お腹の方々の好き嫌いについていつか書かなきゃなーと思いつつ今日も書いてない件

核自体は別にわるくないんだけど、まだ処理もままならない状態で依存させた権力者がバカすぎる、つー話なんだよな。洋上発電に切り替えたら派のおいらからしてもコイズミの人が脱原発叫ぶのは結構なことですけど、この人が現役時代に成し遂げたもん(派遣解禁だの郵政民営化だの)が後になってみると市民にとってはさしてイイもんでもなかったことがわかってきたから、慌てて「功績」をのこすために今でてきたのかなーとちょっと思う。給料上がらない事には景気はよくならない現状、コイズミの人のころからぜんぜん変わってないてことなんだろうか。
とくダネ!で二次救急医療について取り上げた際、制度の不備でまた救急車の受け入れ先がさらに減ってく怖れがあるようなことを医療ジャーナリストの伊藤さんがゆってたんだが、虎雄みたいなカネ潤沢に持ってる人はこうゆうの正すのにお金つかえばいいのにねえ。結局さーこのテの人てカネでどうかしたいだけで、自分が全責任負って陣頭指揮とんのはヤなんだろうね。責任はいっさい負わずにカネだけ出して横からクチはさみたいだけのクズ成金て多いんだろうなあ。死後に遺産・財産を特定の団体に寄付する人てわりにいるらしいけど、あれは一見善行にみえるものの丸投げしてるだけでもあるんだよね。「○○のためにこれこれこういうふうに使ってください」的に具体的な指示のこして寄付すんならわかるんだが、自分では使いこなせないからって「子供たちのために…」とかてきとうな理由づけして善人アピールしてキレーに死ぬ、つーね。丸投げした寄付が「いいこと」に使われるかどうかわからないのに、それよか自分が善人としてみなされて死ぬ、てのが大事なんだろ。寄付先はイメクラかなんかかよ。財を築いた人が貴族になりえず、特に代重ねるごとに心証が堕落して終わってしまう、てのは財や人間に対する思考停止が積み重なった結果だよね。頭つかわないでいるとどんな恵まれた境遇にあろうとつまんねえ奴になってく、つーね。得ようと得られまいと、莫大な財に対する付き合い方や理念なんかを学校なんかで教えたらどうかね。それこそ道徳の授業やなんかで。親からモノやカネだけ与えられてろくに満足感も得られなくなった大王セーシの息子とか引き合いにだしてさ。思考停止が重なった挙げ句のバカといえばさー実兄のいくつか上の人たちのクラスを受け持ってた英語教師がひどい体罰を繰り返してたとかで、当時生徒だった人たちが成人後にその教師を呼び出して問いつめたら土下座した、て話を実兄から又聞きしたんだけども「俺がその場にいたら、土下座なんかすんな!どうしてあんなことしたか胸張って説明しろ!て怒鳴るよ!」て憤慨してて、体罰をしてしまう教師の多くは「その場しのぎ」でやる人が多いんじゃないのかな…?と話ききながら思った。生徒に体罰しちゃうとき、てのは生徒を指導しても成果が上がらないことを目の当たりにした教師がどうしたらいいのかわからなくなって、かるくパニックに陥ってるんじゃなかろうか。結果を早くださなきゃならないときほど。パニックに陥って場当たり的に済ますことしかできなくなってるつーのかな。「問いつめられてすぐ土下座」てのはさ、その場さえ切り抜けられればいいや、て発想がもとになってるかんじがすんだよな。ひどい体罰をやらかす教師のなかには戸塚ヨットスクール的な何事か独自理念でもって堂々とやる向きもいるんだろうけども、どうも件の体罰教師の土下座の早さからして単細胞でむずかしいことを冷静に考えれない人なかんじがする。
プロ意識のなさが「頑張った」談として美化されて賞賛される件はボディビルに対する「ちょっとトレーニングすると気味悪いほどムキムキになる」的な間違ったイメージだとか、除菌グッツ売りたい企業がタレ流す「菌への恐怖煽り」をなんの疑問もなく信じ込むのと似てますねー。菌はある程度あったほうが免疫力は増す気がすんだが、除菌グッツ開発研究部門の方は菌と免疫力に関する見識もかなりおありなんでしょ?まさか、全く研究してないってこたないですよねえ。除菌を突き詰めてったら免疫力がどんどんなくなるんじゃないのカナー。ポンニ人だけじゃないのかもしらんけど、事実かどうかよりも「イメージ」を優先する癖てのはちょっとなおすようにして、とりあえず調べる、てのを習慣にしといたほうが吉かもな。
たまたまついてた番組オウムの人が強引に勧誘してた件を取り上げた際に、高木美保が「(悩む人に対して)自分で考えなさい、ていうのが正しいですよね!?」とか憤慨した調子でゆってたんだが、つまり悩める人や信仰対象を求める人を突き放すのが正しいと言いたいんだろうか。そもそも宗教は安心感を得るためにあるのであって、入信後にも不安が消えないのであればその宗教が合っていないということだよね。ピッタリ合う宗教に入れば絶対的な安心感を得られるはずなんすよ。強引な勧誘を繰り広げる人というのは不安感に駆られてる(=味方を増やして安心を得ようとするんだけどもいくら増やしても不安なまま)、てのをどこかで読んだ気がすんだが、勧誘をしてまわる時点でもうその宗教が合ってないことの証左だよな。勧誘が強引なホドに「この宗教では私は安心感が得られませんー!」て言いふらしてまわってるようなもんだよ。充実感や安心感から程遠い宗教といえばね、実父の友人で北海道在住のEさんという方がいて、なんか創価学会の勧誘がきて「うちの宗教に入ればとなりの家が火事になってもあなたの家だけは焼けません!だから入信しましょう!」とか言われたんで、Eさんが「…うちは燃えてもいいから他は助かってほしい、て考えるのが宗教者なんじゃないの?」て言ったらソッコーで勧誘人が逃げ帰ったそうです。自分だけいい思いしたいシメシメウヒヒて発想は終末思想に駆られて自分だけが極楽にいける的な方向で集団自殺しはじめるカルトと似たアレすな。日蓮かわいそうな子。宗教ネタついでに思想を越えた理解をマジで促進したいなら表現の自由を基礎とするが大前提だと思う。不信や争いは「相手のことがわからない」てとこからはじまるので。性癖もなんもかもさらけだせばいいんだよ。
宮内庁には呪術的なもんを司る部署があんじゃないかなーと前からなんとなく考えてる。たとえば一般公募する企画があって、それは厳密な形式に沿わんとならんのだけども、なんかの手違いで形式からはずれたモノを正式受諾してしまうと、皇居の結界がやぶれるというか、皇居を守るモノの逆鱗に触れて内部で守られるはずのヒトに障りが起きるというかね。すげえ知りたいな。教えてもらえませんか>宮内庁の方。永久保漫画にでもできたらいいのに。ほんとにマズイとこは描かない方向で。
近未来のビジョンを視るというワークをしましたてことは…菩薩さんたちがやってるアレは訓練で出来るようになんのか。なんかチマチマ先がどーだとかマンドクサいなー。ゆくゆくは1億総霊能者と化して現行の霊能者さんが食いっぱぐれる現象が発生したりしてな。めざせ如来レベル。如来レベルといえば慈恵さん、なんか足に入ってるぽいんだが、煩悩で頭がいっぱいのときに後醍醐帝の生まれ変わりのとばしてくるちいさい玉霊にいろいろつつかれてギャー助けてーてなると「バカじゃねえの?」みたいな視線でみながら何もしてくれないのでキビシくてたすかる(薬師さんにたすけてもらいましたスマン…)。そこで甘やかされたらたぶんクオリティ下がりつづけてくだろうし。武装されていない好奇心は転落への道をたどるとはまさにこのことだな。しかしなー。いーですよねー奥さんいるヒトはそうゆう欲求解消できますしねー。いいかげんにしてくれマジで。しずかな夜が恋しい。慈恵さんてさー修行者が死んでも意に介さないレベルに超怖くて厳しい粗暴なおっさんだったのに、ツラがキレーすぎてアイドル扱いされはじめたのが我慢ならなかったんだろうね。慈恵さんてハナから角大師と合致した状態で生まれたわけじゃなくて、いろいろやってるうちに角大師と同等のエネルギーや心証を持つに至ったからこそ角大師(メフィスト)がやってきて合致した、て展開ぽいんだよな。後醍醐帝も元は神仏的な存在だったみたいなんだけども、前世で虐待されつづけて(その最中を夢でみせられたよ…)結果的にベルゼブブが来ちゃったんだろうな…。や、推測でしかないんだけども。そこらへんからし愛宕山の異人がみせた怨霊会合の光景にでてくる怨霊のヒトたちってのは基本的に西洋で悪魔と呼ばれる存在と合致したヒトたちだったんじゃないのかなーとちょっと思う。崇徳さんはサタンあたりだろうか。修行を邪魔する役割の四魔に対して四隅に祀る四大師てのは「光―闇」に於ける対なのかな…?とも考えがちなんだけども、でも大師のうちのひとりがメフィストとするとその対構図はなんかおかしいよな。たとえ魔と合致したとしてもそのエネルギーをライトサイドの仕事で扱えればべつにいいのかな。ただエネルギーがつり合うかどうかってだけで。よくはわからん。とすると角大師さんは「自分の認めた者であればそのちからを何に使おうと問わない」て姿勢なんだろうね。そういやあさ、神仏にしても魔にしても、同族間で話し合いはするっぽいわりに人間界では徒党は組まないぽいとこがなんかイイんだよな。たとえひとりの人間のお腹に入っていようと、絶対に馴れ合うことがないみたいなんだよ。せまいとこにゴチャゴチャいるっぽいのにさ。お腹にいる状態でもなんらか行動を起こすときって、必ず個々の意思のもとに動くのであって「誰かがやってるからじゃあ俺も」だとか「あいつが危ないから助けにいく」的な動機はぜったいにないの。それは神仏であろうと悪魔であろうと変わらないのよ。釣られて便乗、てノリがぜんっぜんない。そこがものすごく信頼できる。たとえ同じ場にいようと、なにかコトを起こすときはあくまで各々が全責任負ってやってるかんじがする(余談だけどはてブに集まってガヤガヤやってるのがそれと真逆のもんにみえてしかたない)。あくまで人間側から助力を頼まれたときにだけ(=ヒトの意思ありきで)動くのよ。どんな行いであろうと、その原理で一貫してるからなんか爽やかなんだよね。そのさわやかさを維持したままでいるのが神仏と呼ばれる存在で、粘着質に嫌がらせしつづけるのが怨霊と呼ばれる存在の特徴くさい。なんつーか、せずにいられないかんじ。おいらが日記かかずにいれないのと同じみたいに。光と闇の関係、てのはなぜか善悪に置き換えられがちだけど、ただ闇の側が悪者ちっくな行いをしがちってだけで、闇=悪、てわけじゃないみたいよ。たとえば「面白いと思った映画」について感想かくときはもちろん余裕でいろいろ書けるんだが、逆に「心底つまんない映画」みたときにも同じくらいの量を書けるときがあって、それは各々の映画がエネルギー的には(その書き手にとって)同等の質量を持っていたって話であって「面白い映画=善」「つまんない映画=悪」てわけじゃない、てのと同じつーか。たぶんそんなかんじのアレかと。闇てのは「闇が関わったときにしか出てこないものをもたらす」て意味で大切なんだろうなあと思う。コトを成す際に入る邪魔、て面でみれば河合先生のおとぎ話論で「主人公が育つに際して不可欠な要素」てことになるし、魔陀羅さん的には「遊び」から派生した芸能の型としてとらえてるかんじ(「修行中の妨げ」としてみるなら人生に於ける病気なんかも含まれるぽい。見方を変えさえすれば後醍醐帝の生まれ変わりさんからの嫌がらせてのもイヤがってるかぎりはすっげえうっとうしいんだが、持病と見なせばたいしたこっちゃねえと思えてくるから不思議)で「妨げと笑い」が密接に絡んでる点からすると自殺が失敗した時に笑いが転換点となって生まれ変わった件(元記事)もよぎるけど、これは禍い転じて福となす方面だから魔陀羅さんつーより如意輪さん方面なのかな。魔陀羅さんや阿弥陀さんがが根本とする「娯楽」は見世物師側の「元手タダでガッポリ儲けたい」と客側の「ヤバいものを覗き見したい」とゆう下世話感満載の欲求が絡みあったところから発生する的な点がなんとなく下半身欲求に直結してる気がすんだが…よくはわからん。ちなみに魔陀羅さん=(神道では)スサノオさんとか魔陀羅さん=金毘羅さん?とかいう話が外国からきた粗暴な人説を軸に書かれてるんだが、激烈なエネルギーという点からすると怨霊だとか魔と呼ばれる存在の奥にはグレートマザーがいるのかなと思えてくる(グレートマザーである土への愛情が注がれなさすぎて大地が乾ききってる、てのは霊の人がわりと言ってるのだけど枯れる木からは大抵キノコ菌がいなくなってる件とか水が汚れて守れるもんも守れなくなってる件とかよむとそこらへんが合致しすぎててちょっと怖い)。グレートマザーのこわくないほうの極地は自己犠牲てことになって、自己犠牲菩薩のお地蔵さんてことになんだろうか。そういえば将門さんの首塚のまわりにカエルの置物といっしょにお地蔵さんが置いてあるんだよな。地蔵(自己犠牲)←グレートマザー→怨霊(闇)か?そういえば実家のちかくに閻魔さんがあるんだけど、すげえ怖い顔してるのにこのヒトも自己犠牲系列のご利益くれる存在なんだよね(強面のおっさんが自己犠牲、てあたりなんとなく田亀源五郎漫画にでてくるマゾ男を思い出すな…)。能動(怒り)と受動(慈しみ)が同居するふうな。将門さんの首塚のまわりになんでカエルがあるのかチラッと調べたら「(無事)帰る」にかけた単なる語呂合わせ、てのと将門が蝦蟇を自由自在に操ることができるてのと父親の復讐を果たそうとする将門の娘、滝夜叉姫が、筑波山のガマの毒気を浴びて妖術使いとなったからという説がでてきたけど、個人的にはこういうアレに絡んでるような気はする。こまかくはわからん。ちなみに河合先生の昔話分析本で、おとぎ話にでてくるカエルに変身させられた王子(or姫)の隠喩にはどちらか片方でなく両者の中間の輪が解決への道て真実が提示されてるとのことです。うーん。大事なことがでてきてる感はあるんだがイマイチまとめれない。とりあえずの結論として「ちんこにあまり幻想を抱かない」という理念に立ち返ろうと思いました。挿入したところでべつに気持ちいいわけではないんだよな。わすれない。
・日テレでやってたロボ対決番組でたけしが「ロボットと人間のちがいはうんこできるかどうか」て言ってたけど、わしもそう思う。体内で消化したモノが放出される、て一連のはたらきがすごくだいじ。ちなみになかなかうんこ出ないとき、肛門からふというんこがひりだされる中のイメージを鮮明に思い浮かべながら尻穴に投げかけてやるとたいていスムーズにひりだされる。メシくわなすぎで出ない人のはしらん。