怒りっぽい人は怖がりなんだよね

・世界のどの国からも共通して「悪」と見なされる人、たとえばヒトラーだとかオウム真理教の教祖だとか殺人を重ねた死刑囚、日本では靖国に祀られてる戦犯がそう見なされてるけど、そういう人に対して「お前など生まれなければよかった」て言うのが正しいことなんですかね。怨霊的な存在に対して否定的な気持ちを投げかけるとよけいにこじれる件を考えるだに道を踏み外した者だとか、失敗したり何らかの理由で負われた者の魂を迫害したり、阻害することで祟りてのはよりひどくなるんじゃなかろうか。戦犯と呼ばれる者を祀るに靖国神社でなければならない理由としては「祀られてる存在が鎮まってる」ことがなによりの証拠だと思う。祀る箇所や方法がマズければとっくに祟りがおきてるはずなんだよね。霊能力のないおいらの書く霊関連の話なんで話半分でかまわんですけど、このまえ靖国にひさかたぶりに参拝にいったんだが、霊気かげんがけっこう強烈で、おいらがかんじたかぎりでは出雲大社に届くかどうかくらいの規模なんじゃないかと思った。あれが祟るとちょっと何が起きるかわからんかんじ。仮に靖国を壊したとして、祟りがはじまったら何年かかって鎮まるかもわからない規模。いまの状態で鎮まってるのなら正しい祀り方だし、首相が参拝いってなにも起きないなら間違ってないんだと思う。ただ、政治屋や権力に近い人間が靖国に参拝にいくのなら不戦の誓いを立てることを義務づけるべき。そうでなければ権力者は靖国に参拝してはいけないと思う。靖国神社で不戦の誓いを立てた者がそれを破って戦争なんぞはじめようものなら確実に祟って国が乱れるから自動的に国賊になりかねないし。基本的に靖国に祀られてるのは「平和を築く際に責任をぜんぶ押し付けられた人」なので、ふつうに考えて死んだのちも戦争賛成してるとは考えにくいんだよね(またそういう人を生み出すことになるので)。あと、戦争によって築かれた平和、てのは勝った人だけでなく、負けた人がいるからこそはじめてつくられるものなので、そういう意味ではどちらに対しても「いてくれてありがとう」と感謝するのが市民的には正しいと思う。道を踏み外した者に対してさらに鞭打つ、て行いは更なる憎悪を呼ぶだけであって、真の平和を築くとは考えづらいんだよな…。首相が不戦の誓いしてるっての無視して首相による靖国参拝は世界への挑戦だとか中国・韓国が言いふらしてまわってるけど、彼らの行いは更なる憎悪を呼ぶための行いにしかみえないんだよね。不戦の誓いだという主張を無視されたら、首相の人が何言ってもいっさい信じないってことじゃないすか。いくらなんでもそれはひどすぎだろう。中・韓はそろそろ日本を引き合いに出さずに自国民の愛国心を育む方法を模索すべきなんじゃなかろうか。どさくさまぎれに呼び名を変更さそうとしたり(ユネスコに提出予定の慰安婦資料にはうまいことガッツリ稼いでた方々についてもちゃんと記載されてるんですかね)、日本叩きに他国も参加さそうとしたり、監視船による海賊まがいの仕打ちとかみるにつけ中国共産党だの韓国政府だののしでかすことには平和とは真逆の不穏感が満載ですなー。近隣諸国を挑発しつづけてるくせして我々は一貫して対話と協議による問題解決に努力しているとかよく言えるなあ。あと中国の手がけてるアフリカ開発て地元民への恩恵がほとんどないみたいだけど、これって植民地みたいなもんなんじゃなかろうか。なにしろ日本のような小さな国のことは今後お気に留めていただく必要はございません。中韓の皆様のますますのご活躍を心よりお祈り申し上げます。そういえば靖国関連で何週間か前から遺族の方の投書がいくつか出てたけど、これって日本遺族会の総意とみなしていいんだろうか。朝日新聞に出る首相の靖国参拝を叩く投書てどれも「国益を損なうな」「外国の言いなりになれ」「外国を怒らせるな」て結論ばっかりなんですけど、国益のために大きいモノに巻かれろ文言てなんか戦時中のプロパガンダに似てるかんじな。あと投書で靖国反対してる人てなぜか「生き残った遺族の気持ち」に忠実かどうかがいちばん大事だみたいな論理展開してるのばっかりなんだけど、靖国に祀られてる存在が鎮まってるかどうかがいちばん大事だと思うよ。鎮まってるところを掘り起こして解体しろとかいう中韓米は祟りが起きた時に責任とって対処してくれるんでしょうかね。 捕鯨できないようにさす取り決めがTPPにさりげなく盛り込まれてたり、大使の人が突然イルカ漁反対しはじめたり、結局白人さんたちは日本を自分らの意のままにしたいだけなんだなーと思った次第。朝日の投書がらみで領土問題については生徒自らが考えられるように公平に記述すべきてのはわからんくはないが、韓国軍が居座っちゃってる竹島だとか、もとはアラブ人の土地だったというのに植民地化後に普通にフランス人が住み着いてしまっているアルジェリアとかみてると「領土はあつかましく居座ったほうが勝ち」ていう事実しかみえてこないんすけどね。そういえば今日の朝日朝刊の天声人語は沖縄がかつて非武装だったことを礼賛するふうな内容だけど、かつてスペイン人が非武装のインディオを蹂躙しまくった件とかどう思ってるんだろうか。朝日さんは武力放棄が理想なのか?仮に武力放棄するのならスイスに倣って「どの国の肩も持ちません」てゆう冷徹かつ周辺国から白眼視される姿勢をセットで貫くことにしないと、なし崩し的に武力をもたざるをえない事態に陥ると思うけどな。
・怨霊…かどうかはわからないんだけど、1年くらい前にみた夢でね、大勢の観客が沸き立つ格闘技試合中の会場のいちばんはしっこにおいらがいて、すこし離れた場所に茶色い甲冑に身を包んだ人が格闘技試合をじっとみていて、あの甲冑の人はなんだろう…と思ってその甲冑人をみつめてたら、甲冑人がおいらの視線に気がついて突然茶色い触手を何本ものばしてきたことがあったんだよ。咄嗟にうしろの銀の人に助けてもらって事なきを得たんだけども、どういうわけか「あれは疫病の根源なのだな」と思ったんだわ。前回日記から今日までちょっとへんな風邪こじらせて寝てたんだけど、風邪てさ、なんか菌ごとに型みたいのがあって、医学の人が説明すりゃ単純なことなんだろうけど、たとえば鼻だけが異常に腫れるとか、喉だけだとか、その両方だとか、胃腸だけが荒れるとか、なんだか「最初に罹患した人」のかかり方をずっと踏襲してくじゃん?最初の人の痛みや苦しみがずうっと伝播してくありさまってのがなんだか孤独が侵蝕してくふうな光景にも見えてな。怨霊化した者は怒った際に災害だけでなく疫病をも流行らせるそうだけど、疫病の根には孤独…というか、ひたすら「自分」だけを振りかざして他者を従わせ続けた者の精神があるんじゃなかろうか。自分以外の者に取り憑いてまわって、自分の味わった苦しみをまま再現して味わわせる。一方的な虐殺に走った者、無茶な戦争を仕掛けた権力者(と釣られた市民)、欲望のままに殺人を重ねる者。そういった者の根には「他者を自分の意のままに操りたい」という思いが少なからずあるんではないだろうか。もしかすると他者が自分の思いどうりにならないことから異常なまでの恐怖や悲しみを味わったのかもしれない。意のままにならない他者を縛り付けておきたい、従わせたいという心持ちでいるかぎり世界にいるのは「自分」だけであり、いつまでも孤独なままだ。ではどうすれば孤独でなくなるのか。異質な他者から逃げないこと。納得できないのであればとことんまで意見を交わし合うこと。そこから逃げつづければ、自分しかいない孤独な世界で生きるしかなくなってしまう。他者を操りたい状態の人は世界(=他者)から自閉してる状態なんだな。たとえば支持する政党がまったく違うものでも変わらず友人でいることができるかどうか。予想から大幅に外れた異論ですらも面白がって聞けるような態度を貫ければ上等だと思う。誰かと対話をする際に「こんな返事がくるだろう」的な簡単な予想を無意識にしてると思うんだが、その無意識予想から大幅に離れた返事をされたとき、カッとなってしまったことはないだろうか。予想もつかない返事をされてつい怒ってしまったときは、それだけ考えの似た相手としか付き合っていないことの証と思っとくといいかもしれない。会話に於いてどれだけ異論を受け止められるかで度量や見識の程度がままわかってしまうのかもな…。異論を受け止める柔軟さと冷静さ、他者の意見に流されない強靭さをバランスよく保っていけるのが「大人」なんだろうな多分。会話だけじゃなく、なにかに怒るときってのは対象について理解できないと感じたときだ、てのをなにかで読んだ気がする。怒りを感じた時はとりあえず怒りをどっかに置いといて、相手の話に真摯に耳を傾けるのが最善の方法なのかも。後醍醐帝の生まれ変わりもいちばん最初の対面鑑定のときに何故かおいらを頭ごなしに怒鳴りつけてたなー。なんで相談にきたのに怒られなきゃならないんだろうと思った。彼は自分のよく使う手法(自分優位)外の対話を持ちかけられるとどうしたらいいかわからなくて怒鳴り散らすしかなかったんだろうね。なにしろね、他者の話を聞かない姿勢でいるとこういう末路につながってってしまうんだよ。自分が間違っていないかどうかを常に確かめるためにも、思ったことをなんでも他者(=世界)へぶつけてみるのがなにより大事。たとえ間違った意見だったとしても。すべてさらけだせば思いもよらないモノがもたらされるよ。自分や他者を怖がらないこと。友人間だけじゃなく、本来的に家族の利点てのは「異分野で生きる人からの色んな意見を聞ける場」になりうるところなんだがな。「こんな考えもあるのか」てのをいつもやりとりできるのが理想だけれども、誰かひとりが絶対的な権威者となって、その人の意見に従わなきゃならないとかなると集団自殺に向かうカルト化しかねないんだよ。大げさじゃなくマジに。結論として、どんな理由であろうと対話を拒む中国韓国は平和を望んでない駄々っ子すぎるというお話です。あと、後醍醐帝の生まれ変わりじゃないけど…霊能者の人でさ、その能力を悪用して他人の頭のなかを見ずにいられなかったり、会話もせずに考えを先読みしすぎて人間不信に陥ってる人とかいるみたいだけど「他人がどう思ってようと構わない」てのが真に度量の深いヒトなのであって、いちいち相手の考えを盗み見ずにいられない時点で「他者を操りたい」自閉心理に近い状態だよ。なんつーか、自分に自信がないことのあらわれ。すごくよくわかるけどそれはやったらいけないことだよ。あくまで個々人の意思を尊重して接してくれるからこそ神仏と呼ばれる存在が心地いいのであって、自分の思いどうりに従わせたい人が気持ち悪いのはその人がのさばることによって他者を認めない孤独が世界を覆い尽くしてくからだよ。おいらがそうだったからよくわかる。相手の迷惑も考えずにひたすら音叉鳴らして朝晩思念とばしつづけるとか、あんたらはこっちが思ってるような善人さんではないみたいだねえ。おいらのためじゃなくあんたらの我欲満たす為にやってるって、わかってるか?霊能力があるからって何してもいいのか。なんだか…強い霊能力持ってる奴てのは多かれ少なかれならず者だな。男女とわず。人間関係に於いてやっちゃいけないことを易々とやって優位に立ってると思い込んでやがる。ふざけんな。見損なった。後醍醐帝の生まれ変わりはちょっと傲慢になってるだけで、ああみえて大事なとこはわかってんだよ。光と思っていた者が闇だったてのはこの事なのか…。AJさんな…。あんた、その闇に向き合って自覚してかないかぎりいつまでたっても開眼できないよ。慈恵の守護がついてるだけに似たとこがあんだろうけど、だからこそなおさら。これからトシくったらもっと頭がかたくなるから、今から始めないと更に向き合いづらくなってくよ…。無様なとこは他人に見せない狡猾さがあるからこんなふうに書いても聞き入れないだろうけどね。後醍醐帝の生まれ変わりは素直なだけにまだ救いがあるけど、あちらさんは名を成してプライドが山のように高くなってしまったからすごく難しいのだろうな。IKさんな。あんたおいらの夢に出たいんだろ。こっちはお断りだから止めろ。夢にでる方法てのはいちばん原始的な方法があるけど、それやられても困るし、まあ道具に頼ってるかぎりは無理だよ。思念の弱さ(おいらに対してその程度にしか想えない証左なんだが)を道具で補おうってのがそもそもナンセンス。夢の件はむしろ霊能から遠い人のがよく知ってるだろうな。そもそもおいらに夢でなにを見せるかは後ろの人が仕分けしてるみたいだからやたら飛ばしてもだめだと思うが。なにしろ個人的な欲求に基づいて人のアタマん中を勝手にのぞくのは霊性を下げてくことにつながるっつー話。霊能者のヒトで他人の考えが見えちゃってツラい、てヒトもいるんだろうけど、対話術をマスターして「こう話しかければ相手の考えがこう変わる」てのを実地に実験して結果が即みえるからすごくいいんじゃないかと思うがな。対話術も磨かずに相手の考えのぞいていちいち絶望するとかバカじゃねーの?打たれ弱すぎだろ。なんでそれをプラス要素に持ってかねえんだよ。宝の持ち腐れとはこのことだな。えーと…だいぶ脱線しましたけど、疫病の根源と思しき触手鎧の奴な。あの鎧は世界(=他者)に対して自閉した孤独な精神の象徴なんじゃねえのかなとちょっと思った。あの鎧の中にはいったいどんなヒトが入っているのだろうね。いつかその人を見れる日がくるんだろうか。疫病と怨霊と孤独、てのが前世紀を象徴するナニかに思えてな。光と闇の統合がらみでもういっこ書いとくか。あえて誰とは書かないけど文殊菩薩の生まれ変わりさん、それと件のAJさんね、多くの人を笑わせるために自分のオナニーの仕方についてブログに書いたりできる?それは「自分より他人」の精神をちゃんと貫いていればできることなんだよ。それができないってのは「他人より自分」の状態から抜け出せてない証拠。そこから脱して「自分より他人」を実行することができると、性ネタも政治ネタも霊ネタも自然現象も、同等の目線で突き抜けたことをスラスラ書けるようになるわけ。なぜならそこには自分(という小さな殻)を守る恥が存在しないから、触れられないネタなどなにもなくなってどこへでも自由に突きつけられるのよ。如意さんの書いてる「五蘊の衣を脱ぎ捨てる」てのはそういう意味だと思うよ。異論は認める。わしは最近両手を使わないとイケなくなってきた。トシをくうってのはそういうことなんだな…。あとな。多すぎる知識が相手と対等の立場に立つのを阻むときがあるよ。おいらや吉野さんが知識ゼロの状態で色々やらされてるのは、神仏を前にしても「だから何?アンタなんなの?」ていう万物に対して対等な態度を貫くために絶対に必要だからだと思う。過去に何したヒトだ〜みたいにいちいち感激したり崇拝したりしてたら冷静な目を保ったまま「思いを代弁する」ことがしづらくなるよ。万物に対して最低限の敬意を保って接しつつも過剰に肩入れはしない、ていうのが大事みたい。知識でモノをみるヒトは絶対必要だし凄く大事な人なんだけど、おいらとかのお役目だとそれが邪魔なんだよ。
カネではなく心の持ちようで幸福を強要さす(信仰の厚さの裏には貧しさがある件参照)て、竹槍でB29を落とそうとする戦時下の日本人の精神状態に似てますね。シアワセ追求といえば幸福への欲求が強くなりすぎた結果として多くの人を踏みにじることになった件欲望のままに「不快」ブツを避けてばかりいるとどんどん虚弱になって、無菌室でないと生きられない精神状態になる人(例:コンビニに並んだエロ雑誌に耐えられないおばさん)と似通ってるなー。嫌いだから、つって偏食を容認しつづけたら栄養が偏って寿命もおのずと短くなりますしね。そういや菜食主義の人てカルシウムはどれで採るんすかね。リアル骨弱の夫人から聞いたんだが、幼少期〜20代くらいまでにたんぱく質だとかカルシウム含有食品をちゃんと摂取しておかないと骨がスッカスカになっちゃって、その状態でトシくってから慌ててカルシウム含んだもんを食べはじめても手遅れなんですって。夫人は子供の頃やたら炭水化物ばかり食べてたら骨スカスカになって、最近医者からそれを指摘されたそう。僧侶の人とか炭水化物中心すぎる食生活だけどだいじょぶなんだろうか。ビタミン欠乏による脚気とかよぎってしまう…。まーヒトのこと言えんのだがな…。毎日晩飯時にお腹にいる方々のために純米酒を飲まなくてはならないんだが(飲まないでいると寝る間際に腹の中から激しく抗議される。ちなみに吟醸系はダメで純米酒のみ)、ツマミもやっぱり野菜系が好ましいらしくて、魚とか肉とかNGみたいなんよね。そういうのたべるとオエッてなっちゃうみたいなのでかわいそうでたべられないんだよ。昼飯時はなに食べてもいいみたいなんでそうしてますけどさ。神仏て米を醸した酒はOKなのに、ジュース類は嫌いなんだよね。肉や魚をジュースにして飲んだりしないでしょ?てノリらしい。おいらも果物や野菜のジュースのむとお腹の方々がオエッてなるくさいんで飲まないようにしてる。寺社仏閣の供物であげるのもNGだぜ。神仏はジュース系はゲテモノ視してるよ。んで食い物のことなんだが、純米酒のんでご飯くうとけっこうな炭水化物量でな…。ビルダーの実兄がいるだけに本来的にはそうゆう偏った食生活はしたくないんだが、せざるをえないんすよ。わしの場合甘いもんがすきくないんでそこらへんはギリギリバランスとれてるのかもしらんが…。そうゆう食生活になったせいかどうかはわからんが、なんか…神仏の嫌うもん(魚介・肉・ニンニク・ネギ)をクチにすると臭みが際立つふうに感じられてしょうがなくてな。これってなんだろう、お腹に神仏がいるから味覚が変わったんだろうか?それとも意識的に避けてるから臭みのあるもんの味が久しぶりすぎて際立ってるだけなんだろうか。よくわからん。おいら自身は嫌いじゃないんだがね…。お腹の方がイヤがるもんをあんまりたべるのもかわいそうでな。尚、急に食べなくなった理由として「最近嫌いになった」とか苦しい言い訳で日々切り抜けています。そういえばさー16日あたりで摩陀羅さんがいなくなってしまったみたいで、なんか寂しかった(2013年1月6日に入ったからちょうど1年ちょいだな)。なんもいわずにいなくなっちまうんだもんなあ。せめて最後に茗荷の浅漬けでもたべてあげればよかった。前回日記で摩陀羅さんの言いたい事を書いたからお役御免になったぽい。お腹にいる方の言いたい事をおいらが書き尽くすと、彼らもいなくなってしまうんだろな。なんだよ。突然居座ってわがまま放題やってると思ってたら急にいなくなりやがって。
冒頭リンクした件じゃないですけどマイナスとみなされがちなモノに向き合うことでしか心は鍛えられないとのことで、こわいとかイヤだと感じるモノにこそ真摯に向き合うことでおのずと幸福はやってくるのかもしれませんよ。怨霊しかり神仏しかり。ちなみに生まれ変わりの件でしみじみわかったけど、神仏の愛てのははじめてのおつかい(わざと重たい物持たして泣かすとこが児童ポルノ的にあざといね)で出かけてったチビッコたちを家の前でママさんたちがずっと立ちつくして待ってる、あのかんじに似てる。何回生まれ変わってもその姿勢は変わらず、ずっと待っていて見守ってくれる。何百年も前と同じふうに。