エンディングの手抜きっぷりも辟易しますね


昔ばなしリメイク版のトチの実話のなかでこのトリによく似た小鳥が自分の体と同じくらいの大きさのトチの実をなぜかつついてるシーンがあったんですが、それってカエルキャラさくらんぼのたねを食べちゃうのに近いレベルの間違い描写なんですけどね。トリはクチバシの形によって食べられるものが違うんすよ。あの形のクチバシのトリは小さくてやわらかい虫か、花の蜜だとか小さい実しか食べれないと思いますよ。作り手の方にとってはどうでもいいんでしょうけど。トチの実みたいなガッチガチにカタくてデカい実をあの小鳥がつつく意味がわからない。最悪クチバシ割れますよ。子供むけの創作物で「動植物の習性について間違ったことを平然と盛り込んでる」てのは鑑賞者である子供に対して責任もつ気持ちがみじんもない作り手な証ですねえ。子供むけの娯楽物は教育ブツとしての役割も兼ねてるんだよ。昔からの知恵を継がせてくもんでもあるんだから。先のアニメは場当たり的にウケ狙ってるふうなサイバラ絵の小手先媚び売り手法もウゼエな、と思ったらキャラデザ本人やってんじゃん。30%見損なった。いけちゃん絵本は傑作なのに。ごく一時期に生きてる人にだけウケる表現を使って昔話やるのって、原話のもつわけのわからんエネルギーを削ぐことにしかならんような気がするがなぁ。数百年前からなにひとつ変わらない人間のもつ猥雑さとか強烈な生命力を伝えるのが昔話なんだが、4〜50年経つと流行ってた事すら忘れられるたぐいの一過性の風俗要素で固めてしまうと、次世代には受け継がれづらくなってしまうんじゃなかろうか。なんつーかな…ごく限定的な期間にしか通用しない「受け狙い」てのは「流行りに迎合した」ことでもあって、それだけ手垢にまみれた証拠でもあるわけ。多くの目に晒されて使い古されたがゆえに、時が経つにつれ色褪せかたがより激しくなってしまうとゆうかね…。既存の人間からすると「真新しさ」がどこにもないから、時代が更新されるたんびに不要なモノと見なされてしまいがちになるというか。ところがオリジナル版の日本昔ばなしって、当時のアニメなんかで流行ってた絵柄とは無縁なスタイルの絵ばっかりだったんだよね。いっときの流行りになんら汚されてない表現だけを使う、てのは場当たり的な稼ぎはあまり見込めないものの、いつの時代にみても「新しい」んだよ。時代に迎合してないゆえにどの時代のヒトにも受け入れられやすいの。声優についても超のつく巧者2人だけを使う、てのもすごくよかったし。作り手の観念がどっしり定まった子供向けのアニメだとか絵本をみると、道徳観念のしっかりした大人からおはなしを聞かされてるような気がして、とっても安心するんだよね。ポターや、彼女の作品を訳したいしいももこ先生、それにオリジナル版の日本昔ばなし、すべてそういう安心感をかんじれるものだった。ぐらつくことのない骨太の世界観、つくりかた、そういう作品を目の当たりにすると、すっごく安心して語られる物語に身をゆだねることができるの。その安心感を知ってるから、ガキなんか小手先で騙せるだろとばかりにてきとうなつくりをしてる絵本や児童むけアニメ映画なんかをみせられると我慢ならないんだわ。先の作品にあるような安心感なんて皆無で、作り手が子供をバカにしてるのが透けて見えるんだよ。あのクソこのクソと同じく、子供を楽しますことに本気になってないでしょ。恐ろしいシーンはチビらせるほど恐く、笑えるシーンは這いつくばって笑わすほど面白くつくるんだよ。「ちゃんとつくろうがテキトーにつくろうがガキにはわかるわけねえ」とでも思ってんのかね。幼い頃の感動がいろいろ刺さったままだからこそこの日記なんかも書けてるわけですが。絵本に興味のないヒトて、根拠ゼロの空虚な理想論しか並んでないような、児童書的には下の下クオリティの作品と同じことさえやれば「子供向け作品」として合格点になるとでも思い込んでんじゃないスかね。「みんな仲良くしましょう」なんて大人だってろくに実行できないくせに、それを子供に強要するって暴力に近い押しつけですよねぇ。ところが有名な絵本作家さんはヤな人が入り込まないように工夫するような描写を子供むけのもんにちゃんと描いてたりすんだよね。後世まで何百刷とかなって売れ続けてる児童書て夫婦のモメごとだとか妻に対する夫のボヤキだとかライバル店が閉店するや即値上げに踏み切る同業とか、おとなの世界でのあつかましさを「面白い要素」としてふつうに盛り込んであるんだよ。読み手である子供をバカにしてないの。それをなんとなく感じ取るからこそ世代なんぞ関係なくチビッコたちに愛され続けてるんじゃなかろうかね。児童書によくある「めでたし」的結末としては「無事おうちに帰ることができました」とか「みんなでいっしょにごはんをたべました」みたいな安心感に包まれる的な描写が多いのだけど、ポターのだとうまいこと儲けられるようになって安楽に暮らしましたとかいう現実に即した描写で締められてたりすんのよ。あとケンカシーンをいかんなく描いてる話に顕著なんだがポターの絵本てあつかましい人がけっこう出てくるんだけども、出てくるキャラが極端な性質なホドに出来事も大きくなって面白くなんだよね。たいへんなことが起きたときの取り乱しかたについてもちゃんとリアルに描いてるし。「おじいちゃんは めんぼく まるつぶれです。」てあんまり絵本ではお目にかからない表現だな。かわいいもんを出すときはそれをおびやかす残酷要素をセットにする、て娯楽描写にしても観察によって裏打ちされた自然に関する知識を下敷きにしてつくってるからこそ見世物として冷静に扱うことができたんじゃないだろうか。ちなみに児童書で自然に反する描写を思いっきりしてもいいジャンルとして空想たのしむジャンル(同系統では激怒中の心象風景を描いた作品とか形状から空想したホラ話的な作品とか)とかあって、それは空想世界をたんのうするのが目的だから、その世界のなかでならなんでもしていいんだよね。チビッコはそこらへんのジャンルのちがいをちゃんとわかると思うよ。「お人形さんゴッコ」なんかも空想ふくらませ遊びだしね。骨太なオトナネタをぶちこむポター作品では、なんか空想世界と現実世界が並行して同時に存在してる、てのをわからせようとしてか擬人化動物たちが、自分らの怯えてる巡査が人形ということをわかっているうえ本物の巡査がいることもわかってるなどという、よく考えるとなんか複雑な世界観として描かれていて、なんかすごい。空想と現実を誠実に描こうとしすぎるとかえってなんだかわからんことがあぶりでてきてるふうな。ぜんたいどんなジャンル作品だろうと手抜きせずにつくる、てのが吉ですな。