「〜しなければならない」がヒトをバカにしてる件

『他人と競う必要がどこにある。天恵は無限であるぞ。無限に生きとし生けるものすべてが、何不自由なく暮らしていけるよう仕組みたのが、この地球ぞ。無限に循環する仕組みぞ。無限なる天恵を、なぜに有限と決め付けるのか。』(火水伝文より抜粋)
・資源たりなくなるんじゃ…て恐怖に駆られて行動してるとたりなくなるらしいんだが、資源使うごとに感謝してれば無限に増え続けるみたいよ。戦争がはじまる理由の根本には資源枯渇への恐怖心があるんじゃないかと思うけど、そのテの思いがまま資源枯渇をまねくみたい。恐怖を捨てて資源への感謝をしはじめないことには資源はへるいっぽうなんだな。領土獲得に躍起になるのにしろ兵器捨てれないにしろ「他者への恐怖」が根源になってるんだろうけど、その恐怖抱えてるかぎりは恐怖感にまみれた現実ばかりを宇宙エネルギーが実現させてってしまうよ。企業内で突飛なアイデアが潰されがちなのも「失敗したら…」的な恐怖心からなんだろうけど、まず恐怖を捨てないことにはそれが活かせるもんかどうかも判断することができんでしょ。世の中で問題と思われてることって大方は無用な恐怖に勝手に囚われてるだけぽいよ。
・「しなければならない」て思い込んで渋々やってる事ではほんとの才能がだせずじまいで終わるくさい。そもそもの心根に義務感やムリヤリ感しかないから、宇宙エネルギーは個々に備わる喜びをいっさい感知せず「義務で仕方なく…」的なくたびれきった現実を淡々と叶えてくふうになるんだな。そうなると永久にくたびれた灰色の毎日と、そこから派生するつまらん結果の循環しか起きんわけだ。ストレス解消にチカンしたりイジメやったり、てのが横行してる部署だとかずさんな仕事ぷりが放置されたままの箇所てのはおそらくそのテの「ヤだけど渋々やってる」的なヒトばっかしになってるんじゃなかろうか。世の中には村木さんみたいな真向きのヒトがちゃんといるんだから、ムリにやる気のでない仕事をやってても誰のためにもならないよ。そもそもの努力のベクトルが間違ってるからいつまでたっても報われないと思う。現世で人間に備わる神仏のちからをまんべんなく使うには「うれしさ」や「たのしさ」に忠実に生きればいいだけでしなければならない(←キリスト教思考そのものな)ことなんてひとつもないんすよ。宇宙エネルギーになにを共鳴させるか、てのがすごく大事てだけで。ウンザリやってればウンザリな現実になっちゃうし、たのしーてやってればたのしー現実になるふうに。究極的には「どんな経験も楽しめる」ようになれば世界中でその循環が起きて楽園的なもんが実現してくことになるんだろうね。ただ宇宙エネルギーさんてのは扱いがちょっとばかり難しくて、二極ありきの欲求を受けると対極要素をちゃんともたらしてくれてしまうらしい。たとえば「人助けしたい」て望みを抱くと、よしきた!とばかりに宇宙エネルギーは「助けを必要とする人(や状況)」を差し出してくるんすな。困ってる人がいなけりゃ助けたい願望は叶わんわけで。ここらへんからすると「平和」を望めば望むほどに「平和でない状況」がどんどん起きることになるんじゃねえのかな。平和を実感するにはそうでない状態でなけりゃわかりませんからね。非道行為にしてもあの世では味わえない苦しみを味わうためにあるらしいんで、この世に生まれついた時点で脳の構造がそういうことをしやすいようにインプットされてるとしたら止めようがないような気もするし「否定をぶつければ否定しか返ってこない」的な教訓にするにはヒドい行為ほどより効果的になるのもたしかではある。痛みにしてもよくよく向き合えば原因がでてくるらしいところからして、ムダな経験はひとつもないんすな。尚、宇宙エネルギーが恵みを与えてくれる前段階でヒトからするとヤバい事案にみえる状況が差し出されたりもするらしいんだけども、なにしろ全部まかせとけば結果的にうまくやってくれるらしいです。
これ遊就館が戦犯礼賛してるのと同じね。どの国も「自分じゃなく他人が悪い」表明をするのには熱心だけども、自分がやらかしたことの検証は避けてしまうものなんだな。反省するのってむずかしいよね。反省したことない側が反省求めても自分の態度跳ね返ってくるだけだろうし。やらかしたことを反省さす構造について裁く人がどうこうより「加害側に検証させる」を中心に置くシステムにしたほうがいいと思う。ちなみに人を裁く自体が(自分がなぜそう感じるのかに向き合わなくなるので)責任放棄そのものなんだそうです(5/12追記)。