頭いたい時に痛い部分に意識向けると痛さがアチコチに動き回る時がある


・生理痛んときに映画館行って映画みてる間だけはなぜか痛さを感じなくなるんですけど、あれって脳の「痛さをかんじる部分」と「映画に集中するときにつかう部分」が同じとかでなのかな。家でDVDとかテレビみるだけだと痛いままなんだけど、映画館いってみると痛さが気にならなくなるんだよ。その脳の部位の切り替えを自分で出来るようになれば痛み止めいらずになるなあ。霊能力者はふつうにできるのやもしらんが。映画みるときに稼働する脳の部位、てのは「みる」つながりで霊が視えるようになる部分と近しいんだろうか。視えるヒトが霊を避けて通ろうとする(そういえば三巳華さんディスった回は霊を視るちからを欲しがるから与えたのに逃げまわってばっかいるのはどういうことだアァン?てのを代弁したつもりだったんだけど伝わったろうか)てのはヒトに受け入れてもらえなかった経験等からいちどは通る道みたいスけど、なんの能力でもその能力でしか出来ないことをするために備わってる可能性が高いんで、避ければ避けるホドに面白い出会いもなくなって「次」に進めなくなるんだろうね。向き合わなきゃならないナニかを放置したままでいると「次」に行けず立ち往生しっぱなしな状態になってヒマでしょうがないから、目立つ人の足引っ張るようなことしかしなくなっちゃうんだろうね(スレで悪口書いてるのは黒ヘビさん関係者なのかな)。逃げずにその都度ヤなことに対処しつづける人はヒマなわけないんだよ。次々にやらんきゃならん課題に向き合わされるから。ヒトの未熟さを笑うのが未熟だったころの自分を嘲笑するも同然なように、大抵の悪口て対極にあるブツがなければ存在できないたぐいのもんばっかしだからディスることで是とする側もけなしてるようなもんなんだよなー。
自分に都合よく従う相手を探してる人にとっては「かわいそうな人の世話をしたがる人」が鴨にみえてることだろうな。「かわいそうな人」のわがままならなんでも聞いてくれるあたり。従わせたい人はヤなことから逃げるために下僕がほしいんだろうし、かわいそうがる人は自分の問題に目を向けずに済ましたくてやってるのだろうから、双方が「逃げ」の心理で合致してるわけが。誰かをかわいそうがる、てのは「自分はかわいそうじゃない」て前提でやってるからバカにされてるのと紙一重なのでイヤがるヒト多そうですけどねえ。大抵の人間関係では「自分を変えれば相手も変わる」んだけども、いくら自分を変えても相手が変わらない場合は「ふつうのヒトには直すのはムリ」なほど性根がねくじれてるのかもな。そういう場合は神仏が関係を即切りすることを推奨したうえで必要とあらば「改心するに必要なだけの痛み」を与えるのかもしらん。仏教説話でよくある「怖い目に遭わされて改心する」的なのは痛い目に遭わないと自分の欠点を自覚できない性質を神仏側がよくよく把握したうえで必要なだけの「痛さ」を与えるからできることなんだが、個々の「痛さ」限度すら把握できん人間がやってもただの暴力になるだけなんだよな。改心さすに必要な痛みじゃないが対極のモノに生まれ変わる(霊のヒトに聞かないと真偽不明)ことを繰り返してくうちに凝り固まった考えがどんどんほぐされてったりするんだろうか。一時的にどっかにいってるだけの神社仏閣で祓った穢れが海で浄化されていつしか帰ってくるように。
これといい、霊方面でいかがわしいもんがブレンドされるとなぜか猿っぽくなる(経立は別モノ?)のはどういうわけなんだろうか。ヒトではないナニか、てのを象徴してのことなのかな。その猿っぽいもんが出てきたこの穴空也がいた時代あたりの権力者が「賤」として排除したヒトたちを怨霊に仕立て上げて使役する目的でつくったんだろうか。怨霊を単なるエネルギーとしてしか認識してない人は道具にするために殺すなんてことも平気でやっちまうんだな。証拠隠滅&共犯にするために周囲の人間に遺体の肉を食わせちゃうのと似通った冷血っぷりだ。あのブラックホールじみた穴から出てる手はつかんだもんを引き込んで食べたりすんですかね。霊の世界に於ける「食う」てのは現世での意味とはちょっとちがうみたいなんだよな。狼が狐を食う(ことで狐は解放される)らしいけどきつねたんが魄を食べるとその魄も解放されるんだろうか。明王さんが不浄を喰らうのや獅子が火を食うのと同じく。死んだヒトの霊が現世を離れる前に食べたいモノを求めてくることがあるらしいけど、その「食べる」は前述の解放のために「食う」とはまたちがった意味なのかな。五感ネタといえば小野照さんのにゃんこがおいらの子宮らへん(股じゃないよ)のニオイをしきりにかいでたんだが、ねこは「かぐ」ことで中にあるモノを検分してんのかな。気配をかんじとるのにニオイが役立つ件からしてもその可能性大。上記「もうあるんです」画像じゃないが…そういえば寺に遊びに行って観音さん(いまんとこ確認済なのは聖観音・千手観音)の前いくと、なんか…むかって右側の目(相手の左目)の瞳がおいらの右肩あたりをみつめながら、なにかを読んでるみたいな動きをするんですよね。もしかしてまだ書いてもない日記を読んでる…?のかな。如意さんの生まれ変わりさんも、足に入り込むときはなんだか瞳だけが動いてるんだよ。なんらか読んでるふうに。なんだろな?近日にやりそうなことは霊界ではすでに完成してるってことなんすかね。よくわからねえなあ。相変わらず霊の世界のシステムは全然わかんないよ。現世のヒトがどんなもんをつくるのかがあの世ではだいたい見当がついてて、それをもとに「偶然」的な出会いをアチラで仕込んだりすんですかね。ちなみに寺尾さんと視子さん阿弥陀さんのパシリじゃね。
あつかましさも個性な件じゃないけど、なんか…中道の考え方て差別的(とみなされがちな)考え方のたもとに埋まってたりするんで、怖がりだったり痛がりだったり、守らなきゃならんモノをたくさん抱えてたりするとよけいにたどりつきづらくなっちゃうのかもな。そういえば日本列島が真っ二つにならないように祈って欲しいてトランブレーさんとこで再三でるんだけど、ナニがどうなってまっぷたつになんのか、それをどうかすると防げるのか、こまけぇことがなにひとつわからん上それを憂う神仏にしても「まだ間に合う!」とか宝くじはお早めに!なノリで急かしてるし、なんともいいようのない事案だな。おそらくそれが防げたとしても目にみえる成果みたいのが一般的にはまったくわからんことから助力してくれる向きてのも限られてくんだろな。
このテの玉とかってもしかしてもっとちいさくて、ヒトによっては足のくるぶし付近に入ってたりすんのかな…。ちょっと前までそこらへんにちいさいふくらみが2ケほどあったんだけど、今はもうない。