撃開始日なんかの重要情報はアメさんに筒抜けだったらしいじゃないの。なんか…日本の中枢さんは情報扱うのが伝統的に苦手なんすかね。シメる勘所が間違ってるつーかなんつーか…。秘密保護法がらみで朝日新聞で引き合いにだされたネタは戦時ネタ中心でおもしろかったなあ。国のフトコロ具合を無視したまま(螺旋人さん漫画よぎった)戦争はじめちゃった挙げ句事実に触れさせない状態にした件とか。それと秘密保護法のキモがアメリカからの自立てゆーならさー、防空圏がらみでアメリカン軍隊が日本をしっかり守ってくれないならば日米安保破棄して出てってくれません?て言えないのかな。そうなると自衛隊を補強しなきゃならなくなるんだろうか。すると沖縄あたりは相変わらず軍施設置くことになんのかな…。イシハラの人、火種のこして去ってってたな。徹頭徹尾やっかいな人だったね。しかし経済史だの業務報告だのって経営や金融方面に疎いおいらからすると無味乾燥なデータの羅列にしか思えなくてまともに読む気すら起きないんだが、今回引き合いにだされたふうに逸話付でみてみるとずうっと奥のほうでは血が通ってるもんなのかな…?とも思えてくる。神が宿る細部を無視して始めたもんは大抵ひどいことになって終わるもんなのかもしらん。
地位や財産なんか関係なく、ほんとに好きな人のおよめさんになりたいとは女子のほとんどが最初は思ってて、その考えには「マジにホれた人のためならばどんな苦労でもできる」て前提があってのことなんだけど、実はホれた際の自分の審美眼がけっこう間違ってたことにずっと後になって気がついた挙げ句に「やっぱカネだわ」てなってる女子がけっこういるのではないかと踏んでる。わりと「自分」がみえていない、の例としては服選びも同様で、たとえ服自体のかたちが好みだったとしても、それを着て似合うかどうかとはまた別、つーのがあるな。好きな男がいても、その男が自分と合うのかどうかとはまた別なように(「やりたいこと」と「できること」がぜんぜん違う件と同じアレなのかな)。つまるところ「自分の個性」てのは自分自身ではあんまし把握しきれてないつーことなんだよな…。服飾関連の才能をハナから持ってるヒトならば楽しくサクサク着こなせるんだろうけど、そうでない人間は何年もかかって努力しつづけた挙げ句にようやくちっぴり見えてくる程度なんすよ。この世に山ほど服はあるのに、そのなかで自分にピッタシくるのはほんのちょっぴりなんだよなー。自分にはそのテの才能は備わっていないとわかっていながらやらなくてはならないこと、てのはけっこうあって、特に衣食住に於いては人間全員が少なからず直面してんだよな。自分には向いてないことをどううまくこなしてくかってのは大昔からずうっと続いてきた課題なんだろうな…。パソコン苦手な実父とかみてると思うんだけど、もうとにかくやるしかねーの。料理だろうと服だろうと。経験つむしかねえのよ。漢字ドリル的に。とりあえずは「ヤだ」て思わなくなるとこまでいくしかねーの。そういうことを多方面でこなしてった結果、ゆるぎない勘みたいなもんが身につくんだよ。生活全般+労働+娯楽あたりのぜんぶで苦もなくふつうに出来るようになったらすごいと思う。自分ではあんがい自分がわかってない件にもどしますけど、自分に備わってる才能が「やりたい(と思い込んでる)こと」と合致しているとは限らない場合がわりにあって、それを見極めるにはやっぱり自分のヤなとこに向き合うほかねーのよね。ヤなとこに向き合いたくない、てのはヤなとこを欠点だと思い込んでるんでしょ。欠点と思い込んでいたところが実は無二の武器だった、てのはカルメンさんがおっしゃってましたけど、欠点とみなされがちなモノてのはたいてい「過剰」な場合が多くて、たとえば高すぎる鼻だとか低すぎる背丈だとか、標準から突出した状態にあるもんなんすけど、それは見方を変えれば他よりも抜きん出ている、ということなんだよね。それをどう調理するかで新しい存在にも忌避される存在にもなりうるつーね。なにしろ巷の漠然とした評価が頭に刷り込まれすぎてて、そこから判断したことを「欠点」と見なして隠してしまうことが多々あるんじゃなかろうか。はたして本当に欠点なんだろうか?て考えるクセをつけとくといいのかもな。
自分の内側にある未知の能力を引き出すのは自分のちからだけじゃできない場合が多いからこそ他人の意見に耳を傾ける度量を常に持ち合わせておくのがすごく大事てことになんだろな。逆に閉じこもったままになりすぎてると怪我や大病させてでもヒト皮むけさそうとするちからが働くくさいのがちょっと怖いところ。やりたいことだけしかやらずにいると成長できなくなる可能性があんだよな。「やりたいこと」の範囲は自分がよく見知った世界でしかないから、未知の領域にはいつまでたってもたどりつけない。
子供の娯楽ブツを見下す人は傑作といわれて読み継がれる絵本なんかが冷酷な批評家であるチビッコの審美眼にかなった作品であるという前提をわかっていないのだろうな。とるに足らない童謡とみえるモノでも実は幾多の凄絶な経験が土壌になっている件とかもそこからすると見過ごされがちなのやも。ある年齢までのチビッコていろいろとむきだしで、むきだしの欲求を満たすモノしか選ばないんですよ(幼少期ほど安心感を得るためのモノが多い)。ココロに刺さったもんにしか反応しないとゆうかね。おとなになると他にやらなきゃなんないことが山積みになって、子供だったときに魂を動かされたもんのことなんか忘れてしまいがちになるんだが、実は幼少期にむきだしだった感覚てのは何歳になろうとずうっと奥にのこっていて、そこに立ち返ればしぜんと癒しはやってくる気がすんだよな。そのときに何かがあってたどりつけなくなってるのなら、その何かに徹底して向き合わんきゃならんふう。ちなみに神仏のちからの強烈さ、てのはまま思いの強さに直結してるらしくて、その強烈なエネルギーを持ったヒトが向き合うべき課題やなんかから逃げてると萎縮して才能がだせなくなったり、はけ口として嫌がらせにそのちからを使うほうにいってしまうくさい。それがこじれたのが怨霊と呼ばれる存在らしいんだが、怨霊同士が集まってる光景てなんか想像するにデスメタルのバンドぽくて凄くイイすね。つーか慈恵さん超ヤベェ!!ロック!!(同じ天台宗でもかつて比叡山と対立してたとこはおいらにとって地雷くさいとゆうことがなんとなくわかってきた[この前いって虫様つるさがり地獄だったとこもそれくさい]んで今後気をつける。でもお腹の方むけにのんでる酒はあすこの近くのなんだがなあ)。角大師さんてビジュアルがもろに悪魔ぽいなー(なにこれおいらにピッタシ)と思ってたんだが、神仏いろいろ兼任してる論からするともしかしてメフィストフェレスなんじゃないすかね。もうさー神仏兼任一覧表とかつくってもらえませんかね>どなたか霊のヒト江。だれがナニ兼任してんのか把握しとけば各国の宗教施設にいったときに共通神仏がわかっておがむのに便利じゃないですか。そういやこの前テレ東のお昼映画でオヤジ天使同士で暴力をふるい合う素晴らしい映画やってましたが、その日にかぎってなぜかバイトでギギギとなりながら年賀状150枚ぬってた。モチューはお客には適用しないらしい。悪魔といえばこの前小暮さんと八代亜紀舟歌をロックふうに歌っててよかったな。八代さん、わりとロックとか合うクチなんじゃなかろうか。怨霊話にもどしますけど、神とまではいかずとも巷で起きる殺人事件なんかは部外者からすれば「なぜ?」としか思えないんだが、たとえばストーカーせずにいられない妄執だとか、呪ったり祟ったりせずにいられない状態で出てくる激しいエネルギーてのはどうも神仏の激しさと同じみたいなんだよね。いいか悪いかじゃなくて、エネルギーが大きいか小さいかの点で。人間は神の分け御霊としてつくられた存在てあたりを考えると、殺人者にみられるような激しさはまま神仏の強烈さに直結するものであって、その激しいちからを自在に使いこなせるようになったのが大師さんとか菩薩や如来なんじゃないのかなとちょっと思う。その激烈なエネルギーが出る契機になる出来事てのがヒトによって違ってて、多くはやっぱり家族や恋人がらみなんじゃないのかなあ。激烈に求めてるというのに、それが絶対に得られないとなったときの絶望感てのが壮絶なんだよね。それはもうね、他人の諭し程度じゃ収まらないの。前述した慈恵さんてのはそこらへんの悪魔的なエネルギーとそうでない部分を完全に分離して、別個の人格として使えるふうにしたんじゃないのかな。菩薩や如来てそこらへん合致・融合した1つの人格であたってるくさい(十一面観音さんだとか神仏兼任を考えるとそうでもねーか)んだけど、大師さんは僧侶ていう出自からそういうふうに切り離した方が仕事がしやすいのかもな。悪魔が大好きー!!(自分に正直だから)てヒトてロック好きとか映画秘宝方面とかに多いんだけど、幼いころに誰もがふつうに持っていた部分に忠実である向きが多いってことなのかなあとも思う。巷では忌避されがちな禍々しいと言われるモノであっても、子供のむきだしの感性からすれば面白いもんが豊富に含まれてることがみえてくるんだよね。怨霊になるヒトて激しさを隠してないとこが信用できる。なにしろ荒れ狂ってヒドい事件起こしちゃうヒトほど実は神仏に近いエネルギーを持ってるんじゃ?てことです。夫人じゃないけど「自分を正直に出す」とものすごくワガママだったりキツいかったりして扱いづらいことこのうえないんだけど、それを理解してあげて相手が納得するまで付き合ってあげてるとわりかし収まってくることが多いように思う。ちなみに殿方が男性社会の権力争いでうまくいかないときに女に溺れることで鬱屈を解消しようとすることがわりにあるみたいで、露出狂のヒトとかもおそらくそれの延長くさいんだよな。交尾以外で「ちんこを見せる(or擦り付ける)」てのは動物のオス的な権力誇示行動なんだよね確か。自分が上位かどうかってのを確認する的な。本来それは男同士でやることなんだろうけども、それが男性社会でかなわない子がしかたなく女で済ませてんだね。オスとしてのちからの誇示欲求をどこか別のところで埋め合わせしないといられないとゆーね…。メスとしてはなまあたたかく見守ってあげるべきなんだろうか…。セクハラはいかんけども。あと直接は関係ないんだが、もとはカチカチ山の原型が「動物が知恵を駆使して人間を出し抜く(現実とは真逆の展開の)面白さをキモとした」物語であったのに、後年に「残酷」の烙印を押されてウサギの逸話が追加されて仇討ち譚と化してしまった件がこれのp.148あたりにでてくるんだけど、怨霊だとか発作的な殺人者を「非道の者」として切り捨てるのとなんか似てるなあと思った。創作物だけじゃなく、現実の出来事に於いても不条理や不愉快と感じたのなら何故そう感じたのかを考えるのが大事なのに、端から見て「巷の道徳に合わないから」つって不愉快な部分を見えないようにしてしまったら、世の「不可解さ」について考える機会を奪うことになりかねないんじゃなかろうか。禍々しさを忌避する、てのは思考停止そのものなんだな。肉食獣が実は生態系に於いて重要な存在だった件からしても、善や正義という名の情や偏見に根ざした浅知恵は結果的に害にしかならんものですね。けものがらみでPETAの件はもろに「犬の餓死」という芸術思い出した。なにしろ残酷なだけ、悲しいだけにみえる物語でも「考えさす」観点からすると人間のこころを深めるためにはなくてはならないたいせつなものなんじゃないのかなーとゆう話。勧善懲悪、てのは不条理話とはまた別のジャンルであって、それがやりたいなら他でやれっつーね。よくよく考えると勧善懲悪てのは「考えさす」のとは真逆で、思考停止して快楽(=悪者を倒すカタルシス)にふけるためのもんだよね。ほんのちょっと匙かげんを間違えただけで魔女狩りに陥りかねないたぐいのさ。ちなみにリンクした河合先生本のp.178に「本で読む分には残酷表現は問題ないが、映像みた子は現実と創作の区別がつかなくなって危険なんじゃないか」的なことが書いてあって、あー…河合先生は映像表現にあまり親しむことがなかったんだなー…と残念に思わずにいれません。漫画・映画・ゲームでひどいのをさんざんみて育ったおいらからいうとどの媒体であろうと残酷表現は発育上なんの問題もございません。殺意の発露と創作物に於ける昇華はまったく別個のもんなのに、河合先生ですらテレビや雑誌の創作物叩き煽りに若干洗脳されかかってたってのが悲しいですな…。
春画展in紳士の国日本での開催場所がぜんぜん決まってないとのことなので森やれよ。ぜったいにいく。アーツセンターのほうでエロ漫画原画展を同時開催してエロゆるせない団体を二重に真っ赤にさしてやればいい。