言動自粛する人は逆の立場になったときに相手にも同じ事を求めるのだろうね


「冤罪によって牢獄に入る経験」と「大企業の経営者になる経験」てのは現世経験という点で等価なんだよ。上下などなくどっちも等しく尊いの。前者を「忌避すべきもの」、後者を「祝福すべきもの」と決めつける考え方こそが「時の常識」なわけ。ここらへんからし(その経験によって)半生を奪われただとか人生台無しになっただとかいう表現をするのは時の常識の定める価値基準を助長してしまうと思う。特定の経験をしたヒトの存在自体を「台無し」と決めつけるも同然なんだよ。「どんな人もいていい」と言うのであれば「どんな経験もしていい」も両立させてないと前者が嘘になってしまうんだよね(「この人だけはいてはいけない」=「この経験だけはしてはいけない」)。治癒にたどりつくにもさまざまな道があるように、いじめ的な事案への対処にしてもいろんな方法があるはずなんですよ。保護して済ますだとか被害側としてしか見なさないてことをしているかぎりは「困難に出くわした際に考え方を変えてみる」にたどりつけないまま「考え方を変える必要がない」てのを推し進めてしまいがちになるんじゃなかろうか。そうなると「いじめられた人」キャラの観点でしか物事を考えられなくなってしまうよね。とはいいつつ、当のおいらも思春期あたりの経験からかなり最近までやさぐれてたわけですけども、よく考えてみりゃ嘲笑してる連中にサシで原因問いただしたり、しっかり向き合いもせずただくよくよしてただけなんだよなー。自分が感じてる「不快」に向き合ってそれをどうかするための努力をまともにしてなかったってだけなんだよ。他人によって傷つけられてるのではなくそれをヒドいと思う自分自身によって勝手に傷ついているだけだった。自分を「かわいそうな人」とみなすことで、そのキャラから動けなくなってしまうんだな。そもそもは単なる「不快」を被害や犠牲にすり替えてしまいがちな心持ちだった、てだけなんだね。ツラいと感じる境遇に陥ったヒト、てのはその時点から自分と相手に対して事実を探るための探偵というか、探究者となるんですな。出くわした事案について責任もって探ってかないかぎりは、ずうっと「被害者」のままでかわいそうキャラ心理を負わなきゃならんくなるってわけだ。困難に感じることてのは、困難感じてるヒトが心身鍛えるためにあるのかもね。死を前にして「心持ちをブレさすことなくいられるか」てのはなにも死刑を目前にしたヒトだけじゃなく、たとえば難病でいつ死んでもおかしくない、てヒトだって直面してることだし。冤罪かぶったヒトなんかは心身をブレさすことなく「なぜ相手が自分をそういう目に遭わせたのか」てのを淡々と探ってみる、てたぐいの修行てことになんだな。理不尽と思える出来事に出くわした際に、もしツラさを感じるのであれば「自分がツラいと感じるのはなぜなのか」てのをよくよく考えてみるのもひとつのテではあるんだよね。時の常識の定める「被害キャラ」になってしまったと思い込むあまりにツラいという考え方しかできなくなってるだけなのかもしらんし。「心の苦しみ」の多くは「時の常識に自分が合わないことで苦しんでる」だけな場合が多そう。時の常識に影響されていない自分の本音に向き合いながら本性をいつでもぶちまけられるようになってくと、この世には行動から派生したモノが存在するだけという、あるがままの事実のみをいつなんどきも「視る」ことができるようになるんですな(阿難さんにはこの件が伝わらなかったんだろうな)。成功も失敗も、善悪ですら存在しないんすよ。ただ自分の快と不快があるだけ。自分が「ありのまま状態でいる」と、それだけですごく満たされてるので、他人に対して過剰になんらか求める気持ちとかなくなるんですよね。そうなると他者のありのままをもしぜんと認められるようになんの。ここらへんからして「〜してはいけない」て観念はすべて「ありのままでいてはいけない=自分に嘘をついて生きろ」と命令するに等しい観念なんだよ。楽しむにしても「自分は何を楽しいと感じるか」てとこに向き合ってはじめてわかることであって、ありのままの自分でいることが大前提になるんだよね。自分に正直でなかったら「正直に楽しむ」なんて出来ないし。自分の快・不快に完全に忠実でいると、たとえ時の常識によって理不尽なメに遭わされても心身がブレることはないんですよ。なぜなら価値は自分がすべて決めるから。どんな状況にあろうと、そこでお気楽に生きるか苦しみにまみれて生きるかは自分の心持ち次第なわけ。どんな長期間だろうと関係なく心身バランスを保持してゆけるんだよ(個人的経験からして中道を体現できるようになったときにその理不尽経験から解放される感)。ちなみにたいして調べもせずに証拠でっちあげた捜査担当の人たちてのも、おそらく「効率よく犯人挙げる」ことしか考えてなかったんじゃないかと思う(憎悪の発露たるメッタ刺し的な凄惨手法をとる理由なんか金目当ての人にあるわけないよね)。ここらへんからして、冤罪は「時の常識の定める効率・非効率の観念に沿いすぎたこと」が根にある場合がすごく多いかんじ。荒ぶる性質にしても時の常識からいえば非効率の象徴と見なされがちなものの、実は一家団欒のきっかけ的存在だったりして、そのテの多面性を真に是とするのであれば、どんな経験であろうと1つのイメージだけを固定するような表現は避けたほうがいいと思うがな。無駄な経験などひとつもないというのであれば柔軟な考え方を阻害する観念をまず広めないように努めることで証明してくといいと思う。市井から権力者までどんな状況下でも心身の中道を保てるヒトばかりになれば、法も警察もいらなくなるだろうね。
あとなんか…個人的な恋愛話なんで今回の件とはあんま関係ないけど、たとえばおいらがツラいときに「おいらの気持ちを勘案して」言動を自粛しちゃうような人とはいっしょにいられないなーと思った。楽しければ楽しく過ごして、忙しければ忙しく、いつでも心のまま正直に過ごしててくれる人といっしょにいたいなーと思ってる。おいらがツラいから、つーたびに本音をださなくなって、おいらの前にくるたんびに本性を隠したりするのであれば、おそらく息苦しい関係にしかならないだろう。社交辞令的なやりとりしかできなくなるだろうし。そんなのヤだよ。