悪者叩きはするホドに問題解決から遠ざかってく件

観光名所にラクガキしたヒトは目立ちたいだとか面白半分でなんだろうけど「やったらいけない場所」だからこそやるんだよな。サイコパスの人が「法で定められてる」からこそ破るんだ的にゆってたらしいけど、厳重に禁じられてるモノを汚す、そうでなければいられない心持ちがどういう場合にわいてくるもんなのかを解明しないとまたふつうにやらかすヒトが出るでしょうなサイコパスといえば子供の裸撮りためてた人は小児性癖みたいだけど感受性が強烈な小児期に感じた欲求が深層心理に焼き付くことでその後の人生を支配する性癖となってしまうとすると、抑止てのは不可能だろうね。小児性癖の精神分析とかしてるヒトいないのかね。サイコパスと似た根なんじゃないのかと思ってる。なんらか強烈さに他の機能が働かなくなってる的なとこが。
・植民地支配した際にヘタクソだった者だけが責任を取らなきゃならんてことは、つまり「植民地支配をするに現地市民からの反感をださせずうまいことやった国はお咎めなしでOK」て論理なんだろうか。これが根源になって平和な世の中になったとしたら、それは「善き戦だった」として後世に語られることになるのと同じね。いま紛争地と呼ばれてる国にしても、現地から家康的なヒトが出ないかぎりは収まらないんだろうね。さんざん殺し合いした中でずば抜けたちから持ったヒトが現れておさまったうえで今の世が築かれた日本からしたら「戦乱がダメだ」なんて本来的には言えないはずなんだが。部外者がハンパに手出しするのがその国にとってほんとにいいことなのかどうかわからんし。
同性愛者差別だとか人種差別に陥っちゃうヒトがどうしてそういう考えを捨てられないのか、当事者と周辺がじっくり話し合って理解してくが真の解決策だとすると差別する人を追い出して済ましてるかぎり人種差別はなくならないんじゃなかろうか。「追い出す」てのは気に入らんモノを見えないとこへ追いやるだけで、なにも解決してないよね。アメリカあたりで差別が根にあると思しき状況がいまだに残り続けてるのは「差別を差別的行いで対処」してることの証なんじゃないのかなー。距離を置く方向の対処を続けてくにつれてどんどんその溝が深くなってしまうような気がする。その都度親密に話しこむ、て方向にはどうしてもなりづらいんだな。その方法は時間がかかるだけに結果がすぐ出ないから、せっかちなアメリカンとしては「とりあえず追い出す」方向の簡単な方法を選びがちなんだろね。差別といわれる言動は大方が不遇が原因で荒んでる人に陰謀論のっけて「叩く根拠」に仕立て上げたのちに個人的鬱屈をぶちまける対象にするが根源なんじゃないのかなと踏んでますけど、鬱屈ぶちまけが目的てとこからして「一体感欲求みたす目的の敵叩き」と似てますな。敵味方分かれて高揚さす、てのを市民に強いてたころから連綿と続いてるのな。マンデラさんにしても市民間の誤解を長期にわたって解消してくふうな政策を敷けなかったことが痛恨のやり残しだな。こういっちゃなんだけど、商売でもなんでも「一時的にうまくいかす」てのはわりと誰でもできるくさいんよね。それを政府が何百年単位で維持できるかどうか、てのがいちばんの問題でさ。特定のなにかを憎悪して発散対象に仕立てあげてしまう、てのは人間であれば誰しもが陥ってしまう心理である(そうならないように気をつけましょう)的な教えが義務教育なんかでされてないってことなんだろうけども。「差別してはいけない=してる人がいたら追い出しましょう」てのは「決め事に従わない人間の排除」であって、差別的心理に陥ったヒトを蔑む考えにつながってしまうんじゃなかろうか。それと同じく、ひっくりかえっちゃった船の船長だとか関係者を叩くヒトは「自分はそんなことするわけない(=自分は善・間違った相手は悪)」て思いながらやってるんだろうけど、他人ごとだと思う気持ちを抱いてるかぎり同じような事故が何度でも起きると思うよ。傾いた船からそそくさ逃げる船長さんとかも、事故なんざ他人事だと思って責任負う気がビタ1文なかったからこそさっさと船捨てたんだろうし。「誰しもいつその立場になるかわからない」ていう考えを多くが抱いてくほうが再発防止になる気がする。犯罪と呼ばれる出来事も同じで、誰しもがいつその立場になるかわからないのに、善人ヅラして「アイツらだけが悪い」なんて、誰にも言えないはずなんだけどな。人間であればいつそうなるかわからない、ていう考えこそが不遇な状況にあるヒトをも差別せず地続きで思いやることなんじゃなかろうか。中国や韓国がさんざんやらかした人に墓参りするのと同じだとして靖国参拝咎めるけど、かつて非道をやらかした権力者を「悪」として排除するのもまた彼らを見下して「他人事」として切り捨てる心持ちから派生してるだけに、なんの解決にもならないと思う。ヒトラーや東条だってみんなと同じ人間だったんだよ。同じ立場になったときに「彼らがしたのと同じ間違い」をしないようにするには、彼らを対等の存在として見なす心持ちが必須なんじゃないのかな。「罪を憎んで人を憎まず」を実践できてるヒトってほとんどいないのかもね。なんつーか、失敗したヒトだとか極端な心理状態にあるヒトを見下してるかぎり、その状況下で発生する問題について「責任をもって対処する」ことから遠ざかってしまうと思う。責任もつ、てのは自分の身になって考えるってことなんじゃないのかな。「悪者をみつけだして叩く」てのは憎悪をたぎらせることで、解決にはならないんだよね。それやってるかぎりは「自分がすべての責任を負う」て心持ちにいつまでたってもたどりつかないし。ちゅーごく(金が入り用で過去のことほじくってんのかねえ)にしても「自分以外の誰かが悪い」てしてるかぎり、国内の問題は解決されないままでどんどん悪化すると思うよ。自国政府がこれまでやらかした蛮行についての展示を政府がするのであれば、それだけで反省してることの証になると思うんだけども「敵によって自分の国がいかに蹂躙されたか」てやってるかぎりは物騒な考えにいまだにしがみついてる証にしかならんと思うがな。その点は日本やいろんな国ですら出来てないだろうけど(自国民の客足がのびないだろうしな…)。巨大な売り手市場であるちゅーごく様にソッポ向かれたくない一心でその思想に賛同する付き合いしかできないのもどうかと思う。「敵ありき」の思想こそがこれまで世界中に憎悪の種を植えつけた元凶なんだがな。それに賛同してくとなると、これからも紛争の原因を世界中にばらまいてまわるのを推奨する(現にウイグルで蛮行繰り広げてる中ですしね)形になりかねん気もするが。真逆なはずの「反省(=責任もつ)」と「叩く(=責任放棄)」を平然といっしょくたにして善行的に見なしてるふうなのが滑稽でねえ。書かずにいれんかった。
バチカンで逢いましょう(4/26。武蔵野館)て映画を夫人に連行されてみてきたんだが、スジとしては法王マニアのドイツ人の太ったおばあさんがローマに突入して、孫娘んとこに転がりこんだことで追いかけてきた娘ともども家族会議をする話で、なんか…このおばあさんが「ローマ法王に許しと祝福を与えてもらわないと生きていけない」的な考えなんだけども、だれかに許されなくても全員ゆるされてるし祝福されてるんだがな。神仏の分け御霊である自分を「だれかにゆるされないと生きられない存在」なんて貶めて考える自体が精神衛生上よろしくないような気がするけど。そもそもキリストの考えを「法王庁を崇め奉らせるための奴隷づくり思想」にねじまげた団体の管理者のどこらへんがありがたいんだろうか。信者の子を強姦せずにいられんくせして性欲否定し続けるつー時代遅れな思想強いる団体のどこが聖なるもんなのかビタ1文わからん。このおばあさんの孫娘さんは彼氏んちに居候してるかなんかで、その彼氏んちの壁には彼氏の描いた裸の女子絵が描かれてるんですけども、まーけしからん!とばかりにおばあさんがその絵のおっぱいと股のとこに法王の写真貼りまくっててさ。「敬虔なクリスチャン」からすると性欲と裸を否定する(=不自然)のが善なんだねー。あるがまま(=自然)を認められない時点で人間を憎んでるとしか思えんがなあ。そのわりにこのばーちゃんが彼氏かなんかにフラれた(そもそもあのベスバの爺さんがばあちゃんに偽装結婚持ちかけた理由が全然わからんかった。偽装結婚してどうする気だったんだろ?ひと儲けするのだとしてもそれに易々とのっかるおばあちゃんはクリスちゃん信念がカタいのかユルいのかよくわからない)際、やけっぱちになったかなんかで孫娘の働くバーかなんかで踊り出した挙げ句に「愛はすべてをゆるすのよー!」とか叫びだして、ばあちゃんホントはわかってんじゃんて思いました。なんかさー…世界中の「キリスト教徒」のヒトってはけ口として都合がよければなんでもいいんじゃねえの?て思わずにいれなかった。たまたまキリスト後の権力者が機関存続のためにつくりだした「オレらの決めた罪を犯したらオレらが許さないかぎりお前は許されない」てのに市井で自然発生する罪悪感解消観念が合致しやすかった、てだけでさ。それを信じるあまりに自分がハナから祝福されてる神仏の分け御霊だなんて受け入れられずにいるってだけなんでしょ。罪人なんてどこにもいないんだよ。見下す対象つくりだす思想にすがっておきながら何が世界平和だ。笑わせんな。余談だけど、前の勤め先にいたH部さんて女性(いまはアメリカ西海岸在住)がゴリゴリのプロテスタントなんだが、ジャーニーてバンドにハマってた過去話をしながら「前はわたしもそういう罪深いものを好んでて…」的に言い出してさ。その人はジャーニーだけじゃなくロック自体を罪だと見なしてたんだけども、ジャーニーやロック方面の才能持ってる人全員を差別してることに気づいてないんだなあと思ったっけ。ちなみにH部さんは同性愛もものすごく嫌っていた。物騒な宗教だねえキリスト教てのは。自分で憎悪ばらまいてることに気づきもしねーんだからな。ローマ法王庁を礼賛しながらキリストを踏みにじってるてわからんのだろうか。あんたらキリストを拷問にかけてる人と同じだぜ。まーこれまでのキリスト教は「なにが間違いなのか」てのを2千年来えんえんと体現してきたって意味では必要だったんだろうけどもな。それがなければ何が正しいのかってのもまたわからんよね。三位一体ではなく悪魔(=これまで全力で間違いをばらまいてきた法王庁)を加えた四位一体でなければ「世界を把握する」ことは不可能だった、てことをずうっと証明してきたようなものですね。