「謝罪をしない=悪人」て常識をつくりだしたのは誰なのか

慰安婦=全員被害者として日本に謝罪と補償を求めてる件て、戦で負けた側の詳細情報を勝者側がぜんぶ破棄して「怨霊」としてしか語り継げないようにイメージ操作していった件と同じことをやろうとしてるように見えるんよね。韓国が喧伝しまくってる「慰安婦=全員被害者」が今後まかり通ってしまうとこういう事実がおそらく全部なかったことにされてくんじゃないのかな。韓国政府が責めるに際して「日本兵による強姦」じゃなくあくまで「慰安婦」を掲げてるのって、前者の表現だと個人の行動と見なされて「国家」への追求がしづらいからなんでしょ。でも慰安所日本兵による強姦を減らすためにつくったとこだから、それを悪の象徴と決めつけたら当時のつくられた事情までもが「なかったこと」にされちまいますよねえ。アメリカの政治屋さんは自国内の韓国系アメリカ人に逆らうことができなくてなし崩し的に「敵を憎め」プロパガンダに加担してんのな。被害側の味方について加害側を叩くって、自分が責められる危険がなさげなバカでもできる正義の味方演出ですからねえ。いまだに下半身でガッツリ儲けた立派な女子についてろくに讃えることもできない世の中てのもちょっとどうかしてると思うけどな。職業について大っぴらに話すこともできず「恥」として認識されてる時点で職業蔑視にしか思えませんけどねえ。なにしろ戦争ネタについて単純な面からしか理解させないような弾圧的思想から派生したような勧告にはまったく賛成できません。アメリカンもアカ狩りの際に映画のヒトをさんざんヒドい目に遭わせたのと同レベルのバカ行為に乗っかって善人ヅラしてるようにしか見えんよ。マヤの神話じゃないけど、失われた文書ほど面白そうで歯噛みせずにいられんのよ。昔話のリメイクだけじゃなく名作映画のリメイクでもそうなんだけど、オリジナル版のいちばんエグいところがまま鑑賞者の心を揺さぶる最も大事な箇所なのに、あとになるとそこを削っちまうんですよね。それはなんでかというと時代ごとの「効率」を優先するためなんだよ。審査に通るようにとか、誰からも文句いわれないようにとか、そういう観点を押し通してると元のにあった凄まじいエネルギーをもつ面白い箇所がゴッソリ削られてくことになんだよね。怨霊とされたヒトだってほんとはいろんな事情がもっと詳細にあったはずなのに、ハナから「恐ろしいヤツだった」みたいに後世にも思わせるために複雑な事情などなかったかのようにされちまうんですよ。被害側のゴキゲン伺いしなくちゃならんアメリカンは結果的にそれに加担する形になってんですなー。韓国のヒステリーにうんざりするアメリカン「も、もうメンドクサいからあなた悪者ってことでさっさと謝罪して穏便に済ませてよぅ(震)」敗者側には適用されないことが大前提の「表現の自由」(笑)そもそもさ、「笑え」て言われてする「笑顔」て、心の底から楽しいわけじゃなくて、強制されたから「笑うときにやるのと同じ表情」をただ再現してるってだけだろ。それは偽の行動であって嘘に過ぎないんだよね。自発的に出た感情表現にだけ宿る真実なんかどこにもないわけ。それと同じで「謝罪しろ」て言われてする「謝罪」て、心底からのあやまる気持ちがあると思う?あるわけないんだよ。人の気持ちは簡単に変えらるモノじゃないてのは至極あたりまえのことなのに、こと謝罪となるとその型だけを踏襲してみせるだけで「一応は反省してるな」的に安易に納得してしまう風潮をだれもおかしいと思わないてのもちょっとどうかしてんじゃなかろうか。「謝罪=反省」て自動的に見なされる風潮自体がなんだかヘンなんだよ。マジに反省してるかどうか精査したわけでもないのに「謝罪行為を型どうりにする」行為をなんだか謝罪を求める側が見たがるんだよな。加害側を屈服させて心の内のモヤモヤをどうかして解消したい気持ちが被害側に大きいからなんだろうけど。でも、それって真の反省や謝罪行為とは何の関係もない効率優先の演出行為でしかないんだよねえ。効率を優先する体制が当たり前になりすぎて「人の心など簡単に変えさせることができるのだ」と思い込んでる向きが多すぎなんじゃねーのか。それってスポーツ選手の指導者が場当たり的な体罰でむりやりどうかしようとしたり、ちからづくで相手を振り向かせようとする虐待なんかと同じ暴力行為なんじゃなかろうか。笑え、泣け、謝罪しろ。どんなに強制したところで人の心をちからでねじ曲げさすことなんて誰にもできないんだよ。「強制的に謝らせる」て、相手の気持ちを頭ごなしに無視してるじゃん。相手を屈服させたところで何の解決にもならないんじゃないのか。感情表現を強制された側は心を閉ざすばっかりなんだよ。蛮行時の精神を正義として掲げてるようなもんじゃん。ねじふせられたからって、ねじふせかえすの?謝罪であろうとセックスであろうと、相手に強要した時点で相互理解からはさらに遠ざかってしまうんじゃなかろうか。蛮行の精神と同じ強制でもって謝罪を要求するかぎり、おいらは決してあやまらないよ。それは憎悪の根を植え付けてまわるのと同じことだ。真に蛮行をなくすためにというのなら、気持ちの強制などあってはならないはずなのに。加害側が「謝罪にたどりつくまで」にしろ、被害側が「ゆるしにたどりつくまで」にしろ、本来的にはものすごく時間も手間もかかるモノなのに、じっくりとそれに向き合うのがヤなのと面倒事をさっさと片付けたい本音を優先させたくて「謝罪行為」を型どおりに踏襲させることをさも道徳であるかのように見なし続けてきたんだろうね。市民全体が。被害側が「ゆるしにたどりつくまで」の面倒くささが疎まれて軽んじられているからこそ、加害側の身勝手行為が善行みたいに見なされてんのかもしれん。被害側のゆるしも得られていない状態で、加害側が真っ先に謝罪する自体が身勝手甚だしいこと(いちばん大事なのは被害側がゆるしに辿り着いたかどうか)なのだけども、今はテレビで視聴者全員が被害側に感情移入して加害側を叩きたい欲求に駆られてる状態になってばかりいるだろうから、本来的な作法の間違いに気づきづらくなっちまってるんだろうな…。加害側が謝って誰が得するの?て考えると被害側じゃなく視聴者の溜飲を下げるくらいなんだよね。悲しんでる中のヒトにしたって、加害側が謝罪して即ゆるせるとは思えないし。ほんとに気持ちが変わるまでって、納得にたどりつくかどうかってことだろうけど、カップラーメンじゃねえんだから数分とかで変わりっこないんだよ。ヘタすると何年もかかるかもしらんのに。でも、自分でたどりつくってことがいちばん大事なんじゃないのか。気持ちに寄り添うことがなにより大事なのに、それを差し置いて謝罪をよってたかって強要する、てのがねえ…。そこらへんの一連の「謝罪行為」が免罪符として認識されてる、てのを見世物師はよくわかってるわけですな。特に佐村河内は「誰もが触れたがらない事例」についてすっごく敏感みたいなんだよね。市井で無条件に信じ込まれてチヤホヤしてくれる状況下にあるヒト―「被害者」だとか「障害者」ていう現代ならではの禁忌物件とされてるヒトになりかわることによってうまいこと人の心とお金の両方をつかむことができる、つー社会の隙間を見出す才能が突出してるとゆうかね。よくよく考えてみりゃ謝罪行為の真偽についてろくに精査しようともせず、加害側の謝罪行為だけ見て溜飲下げるだけで済ます風潮を良しとするような効率優先バカに成り下がった市井がこのテの見世物師に騙された、てのも何の不思議もないことですな。