心をふるわすことと、心臓の鼓動の音と揺れによる安心感がつなげるモノ




『妊娠して結婚という普通とは違う順序だったこともあり、
舅姑はもちろん 大舅からも連日嫌味を言われ、
実親からも情けないとそっぽを向かれる状態。 

そんな中出産した娘だったので、愛情も沸かず、
出来婚した自分は棚にあげ 
この子がいることで周囲から非難され責められるのだと思うと、
本当に憎かったです。 

初めての育児に加え、
嫁ぎ先の家業である農業もやらなければならず 
あの時は精神的に本当にどうかしてました。 

正常な判断が出来ないまま、
最初に私が娘にしたひどい仕打ちは 
とても愛情を込めてつけたとは思えない名付けでした。 

今どきのキラキラネームのほうが遥かにましに思えるような名付け、 
人間の排泄物を連想させるような名前をつけました。
(中略)
同性であるが故に娘は娘ではなく、
私の最も身近に存在する
「絶対に私よりも幸せにはさせたくない、私がいつでも見下せる」
相手でいて欲しかったのだろうと思います。 』
上記『』内はここから抜粋したモノ。心理学的に見て、トイレは自分の中にある汚いもの(排泄物)、つまり自己嫌悪の象徴であること、夢に於いて「人・物の上に排便する」ことはそれを過小評価したい気持ち。優越感を持ちたい気持ち。誰かを不正に非難したい願望とのことで、自分の子に虐待してるときに排泄物を食べさせたり浴びせかけたりする親というのは、自分に自信がないゆえに、子供を貶めることでつかの間の優越感を得ているのかもしれない。劣等感に苛まれた親からすると、生まれた子供が優秀なほど劣等感は増していくことでしょうね。「嫌でたまらない自分」から生まれた子、てのは、おそらくその親からすると自己嫌悪の象徴のようなものに見えるんだろう。「自分から生まれた子を痛めつける」のは自傷行為するのと同じ心理なのかもしれない。ここまでくると虐待を通り越して拷問だよ……。十数年間こんなことされてたら誰だって人や世を憎んで破壊してやろうと普通に考えるよ。怨霊と言われて怖れられている存在てのは、推測でしかないけれど、もしかすると小児期からずうっと虐待されていた人たちなのかもしれない。「虐待」という概念にたどりつくまで、いったい何千年かかったろう。その間、虐待かどうかすら把握されずに済まされてきた子供たちはいったい何億人いただろう。これ考えてるときにスキャナーのある部屋にいたんだけども、そこに実父関連で古い木製のキリスト像があんのね(最近気づいたんだけど入ってるくさいよ……いいのかよコレ)。子供への虐待の歴史について考えながらキリスト像みてたら、なんだか虐待された子の象徴のように思えたんだよね。磔にされて拷問されてる中の男を像にして拝むなんてな……もしかしてキリスト像て子供への「虐待」を知らせるためにあの形なんじゃねえか?てよぎって。で、上記画像の文はこの本からで、著者であるジム・トンプスンの小説の主人公てのは多くが苛烈な虐待を経験したことをニオわせながら隣人を傷つけてまわるキチガイなんだけども、今回載せたポップ1280の主人公は痛みによって分裂していて、それをわかっていながら暴力を止めることができない心証を大真面目にキリストに例えてるんだよね。ねじまがるほど傷ついたことのない読み手はタチの悪い冗談にしかみえないだろう。今回気がついた件からして、傷ついた者はどこの誰であろうとすべて、キリスト(同様に十字架を背負ってる存在)とみなして遜色ないんじゃなかろうか。単なるこじつけとみなされてかまわないけれど、おいらが師と仰ぐトンプスン先生もケッチャム(この事件をモデルにした「隣の家の少女」の作者)もこの世の地獄をつぶさに描写する作家で、名前が「J」ではじまるんだよ。前の日記で触れた慈恵さんて「J」じゃん?Jesus Christの「J」なのか?なんか、子供の虐待とキリストと怨霊、てのがつながったかんじがした。おいら、絵本が好きでずうっと読んでて、そのあと少年漫画に移って、それから小説とかまったく興味がなかったんだけども、ジム・トンプスンの小説(三川基好訳の限定)よんで、はじめて小説ってこんなに面白いんだ!て思って、それから小説よみはじめたの。いまだに文体が自分の生理感覚にピッタシくるのしか読みたくないんだけども、トンプスン先生の文にはじめて血が通ってるのをかんじたんだよ。他人事じゃない、自分のこととして、世にある痛みを伝えようとしているのをかんじた。ゆさぶられた。どうして子供の心理や絵本に興味があるのか?そこからなぜ、トンプスンやケッチャムの凄惨な小説しか受けつけないのか?ようやくつながったかんじがした。なんていっていいかわからないんだけど、ここにたどりつくためだったんだと思った。血の涙を流して苦しんでいる人たちがいて、それを、わかりやすい文体でちゃんとみせてくれる。娯楽の部分も忘れず。フランツカフカ(池内紀訳の限定)も好きなことがわかった。そのふたりは、生きてるときにはまったく評価されなかった。けれど、自分のこころに従って血の涙の語る苦しみが読み手の心臓をゆさぶるように書くことを決してやめようとしなかった。売れようと売れなかろうと。おいらもそんなものが書けたらと思う。評価されようとされなかろうと、ゆさぶるものをつくる。それがおいらの生きた証になる。伝えることさえできれば誰に非難されようとかまわない。たとえば学級崩壊したクラスだとか、素行が荒れた子供だとかがいて、彼らを忌避していたり近づきたくないと思ってるのなら、この本を読むことを強くお勧めする。そういうものから遠ざかりたい、耳目をふさいで逃げていたいと思えば思うほど悪化すると思う。心根に問題抱えた子を解きほぐすには周囲の理解がものすごく必要てあたりは広く知られてほしいところ。いじめや仲間はずれのほとんどがなじみのないものへの怖れからはじまることから、ちゃんと背景接し方を説明すれば子供はわかってくれるとのことですよ。幼少期にこころが満たされない脳の神経肉体も育たなくなる(必要とされていないことを身体機能が記憶してしまって発育が止まってしまう件も参照)てくだり読んでて思ったんだが、後醍醐帝の生まれ変わりさんて、推測でしかないけど、ほんとはもっとガタイがデカくなるはずだったかんじがすんだよな。虐待受けずに心身共にすこやかに育ってれば、おそらくしぜんとガッチリしたいい男になってる気がする。なんか、止まっちゃってるかんじがする。表情がどこか暗い、てのも思い当たるふしがある。虐待によって心身の発達が遅れた子にとっては服装についての微妙な感覚が把握しづらいとのことで、そこは嘲笑しちゃいけなかったな。すまんかった。なにしろ虐待でこじれてる方に対しては幼少期に与えられるはずだったものを納得するまでたっぷり与える的に、もうとにかく安心感を根気よくとことん与えつづけるしかないようです。「人と触れ合うこと」と「喜び」の2つが神経にくりかえし刺激されると情緒がしっかり育ってゆく、てあたり、昔は自覚せずともそういうふうな育ち方になってたってことなんすかね。なにしろヒトがヒトとして育つに際して他人と関わって喜びを知ることが心身にとってすごく大切とのことなんだが、オンラインゲームだのLINEだのを介したやりとりはどんなかんじで影響してくるんすかね。しらべてる人いんのかな。
そういえばアメリカの副大統領の人が女性雇用をやたら勧めてるんだが、まずは働きつつも育児しやすい環境を整えるのが先でしょ。そこをちゃんと整えてからでないと、育児放棄されて精神疾患抱えた子供が増えてしまいかねませんよ。女性が社会進出するのは大事だけど、まずは性別関係なくすべての子供が心身共に健やかに育つための環境を整えるほうがずっと大事だと思うんですが。女性の積極雇用はその後でなきゃ結局女子供に皺寄せがいっちゃうじゃんかよ。アメリカの政治屋はなぜそのいちばん大事なところを整備させようとせず、女雇えの1点張りなんだろう。おかしいよ。日本もアメリカと同じぐらい精神疾患患者満載の状態にしたくて言ってるんじゃねえのかと勘ぐってしまうよ。あんがい保険屋の思惑なんかも入り交じってたりしてな。