負け戦こそ楽しいんだよ

『集合意識としての私がこのゲームを始めた張本人であったことを思い出すでしょう。貧者は私が創りだしたのだという事が、病の淵で喘いでいる人は私が産み出したのだということが。経済的苦しみに疲弊した人を、独善的に人の頂点に立とうとする人を創り出したのは私以外の何物でもなかったと・・・。でも安心して下さい。自分を咎める癖のある人や否定的なあなたはこんな事を思い出すことはありませんから。全く自分を咎めることの無くなった人だけがこの事実を思い出します。でないとあなたの自我がその苦しみに耐えられないからです。どうぞ自分を信頼し、自分の宇宙を信頼して下さい。あなたこそが「私」であったことを思い出すでしょう。そして「私」とはこの地球には一人しかいなかったことがわかります。「私」とはこの宇宙に一人しかいないのだという事に気付きます。あなたこそが宇宙に存在するただ一人の「私」です。あなたこそが宇宙生命です。』(空想と現実より抜粋)
被害者となったら加害者を責めることが善、責任も負わなくて結構ですヨシヨシ、みたいにされてるけど、これまで見てきたかんじからすると、その考え方が原因で問題解決から遠ざかってるようにしかみえないんだよな。蛮行三昧のテロリストにしてもテロリストとなってしまう原因解決について何も書かれずテロリストを悪者扱いしてるし、麻薬の密輸が増えてる件も根本にある貧しさの改善よか「犯罪者」をどうかすることが全面に出されてるよね。「自分の心を傷つけられるのは自分だけ」ていうふうに、自分に起きた出来事すべての責任を負うこと他人のせいにしなくなって犯人探しよりも原因を知ることに重きを置くようになるらしいのだけども、その精神性が無視されてるのはなぜなんだろうか。そもそも人間がなんで現世に生まれてるかってあの世じゃできない経験をたんのうするためなんすよ。不自由のなかでないと自由が味わえないという仕組み「ダメな経験」はひとつもないし。いじめにしてもそれがなきゃ「乗り越える」イベントも発生しないわけ。不幸がなきゃ幸せが発生しないのと同じで。虐殺死刑を経験すれば「平穏無事な生」がなによりの幸福になるだろうし難病のヒト看病するヒトは健康な状態が、体の一部を失ったのなら五体満足であることから幸福を感じるための前段階になるんだと思う。そのぜんぶ、あの世では肉体がないから経験できないんだよ。不快さは現世でしか得られないわけ。死後のことなんかどうでもいいだろ!とか思うだろうけど、自分の人生について「自ら望んでない不遇な生」と被害者感覚満載に捉えることでどれだけの人生差別を生み出してきたと思ってんの?その考え方こそが「あの人生はよくてこの人生はダメ」なんていう偏った観念を助長してきたんだろうが。「人が平等というなら意見もすべて等価」「この世に上下はない」て前提を置きながら戦争殺しを貴重な経験だと胸張って言えないのは「殺しや戦争はあってはならない経験」と思ってるからなんでしょ。苦しみをより多くかんじることこそが望みて観点からすればさっさと死なされた人はあの世で悔やんでるかもねえ。殺人事件の訴訟なんかで賠償金払わす判決がでた際に「これであの子も浮かばれます」とか言うけどカネむしるのと成仏したかどうかって別のことじゃねえのかな。原発が原因で避難生活おくるのや冤罪だってあの世じゃ起こりようがないでしょうしね。死んだあとになってもっとしっかり経験しとけばよかった…!つっても遅いんスよ。現世では被害者きどりでカネせびるのに忙しくて苦しみをたんのうする気持ちなんざビタ1文持てない社会体制ですからねえ。それと戦時のツラい経験を差別視するあまりに「カネもらわないと気が済まない」みたいに思い込ますってのもどうかと思うよ。人生経験をカネで済ます、て人身売買と同じだろ。それで満足するってどんだけ下卑た発想なんだよ。賠償金担当の財団理事長はやっぱり罪人概念ありきのキリスト教系のヒトなのなあ。この世でのすべての出来事あの世からすると娯楽だなんて言ったら激怒するかな。お金だした企業てのも「ナチスドイツを払拭したい強い動機」だった、てことは「戦争おこした連中と自分はまったく別の善人」てアピールしたくてやってるようにしかみえんのよね。「犯罪者」を切り捨てる思想を基になされてるでしょ。あと被害者のことばかり語るのはなぜなの?戦争おこした側のことがまったく話にでてこないよね。お金もらったあとでなぜあんなことをするに至ったのかを考えてる被害側ってどれだけいるのかね。もらったらそれで済ましてる人が大部分なんじゃないのかしら。なんで「被害者」側だからって出来事の責任負うことから自動的に免除されるんだろう。この経験をした人はすべて責任放棄してかまわない、て、それこそ原因から目をそむけることにつながってしまうんじゃないのかなー。つまりその経験は「してはならない」と世界中で思われてるってことだよな。「裁かれねばならない」て考え方自体被害側の責任放棄加速させるだけなんじゃないのかなと思えてならんのだよね。被害側の人はずうっと「他人が悪い」て言い張りつづけるんだろうか。「苦しい」経験に出会うたんびに被害者ぶってたら不自由である状態を望んでこの世にきた、て考え方には永久にたどりつけなくなっちゃうんじゃなかろうか。無条件の愛を実行するには被害者でなくなることが必須だそうなんですけど、そうなると被害者ぶってる人は無償の愛すらも持てないってことなんだな…。なんか無条件の愛が実行できないのは人に優しくできなかった記憶が原因になるらしいんですけども、加害者に対してはささくれだった気持ちしか向けられなくなるでしょうしね。被害者ぶることでムリめの課題をいろいろ負ってしまうってことなんすな。二極思考を軸にしてると差別が生み出されてしまうところからしてごく自然な成り行きではあるのかもしらんけども。人種差別のヒトじゃないが排除しだす人は他者に理想を求めすぎてる(=自分を変えようとしないので永久に理想は達成されない)あたりからして、二極のうちの一方の役割を負う自覚を持ってしまったことから差別から抜け出せなくなっちゃうのかもしらん。ちなみに答えが1つきりと思い込んでると自分の意見に自信がもてなくなる(=不完全な自分から発される意見は劣っている)そうで、唯一神大好物のキリスト教信仰のヒトは精神的にくたびれていそう。自分は劣ってるから優れた誰かにすがればいいてのも責任放棄そのものすな。たとえば超人だとか天才だとか神だとか?そういうもんを生み出すのは「自分ではどうにもできないから」ていうハナから諦める前提の心根からなんだな。自己否定を抱きながら他人批判するといずれ自分にかえってくるそうですけど、あらかじめキリスト教にゆるしてもらわないと生きていけない的な思想に染まりきってる、てことは批判の応酬が永久に止まらない運命であることを示唆しているのであろうか。ちなみに否定されたと感じるときは自分が否定したときであって拒否におびえるかぎり拒否がなくなることがないのだそうですよ。そもそもの拒絶根本原因には傷があるだとか沸き起こる感情は自分が断罪した情報から派生しているとか、拒絶の継承については並べだすとキリがないですけども。自分を責める心をもってるかどうかが他人という鏡によってようやく把握できるんすなぁ。他人を自分の分身とみなせばどんな意見を持ってても尊いと思えてくるのかもしらん。そういや前の勤務先で夫人から裁かれまくってたけどてきとうに受け流してた。「あるがままを肯定する」が 観察者としてあるべき姿勢らしいので一応正解だったのかな。 カッとなるネタこそが自分のバランスとれてない箇所てのと他人への評価自分の欲求を表しているてとこからして夫人はいろいろ限界だったのであろう。わがままさんに怒りをやりたい放題させとくとそのうちおさまってくるてのは実証済。要はコチラがぐらつかなきゃいいんすよ。相手はさんざんわめいてるうちにくたびれてきてやさしくなるよ。わがままを抑えようとするのは人間関係上での軋轢に怯えてる証拠とのことで、その怯えさえなくなれば自由奔放に生きられるようになるわけだ。被害者ぶってたらたどりつけない境地だねえ。とりあえずこの世対極にある要素がバランス取ろうと働く仕組みになってるらしいので、二極のうちの一方望む片割れも自動的にもたらされてしまう(真逆要素がないと喜びがもたらせないためらしい)とか。快適さを求めるほど不快の種も増幅するて考えれば、おばさんから命令されるままエロ雑誌をなくすことで差別のキツイ社会になってくのと似たようなもんだろうか。人間社会の尺度なんぞ宇宙エネルギーにとってはどうでもいいためにヒトが抱いた気持ちを片っ端から叶えてしまうので、その宇宙エネルギーをうまいこと使いこなすためにはクダクダ考えるのはむしろ邪魔になりやすいらしい。自己嫌悪に陥ると自己嫌悪像のままの自分になっちまうし自分の欠損部を気にしすぎたり心配ごとばかり抱えてると、心配ごとに悩まされる自分が実現してしまうとか。世話を必要とするヒトがたくさんでるてことはつまりそんだけ「看病したい人」がいる、てことなんすかね。地球救う願望もつヒトのために地球さんが救われるのにちょうどいい病み方をしてくれるてのはなんか可愛いな(ちなみに資源たりないと思えば思うほど足りなくなるらしいよ。有限と思い込むホドに争いが激しくなるのは恐怖に駆られてのことなんだろうけど)。宇宙エネルギーを利用する上では過去に感じたうれしさ幸せだった記憶に浸るほうがその感覚が増幅されて返ってくるようになるらしいので、言葉でアレコレ願うよか想像や記憶を働かすほうがいいっぽいよ。ほんとかどうかはしらん。あ…願望抱くにビクついてたら叶わないんだっけか。たのしい心持ちでさえいれば宇宙がうまいことやってくれるてことなんだろうけども、現世にいる以上はうれしいのとヤなことどっちも経験して等しく味わったあとでないと「次」にはいけないらしい。次てのがどういうとこなのかはしらんが。なにしろ神仏は単純に欲求に従ってこの世に人として生まれたそうなのでいいもクソもない(どうでもいいてことなんだろうか)とのことです。ちなみにとはナニかやダレかがなくなっても変わらずあるモノだそうですよ。もとからぜんぶ備わってることに気づくかどうかで精神的には真逆の状態(自分が責任負う=自立・自分の責任放棄する=依存)になっちまうあたりからして、なんだか現世の仕組みてのはすごくデリケートなのかもな。幸せ追求にしても狂うスイッチ的なほうと勘違いしないようにしとくと吉かと。