文化を潰した瞬間、路頭に迷う人が必ずでることを思い出すようにしてほしい


捕鯨業に従事する人の職業否定につながる取り決めについてルールとして決まったんだから従え(深町さんまで自分の納得のために捕鯨人から職を奪うべき的なこと言い出してて悲しい…)的な主張を捕鯨反対の人が繰り広げてるんですけど、法律をはじめとする決め事てのは常に「人間にとって善きもの」に変えてくためにあるんですよ。盲目的に従いつづけるためにあるんじゃないの。いちど決まったことに盲目的に従うのが善、なんてすると、たとえば「みんなと仲良くしましょう」なんつーおとなですら実現不可能な理想論にも従わなきゃならんくなるわけ。どうしてこんな頭の固い考えを他人にも強要するのかというと、単純に「相手が自分に従わないことに我慢がならない」だけみたいなんだよね。ちなみにルールに従わない者をバカ扱いするてのは「体制に逆らった者を怨霊呼ばわりする」のと似た観念ですな。捕鯨をやめさそうとする人て「女子供がかわいそうだから」つってエロ漫画描くのと販売両方を禁じる法律をつくらそうとしてた人たちとか「ツイート使われた人がかわいそうだから」つって会田誠作品の撤去を求めてた人たちとかと同じく「クジラやイルカがかわいそう(と思ってる人たちに配慮すべき)だから」的な考えに基づいてるみたいなんだが、この弾圧を是とする3者に共通するのは職業差別なのよ。漫画家、捕鯨人、芸術家、そのヒトたちから食い扶持を平然と取り上げることを善だ、て叫んでるのね。そのうえで職業差別の取り決めを至上として、もう決まったんだからおとなしく従え、て上から目線で命令してくるの。まるで法の番人にでもなったみたいにさ。ただ、食用ではない動物を保健所で処分し続けてる件とかユダヤ人だけをひたすら殺してた件だとかはその職に従事してるヒトにやめてもらわんかぎりは止めることができないのよね。野良の大量処分だとかアウシュヴィッツの人種殺戮の件てのは食べるためや調査のために数守って獲ってるクジラやイルカの件とはまったく別の話で、それと混同して対処しようとするとおかしなことになってしまうと思う。ちなみに「遠出してまで獲るのはおかしい」というなら遠洋漁業はなぜお咎めなしなの?て話になるし、オーストラリアにしても日本側と詳細な対処もせずひと足とびに禁止にしちまう時点で差別思考に基づいてるとしか思えんのですよね。まーしかし文化名目のムダに国費つかわれるなんて我慢ならない!と思ってる人がわりといる、てことがわかっただけでもよかったような暗澹たる気持ちになったような…。あーあ。獲り方のコツだとかも各々の場所ならではで違ってると思うんだよね。それもがすべて損なわれるのかと思うと…。人から職を奪うようなことをたやすく是とするなんてどうかしてるよ。見世物とは食うに困ったヒトが「最も財布のヒモをゆるませやすい芸はなにか」て考えたすえに編み出された娯楽の原点であるって件は前に書いたけども、彼らがなぜ商品の質を高めるよか「まがいもんをそれらしく見せる」ことに邁進していったのかというと「いいもの」をつくろうとすると手間もお金もかかるのに加えて、ほんとうにいいものができるかどうかわからないという不安定さをも抱えこまなきゃならなくて、それだと食うに窮したヒトが「今日の腹を満たす」を叶えるためには「割に合わない」てことになるんだよね。要するに「まがいものが多く世に出回ってしまう」のは排除された者が苦肉の策で編み出した「糧を得る」ための効率を優先させたことが原因なのだけど、排除されていない民(=今日明日食うには別段困らない人)からすると彼らの売る「いいかげんなクオリティのもの」を買うことは非効率てことになんだな。そんで食うに困らん者にとっての効率を優先させてゆくと、ふつうにアヤしげなクオリティの商品なんぞ買わなくなるから、排除されたヒトたちが効率よく稼ぐために編み出したテキトー商法が通用しなくなって、消え去ってしまう。彼ら独自のスタイルで編み出された見世物―固有文化と共に。文化の固有性を弾圧対象にしたり、自然発生した文化を消し去る、てのは排除対象民の存在を抹消するのと同じ事になってしまうんだな。つまり排除民が生きるために編み出した芸事、てのは福祉そのものなのか。食うに困ってる人の生活を国費で支援をする、てのと、国費で文化を守る、てのは同じなのだな。そこらへんからして「捕鯨のために税金使うのが許せない」てのは「あんな連中のために税金が使われるなんて許せない!」て生活保護受給者全員を犯罪者のように見なす観念とまるでおんなじになっちまうわけだ。生活保護を不正に受給しちゃう人てのもいるみたいなんだが、彼らもまたラクチンに生きるための効率を優先してった結果として不正受給がやめられなくなっちゃったクチなんでしょうね。そうなっちゃうと、もう「まっとうに働いて食ってく」生活になることへの心理的ハードルがものすごい高くなっちゃって、かえってたいへんなことになっちゃう気がするけどねえ。なにしろ排除対象とされ食うに困ってたヒトたちは、売るモノの質に関係なく「人の心を揺さぶる型」さえ身につければ客はお金を落としてく、てのに気づいたんだな。その「人の心を揺さぶる型」を洗練させたのがいまでは芸術だとか言われてるわけだ。芸術を扱うに際して現代では才能がうんぬん言われるけども、才能なんてあろうとなかろうと「今日食わなきゃならない」切迫からするとどうでもいいことだよね。そのがむしゃら感に伴う野蛮(と見なされがちな)要素が放送禁止的になりがちってのも差別でしかない気がするが。まー当時も結局見世物に関する才能が他よりも抜きん出てるヒトのがより稼いではいたんだろうけども。職業差別を是とする3者の件にもどしますけども、彼らに共通してるのは当事者たち(作品にツイート使われた人・子供・動物[…とはそもそも会話ができぬので捕鯨人か])の意見をまったく聞かない点なんだよね。そのうえで「彼らがかわいそうだから」て勝手な第三者観点によって職業弾圧を推し進めようとするんだよ。本来ならばいの一番に意見が尊重されなければならないヒトたちであるはずなのに、そのヒトたちそっちのけで「かわいそうな人のためにアイツらを排除しよう!」て大昔の権力者の聖賎観念まんまじゃないのよ。「あの人がかわいそうだから本音をだすのを止めなさい」てのがどういうわけか世の中を平和にする善き道徳観念かなにかのように思われてるんだけども、現実ではそれをやるたんびに世の中は不穏になってくんじゃなかろうか。目視できない排除対象者を暗黙のうちに生み出すから。自分を被害者と思い込むことで責任放棄思考になってしまう件じゃないけど、だれかを勝手に「かわいそうキャラ」と見なす、てのは一方的にかわいそうと見なされた人の固有性から目を逸らすことになりやすいんじゃなかろうか。かわいそうイメージだけがまかり通ってしまって、実像からかけ離れたまま事実を確かめることから遠ざかりがちになるんじゃないスかね。かわいそうな人だとか弱者だとか見なすことによって腫れ物に触るような態度しかとれなくなるふうに。まともに向き合っちゃいけない相手、みたいなふうに思考停止しやすくなる観念なんじゃなかろうか。それと、かわいそうな人を「守る」ためと称して「お前が生まれもった本性はあの人の存在よりも尊いのだ(=尊い人がイヤがるお前の本性を2度と出すな)」的に存在否定されるヒトがでてしまうよね。だれかをかわいそうキャラに見なす観念てのは「かわいそう」と見なされた人と、「かわいそうな人を傷つける人間」と見なされて黙らされた人、双方への差別になってしまうんだな。ちなみに自分の納得のために誰かを消し去るようなことを平然としだすのはなぜかというと2日のホンマでっかで「人は自分の言葉がいちばん心地いい」と澤口先生がゆってて思ったんだが、おそらく自分の言葉や観念が心地よすぎるがゆえに、その心地よさを継続させたい欲求が「自分の考えに反する者を駆逐する」方向に仕向けてしまうとかじゃねーのかな。自分に正直でいると満足感がすごく高くなって他人になにかを強要しなくなるとは書いたけれども、その「自分に正直でいる」が時の常識―かわいそうな人のために誰かを排除する―から派生してる場合に差別や弾圧として現れてしまいがちになんだろな。時の常識を捨ててマジに「自分に正直」な状態になれれば、時の常識に侵されてない要素が思考の中心に置かれるから、いろんな要素がしぜんにでてくるのよ。それと同時に世にある「いろんな要素」のことをふつうに認めることができるようになんの。アレしちゃいけないコレはなくせだとか、そうやって禁じる観念なんて「自然」に於いては存在しないんだよ。人間の中にある「自然」をぜんぶ出せるようになるとわかるんだけど、ヒトって巷に出回ってるような「あるあるキャラ」で判別がついてしまうようなペラいもんじゃないんだよ。それが出せてるヒトの表現てのはふつうにジャンルの垣根を超えてて克つ豊穣なの。いろんな観点から物事を考えられるからこそ、どっかでみたことあるような既存の表現なんかじゃ表現しきれなくなるわけ。そこらへんからして、どっかで見たような表現しか出来てない時点で自分の中の「自然」を思考の中心に置いていない証拠なんだよね。自分の心のなかで、どれが「自然」で、どれが「時の常識に侵された観念」なのか、しっかり感じ分けられるようになってくといいんだけども。「自然」を思考の中心に置けるようになった際には、先に書いた「自分の言葉から得られる快楽」が相乗効果になって、どんどん表現がでるようになってくふう。あと…これは他のヒトも同じかはわからんのだが、清いモノを汚そうとする気持ちだとか、愛されてる者を貶めようとする気持ちだとか、穏やかなもんを破壊しつくしたい衝動がいつも強烈に沸いてきてて、それを自覚しながら実行しないように常に気をつけてる。これがあるから色々長ったらしく書けてるのかなーとも思う。あの強烈さが自然だとか宇宙だとかのエネルギーであって善悪とは関係ないんだなーとちょっと思う。あの衝動を現実で実行してしまうとバランス崩れちゃうんだろな。そういえばさーこのまえ高輪神社の太子宮(←なんか…ダチんちにあがりこんだような妙に俗ぽいカンジがしたんだが…太子さんてそうゆーヒトなの?神社仏閣でお参りしたときのような爽やかなかんじが全然しなかった)お参りしつつ色々聞いてみたカンジからすると、どうもなんとなく空恐ろしいもんをかんじる地帯には太子のバランス崩した魄が封じられてるくさいすね。ヒドい目に遭って魄がそうとう荒れ狂っちゃったみたい…だけど、それを浄化できるヒトも生まれてるぽい。ある地帯ぜんぶ障るレベルに暴走する魄てどういうアレかなーて考えたんすけど、要するに「ゆるさん」が濃縮した塊なのかな。おいらの「ゆるさん」側面を全開にしたら…て考えると23区内くらいならどうにかなるかんじはする。そうはいきませんよ。バランス死守。そういえば高輪神社後によこの細い坂のぼってったらなんか高野山の姉妹店みたいのがあったよ。さらに道なりに進んでくとカソリックの教会(高輪教会て2コあんだけど、プリンスホテルの隣のほう)があって、そこの礼拝堂はなんか鉄骨むきだし内装でなんとなくメタルのライブ会場ノリです。あすこは入り口に筆字ふうの木の看板なんかあってビジュアル面のごった煮感がちょっと笑える。トイレ貸してくれたんでおもいっきしうんこしてきた。ありがとうキリスト。あそうそう、あとここの教会にはキリシタンの処刑についての説明なんかもあるし、千躰荒神さんとこ向かう前の「両極や複雑さを体感する」流れとしては正統派なルートに思います。荒神さんとこで挨拶したときにくる涼しい風てさわやかでキモチいいんだよな。物事へのケジメのつけかたがきっちりしてる性分に起因してるんだろうか。あれと同レベルな爽やか空気感を保持してるカソリックの教会てあんましねーんだよな。どうしてなのかなー。いちいち人をかわいそう視しがちな偽善人間が信者に多いからなんでしょうかね。慈悲だとか慈善てのは心持ちをまちがうと爽やかさとは無縁の気色悪いナニかになってしまいがちなんじゃなかろうか。ちなみに千躰さん後の帰途寄ったココもすごく気持ちのいいとこだったな。ちょうど鳥居前にある恵比寿さん石像の真上で色が濃いめの桜が咲き乱れてたし。そこの看板に明治天皇指定の神社とか出てたけど、あれはどういう基準で選ばれたもんなんすかね。単純に好みでか?それとも天皇自身がひそかに霊能力あって各神社のエネルギーの質や大きさなんかがわかる人だったとかか?指定されてる神社がどれもわりとよさげなとこばっかなんで。単純に政治の関係でか?よくわからん。そういや荒れた魄浄化&生きてるヒトの気質整え→地域バリヤ張るの流れは日本だけでなく色んな国でもやっとくとよいですよ。やりたいことを実現しやすくなるみたい。気質(考え方)整えがらみといえばまたホンマでっかネタだが2日の番組内で「よくしゃべる人は幼少期に母性愛が足りなかったことが多い(=自分のことをよくしゃべると脳内でドーパミンつー快楽物質が出て快感が高まるので、幼少期に刻まれた欠乏感覚を常に補っている)」てやってて明石家さんまがそれにあたるみたいだったけど、幼少期の愛情欠損が無二の才能が咲くための下地になったてことだよね。あと実兄から聞いたんだけど、作詞家の吉岡治さんはお父さんが女にだらしないロクデナシだったとか(当人がその旨語る番組を見たとのこと)で、そのせいで吉岡さんは幼少期に痴情のもつれのドロドロ場面をイヤというほど目の当たりにしてきたらしくて、でもその経験があるからこそおそらく濃厚な情念歌の歌詞なんかを書けたんじゃないのかな(その経験の反動からか奥様は地味で控えめなかんじの方なんだそうだ)。「母性愛に飢えさすような家庭環境」だとか「トラウマを植え付けるレベルの痴情のもつれを子供の前でくりひろげ続ける家庭」だとかって書くと「かわいそう」だとか「不幸」だとか思って義憤を抱きがちになるんだけども、ヒトにとってなにが幸いするかわからない以上は、人生上の出来事や経験について勝手なイメージで断罪するようなことはしたらいかんのではないかと思う。自分の人生で起きるいかなることについても「逃げない」ことがあたりまえになれば、かわいそうな人なんていない、てことがわかるんじゃないのかな。
いま当たり前に使われてる「災害」表現(自然現象を過度に怯えさす観念に固定してしまう)だとか、責任放棄しがちになる「被害者」「加害者」表現てのは、気をつけてないとおいらもつい使ってしまう。なんとかしたい。それに代わるシンプルな表現がありゃいいのか。うーん…。