他者を踏みつけにしないと保てないメンツなんて持ってる意味あんのかな

日本が謝罪しないから仲良くなれないとかどのヅラ下げて言ってるの?あんたらの時代遅れの抗日煽り政策がもう通用しないだけなのに、それをまかり通さない日本側に責任なすりつけてんじゃねえよ。中韓の繰り広げてる「日本=敵」喧伝に付随した謝罪要求てさ、中韓市民の鬱屈が自国政府にまともに向けられそうになるたんびにはじまるんでしょ?そうだとすると日本が言いなりになって謝罪したところで将来また謝罪要求を繰りかえしてくる可能性大じゃんかよ。自分らの政策のマズさを日本の戦時犯罪追求にすり替えて目くらましするとか幼稚なやり口だよねえ。日本を屈服させる煽りで場当たり的にストレス発散させて済まそうとするのはもう止めなよ。純粋に戦時被害者の気持ちに寄り添うのであれば交流が大前提となるはずなのに、そんなことは二の次でいい、てのが中韓政府の本音なんだろ。正義の味方ヅラしながら中韓政府の責任なすりつけプロパガンダに加担するアメリカンもなぁ(笑)アメリカさんさー人件費抑えたい目的の奴隷元手ありき商法にしがみつきたいだけのくせして、そこひた隠しにしながら中国の言いなりになってんじゃないよ。あんたら相変わらず奴隷商人精神のまんまなのな。まー貨幣価値安い国に工場つくりまくってる日本もヒトのこと言えたもんでもないけどさ…。それにしたって軍拡しまくってる体制側についたうえ時代錯誤の敵たおせプロパガンダにまんまと操られて「日本あやまれ」とか(笑)世界の警察(笑)火種づくりに加担しといて穏便推奨て言ってることとやってることが真逆にしか見えませんけど。敵を倒せプロパガンダと相互理解は両立できなるはずもないて事実が現れていますね。ちゅーごくが民主化したら没落すんじゃないか的な疑念が捨てられないてことはつまりそれだけ天朝が自国の市民を信用してないってことなんだろうが、どこの国や集団であろうと「異論者からもたらされる視点」を排除してるかぎりは自分とこの体制を刷新しつづけることができなくなると思うがね…。
戦時がらみでこの件(270人のうち自発的に参加した向きの割合はどれくらいだったのかしら。上官とこにむりやり連れてったのは2人なのね)にしてもインドネシアの現地住民のヒトはお金もらって黙っちゃったみたいだけど、なんか…戦争ってお金が密接に絡んでるんだよね。利益をむざむざ手放したくない貧乏根性からイキオイ戦争推進しちまったり、税金つぎこんだ手前むざむざ引っ込めるわけにいかなくなったから事実から目そむけて願望を優先させちゃったりとか。戦争がはじまる要因にはカネを惜しむケチくさい心根があるっぽい。戦争について悪だの加害者だのと断じて済ましてるとこういう件も見過ごされがちになんじゃないのかな。「戦争はいけない」「加害側=悪・被害側=善」観点を優先させすぎると戦争があったからこそ生み出されたモノをもすべて「悪」と見なして排除する方向になりかねないんだよね。その世界観下でしか生み出されないもんまで忌避する、てのは当時の社会状況下でしか才能を発揮できなかったヒトが戦犯扱いされて殺されそうになった件でも顕著でやっちまった人を責めたくなるのが人情ではあるんだけども、忌避したり否定したり、てのが実際に平和につながるか、ていうと、むしろ真逆の方向へ行きやすくなってしまうんじゃないのかなと思う。虐殺の根には「存在否定」があって、それを「善」だと認識させつつその観点でしか物事を考えさせないようにする、ていう思想を押し進める体制に易々と従ってしまう怠惰な気持ちこそが「悪」なんじゃなかろうか。平和の旗印の下それに反する存在をすべて敵視する、てのは権力者の是とするプロパガンダを信じ込んで「敵を殺せ」とか叫んでたノリとまったく同じなのよ。それは善でもなんでもなく、時の常識に乗っかってるだけなの。流行とかトレンドのブツがでるや真っ先に飛びついてまわってる人と同じなんよ。ビッグブラザーの翼下こそが至上!とか思い込んでるんだな。悪くいうと日和見てやつね。そこらへんの怠惰でドケチな心根のまま戦争に突入してって、戦費もなくなっていよいよニッチもサッチもいかんくなって選択肢がない状態となると考えるのもやめてしまうという精神衛生上最悪の循環がはじまってしまうつーわけですな。よい(とされる)素行から外れた行動をせずにいられない状況に陥ったときに、自分を卑下するしかなくなってしまってどんどん何もできなくなってしまう悪循環がはじまってしまうのと似てる(ちょっと調子崩したヒトの休養を勘案してあげる余地をつくるだけでもだいぶ違うだろうにねぇ…)。なにしろ飛行機づくりのヒトじゃないけど、当時はこういう状況だったんだな、と勘案しつつ、純粋に作り手の才能を評価する、てのもまた「戦争へと突っ込みやすい状態から距離を置く」精神を醸成するに際して大切な観点のひとつだと思う。不条理体験はつながりをつくる礎になるてのと合わせて交流時に共有できるようになればいいね。謝罪は言葉ではなく態度で表すようにしないと、いくらでも偽れる「型(=言葉)」だけが空っぽなままでまかり通ってしまって、結果的に被害側と加害側双方のこころの変遷が置き去りにされてしまう(「型」を優先さすのは場当たり的な鬱屈解消と効率優先させる行為であって心がないがしろになる)、ていう観点もセットで。
ところでこれでディレクターさんの母ちゃんが亡き旦那さんとの確執語ってたとこみて気難しい親との確執思い出さずにいれなかった。祖母・祖父の時代てお見合いが主流で、当人が好きかどうかってのは二の次でいっしょになるもんだからケンカが絶えないんですよね。実母も祖母とコミュニケーションがうまくとれない間柄でしばしば泣かされてたのだけど、祖母が亡くなったときに実母がことのほか号泣していて、なんつーか…色んな感情の入り交じった複雑な心持ちになってしまって泣かずにいれんかったそうだ。たとえいがみ合い通しだったとしても、憎悪しかなかったとしても、心動かされた相手であることには違いないんだよ。ヒトと深く関わるってことの難しさを目の当たりにしたよ。深く関わる難しさといえば柏の件といい秋葉原の件といい、無差別殺人やらかすのはひどく孤独そうなヒトばかりだな…。こういうのおきるたんびに「物騒な世の中だな…」つって思考停止してると理解から遠ざかりそう。一方的に責めたって解決にはならないしね。社会からはじき出された荒くれたちの生きる余地について、あんまり真剣に考えられてはいないかんじがするな。 取り締まる前に例えばみんな引き連れて白バイ研修に連れてってやるとか、いっしょにバイクで走るとか、お巡りさんたちと好きなもんで交流してくほうがよっぽど犯罪へってく気もするが。荒くれと見なされるヒトほど情深いらしいし。優先すべきは取り締まりではなく交流なのでは。交流こそが相互理解への道な件じゃないけど、五輪演出にしろ政治にしろ誰かに丸投げして済ませずまかせた人とまかせられた人がいっしょになって考えてくのが大切とのことですよ。
ところで農家やってたヒトが災害後の避難先でやることがなくなってしまう件て前々から気になってたんだが。仮設に移り住んでも従来どうりの仕事を継続してゆきやすくなるような体制とかつくれないだろうか。