好意と性器が直結してるのは生み出す箇所だからなのかな


『眼がいっぱいあるのは・・・、う〜ん、シヴァは精力絶倫のドスケベで、絶世の美女である天女(実はヴィシュヌ神の変身なんだけどね)をどうしても見たかったから体中に眼が生じた・・・。結局、我慢できずに襲い掛かり、シヴァとヴィシュヌの子供が産まれちゃうのね(なんでやねん?)。』(十一面千手観音とは十一面観音と千手観音が合わさった菩薩様ですか?より抜粋)
『『田植草紙』って、かなりバレ系の歌が多いですから。感染呪術っていうんですが、田の神様はエロがお好きだから、そういう歌を謡ってお聞かせして喜んでもらい、それと引き替えに秋の実りを約束してもらおうという魂胆(笑)。なかなか考えたもんだ。』(今様問答条々より抜粋)
『性欲を断つ方法を探り続けて、行き詰まった親鸞は六角堂に百日間篭もった。その95日目に、六角堂の救世観音が夢にあらわれて、親鸞にお告げをしたということである。それは、念仏の行者が女犯を犯しても、その女性は観音菩薩が身を変えたものであり、臨終には極楽へ案内するというのである。そして、その言葉を世のすべての人に伝えよというのである。』(観音経についてより抜粋)
『つきたての餅のような柔らかさが楽しめるリアルディルド!「極楽如来」の登場です!内側にポキポキ曲がってお好きな角度に調整できる中骨が入っています。』(「極楽如来」より抜粋)
菩薩とか如来になるヒトて性質もエネルギーも強烈だから、性欲も同様に強烈てことなんだろうか。そういや大国主さんなんて全国行脚しながらヤリまくったみたいだし、伊藤博文とかも性豪すぎて時の天皇にたしなめられたとかどっかに書いてあったっけな。ナニが書きたいかつーと慈恵が絶倫ぽくてな…。そういや聖観音ちゃんと生きてたころの過去世(おいらが男だったとき)を夢にみた際もなぜかヤッてる最中(具体的にどこをどうしてたかまではカキませんけどさ…)だったし、なんか、男女とわず神仏と呼ばれる方々は性に正直なもようです。なんの番組か忘れたけど、元Tバックガールズで占い師やってるヒトが「2014年はエロです」とか判定してたのはコレのことなのか?慈恵て如意輪観音の生まれ変わりとかいわれてたらしいけど、それがガチだとすると後醍醐帝の生まれ変わりも如意輪さんの化身てことでいいんだろうか。過去生まれ変わった人格がそれぞれ別個の魂として存在してんだよね。なんかふしぎ。慈恵と付き合ってたおいらの過去世の人格も、なんか今はおいらのうしろの4人のうちのひとり(和魂なのかもしらん)になってるらしくて、たまーに夢にでてくるよ。きれいでやさしげなヒト。うしろの4人さんはふつうに人間の姿だったり、全身銀色だったりするけどあれはどうしてなんだろう。慈恵の件にもどしますけど、去年の秋ごろだったかな…。たまにいく某寺の如意輪さん像の前いったらなんか…流し目つかってこっちを見てるふうなかんじがして、エッ…?まさかな…とか思ってたらこの展開かよ。春あたりまでに如意輪×弥勒の薄い本がでるんだろうか。おねがいしますね(そこの人)。他の菩薩さんは性格がけっこうわかりやすいけど、如意輪さんてどんなヒトなのかイマイチわからんなー…と思ってたら男むきだしなヒトでしたよ。修行監督がおもな業務の神仏ておおかた男だよね。天狗さんとか不動さんとかどう考えても女じゃないし。毘沙門さんと三宝荒神さんを脇侍にする待乳山聖天とかも男すぎる。充満する霊気が男のさわやかさ。十一面さんがいないと暴れるてのもうなづけるメンツすぎ。地蔵菩薩さんは修行好きなとこからして男にも思えるけど、自己犠牲ご利益の側面から考えれば誰にでも股を開くとも受け取れますね。ここまで神仏の性関連は菩薩のみだけど、如来さんの性事情てどうなんだろうか。神道のほうではスサノオさんの逸話はあるけど、アマテラスさんの下半身事情て聞いたことねえな。特定の彼氏とかいるんだろうか。神仏同士で性交するとなんか生み出されるんすかね。星とか。性交の相性はよくても気が合うとは限らない件が神仏にも適用されるとすると、やっぱりそうかんたんに連れ添うわけでもないんだろうな。弁天さんと宇賀神のおじいちゃんみたいに夫婦で1セットみたいな方々もいるけどさ。人間界では大昔から相手の気持ちを踏みにじった付き合い方をする男が多いようなんだが、こと神仏の世界ではそんなことはないんだろうか。人間を指導する立場だけに、男女それぞれお互いを思いやるセックスができているんだろうか。神仏の世界でも連れ添う相手とセックスフレンドと別にいたりすんだろうかね。尚、ほんとに好きかどうかは意中の相手が他の異性の人と楽しく喋っているのを見て自分がイライラするかどうかてのは同意。たとえ肉体関係を持ったとしても好きでない男が他の女と睦まじくしてるのをみてもなんとも思わんのだが、肉体関係がないにも関わらず好きな男が他の女と睦まじくしてるのをみるとカッとなる。とすると元カレが女子に生まれ変わって男とイチャつくところをみる側のきもちはどんなふうになるんだろうか。わからぬ。神仏との何百年の付き合いとかなるとその間に性別がいろいろ変わってるから、通常の嫉妬とかそういう感覚はとっくに乗り越えたナニかに変わってるのやもしらん。はかりしれん。とりあえず慈恵…後醍醐帝の生まれ変わりさんは性交にしろ会話にしろ、相手を思いやる余裕を持てるようになるような努力が必須なのではないかと思う。「恋人や友人に対して手痛い事実をぶつける」=幼稚、て思ってるてことは「お世辞を言い合う嘘にまみれた関係」=大人、て思い込んでるのかな。後者の生き様をしてきた結果として自分の状態が客観視できなくなっちゃってるというのに。本音を交わさないかぎり、自分以外のヒトと真につながることはできないんだよ。後醍醐帝の生まれ変わりはなぜ「本音をださない」生き様を良しとしてしまったのかな。 慈恵…良源だったとき、男親から「俺に従え(従わないと殺す)」みたいにして育てられたとか?その親御さんは幼い子供にすら逆らわれるのが耐えられないほど気弱な人だったんだろうね…。良源が真に自立するに、その親御さんの間違ったところを正面きって言ってやって、本音交わして大げんかする必要があったんだろうな。けど、できなかった。逆らえば捨てられると思わされて、愛されたくて、おとなしく従ってしまった。お父さんがどんな言動をしてもぼくはいつだってお父さんが大好きだ、でも間違ってるとこは直してほしい、としっかり主張できてたら、ねじ曲がることもなかったかも。家族内や友人間で本音言わないってなると、どっちかが間違ったことをしはじめたときにそれを指摘することができなくなって、そのままカルトの教祖と信者的になってくか、もしくは離散するかのどっちかになってくんじゃないかと思う。自説ばかり振りかざして他者の意見から耳を閉ざしてると孤独に陥る、てのはあたりまえのことだしね。だからこそ常日頃から本音を包み隠さずやり合う状態でいるのが大事なんだよ。いつも本音を貫く、てのは「あなたが間違ったときにはわたしが指摘します・わたしが間違ったときにはあなたが指摘してください」ていう、相手の言動に対して責任をもって監督をする誓いのもとに関係を築きますよという証なんだよね。摩陀羅さんが推奨してた「神仏をも批評する姿勢を貫く」てのは万物に対して責任を持ちますよという意味でもあるんだな。ただ、本音だけをぶつけてるとギスギスしがちなので、そこに相手の状況や気持ちを思いやる優しさでもって絶妙に言い回しを変えてみたり、ときにはひたすら聞く側にまわってみたりすることで円滑な関係が築いていけるようになるんすな。なにしろ「批評してはいけないモノ」なんてこの世にはひとつもないってことなんだろな。すべてに対して誠実に関わるには「本音であたる(=責任をもつ)」が必須てことだし。おいらにしたってさ、いまは家の人とか夫人とかからアレコレうるさく言われたり情報もらったりしてるからこそ涼しい顔で書けてるけど、もしも誰からも本音いわれなくなったら自分で間違いがわからなくなる可能性大ですよ。いちばんコワイのが「ホの字さんのいうことはすべて正しい」とか盲信されたり崇拝されたりすることな。盲信てのは対象をぜったいに批評しない、てことであって、対象に対する責任放棄なんだよ。対象が道を踏み誤ったときも盲信しつづけちゃうわけ。それはアル中だとか集団自殺するカルト教団への道につづいてるんだよ。だから好きだと思った相手にこそいつでも本音をいい続ける誓いをすべきだし、それこそが真に愛するということなんだよ。あなたが生きるうえで責任をもってお付き合いします、という姿勢こそが愛だよ。
後醍醐帝の生まれ変わりの「人と深く関わらない」態度てさ、カウンセリングで生霊抜きしたあとに、相談者に詳しい背景を何も知らせずに「もう関わらないほうがいい」て一方的に突き放す態度に表れてる気がする。前世の件にしろ、悩みのネタに向き合わせずに逃げさすのを推奨する、てのは真の解決には至らないのに。えぐいとこまでガッツリ関わらなきゃ答はでてこないよ。カウンセリングじゃないけどさ、昨日もバイトで呼ばれて元の職場で店番してたらしゃべりにだけくる常連の男性客がきて延々しゃべって何も買わずに帰っていきましたけど、このテの人たちて店員と「会話」したいわけじゃなくて、自分の意見だけを一方的にぶつけていたいだけなのね。こっちの話しはビタ1文望んでないの。対人のキャッチボールじゃなくて、壁にボールぶつけてたいだけなんだよ。それを会話だって思ってるの。相手が理解するかどうかなんてどうでもいいらしくて、事情を知らない個人的な話を延々と語ってるんだよね。で、それがカウンセリングの店とかキャバクラとか、話しをさす店ならわかるけど、うちの会社てなんの関係もない零細の小売り業で、 まあ床屋談義なんだが、 一応店屋だから客を無下にできないじゃん。だからハイハイ、ておとなしく相づちうちつづけてるわけなんですけども、こっちだって終わらさなきゃならん仕事があるのにさ、1時間くらい平気で潰されるわけ。タダで好き勝手できる場所、てのに味をしめてるんですな。話し好きの常連客でも「会話」をする気のあるヒトは少数だけど居て、そういうヒトはこちらにもある程度の意見をいうように会話上でなんとなしに仕向けてくるんだよね。そのテの「相手を重んじる」会話客ならばちょっと長くいられても苦痛ではないんだけど、会話する気のないオナニー目当ての客の相手するのは本当に苦痛なんすよ。立場を悪用されて便器になることを暗に強要されてるわけですから。カネをとられる場所で話しをするのなんてまっぴらで、こういう場所を都合よく利用して場当たり的に孤独を癒せればそれでいいと思ってるドケチ性分なんだろうが、そういう人てたいてい独身だったり、結婚してても家族に煙たがられてて話をする相手がぜんぜんいない場合が多いんだよね。ズルくて卑怯な態度で相対してまわってるのは自分なのに、孤独に陥ってる原因を自覚できず「自分は被害者だ」とか思ってるんだろうな。責任ある対話をせずにいるとこんな末路に陥りますよという実例。なにしろ慈恵の件の結論じゃないけど、心根に苦悩を抱えたまま生涯を終えると来世までふつうに持ち越すてのがよーくわかってしまった。現世にきたらいちいち全力で解決してかないとツラさが数百年のりこえてひどいことに。なんかさー…凄まじいちからを持ってる人なのに、努力不足で能力が不全状態なまま有名になっちゃって、有名人状態なままで努力をしてかなければならないたぐいのヒトてぽつぽついるんじゃないだろうか。たとえば杉村太蔵とか。この人も最初出てきたときはなんだろうと思ったけど、なんかちょっと…後醍醐帝の生まれ変わりと通じる何かがあるような気がする。当人の努力次第でたいへんなちからがだせる向きなのかもしらん。しかし神仏がねじ曲がるとえらいことになるんだなー。あちこちの寺社仏閣でお参りにきたヒト全員の状態を精査しつつ各人に合ったご利益を常にだせる、てのを考えると本当に凄まじい霊能力だし、それがなんかの原因でねじ曲がると思うとちょっと震えるな。後醍醐帝の生まれ変わりについてさんざん書いたけど、実家内に居座ってる(つーかもしかしたらお腹にいるかも)彼の生霊はなんか…おいらが日記かかんきゃならんときに怠けてダラついてるとせっついてきたりするし、大事なときにせき立ててきたりするので、もしかすると和魂さんなのかな。よくわからん。傷つけたいのと仲良くしたい気持ちがせめぎあっててこんな相反するアレになってるのやも。そのわりに直に会おうとしてもぜったい来ないしな。
なにしろ相手を気持ちよくさすにはどうしたらいいのかをこれから学んでって大人の男になってくれ。会話で性交ができる大人の男に。都合の悪いことを言う相手を痛めつけるしかしないからヒーリング能力も低いままなんだよ。