互角に渡り合う事など全くなかった、てのは相手をバカにしてるも同然なんだがな

・兵による強姦被害者への謝罪や補償はしなくてはならないけれども(…とおもってたんだけども謝罪をすることで罪人の存在ありきになってしまうのと人間にも備わる暴力性の否定につながるのでするとしたら生活補償だけにとどめるしかないと思う。2014年5/1追記)、慰安婦さんについて「被害者」視点でしかみなさないような記事を載せ続ける、てのは、結果的に日本を「周辺国とは永遠にわかり合えない絶対悪」て見なさせる方向に誘導してるようにしかみえないんですよね。朝日新聞で慰安婦さんの件が取り上げられる際は特に、いつまでたっても現地業者だった人だとか子供を口減らしで売った人、うまく稼いでた人なんかにまったく取材しないでいる時点で、当時の状況を冷静に検分する視点から読者を遠ざからせようとしてるようにしか思えんのよ。たくましい商魂をもとに体ひとつで戦を切り抜けた、てのは立派なことだ。当時そうやってうまいこと稼いでた女性てのは、日本軍の兵隊なんざうまく利用してやればいい、ていうふうに見なしてたってことでしょ。すごくたくましい。けど、中国や韓国やアジアの色んな国にとっては、その手合いのヒトたちの存在そのものが「日本を責める」に際して都合が悪すぎて出すことができないんでしょう。けれども、日本軍なんざ屁とも思わずにうまいこと利用してやった、そういう互角に渡り合う気持ちだったヒトたちがアジア各国にいるからこそ日本とはわかり合えるはずなんじゃなかろうか。慰安婦さんの稼ぎ状況については前にも書いたけども(強姦について慰安所がなかった箇所で頻繁に起きた→必要に応じて慰安所つくったとか、現地にもともといた売春婦さんを差し置いてわざわざ民家に押し入るか?とか書いてあるんだけども、そこらへんは朝日新聞はどう思ってるんだろう)、日本側の兵のほうも「うまく稼いではやく帰りなー」みたいにしてたそうで、お互いに「こんな戦争なんてバカバカしい」と心の底では思ってたからこそうまく稼ぐことを推奨してたんじゃないんだろうか。そんなふうにしてほんとうはお互いわかり合ってたところもあったろうに、朝日新聞の記事の傾向みてるとそういう真実をぜんぶなかったことにしたいとばかりにごく一部分ばっかりあげつらってんだよね。朝日煽りがなかったらもっと日本の市民はアジア各国の市民と仲良くできてたんじゃないのかな。ほんとは戦争なんてバカバカしいよね、ていう市民間に共通の考えを、なんだか朝日新聞がぜんぶ踏みにじってるかんじがすんだよ。「戦争はよくない!」ていう上から目線でさ。戦争はよくないに決まってるし、日本も当時お上からいろいろ洗脳されててバカな兵もいっぱいいたと思うよ。けれども、その大義名分の前に当時実際にあった市民同士の草の根交流的な事実まで潰すのが「いいこと」なんすか。特にモメてる(と公では言われている)中国・韓国のヒトたちとはそういうところからわだかまりを解いていけるんじゃないのかと思って慰安婦ネタとか書いてるけども、朝日さんや慰安婦の件で日本を糾弾する日本の人がぜんぶそういうのを台無しにしつづけてるようにしかみえないんよね。しっかりしてよ朝日新聞慰安婦さんの記事かくならもっと細かく、広義に調べたものを出してよ。根掘り葉掘りをちゃんとやれば、単純じゃない事実がいっぱいでてくるはずなのに。戦争なんてバカバカしい、と思う気持ちがある限り、どの国のどんなヒトであろうといつだって対等だし、ほんとうはずっと前から仲良くできたはずだよ。どうも朝日さんが取り上げる慰安婦記事みてると「日本と他のアジア各国は対等ではない」ていうイメージを流布する目的なかんじがしてな。あと理想が高すぎるがゆえに自分らの所属する団体を卑下せずにいられない人たちについて前々からちょっと考えてる。その人たちは褒められることへの忌避感も同時にものすごく持ってるぽい。ホメられるのを容認しつづけてくことで自分の見識がユルまるのを怖れてのことなんだろうがね。あとこれは深読みしすぎかもしらんが、自己評価が低すぎるがゆえに褒める人を遠ざける遠野なぎこ的なアレに近い、養育環境が遠因のナニかも根にはあるのかも。わからん。
ココロの凶暴さをみくびってる向きはわりといるんじゃないか的なことは日記でも何度か書いてきましたけど、心を構成する要素中でも特に激烈なモノとして一体感欲求があって、その欲求を満たすには「同意見のもとにうなづき合う」行為がいちばん近道なんだけども、これを実生活で得られないゆえにインターネッツ上のはてブだとかまとめスレだとかで代わりにに得てる向きがわりに多いんじゃなかろうか。それもイチ手段としてふつうにアリとは思うけど(おいらもよくみてるし)、あのテのとこを一体感欲求を得るための場と定めてしまうと、いつもの一体感仲間から反感買いそうな意見を無意識のうちに封じこめてしまって、本来たどりつくはずだった真実までたどりつきづらくなってしまう傾向に陥りがちなんじゃないかと思うんだが。インターネッツだけでなく家庭内だとか友人間でもこの事態には陥りがちで、この状態があたりまえになってしまうと、解決策にたどりつかないまま「大多数で異質な者を叩く」現象が起こりやすくなってしまう気がする。たとえば慰安婦の件で今年いくつか書いたけど、仮にはてブでガヤガヤやってる人たちを「一体感欲求を得るための相手」と定めてたとしたら、彼らから村八分にされるのを怖れて出来なくなってたと思うんだよね。で、一体感欲求に惑わされることなく常に真実にたどりつける状態にしとくにはどうしたらいいかというと「突然拷問されて死んでもかまいませんが?」て覚悟を終始一貫して持ちつづけるしかねーのよ。神仏と呼ばれる存在が同類とすらも馴れ合わず、いつでも真実を提示していられるのはその態度を貫き通してるゆえなんだよね。とはいえ人間だれしも一体感欲求はどこかで満たさなければさみしくて死んじゃうドーブツですので、前述の精神状態を念頭に置きつつ、うなづき合うところはうなづき合う、て風にうまいことしてくほかないんだろうなあ(個人的経験からして「いっしょにテレビみながら好き勝手言いつつごはんたべる」は一体感欲求が瞬時に満たされる鉄板行為だと思う)。同意見でうなづき合えるなんて、個性をマジに全開にしてるのであればほんとはそんなには起きないはずなんですよ。自分をむきだしにしてるド正直なゲージツ家たちの強烈さをみてるとつくづくそう思う。たまたま同意見に出くわしたとき「へー」と思っとくくらいがちょうどいいんであって、度を超えて同意見ばかり求めだしたらちょっと危険な傾向に陥ってると見なすようにしとくといいやも。自己犠牲精神といえばキリストへの拷問をたのしく観賞する映画みたクリスちゃんのおばさんがショックすぎて死んじゃったらしいですけど、そもそもキリスト信者を名乗るからにはキリスト(と同じ苦難を乗り越えられる人)になることが最終目標なんでしょ。ショックで死んでる場合じゃないんですよ、おばちゃん。ここらへんからすると、誰かから非難される怖れがちょっとでもあるようなネタはハナから回避した「お説教」してる神父だの牧師だの、てのはつまり「アタシたち、キリストなんかになる気ないですからテヘペロ☆」て意思表明してるも同然だよね。フヌけてんじゃねえぞコラ。てめえらがキリスト体現しなくて誰がやんだ?ア?毎度毎度クッソつまらん賛美歌うたわせて「今日も善行しました」みたいなツラでいかにもキレー風にしてるだけだからいつまでたっても信者が増えねーんだろうがよ。キリスト教関係者と信者全員は最終的にキリスト精神にたどりつく気がねーんなら今すぐやめちまえ。今年のミサはそんな気持ちで神父サマのありがた〜いお説教を拝聴しようと思います。この世は問題で満ちあふれてると思うなら、それはつまりキリストになれてない人で満ちあふれてるってことと同義なんだろな。この世にいる人間全員が「鞭打たれてもかまわないから本音や真実を言う」(←「鞭打たれても」の部分は「孤独に陥っても」「炎上しても」とかいろんなのに置き換え可)て姿勢を貫くようになると、いろんなことがイッキに解決されてく気がすんだよね。いじめなんかは特に、友人間で一体感欲求を満たすことができなくなることへの恐怖心だとか、自分(の本音)に対する自信のなさだとか、困難を避けたい気持ちから起きてるんだろうし。てことは神仏が地上にきたところで人間世界で起きてる問題は解決しっこない、てことですな。あんたら全員がキリストになってこの世を風通しのいいとこにしてくんだよ!神様が何を思おうが知ったことじゃないんですてのはさ、神仏をも越えた立派な思想を編み出して現世に楽園でも生み出してるんなら言う権利あるなとも思うけども、相変わらず殺し合いだの汚し合いだの大昔からずうっと止めれない状態で言われても何の説得力もないよねえ。神仏とよばれてる存在には人間がたどりつくべき点を常に提示しつづけてもらうためにも居てもらわんとこまることになると思うけどな。馴れ合わずに全責任をひとりひとりが負って行動する、て潔さをいつも体現しててもらえるから。神がどうしようと一般市民は知ったこっちゃない、つーのは「一般市民にはできっこありません」て逃げにしかみえないんだよなー。そこらへんの逃げに陥らず「一体感欲求に振り回されずにいる」を日頃から習慣づけてると、わりにすんなりと真実というか、二項以外の解決の道がみえてくることが多いんすよね。はてブに集まったコメントみてると一体感欲求に振り回されがちなカンジの人が多いふうに見受けられてしかたなくてな…。なんらか「結論」を見出したいときは特に、そこらへんの欲求に振り回されてないかどうか、ちょっと気をつけるようにした方がいいかもね。「大多数でなにかを叩く」てのは相手がなんであろうと善きこととは思えないんだよね…。それを是とすると、被害者全員で加害者をなぶり殺していいのか、て話になっちまうし。特に死刑廃止論者なんかはいつなんどきも「大多数で叩く」ことはしない、てのを貫いてないと掲げてる論理が嘘になってしまうんじゃなかろうか。慰安婦の件でも日本に謝罪を求めつづける日本のヒトがいるんだけどさ、彼らは日本軍兵士の遺骨が野ざらしになってる件なんかについてはどう思ってるんだろう。「加害側の骨なんざ野ざらしにしておけ」とか思ってるんだろうか。そういうふうな考えが「善」なんだろうか?わし、個人的に加害者も被害者も「戦争」というものに翻弄された犠牲者だと思ってる。朝日新聞のヒトはさ、戦時中に戦意高揚をさすような記事を掲載したことへの後悔から戦争関連の記事は「被害者」寄りにならざるを得ないのかもしれないけれど、「どっちかの肩をもつ」姿勢でいるかぎりはわだかまりをほぐす道はみえてこないんじゃないかと思うんだが。偏った視点に腰すえず、ただ真実を淡々と出してく姿勢で一貫してくことこそが当時やってしまったことへの反省と鎮魂になるんじゃないかと思うけど。うまく稼いでた慰安婦さんの存在を、朝日さんは「出してはいけない事実」と思ってるんだろ?でも、はたしてほんとうにそうだろうか?ほんとうはそれこそが二項以外の解決への道になるかもしれないよ。真実に対していちいち妙な観点からの断罪をして出さないようにしてたら見えるもんも見えてこなくなってしまうよ。アーレント映画(みてない)とキリスト拷問映画は実は同じことを描いてるのかもな。
最近千躰荒神さんと縁ができてたまに参拝したりしてんだが、千躰さんはかつて島原の乱キリシタンを制圧した側にちからを貸したらしいのね(実際には宗教以外の側面のが大きかったらしいけども)。千躰さんはべつにキリスト教徒が憎かったとかではなく、純粋にお参りにきたヒトにちからを貸したってだけぽい。神仏は相手がどうであろうと自分が全責任負って動く的な性質だからさ。彼らが「自分の意思を通す」上では相手方が神仏だろうとなんだろうと関係ないんだよ。こういうことがあったからこそクリスちゃん関連の人間と千躰さんが善き関係を構築するのが大事なんじゃないかと思った。あと、当時武装蜂起したキリシタンのヒトたちが仮に勝利してたらどうなっていただろうと考えずにいれなかった。自己犠牲を是としながら実際は血塗れじゃないかと糾弾されはしないか?こういっちゃなんだが、結果的にキリストと同じ道をたどることになったのが吉というか…。なんだろう。字ヅラにすると誤解を招きそうなんだけど…。結論じゃないけどさ…。なにしろいかな論理だろうと、加害者への糾弾はつきつめると死刑に行き着いてしまうんだよね。千躰さんとクリスちゃんの関係と絡めてそこらへんを考えずにはいれんかった。
ノンストップ!で旦那に内緒で不倫をたのしむ奥さんについて取り上げてたんだが、その奥さんは旦那で満足していないからこそ不倫に走るんであって、旦那さんはせめてイベント日くらいは奥さんを気持ちよくさせてあげるべきなんじゃないかと思います(1年に何度かある祭でも神仏や鬼を気づかうでしょ)。わしはべつに男ではないけれど、キツい性格の夫人にがまんして同行してると夫人の好みなんかがだんだんわかってきて、このヒトをよろこばすにはここをこうしたらいいのだなーとミッションコンプリートになるんよ。件の旦那さんつーのは奥さんに対するそのテの分析すらも放棄してんじゃねーのかなと思うんだが。おんなってさー女子女子してるヒトほど気持ちを汲んでもらいたい欲求がものすごく強いので、そういう女子をろくに気遣うこともせずほったらかしてたらそら旦那外に求めはじめてしまうと思うよ。分析とかマンドクセ。と思うかもしらんけど、やってみて把握できてくるとおもしろいよ。なんつーか人間性への分析だし。そもそもクリスマスにまんこできるかどうかとか言い出してる時点でもうなんかいろいろおかしいんだが、そこにすら気づけなくなっている純和風日本人のシュルレアリスム感覚てちょっと凄いよな。純和風日本人のシュルレアリスム感覚がむきだしになってるといえばメシと結婚相談のみのクリスマスフェアからみじんも大聖堂感が感じられないセントグレース大聖堂(キリスト教会とは無縁の単なる結婚式場。「ミサをやらない大聖堂」という矛盾しすぎな字ヅラになるあたりがイカス。なのに内装だけは外国の教会で使われてたもんで固めてるのな[笑)ですが、ここって表面だけはゴージャスにそれらしく誂えた「総本山」的なカルトの建物感満載で素晴らしいですよね。HPにある「訪れるゲストを海外チャペルさながらの別世界へと誘います」「エントランスをくぐった瞬間から、おふたりとゲストを非日常の世界へご招待いたします」てなめらかな文言からは日本人が根源的に抱える西洋コンプレックスをどう刺激すればよいのか知り尽くした手管がひしひしと感じられますねー。つーわけで今ポンニ人の多くはポンニ内にあるキリスト教会には見向きもせず、欧米にある教会に限りないファンタジーを抱きながらキリストの誕生日にはセックスできるかどうか血眼になっています。どんな宗教でもすべてをのみこんでおかしなことにしてやる。だいたいね、食と性がいっしょくたにされるイベントは同じ運命をたどるみたいよ。よかったですね。やっぱ聖夜はキリスト教関係者を真っ青にしてやるのが正しいな。セントグレース大聖堂的な小バカかげんで。ミサいって信者へってたら大笑いしてやろっと。
・後醍醐帝の生まれ変わりさんは(商売上の必要から)本性を出さず、本性とはかけ離れたキレーごとばかりの愛され癒しキャラで押し通そうとしてたけど、それってカネ目的の詐欺カルト団体がよくやる「私たちは善人」アピールと同じで、そのフィルターにのっかってるかぎりは発言内容が詐欺師と同レベルでしかないから、いかな凄まじい霊能力を持っていようと文筆をはじめとする芸術活動にはいつまでたっても反映させられないんじゃないかと思うが。だからこそ「自分をぜんぶ出す」てのがものっすごく大事なんだよ。わし、ブログはじめた当初「1日1回なるべく長ったらしく書く」て決め事を死守するってことでやってたんだけど、これを続けてると書くネタがどんどんなくなってきて、それでも書くとなると結局下ネタ(うんこがどうだったかとか)になるのね。下半身ネタてのは毎日ぜったいでるから、それをネタにすりゃ書けるんだよ。そうこうして書き続けてると、これブログでネタにしたら面白いんじゃね?てのがいろんな分野からふしぎと見えてくるのね。だから自分のなかのなんもかもを全部正直にだしてく、て訓練はすっごく大事なのよ。自分では思ってもみなかった「自分」がじゃんじゃん出てくんの。そこをのりこえるとわかるんだけど、当時抱えててた「恥」てのが今考えるとすげえどうでもいいちっさいアレなんだよね。さっさとのりこえるにこしたこたないよ。そんなちっさい壁は。後醍醐帝の生まれ変わりさんだけじゃなく、なんかすぴりちある系女子が霊ネタばっかり書いてるブログとかよくあるんだけどさ、そのテのヒトたちって動植物だとか自然現象についてしか書いてないのに、取り上げる内容が偏ってるってことにぜんぜん気づいてないみたいなのね(だからこそごく一部の人に対してしか影響力を持てないんだよ)。おそらく頭では「闇も大事」と思ってても、本音ではそう思っていないのがああいう形で表れてるんだなあとしみじみ思う。このテのヒトたちの闇てのがけっこう凄まじいんじゃないかと踏んでるけど、おそらく彼らはそれが出そうなもんには近づかないだろう。意識的にしろ無意識にしろ。ヒトによるとは思うけど、闇がでたら制御できるまで数年はかかるしね。そもそも制御できずになんかやらかしちまう可能性もあるし。
・神仏(魔含む)で「すぐ助けてくれる」系の方は普段はうっとうしいヒトだよ!勝手に家にあがりこんでくる的な町内会のあつかましいおばちゃんと同じに。ご利益が即でる、ていう評判のある神仏さんはだいたいそうゆー性格だから早いんだよ。いちど関わったら生涯関わるカクゴでね!すぐ助けてくれる=普段うっとうしいの代表格は聖観音ちゃん・馬頭観音さん・薬師如来さん・聖天さま・千躰荒神さんとあと怨霊のヒトぜんぶあたり。あと夫人。夫人だの実母だのと関わってて思うんだけど、マンドクサいけどかわいそうだしな…つって渋々でも付き合ってあげてると、なんか自分の知らない分野での意外な発見があったりして、そういうつもりではなかったのに自分の中の幅を広げる契機につながってったりするのがなんともふしぎ。未知の分野へのやる気の起きなさ、てのはうっとうしいヒトに付き合ってあげるマンドクサさに似てて、けっこうヒドいもんがあるんだよな。自覚できないでいる向き多そうだけど。マンドクサいヒトにほどやさしくしてあげる、てのはなんらか新しいとこを見る方向になんのな。へんなの。おもしろいけど。そういえばさ、出雲で魔陀羅さんがおなかに入る前に聖天さまが入ってたんだけど、そのあとだったか?たしかダキニさんも入ってきて、一時なんか聖天さま自身の意思で生理痛をなくしてくれたり、ダキニさんは活発な意思表示をしてくれてたり(お腹のなかからキューッて抑揚つけた声だか音だかをだす)して騒がしくておもしろかったんだけど、魔陀羅さんが「このコのためにならないでしょー!!」的にゆったらしくて以来シーンとしてんだよ。たのしかったんだがなあ。まあいちいちお腹に返答してると実生活に支障がきそうだしな。やはりボスは正しいぜ(ちょっと前に角大師さんをボスて呼んでたら魔陀羅さんがすねちゃったのでボス呼称は魔陀羅さんのみに適用することにしました)。