体が裸じゃなくとも心が裸の光景をみせられても後ろめたくなるんだな




アジア・アナーキー・アライアンス(3/12。TWS本郷)→ゴジラ(神保町シアター)→stay gold(3/27。空蓮房)→成田光房(4/23。湯島)→バルテュス展(東京都美術館)とみまして、バルテュスは服をはだけた少女が長椅子に寝そべってるふうな絵を多く描いた少女好きまっしぐらな画家さんの展ですけども、 このヒトの絵てなんか不自然さがみなぎってて、なんでなのかな…?と思いながらみたところ、人体のデフォルメ具合が針金人形ちっくだからなのかもしらん。上記画像の男の絵に顕著なんですけど「頭でっかち+足がスラリと長い+(足に比べて)短い腕・小さい手」ビジュアルな人(多くは少女)が、手足を無軌道に伸ばしきったうえで、すぐそばに他人がいるにも関わらず、まるで自慰をしてる最中みたいに「ある種の感情」に浸りきってるふうな表情を浮かべてるたぐいの絵が多いんすよね。上記に出した画像の鏡みてうっとりしてる少女じゃないけど、あの顔て他人にはぜったい見せない表情のひとつだよね。自分にみとれてるんだぜ。タンス預金をこっそり取り出して札束の枚数かぞえてるときの顔じゃないけど、自己愛にひたりきってる中のありさまが堂々と描かれてるもんだから、あの絵をみた瞬間にのぞきの現行犯目線にさせられてしまうふうな感覚に陥るんだよな。しかも少女がうっとりしてる系の絵の多くは薄暗い屋内で、そのうえで人体が木偶人形ちっくにデフォルメされてるから戯画感覚というか玩具遊び中の人形がほったらかしになってるみたいな「事後の空虚感」が漂ってる雰囲気が濃厚なんだよ。なんか…ヘンな浮遊感みたいなのがみなぎってんだよな。バルテュスの少女絵てさ。自己愛で閉じられていながら遺棄された人形の虚ろ感が漂ってるというかね。屋内少女絵の特徴として、展示作品中の16(Alice in the MIrror)・17(Cathy at her Toilette)・21(Therese Dreaming)に描かれたテーブルの脚と椅子の脚の影の伸びてる方向と、描かれた少女の目線や顔の向きが比例してるというか、少女が目線を向けてるほうから光があたってるふうな絵が多い(ちなみに上記画像の絵の少女は鏡を通して光源を見ているふう)。50(Katia Reading)なんかは光があたってるほうに目は向けてるにも関わらず、その光を遮断するかのように読んでる中の本を顔の真ん前に据えていて、克つ少女の目つきはなぜか疑るような雰囲気。光源遮断系の構図は34(The Week of the Four Thursdays)て作品に顕著で、椅子に座った少女が体のけぞらせて、着てるバスローブはだけてまで窓からの光から顔をそむけてるふう。日本語題の「決して来ない時」てのとやたら相俟ってる。光に目を向けてる少女が「受け入れ」を表してるとすると、光から目を背けてる少女は「拒否」を表してるんだろうか。34の習作と思しきD28(The Golden Days)は無関係かもしらんけど、窓から少女のほうへ2本の直線が描かれてるんよね。やっぱり光と少女の位置関係を重要視して描いてたってことなのかな。光の位置関係といえば38(The Window: Over the Cour de Rohan)ていう開かれた窓だけを描いただけの絵があるんだが、これって屋内/屋外との位置関係をけっこう重視してたあらわれなのかしらね。直線で構成された内装や家具と人間との位置関係を重視してる点はちょっとだけハンマースホイちっくでもある。そういえば17(Cathy at her Toilette)でも人物の背後にある戸棚の開き戸がすこしだけ開いてるんだよな。窓や戸棚の「開き具合」を盛り込まずにいれなかったのかなやっぱ。その絵に描かれてるのは少女じゃなく成熟した女性ですけども(でもまんこはツルツルのパイパンです)。なんか当時バルテュスが付き合ってた気難しい女性だとか説明にぐじゃぐじゃ書いてありましたけど、たしかに怖い顔してるしな。ほぼ全裸で靴だけ履いてる(このパターンがやたら多い)んですけども、むきだしのおっぱいなんかつーんと上向きながらもそれぞれの乳首が別のほうを向いてるという気性荒い感みなぎる描き方されすぎなのな。よっぽど怖いおねーさんだったのであろう。その脇で青年(たぶんバルテュス自身)が苦難をぐっと堪えてるふうな顔しながら、しがみつくように両手で椅子の背をつかんでいるのに対して、ほぼ全裸の怖いおねーさんは片手でかるく鏡台の枠木に触れている。気性の荒いにゃんこのそっけなさと、それをどうにもできずにいる真面目青年みたいなかんじの絵。怖いおねーさんとにゃんこ絵系列では33(Girl with Goldfish)つー金魚を見下すように見つめる少女と、その光景に背を向けて鑑賞者のほうに顔向けてるにゃんこの絵があったな。ふつう金魚と猫が描かれる場合、にゃんこは獲物(金魚)をみてることが多いんだけども、あのにゃんこは金魚には興味がないんだろうか。しかもあの少女、位置的に金魚じゃなく少年を見つめてるふうにもみえるあたり、ちょっとどういう絵なのかわからんかんじ。強烈な感情がみなぎってる空間にだけ漂う緊張感を絵にしてみる傾向なんだろな。なんらかの緊張感を感じさそうとする傾向の描き方は初期の絵にもすこしあらわれはじめてて、9(Storm in the Jardin du Luxembourg)のなかに描かれてる2人の男が言い争ってるかなんかしてるふうな、何事かが起きてる中を感じさす描き方をしてるし、13(The Jardin du Luxembourg)は輪っかを転がしてる中の少年がちょうど画面からいなくなる瞬間を描いた(つーかよく見ると少年は輪をつついてころがすための棒を持ってるほうの手を上に振り上げてて、それがどうしてなのかがよくわからない)…ふうな絵で、なんらかの劇的な瞬間を切り取る方向を模索してたのかなーと思える。劇的な感情がほとばしる瞬間の空間にみなぎった緊張感を描こうとしてたふうなのが顕著にでてるのがD4-D17の嵐が丘の挿絵ですけど、怖いおねーさん絵とほぼ同時期に制作されてんのな。どっちが先なのかな。そういえばバルテュスの絵に描かれてる人物て、全員クチをかたく閉じてるんですよね。なんらかの緊張状態にある、てことを表してるからなんだろうか。人物以外で緊張感を表してるふうな絵もたまにあって、24(Still Life with a Figure)なんかはテーブル上の食物を描いた絵なんですけども、飲み物がハンパに入ってるグラスと、器から飛び出しかかってる果物(36の伊勢海老絵に顕著なんですけど「皿からハミでるほどのブツ」描写好きなんでしょうね。長椅子から手足をだらしなく放り出してる少女と同様に)と、それとナイフが刺さったままのパンという、だれかが何かした痕跡だとか「途中」ふうをニオわせる状態のブツばかり配置してる。これがなぜかカーテン風の幕によって隠されてたらしくて、少女がその幕を手で持ち上げてるんですね。どういう状況なのか、前後を知りたくなる構図が多いんだよな。前後を知りたくなるといえば47(The Cardplayers)はトランプ遊び中と思しき少年少女の絵ですけども、目つきの不敵さから緊張感はもちろんあるんですが、なんか…人物の描き方がゴツい兵隊を小さい人形にしたふうなデフォルメがキツくて、幼年期の緊張感に漂う滑稽さを戯画化したとかなのかな。そこまで殺意みなぎらせる場でもねーだろ(笑)みたいなふうにも見える。真面目ぶってるふうなのでは31(The Room)てのが全裸にくつ下の金髪寸胴少女が真っ正面向いてキリスト風なポーズとってる絵とかはエロというより戯画風な側面がちょっと強いかんじ。でもその全裸にくつ下の金髪少女のうしろにいる女中風のおばさんが叩く道具(たぶん布団たたき)持ってたりする32(Georgette at Her Toilette)なんかはちょっとだけ不穏さをニオわせてたりする。なんか、描き手がしたいことを脇の道具でそれとなく演出してるふうな絵てのもけっこうあって、21(Therese Dreaming)とか顕著。パンツまるだしのまま両目閉じてる少女のすぐ脇で猫がミルクなめてるとか、あからさまですね。叩きたい。舐めたい。そうですか。直接描くとマズイので間接表現。上記画像とかみた瞬間「滾らせてんなー(笑」てふつうに思いました。今回は出品されてなかったけど、まんこまるだしの少女が女教師から折檻されてる中と思しき絵とか、けっこうあからさまだよな。大回顧てからにはあすこらへんの代表作もきてるかと思って期待してたんだけども、きわどいのは全然なかった。あからさまっていうには足りないけど、習作であるD50(Still Life with Basket)に描かれてる桃(杏か)の割れ目にだけ赤色をひかえめに乗せてたのがちょっとよかった。静物画系でも薄暗かったりするのが多くて、どうしても屋内感が充満してるのが多かったな。41(Morning Glories II)なんて上からみたせいか背景が焦げ茶1色だし。屋外ぽさや陽の光描写をぜんぜん描かないんだからな。後年の作品である51(Montecalvello Landscape II)なんかも暗めの色合いの風景中で、川だけが細く青白く光ってるふうな描き方してて、なんか汚濁の中の聖水なんだなと思った。そういえば1930年代に描かれた風景画で、絶妙の安定感を誇る作品があったな。19(Summertime[Study for The Mountain])ていう、背後の山々と同じようにゆったりと原っぱのうえで寝そべる絵と、あと23(The Cliff)つー手前に草原があって奥に山々があるというなんてことない風景画なんだけども、あの落ち着く感覚はなんなんだろうな。なんか…絨毯のうえにきたみたいな穏やかさをかんじる絵だった。バルテュスの風景画であんなに癒される作品があるとはね。他には1950年代のやたらに暗い雰囲気の大人の女の絵から成熟した女への興味なくしたんだな感をひしひしと感じたのと、1960年代の春画感あふれる女体絵から新たな覚醒をかんじた。49(Japanese Woman with a Red Table)は着物はだけた浮世絵風の色白女性が軟体動物ぽく描かれてるうえ、周囲の小道具なんかもちゃんと描き込んでるし、日本におけるエロ盛り上げ小道具使い回しすらもこなすって生粋の変態にしかできんよなぁと感心した。そういえば48に自作したと思しき粘土ぽいもんで出来た少女のトルソてのがありましたけど、なんかクオリティがボロボロでどうしたんだろう。それと展示で写真だとか来歴説明なんかもけっこうありましたが、バルテュスはデビッドボウイと並んで着物の似合う外人男子ですな。完璧に自分のモノにしていた。
stay goldは木漏れ日から差し込む陽の光をPC加工(なのか?)できらびやかに目立たせたふうな写真なんですが、ギャラリーの構造上、屋内にカドがないことから物陰的な部分が極端に排除されてまっさら感が強烈なので、展示された作品の表現する光がより際立たされたかんじだった。部屋のすみっこに座って観賞すると狭さを感じない。広い空間でじっくり向き合ってる味わい。浄土に恐ろしいモノや未知のモノがひとつもないのだとすれば、それは満ちた光によってすべてが白日の下にさらされるからだろう。光によってすべてが明らかにされ、安堵する。だが、その光が強すぎれば目がくらみ、なにもみえなくなる―ひいてはすべてが焼きつくされ、形あるモノが無くなってしまうだろう。木々の下にいるとき、木漏れ日をかんじるとき、なぜ心地よさを感じるのか?それは木々が「ちょうどよさ」によってしか育まれない存在だからだ。光、土、水―それらのうちのどれかひとつでも過剰になればたちまち干涸びるか、腐り落ちてしまう。生きるとは「ちょうどよさ」を体現してゆくことなのかもしれない。木々に囲まれるとき、わたしたちは「ちょうどよさ」に囲まれて心地よさを享受している。木漏れ日の輝きを宝飾品のように散りばめた武田陽介の写真をみると、女性が宝飾品を好むのはかの「ちょうどよさ」を身につけていたいからなのかもしれない、と思えてならなかった。武田陽介の際立たせたきらびやかな光は鋭く、ときに丸い。心霊写真と称されるモノに映し出されるオーブ―霊魂のたぐいがまるいのはなぜなのか。蜂の巣の六角、雪の結晶の風変わりな形状、丸と角の織りなす水と陽のかたち、そのなかで「色」とはいったいなんなんのか。影では見えず、光があたることではじめて見えるようになる色。ちょうどよい光だけがもたらす色彩は、調和の証なのかもしれない。
成田光房はなんか私塾もやってる美術家さんちにあがりこんでいろんな作品を拝見した。バルテュス展いく途中にチャリでフラついてたら八重桜の花びらで敷き詰められた小道を発見して、この先にギャラリーがある的な案内がでてたんで行ってみたっつー。成田秀彦さんは最初は写真表現をやってたそうなんですが、やってるうちに写真だけじゃ表現しきれなくなって絵や立体なんかも手がけるようになったもよう。おもに平面作品をいろいろ見せてもらったんですけども、上記画像にもあるように円形がなんだか出てきてしまうらしかった。当人は意識してないらしいんですけど、丸形だとか円が入ってる作品がすごく多い。上記画像の「吸い殻入り灰皿+たまご+稲」作品はつくった当人もなぜだか気になって、あの並びまんまで銅かなんかの立体をもつくったとのこと(みせてもらった)。なぜだかわからないけど、この並びは日本人にしかできないよ、とおっしゃっていた。ほかにもアメリカのサ店のカウンターに置かれてるような販促用マネキン的なのの写真とかわんさとあったけれども、自分から展覧会とかする気はないとゆっていた。そんなことする暇あるなら作品づくりしてたいとのことです。自分の内にあるモノをひたすら具現化するのが大事で、ヒトに知られるかどうかはどうでもいいとかそういうことらしい。成田さん宅には亡くなった美術家さんの残した作品なんかもたくさん保管されていて、なかでも田中繁一さんという方の絵がよかった。直線使いという意味ではモンドリアンの系譜なんだけども、モンドリアン絵が太めのタテ黒線とヨコ黒線で構成されたいろんな大きさの四角に、それぞれが引き立て合うような3〜4色の原色がまぜこぜに配置されてる(印象派の花畑表現とかカンディンスキークレーあたりの抽象表現をさらにデフォルメしたノリね。ドット画の走りなのかな)傾向なのに対して、田中繁一さんの絵は「直線使い」て点だけはモンドリアンと共通してるんですけども、隣合う色同士が同系色の淡いパステルカラーで構成されてるので、直線しかないのになにかやわらかさや儚さを醸し出してるふう。モンドリアン絵がカタくてガッチリ構成された直線なのに対して、繁一さん絵はふんわりやわらかな直線を色合いで表してるかんじ。無機的な「物」を有機的に感じさすにはどうしたらいいか?てとこからつくられた辰野登恵子さん絵だとか、ロゴマーク的な商業手法でもってエロ表現してる高橋秀さんの版画を思わせる。つーかこの2者の作品といっしょに展示してほしい。いまさらだけど、美術家さんてのは「説明はできないけど日頃からなんとなく感じてるモノ」について表現せずにいられんのだなーと思った。日頃目にはしているけれど、はっきりと言葉で表すことのできない心地よさや違和感について、いつか出さねばと思ってるんだろな。あとは中根明貴子さんて方の1976年の作品で、暴風が砂埃を巻き上がらせた瞬間に浮かび上がった輝くナニかを捉えた瞬間をまま形にしたふうな版画がよかった。中根さんは後年はこのヒトの作品のノリに近いコラージュ的な抽象画なんかを描いてたっぽい。他にも森田玖吾さんて方の鉄製のフクロウの立体だとかいろいろ面白いもんがあったんだけども、名前で検索してもインターネッツではあんましでてこないのな…。インターネッツにでないとなると埋もれたままになる確率が高くなる気がするんだが。トシくってからPC覚えるのってたいへんなんだよなー。身内でPCやるヒトがぜんぜんいないとなるとさらにハードル高くなるしな。
ゴジラは初めてみてみましたが、なんか…怪獣てよりふつうに生物扱いなのな。動物学者さんが調査に赴いたりしてたし。深海に住んでた恐竜の生き残りが水爆実験の影響で放射能吐くようになってしまって、都会を火の海にしてまわるってスジ。これどうやって収拾つけんのかなーと思ってたら天才科学者みたいのがでてきて、こっそり開発してた兵器(水中の酸素をすべてなくしたうえ生き物をすべて溶かしちゃう…んだっけ)を使ってやっつける、てオチだった。あのあと魚とれなくなっちゃったろうな。ゴジラもなんか…学者さんが調査にいった際、音もなく山陰からスッて現れて、意外と身軽なのかなと思った。いなくなるときも足音すらたてずに海に消えてたし。映ってるときは重たそうに動いてるのにな。みてないとこではフットワーク軽いのかもしらん。島にのこされたゴジラの足跡に三葉虫が残されてるくだりがほのぼのした。全体的に反戦映画なかんじだった。兵器を開発した者の苦悩とかもちゃんと描かれてたし。
アジアアナーキーは戦時プロパガンダの不穏さを静かに表現してるふうな傾向の作品が中心だった。しょっぱなに展示されてたジョンペット・クスウィダナントさんのはデモ隊の服装だけが立ち姿ままで展示されてて、近寄ると自動的に服装に付随されてる楽器が鳴り出すふうな作品でしたけど、頭部がすっぽり覆われてるふうな出で立ちってのはイスラム教関連のナニかってことなのかしら。イスラムに関する知識がまったくないおいらからするとあの「頭部が覆われてる出で立ち+デモ隊」の組み合わせからはどうしても過激派がよぎってしまっていかんな。付随してあるグッツは武器でもなんでもなく楽器でしかないのに。イメージて怖いもんだな。あとザッとしか見てないんですけど、義務教育の体操着みたいのを着たイイおっさんたちが商店街で体操してるふうなチェン・チンヤオさん作品とか、おそらくCG映像だと思うんですけど小舟1艘につき男がひとり乗ってて、それぞれが立ったまま信号弾みたいのを何分かおきに撃ちあげるチェン・ジンユエンさん作品(寄る辺なく漂い続ける不安感と、信号弾を撃ちあげ続ける―誰に伝わることもない状態から醸し出される逃げ場のない不穏感が妙に合致してますね)だとか、あと切り絵アニメ風な映像で自然に囲まれた平穏な地域がいろんな人種に踏み荒らされて次第に不穏になってくふうなドゥ・ペイシーさん作品もよかった。自然現象でいろんなモノが破壊されるとこをみるにつけ、そこから生まれた人間てのは元来破壊したい性質が備わってるのかもしらんなあと思う。映像作品ではヤオ・レイヅォンさんの「万歳ー!万歳ー!」て叫びをカメラが追ってくと廃屋の奥の広間壇上で軍服みたいなの着た男がひとりで叫びつづけてるとこまでたどりつく映像がよかった。だれも声高には言ってないけど「体制」ていうモノに対する漠然としたイメージを作品に盛り込んでるふうなのが中心だった気がする。日本人であるおいらがいうのもなんだが、暴力て心に刺さるからこそ芸術作品にしたときにもその効力を同じく発揮するんだよね。マジに平穏な世の中になったらこういう作品もまったく生まれなくなるかもしれんな。このアジアアナーキー展てTWS本郷だけじゃなくいろんなとこでやってたみたいだけど、各々が遠いからまわるのひと苦労に思えてしまって足が遠のいてしまったよ。ほんとはちゃんとみなきゃならんかったよなこれ。