あやまるのって簡単なんだよね


ここらへんのヒトが「ちゅーごくの機嫌損ねたら世界中が貧乏になっちゃうじゃないの!生活費どうするのー!」て母親的な観点からキー!!てなってるほうで、アメリカンは中国の日本敵視煽りにノせられすぎてるてのをちゃんとわかって冷静な視点を推奨する父親的な観点のほうと、双方おられるのですね。中国・韓国・日本らへんが仲良くなってガッチリ稼ぎだすと、そこらへんのガッポリ効果がめぐりめぐって欧米のほうへの波及してくだろうからいいかげん仲違いしないでー!!てなるのもよくわかります。モメるのか?!モメないのかー?!みたいなとこでフラフラしっぱなし、てのもわりと好みではあるんですけども。モメごとを率先してつくってるのは中国も同じですしねえ。「元手をなるたけ安くしたい」商売人たちが貨幣価値が低いからってアジアあたりにウヒヒーて工場つくりまくったはいいものの、いまだに「敵を倒せ」プロパガンダをしてる共産(社会?)主義国のいいなりにならざるをえない構図になっちゃった、てのも面白いもんですなー。恐慌を盾にイビられる自由の国(笑)他国で儲けようってヒトは現地の情勢不安も込みでぜんぶ引き受ける覚悟で行かなきゃね。お上が被害蒙ったヒトのケアより経済を重んじがちなのは結局おカネがないとなんもできなくなるから、てのと同じで、明日の食い扶持不安が高じるホドにゼニ優先になるのも至極あたりまえではあるけども。ちゅーごく韓国が同時に日本企業に戦時賠償を求めはじめたあたり、市民の抗日熱の落ち着きどころをどうにかつくんなくちゃなんねー感がむきだしですな。親日は韓国では支持率下げる要素(でも6割は親日て書いてありますね)だからこそ躍起にならざるを得ないんしょうけども、どうも中・韓政府が醸成してきた「敵(=日本)に立ち向かいましょう」教育が今になって自分らの首を絞める事態になっちゃってるふうにも見受けられるんだが。いまさら日本=敵煽りをやめるわけにもいかんのだろうな。朴さんは特に政治関係者を信用できないふうなとこなんかがこじれる一因にもなってるかんじだけど。ちゅーごくはなー。成長しつづけるために土地ころがしを止められない原因はそもそもが民主主義じゃないから(地方の政治家の人事を決めるのは住民じゃないから、住民を手酷く扱ったって地方政治家にとってはなんの痛手もない)、てのと中国では司法も共産党傘下にあるので権力の暴走を止められないての考えるだに「異論者の存在をたいせつにしない国は自己批判も甘くなって問題点を改善できなくなってく」てことであって、結局民主主義でないと噴出する問題に対処できなくなってく、てことなんじゃなかろうか。市民が軽んじられる体制てのはどんな主義下だろうと行き詰まるんだねー。しかしトーさんといい香港のヒトはさすがに冷静だなー。なんの根拠もないけど、ちゅーごくと日本とは孫文を軸に関係改善していけるんじゃないかとはなんとなく思ってる。韓国はしらん。
その像をみるたびに現地のヒトには日本人=極悪、ていう漠然とした印象が刷り込まれてくでしょうね。そういう銅像をつくる事態が「特定の視点からしか戦争について考えさせない」ことの現れにしか思えないんだけど。事実を知らせるよりそれが目的でやってんだろうなと思わずにいれんよ。グレンデールのヒトビト的には占領下に米軍兵に孕まされた女性を置き去りにして帰国したのを忘れないようにする銅像つくるのを推進しようってことだろ。記事にでてる日系米国人のヒトはさ、アジアのいろんな国のヒトに対して謝罪してる?イラクのヒトに会うたびに謝ってたアメリカンじゃないけど、謝れば済む問題なのかなと思わずにいれん。そういうモヤモヤを抱えてたくないからさっさと謝っちまえ、て利己的な発想がそこには少なからずあるんじゃないのカナー。物事を多面的に考えさすには突飛な意見が出ても排除せず、とりあえず考えてみる、て姿勢でいるのがいちばん大事なんじゃないかと思うけど、あのテの銅像はそれとは真逆の精神を推奨してるよね。イルカ狩り嫌いの大使の人が戦没者参りをした、て面からすれば戦時勝者に対する印象分析視点を持つのもまた大事てことになんじゃないのカナー。平和を重んじるを大前提としているのであれば、戦史をいろんな視点で分析するっていうのもまた必要なんじゃないかと思うよ。勝者側が良しとする観点から外れた見方をしたからってソッコー極右あつかいしだすほうがどうかしてるだろう。
これてたとえば会田さんがミヅマとか高橋龍太郎をディスった作品つくったとして、それを当人たちが展示したり買い上げたりしてくれるのかって話なんだよな。自分をあざ笑ったもんを拒否したくなるのが人情だし当たり前なんですけども、国や自治体はそこらへんをわかったうえで展示を許す、てしてくれるとすごいんだけどなー。異論者をゆるす、てのを行動であらわすとすればそういう度量の深さが必要になってくるんだけども、ただ「国家批判」は突き詰めると体制転覆的なほうにイキかねなくて、国の施設で展示されてた国家批判作品に感化されてクーデター的なことをした人が出たとすると、作品をつくった作者は「作品の展示をゆるしてくれた人を追い出した」てことになって、結局だれにも展示してもらえない、てことになっちまうんじゃないのかなー。「自由」解釈をはき違えすぎると真逆の事態を生み出してしまいかねないというかね。懐の深さを要求しておきながらそれを破壊することになるというか。そうすると作品の作り手は結局「恩義を勘案する精神を忘れちゃいかん」てことになるのだよな。展示させてくれてる、て恩義を忘れたらヘンなことになると思う。批判はするけど敵視はしない、て精神を前提にする心構えが展示者側にも鑑賞者側にも行き渡ってるなら問題はないんだろうけど。国家批判作品を展示したいんだったら他でやるのがスジというか礼儀なんじゃないのか。表現の自由云々とは微妙にちがう話な気がする。
さっきノンストップ!で天皇の玄孫の人がオリンピックの件で出演者全員から総反論されてたけど、いかにも常識から外れたもんを排除したい的なノリだったなあ。なんだか今の日本社会の「異論者を追い出したい」欲求(から醸し出される異質な存在への冷たさ)が端的にみえちゃったかんじだった。考えもしないような意見がでると過剰反応してギャースカやっちまうのはわからんではないがね。ディベートの授業かなんかでたしか「反論者役をやる」てのがあったけど、そういうのくりかえしてると冷静に「反論」を楽しめるようになんじゃねーかと思うが。異論のない社会、てのはつまんないんだよ。異論に対して一刻も早く追い出したい的な反論をギャーギャーやるんじゃなく、議論自体を楽しむ感覚でやりとりしてたらもっと面白くなるんじゃないかなと思った次第。玄孫の人は「負けてすげえ口惜しいはずなのに楽しかった、てなんなの」てことを言いたかったんじゃないかと思う。選手のいうアレは「負けたけどヘコんでません」ていう視聴者からの無言の憐れみに対する反論の一種なのでは。いやよくわからん。視聴者もメダルを期待していないと言いながらも獲れないとなるとガッカリするくせにね。勝手なもんだよ。結論としてメダル期待煽りするテレビがいちばん悪い。
・いつも本売りにいくとこの店主さんが「前回の東京オリンピックでおもてなしのためにホームレスだとかヤクザだとか共産主義者(アカ…てそんなに素行不良だったのか)等の見目よくない方々を国が見えないとこへ追いやった」的な話をしながら「佐村河内音楽で感動して騙された人は実はホームレスを嫌う人なのではないか」ていう推測をぶつけてきたのでいろいろ考えてたんだが、「自分は善人と思いこんでる人が実はすごく冷たい心根を持ってる」てのはつまり…その人が思う「善」てのは時の権力者が良しとする常識に忠実かどうかってだけ、てのに気づいてないってことなんでしょうね。助けが必要なヒトが目前にいても、時の常識に従うことを優先してしまうっつー。要するにコルベ神父の立派な姿勢を目の当たりにしながら「なにこれチョー感動する…!でも、仕事だから殺さなきゃ。注射器もってこい」てノリの収容所の仕事熱心な公務員たちとおんなじってことですな。この話をしてた店主さんは佐村河内音楽に付随してた程度の情報でなんで騙されるのかわからんふうにしきりにいぶかしんでましたけど、あれは「耳聞こえないのにどうやって音楽つくったー?!」的な、なんつーかスプーン曲げ的な客寄せ要素も絡んでるからだと思う。もうほんと2重3重に売らんかな要素が重なってんだな。あと、店主さんとおいらが同意見だったのが「見世物小屋とかテキ屋がいなくなりすぎたこと」が起因してる説。大イタチみたいので「こんなもんか」て、騙されても許すべき「程度」を知る機会があまりにもなくなったことから「障害もち=善人」的常識を疑ることすらできなくなってしまってる、つー。個人的にはそれにプラスして「損に耐えられない」銭ゲバ気質を突き詰めすぎたことも一因じゃないかと思ってる。ちょっと損したり欠陥商品があると訴え出したり、ていう、自分がトクしてないと我慢ならない下品さに駆られてるのに気づいてないつーかね。銭ゲバを至上とするあまりに他者が生きるための余地まで許さなくなってるふう。要するに損や失敗に対する観念がひとつ(=マイナスイメージ)しかない、ていうことなんだろうな…。前述した「見世物小屋」にはホラーやスラッシャー的な映画も含まれてて、最近テレビでそういうのぜんぜんやらないよね。常識とはかけ離れた世界を知るにそこらへんのも必要なんじゃないかと思うけど。ヤクザ映画にしろ、裏社会でしか生きられないたぐいのヒトたちが生きる余地を勘案してあげる契機にもなるかもしらんし(そういった者との距離の置き方を学ぶにはそういう者を描いた作品をみるしかない。完全に排除すると適度な距離の置き方が永久にわからなくなる)。優しさとか精神的豊かさ、てのは本当は排除はせず「適度な距離を置いて付き合う」てことだろうに、時の権力者の「排除」観念を善行と思い込んでる市民が多いってことなんだろな。犯罪を増やさせず、かといって排除せず、精神的余裕をもってあたる、てのは考えるだに難しいことなんだけども、どうも最近「ちょっとした汚れをも許せない」心根がさも善みたいにみなされてるふうな風潮が気味悪くってな。抗菌剤だとか消毒薬のCMでも「どこまで消毒すればいいか」みたいな上限が提示されずにひたすら除菌!抗菌!て煽ってるだろ。自社しか扱ってない商品を売るために病気への恐怖煽りをする手法と同じで、アレの「煽り」を純粋に信じ込んでる視聴者てわりといるんじゃないんだろうか。名づけによる印象操作てのも気づきにくいし。見世物小屋テキ屋をゆるさん、てのであれば、商売人の繰り広げる売らんかなの煽りを見抜く訓練てのを義務教育なんかでしたほうがいいんじゃなかろうか。
ところで解雇された荒くれたちはどうするんだろうな。えらい数だ。荒くれをもグローバル化さすと血も涙もない銭ゲバ化してしまう件は前回取り上げたけど、そもそも流れもんのヤクザが恩義をかえすことに忠実だった、てことは昔のヤクザは本来的にゼニが目当てで生きてるわけではなかったんだろな。そういう生き様を貫いてさえいればカタギに迷惑がかからずに済むわけだ。