ショック描写を忌避してるかぎり人の心をゆさぶる表現を駆使することはできないよ



・ネコていちど怒るとゆるすまで凄く時間がかかるらしいけど、それは生まれついた本性に忠実なだけで悪でもなんでもないんすよね。真に個性を尊ぶというのなら、どれくらい怒っていつ許すか、感情の納得どころの固有性も尊重してあたりまえですし。そこらへんからすると、怒ってる人に対して「もうゆるしてあげなさい」てのは相手の感情について否定してるようなもんだよねえ。憎悪や怒りを手放しやすくなる観念として「執着を捨てろ」てのがあるけれども、それは効率よく「ゆるし」にたどりつくまでの手間を省く為の観念であって、納得へと続くゆったりした感情体験を全否定してるも同然なんじゃねーのかなー。自分の怒りや執着具合にじっくり向き合って、どうやったらゆるせるのかな…?て腰据えて考えつづけるのだって立派な道徳体験なんじゃなかろうか。ゆるしにしたって苦しみが伴うからこそ尊いんじゃないかと思うけど。ゆるしや反省にたどりつくまでの方法や期間てのは個々人でまったく違ってるんだから、「ゆるせ」にしても「あやまれ」にしても納得へたどりつくための道程を踏みにじる強制行為なんだよな。中国・韓国双方の権力者は市民に「被害者」であることを強要してきたわけだが、その立場でしか物事を考えられない状態(=憎悪をたぎらせて生きることだけが善という刷り込み)がいかに権力者にとって都合がいいかてのをそろそろ自覚しといたほうがいいよ。日本を憎まなきゃ生きられないなんておかしいだろ。どんな出来事も受け止め方次第で「自分を成長させる要素」にも「地獄」にもなるんですよ。その経験をどう活かすかは自分次第なの。憎悪をぶつけて屈服感得るために謝罪させて、手打ちのための金巻き上げて、被害者としてしか生きられない人生を送ってほんとうに満足なの?その「満足」は権力者の満足感であって、あなた個人の満足感とは別のシロモノなんじゃないのかな。自分自身の感覚を権力者のモノとさも同じであるかのように錯覚しだしたらいいように操られてしまうよ。戦争してない状態を続けてる自体が反戦体制である証拠、てのを中韓の人がいつまでたっても理解しないままあらゆる国に対して中国=被害者イメージを刷り込もうと躍起になってるてのもどうかしてるしねえ。賠償金に関してなんだけどさ、痛い目に遭ったヒトのために生活費とか治療費を出さす、て決め事はいいと思うけど、精神的な納得のために金で済まさせるてのはヤクザの手打ちの方法だよね。カネ握らされて黙っちゃう、つー道徳的解決からはかけ離れたやりくちだよ。苦しみや痛い目に遭ったほうが遭わせた相手を知るためにマジに努力してれば、厳罰や賠償なんて必要なくなるんじゃないの?なにしろさー中韓の権力者は市民に対して「被害」「加害」の立場でだけ生きるよう強要しつつ、物事について多様な見方をさせないようにしてきたんだね。日本では「かわいそうな目に遭った人の気持ちを考えろ」という前提で本音や生まれもった本質を封じ込めさすことに躍起になっています。それは本当の気持ちを否定して生きろという個性全否定の差別だよねえ。禁止を強要するほどに差別がどんどん生まれてしまうんだな。思いやりでやってる、つーても弾圧相手がでる時点で暴力正当化のためのいいわけにしかなってないじゃねえかよ。相手への思いやりてのは互いに本音ぶつけあって強烈な感情を抱いたときに「相手はこういうことで怒るんだな」「自分はこういうこと言われると悲しいんだな」て把握してから初めてわかることであって、相手と自分がわからない状態で思いやりなんて持てるわけないんだよね。それと「批判をするな」「キツイこというな」つー「思いやり」至上体制を推し進めてると、例えば企業内で商品の品質向上なんて永久にできなくなるんだがね。「ホメて伸びるタイプなんで」つって他人の意見から耳閉ざしてるモヤシっ子は自分の短所を放置しっぱなしだろうから、伸びるにつれて短所も同じく増長してくでしょうな。そのうえで手痛い指摘もいっさい受けつけないとなれば人を踏みにじるのをなんとも思わない鬼畜と化してもふしぎじゃないスね。そういえばフジのALSドラマの主人公の弟が「思ったことをすぐ言ってしまう」性質なんだけども、それがドラマ中で病気かなにかのように描写されてたのがヒドかったなー。あれは「本音をいう人間は病んでいる」とでも言いたいんですかね。ありのままの姿を否定したり、本音を弾圧するのを善と思わせる心持ちこそが精神疾患の原因だと思うがなあ。ぜんたい日本にしろ中韓国にしろ「ありのままの自分」を許さない思想を市民に強いてきたんだな…。「イヤだ」「嫌い」「見たくない」「興味ない」と思うモノにイヤイヤでも向き合っていったいどういうモノなのかを知ろうとすると、自分に潜む意外なちからを知ることがあるんだよな。シャブロル映画なんて特にそうで、夫人に連行されなかったらまともに見ることもなかったしなぁ。なんつーか自分と程遠いと思い込んでるもんに向き合うことで、自分の知らない部分がでてくるんだよ。ヤだ、て思ってる部分を詳細に分析してたりね。町内で苦手な人の家の前に自分の好きな花が出てたりすると、コレをキレーだと思う感性をもってんだな…と思って複雑な心境になる。好きな人と自分の共通点てのは誰から言われずともつい探してしまうモノだけど、嫌いな人と自分の共通点を探してみる、てのも物事の多面性認識を鍛えるにイイ方法なのかもしらん。いつだかのホンマでっかで植木先生が具体的な素材とデザイン挙げながら「こういう服装の人はキレます」とか力強く断言してたけど、アレはおそらく「こだわりの強い人」の許容範囲が異常に狭いので、その範囲から外れたことをされるたんびに激怒するって意味なんでしょうな。そういや「もうゆるしてあげなさい」とか言い出す某菩薩の生まれ変わりさんとかっていちいちウゼエんだよなー。上から目線で屈服させたいだけって気づかねーのかな。善意(笑)で目が曇っちゃって内観しても何もみえないんだろな。ここらへんからして神仏がいっしょにいながらも何もいわないでいるのは信頼してくれてるからなんだなーと最近気づいた。うるさく言われずとも一応実行しますしねー。逆にそばにいて常になんか言う、てのはそれだけ信頼されてないってことなんだろな。言わねーとやらないからとかで。とはいいながらもメシくってるときに品のない食べ方してると片アゴをズレさせられて、クチが動かせなくなったりする(刺すような痛みなんだコレが…)。下向いたまま食べつづけてたり、クチんなかにつめこみすぎたりすると必ずそうなる。ただ…今回の日記にしてもこれまでも、某霊の人がおいらと意見を戦わせてくれたおかげで色々削ぎ落とされた結果書けたモノがとても多いので、人間に生まれた以上は本音をぶつけ合うのが吉に思う。
・保健所で数十万匹殺処分されてるありさまが後世に「動物のホロコースト」と呼ばれても不思議じゃないね。ルドルフヘスが悪人でもなんでもないことを今の日本に生きるヒトたちはよくよくわかるんじゃなかろうか。食用でもない動物が数十万処分されてるのになぜ誰も文句いわないかって、野良が排泄物で道汚すのに我慢ならないからだし、病気感染するのがヤだからですよねー。非道がまかりとおるのは単なる「処理」を効率良くやってる認識を多くが共有してるからなんですよね。それがわかってる者はだれもヘスを責めることなんて出来ないはず。売買用動物の供給が過剰すぎることが原因だから、本来的に現行のペットショップを禁じるくらいしないかぎりは動物のアウシュヴィッツはなくならないでしょうね。チェコの厳しい体制がいちばんいいと思うが。