自分を尊重しないかぎり「愛を交わす」ことはできないんすな

この番組益若つばさ辺見マリが「彼氏に束縛されたい」とかゆってたけど、親からの無償の愛が足りないのを「異性からの束縛」で補填できると思い込んでいて、克つそれが同じモノだと勘違いしてるんだな。子供が親から与えられる無償の愛、てのは「自分(子供側)が納得いくまで甘える」ことなんだけど、異性からの束縛、てのはそれとは真逆で自分の意志が踏みつけにされて相手の意のままにされ続けることだから欲求不満状態が更にヒドくなるだけだと思う。男から束縛されてる女の人て相手をつなぎとめておきたいばかりに言いなりになってしまって、その結果男が浮気しまくって破綻するパターンが多いようだけど、それって母親がなんもしなければ息子が暴れ出すようなもので、人としてバカにされてるんだよね。言いなりになって反論もしない、てのは自分自身をないがしろにしてる状態だから、相手もそれでいいのだなと思って好き勝手しだすんだよ。相手を尊重しない態度が鏡に反射して自分に返ってきてるつーね。精神的に自立した付き合いをすることが相手をも尊重することになる模様。バランスの悪い関係しか築けない件と同様に、なんか偏った行動ばかり繰り返してるときって親との関わり不足が原因な場合が多いぽい。そういえば「整形くりかえしちゃうのは幼少期に親から不細工となじられながら虐待されたことが原因」とか350回整形手術したヒトの件でやってたんだが、そういうふうに育てられた子は、親の忌み嫌った顔をどうかして不細工でないモノに直そうと整形しつづけちゃうんだそうだ。「不細工でない顔」になれば愛されると思い込んで。そんなひでえ心持ちの人間からでも生まれてしまえば無条件に愛されることを渇望しつづける対象になってしまうんだよな…。自分の生んだ子を傷つけ続ける、てのは自分も同じふうにして育てられたか、もしくはこの件と同じく自分に自信がなさすぎることで「そんな自分から生まれた子供は自分のダメな部分が濃縮された塊」と見なして傷つけて追い出そうとする、擬似的な自傷行為と病的な依存がないまぜになってるのかもしらん。自分の生育者がそのテの心持ちだってのに気づいたら、肚据えて長期間かかる覚悟で何度でも話し合ってかないかぎり、欠落した愛情を補うことはいつまでたってもできないだろう。整形手術について心の病を治すためならイイとかゆってる人がいるらしいけど、トラウマ植え付けた相手との対話もさせずに整形させ続けてもイイことなんてひとつもないと思うがな。幼少期に甘え足りないままだと、足りないままでずうっとトシくってくぽいんだよな…。その足りなさに生涯悩まされる、てことは自分で制御できないほど激烈な欲求なんでしょうね。巨大な空虚が心のなかにあるのに自分では気づきづらいつーね…。カルトで勧誘くりかえしてる人とかも所属してる宗教で真に心が満たされてるのなら他人に強要する必要なんかねーハズなのになー。心が満たされない原因の多くは生育者との関係不足なのに、それ以外のもん(整形や拝金教)で補えるわけがないよ。愛情欠乏しっぱなしといえばさー巷の風潮で「可愛いモノが愛される」を押し進めすぎると「可愛くないと愛さない」部分も同じくらい深まってしまうんじゃなかろうか。特に室内で飼う動物について「可愛い」が適用されるときって、「吠えない」「噛まない」「主人に従順」あたりの大前提をすべて満たしたときだけなんだよね。そのどれかひとつでも満たしていない愛するに値しない存在とみなされて捨てられたりすんだよな。保健所で殺処分されてる動物が数十万匹いるってのはそこらへんが起因してのことなんでしょ。時の常識が規定する「可愛い」観念に知らず知らずのうちに支配されきってるんだよなー。その動物個々の性質に向き合っていっしょに暮らしてく気持ちがあるなら時の常識にそぐわないかどうかなんて気にならないはずなのにな。目前にいる者が持つ資質をろくに見もせず「世間の価値観に沿ってるかどうか」でしか判断できなくなってんだな。女ならブランド品からしか「価値」を感じれない人で、男なら国宝ファンタジーにノせられて千円のガラクタに数十万払っちゃう人てとこか。ぜんたい自分の意にそぐわないからって動物を虐待したりゴミみたいに捨てるようになってしまうのはどうしてなのかな。自分も「時の常識」側に立ってだれかを従わせて屈服さす優越感でもって慢性不満状態の欲求を無意識のうちに補おうとしてるんだろうか。自分の本質が「時の常識」とはそぐわないモノであることに気づいていたのだけども、気づいたところで「時の常識が是とする状態」に到達できないし、本音ではそれに従いたくもないのに、その価値観に従わねば自分の存在が肯定されず愛されることもない、というのがわかりきって絶望しているために自分が受けてるのと同じ抑圧によって他者を従わせないといられない心理状態になってるてことなんだろうか。
時の常識で禁忌とされてるもんに「殺し」があるけれども、殺しにまつわるモノすべてを忌避しはじめると自宅で魚をさばくことすら忌避するようになって、そのテのことを業者(今だと店屋だとかスーパーの調理場の人)に全部押し付けてさも自分は身ギレイ、みたいな勘違いをしはじめるようになるんじゃなかろうか。自分のすべきことから目を逸らして責任放棄してるだけなのにね。動物に聖も賎もないように、生きる以上は身ギレイなわけがない、ていう至極当たり前のことからなんで離れようとするのかというと、それは手間を省いて効率優先したい、つー便宜上の理由のほかに、時の常識が至上とする「聖」の観念側の存在で居たいからなんだろうな。「聖」てのはどうも権力者が自分にことさら力があるように見せかける(=いつまでもその座に就いていやすくする)ためのイメージ戦略として編み出された観念らしくて、それをつくったことで対極となる「賎」側がよけいに蔑視されたりしてたゆえに大昔は職業蔑視もひどかったらしい。つい先日カネなくなるたんびに本買わせてる店の店主さんと「食うにこまったヒトの最後の手段」的な労働について話してたんですけど、体をつかう職業ー男なら格闘技、女なら売春―のほかに占いだとか大道語り(=文学の原点)てのがあって、それは福祉政策ゼロ時代の国家が「賎」側として切り捨てた者念仏聖が率いた頃からずっと、支援の届かないところで生き抜かなくてはならないヒトたちの最後の命綱的な職業なんですな。占いや書きモノ業界にいまだにアヤしげな詐欺がかったヒトがいるのはしかたのないことなんだね。いまカルトの教祖やってるヒトとかって、もしかしたらそのテの過去世経験者じゃないのかなーとちょっとニラんでる。カネ目当ての教祖さんはリアル霊能者による過去世精査なんてやらしてはくれないだろうけどね。本性がバレちゃったら信者がついてこなくなっちゃうかもしらんし。権力者によって「賎」側とされて念仏聖が助けてたヒトたち、てのは多くが部落の方々らしいんだけども、食うに困ったヒトが今日生き抜くために「人の心を動かすにはどうしたらいいのか」てのを死に物狂いで考え抜いて編み出したのが大道で語るお涙頂戴譚だったり門付芸能だったりするわけで、それって娯楽の原点なんだよね。社会福祉と念仏と見世物娯楽がごたまぜになった混沌ぷりがすばらしい。これこそが日本の歴史そのものだろうに、なんだか今では部落について語ることすらも憚られるみたいな風潮で悲しいよ。彼らも蔑視のなかで生き抜くためにヤクザ的になってしまったことからよけいに忌避された面もあるのかもしらんけど、部落が日本に於ける創作物だとか娯楽の原点となる存在だった、てのがあまりにも知られていないぽいのが歯痒すぎる。部落て娯楽のふるさとじゃんか。蔑視されてる存在、てのがあると、さして理由もわからないのに「なんとなく近寄りたくない」てふうになりがちなんだが、なぜ蔑視されるようになったのか、てのを調べてみると大した理由なんかなかったりするふうなんだよな。韓国にしたってさ、仮に日本政府が謝罪したとして「股で稼ぐヒトが蔑視される社会」は放置したままにしとくんですかね?女性団体は慰安婦の件について女性の地位云々というのならそこを突っ込むべきだし、むしろそっちがほったらかし、てのがすげえヘンだよね。実は日本を屈服させたいだけで自国の女性の地位回復なんてどうでもいいとか思ってんじゃねーのー?なにしろ韓国に限ったことじゃなく、どの国だろうと食うに困ったヒトの最後の手段業種が蔑まれる風潮てのは正してくにこしたこたありませんね。なんていうか、状況を勘案して大目に見てあげる懐の深さだとか余裕をも持っておく心持ちを忘れずにいる方向で。あまりに大目にみすぎるとつけあがってヤクザ的になってしまうから、そこはけじめが必須ではあるんですけども。なかなかにむつかしい。