彼女は俗悪のなんたるかを知っていた

『会田の、とくに異性と向き合ったときのオタク的なシャイネスの思い出は、数え切れないほどの、魅惑的で恐ろしい作品に度々登場する。残酷に乱暴され、手足を切断され、切腹あるいは別のかたちで最悪の結果を迎える、催眠状態の魅力的な(制服を着た)少女たちのかわいさ(キュートネス)は、作品の中で繰り返し描かれるモチーフである。そこにあるのは、女性への嫌悪というよりはむしろ女性への賛美である。それらはユーモアを原動力に、サドマゾヒスティックな想像力によって、いまだ日本社会に広く蔓延する男性の卑劣な傲慢さをからかってみせる。会田の作品は、男性の欲望を馬鹿馬鹿しいほどにバロック的な結末に押しやることによって、嘲りの対象にするのだ。
 会田によれば、身をよじる何千もの小さな少女の裸体を描いた《ジューサーミキサー》(2001年、pp.58-59)のイメージは、ミケランジェロルーベンスの地獄絵[fig.2]にある魂を失った人々のようでもあるという。少女たちがジュースになりつつある過程のイメージは、「14歳のときに思いつきました。もともと地球上のすべての女性が、ミキサーの中に入っているというイメージでした。デリケートでシャイな思春期の少年なら、変態でも残酷でもなくこういうことを想像する人はたくさんいると思います。男はそういう生き物ですから」と述べる。』(会田誠 天才でごめんなさい展 図録p.198より抜粋)
会田誠展:天才でごめんなさい(26日。森)→ダイアナ・ヴリーランド(27日。シネマライズ)→ロンドンゾンビ紀行(ヒューマントラストシネマ渋谷)→コックファイター(イメージフォーラム)とみまして、なんか天才でごめんなさい展自体の中止を求めておばさんたちが騒いでるらしいんだが、常日頃から目の当たりにしているモノのドギツさに大部分のヒトが気づいていないんだなーとつくづく思った。現代美術家は自分を取り巻く世の中の事象のエグい部分だけを抽出して作品に盛り込んでる=世相を反映してるだけのいわば鏡なのであって、映し出されたもんのドギツさに驚いて鏡を割っても何の意味もないんすよね。それは現代美術作品だけでなく創作物全般に言えることで、映しだすもんを壊したら自分らがどのくらいドギツいのかがわからなくなるわけですよ。映しだすもんがなくなるわけだから。そういえばもりから日比谷線のぎろっぽん駅に向かう途中にエスカレーターがあるんですけど、そこのエスカレーター構内の周囲の壁にAKB起用したドコモの広告が円形に沿って貼られてるんですが、なんか…会田さん展みたあとだともう会田さん作品にしかみえなくなってわろた。ポルノとは性を売り物にして対価を得る行為すべてを指す件じゃないけど、大きな会社ほど若年アイドルの性でいかに商売しまくってるかってのが会田誠展みるとすんげーよくわかります。なにしろ現代美術家(会田さん)のつくる作品みて拒絶反応起こすとかどんだけ現代日本のドギツさに気づいてないんだよって話ですよ。そもそも芸術自体が作り手の内面(性癖含)をそのままだすたぐいのもんであって、それが正直にだされてるのを金払ってみにきて怒るだけならまだしも(感想は自由ですので)、展示自体を止めさそうとするとか意味がわからない。そんなに性表現が嫌いで表現方法に敏感なヒトなら展みにいく前にいくらでもその作家についての下調べなりできたはずじゃん。性表現嫌いなくせにそういうのなんも調べないでいきなり展みにきてるってのもどうかしてるし頭悪すぎですな。つーかさー男ってなんて気持ち悪いのー!!とか女子高生くらいのコが言うなら可愛いけど、おばさんが言うと酸いも甘いも噛み分けて世をある程度知った老獪な人間が処女ぶってるみたいでただただ気色悪いですね。まあこの件についてはツイッタのほうでもいろいろ書いたんだが、田中圭一の漫画(これだっけ)にあった「バレンタインデーのチョコ持参を禁じたリーダー的女子が実はクラスのイケメンを振り向かせたいがゆえに自分だけチョコ持参して目立たすための戦略だった」的なアレにみえないこともないです。そういえば天才でごめんなさい展に「鶯谷図」ていう鴬谷で発見したピンクチラシを花部分に見立てて梅(桜か)の木然と貼られたコラージュ(?)作品があるんですけど、その貼られたピンクチラシの売り文句が『愛人 人妻 女学生 湯あがりの女 学園天国 奥様クラブ 若妻 未亡人 女子大生 山の手の貴婦人 弁天夫人 一夜妻 超絶美女軍団 若い女の子 純 ミセス ナースコール』等だったんですが、そのどれもが世の殿方の秘部が多少なりとも反応する要素ではあるんでしょうけども、ピンクチラシの惹句にぜったいに使われない言葉つーとやっぱ「老」ですかね。老要素ニオわせるのはピンクチラシにとってタブーだよね。そこらへんも天才でごめんなさい展を中止に追い込もうと躍起になってるおばさんたちの逆鱗に触れた一因やもしれません。その鶯谷図の手前にはスポーツ感覚で楽しくハラキリしまくるJKたちのキラキラ感満載な絵があるんですが、透明フィルムにアクリル絵の具とゆう具材効果がアニメのセル画くさくしてるのにくわえて背景のホログラムがいかにもラメ入りアイシャドウぽくてギャルのアホっぽさ満載ですなー。そこらへんに目がうばわれがちなんですけど、飛び出た内臓よくみると塗りがリアルこまけぇすね。ここらへんは肉体・精神をモノ(=ゴミ)同然にみなす援助交際精神の具現化とみることもできますな。鶯谷図のちかくには「あぜ道」てうしろむきのおさげ少女の頭部の分け目がそのまま前にある道につづいてるふうな絵もありますが、これはなんか作品劣化を防ぐためだとかで2月19日までしか展示されないそうで。その並びに東スポの1面風味なタイポの巨大な桑田字があるんですけど、題がアメリカン・アート。おもにおんなから忌み嫌われるスポーツ新聞のタイポを巨大化するだけでアメリカの現代美術のバカっぽさがこんなにもわかりやすくなってしまうとゆう。その近くにはびとんが豊作ぢゃ絵がありますが、びとんの種を入手しさえすればガッポリ儲かりそうなもんだけど、刈り入れてるおじいちゃんは服はボロいわ歯は抜けてるわと貧しげ感満載なんで中間搾取されてるのやもしらん。びとん豊作じいちゃんのとなりに727と題された淡〜い色合いのおにぎり仮面絵があるんですけど、たいてい会田さんの有名な絵て個人蔵だったり美術館所蔵品だったりするんだが、この絵だれのモノでもないのな(誰も欲しがらないってあたりも含めて作品てことだろうか)。この展内では超絶技巧絵以外はわりと誰のもんでもない作品がけっこうあって、そこらへんに注意しつつみてまわるのも吉。その並びには火炎縁図ていう雑草と害虫を屏風絵風に描いた作品があるんですが(片方、画材にインスタントコーヒーて書いてあったけど地の色かしら)、ここらあたりからお客のおばさんとかがウヒヒて笑い出しはじめてた。その流れで「これ夜中に動きだしそうじゃない?」とかヒソヒソされてたのが愛ちゃん盆栽シリーズで、愛ちゃん盆栽(松)は枝葉部分よりも手足がボコボコ出てきてるふうな根っこ部分が寄生獣くさい禍々しさがあっていいすね。使ってる素材のせいか愛ちゃん盆栽シリーズでは(檜)のが(松)よりも造形が細かくて見応えがあった気がした。愛ちゃん盆栽(ほおずき)みながら思ったけど、この愛ちゃん盆栽シリーズはどんな凄惨なもんをみても次の瞬間にはケロッと忘れて熱心に化粧しまくってる女子の図太さをよく表せてると思う。その図太さはちょっと視点替えると異形にちかいもんかもしれない、というあたりの感覚。次のコーナーにある戦争画シリーズは「美しい旗」つー日本の女子学生と韓国の女子学生が各々の国の旗を持って立って向かい合ってる絵で実物はじめてみましたが(前みたっけ…?)、韓国女子がチマチョゴリなら日本女子は着物なような気がするけど、それだと少女感が出づらいからまあセーラー服が妥当なのかな。両者傷を負ってるとこがなんかいいすね。お色気までいかない程度に服のやぶけかげんも絶妙にシリアスで。紐育空空爆之図は新聞紙上に描かれたニューヨークをラメで光るゼロ線が無限の8字を描きながら空爆しつづける旧陸軍の夢的なアレですが、なんか向かって右手に大きめのヒトらしきモノが描かれてるんだが。あれなんだろう。自由の女神ではないようだったけど。原爆ドームが銀模様で彩られてる「題知らず」は高級内装(=資本主義)で語られる悲惨のいびつさとみることもできますけど、パッと見すごくきれい。画材や手法ちがうだけで単なる模様になり下がる「忘れてはならない歴史」。凄惨さを忘れ去ってる感が突きつけられる系では「大皇乃敝尓許曾死米」つーかつての激戦地(南方)のノーテンキな旅行パンフが貼られたうえから絵具がぶちまけられてる絵(周囲に書かれてるの梵字?)。今や南国の楽園とかいわれるホドにそこらへんの事実は忘れがちね。戦争画シリーズでは「支那料理」つー豚の首切ったのが地面にならべられてる絵があって思い出したんだけど、たしか大戦時に中国で撮られた写真で(おそらく日本軍に歯向かったのであろう)現地人を斬首してその首を並べてるやつをみた気がすんだが、あれって戦国時代に戦で討ち取った相手方の者をさらし首にするのと同じだよね。国内の内戦だとそのへんはあたりまえみたいに語られるけど、外国でそれやると陰惨さが前面にでてくるふうにみえるね…。戦争画シリーズでは邪悪なツラした老人たちが健康のために軽くアジアを蹂躙する的な残酷ゲートボール図もありますし、「みにまる」て絵なんかも銀屏風上に鳥居(靖国くさい)と「天皇陛下万歳」の字(血ぽい色)が描いてあるだけで一見なんの破壊力もないようにみえますが、これ戦時にはちょっと笑っただけでも拷問フラグものですからね。たまゆら戦争画中で陸での爆破と海での爆破を並べて描いただけのシンプルきわまりない絵ですけど、こういう単純並べ構図てわりとやりそうでやらないんすよね。わかりやすすぎてつまらないとされがちだからかな。死や残酷をより明るくわかりやすく表現すると怒られたり呆れられたりしがち、てのもなんかなー。そのバカっぽさこそが現代日本そのものを表してるとしか思えんのだが。現代日本のバカっぽさをこども視点で表現したのが「みんなといっしょ」シリーズで画用紙に描かれた小2的世界観が炸裂しているんですけども、このシリーズもやっぱ誰の所蔵でもねーのな(笑)大枚はたいて買われる作品がある一方で見向きもされない作品も同居する会田誠…。画用紙こども絵中では「町をきれいにしよう」と「ぼくをいじめないでください」がけっこうな破壊力ですけど、個人的には「ためいきつくのがしごと」にウエーとしたじゃねーか。絵具タレ絶妙すぎヤメレー(疲)この絵だれもいらんならくれ。あーあ。あと前も書いたかもしらんけど世界バカ会議をマジ顔で観賞するお客さんもどうかしてますし、背広人間撲滅作戦とか会田さんて一貫してリーマン嫌いだよね。同シリーズ絵で「イマジン」つー貿易センタービルに突っこんだ飛行機を操縦してたテロリスト目線の簡素な作品がありますけど、これ9月11日にアメリカの大手新聞にだしたら抗議きますかね。みんなといっしょシリーズではみたことないやつが何点かあったんですが「?鬼」てなんなんすかね。これだけ意味がさっぱりわからん。あと「2011年3月13日あたりの幻視」は機械人間たちが壊れた建屋で作業してる的な簡素絵ですけども、そういえばホンダかなんかのロボ人間はまだそこまで使える段階ではないんすかね。「みんなといっしょ」以外の簡素絵では新潟が全世界を内包してる的な構造を油性マジックで描いたやつは中二病をシンプルに表現しきっててイイすね。その次のコーナーが「美術と哲学」シリーズということで分厚い哲学書の1頁ずつぜんぶにちがうラクガキをかいてあるのとか、あとフランス人・ドイツ人・英語の人に扮した会田さんが各語で哲学書の内容を言いながら作品つくってる的な映像(会田さんが外人ぶるとなんであんなうさんくさいんだろう)とか。その次にあるのがモニュメント・フォー・ナッシングIVでたぶん地震直後の混乱期に書かれた色んなヒトのツイッタの文面がやたら貼り合わされてるんですけど、文面よくよく読むと「アボガドはセシウム排出によいとされる」とか根拠不明のアレがいっぱいもりこまれています。その次にある新宿御苑大改造計画はふつうに実現希望ですし、おにぎり仮面が自うんこ(草花生えてる)の上でぼんやりしてる「考えない人」は展のあとで知ったんですけどなんか弥勒菩薩像おちょくってんですね。このあと母国語と外国語の軋轢を笑う的な作品がいくつかあるんですけど「通訳」作品のべつに外国語話せなくていーし。的な心理自体をおちょくってるとわかっていながら深く共感したのと、あとものすごい達筆で書かれた巻物の「日本語」!!ツボってリアルに噴いたじゃねーか。これ展示方法が地味なせいかチラッと一瞥してすぐ他いっちゃうお客さんばっかしだったんだけども、これじーっとみてると(爆)とかゴルァとかあぼーんとか死ねよ糞チョンとか華麗な達筆で書いてあんだよ。2NNスレが国宝級的な巻物に!!文面が達筆すぎる筆文字なんでほとんどよめないんだけど、あちこちにある片仮名がだんだんよめてくるので必見ですよ。面白いのにみんな見ねーのな。その近くにはドーハの悲劇場面が青銅レリーフ的につくってある数千年先からした現在=古代とみなしたアレとか、あと宇宙に長大なうんこが浮かんでる「スペース・ウンコ」と宇宙に浮かんだ長大な刃物がすごい速さでこっちにむかってるふうな「スペース・ナイフ」はどちらもB級映画化(適度にくだらないやつがいい)希望ですし、「津田沼」と題されたどこの街だろうと超どうでもいいふうな構図写真は大家の(内容でなく名前で売ってる)オサレ写真をおちょくってるのかなとも思いますし、その次のコーナーが映像モノがわりとあってちょっと時間なくてほとんどみなかったんですけど、劇団☆死期の映像のでヘビ人形が歌ってるのなんて歌だったんだろ。あれ通しでみないとわからんのかな。この映像モノが散りばめられてる部屋の壁面にモニュメント・フォー・ナッシングIIIと題された絵が大貼りされてるんですけども、よくエロ漫画でみかけるふうなアニメ顔の少女キャラのらめぇなイキ顔よがり顔がたくさん描かれた上にむさい青年のねむたげな顔とか「ズバリお買い得!」的な安売り店でよくみかける促進シールと舞い散る札束があちこちに重ね貼りされてて、まさに現代日本そのものだなーとしみじみした。その映像部屋の壁には原爆のキノコ雲がゆるキャラ的に描かれた「モコモコ」て絵があってふつうに可愛いですし、そのモコモコ絵のすぐ脇の天井には「殺す」ネオンサインがー!!!今展は正直コレ目当てできたんだよー!!ようやくみれたよー!!予想してたより点く/消えるの切り替わりがゆるやかですごくきれいだった。これね、電気ついてなくてもきれいなんだよ。筆字をもとにつくってあるみたいで形状が美しいのよ。同じ部屋にある「ゲームの国」つー作品が畳敷きになってるから、そこで座りながらみるとちょうどいいよ。ゆったり観賞できる。これいちばんスキかな。きれいで感動した。次のコーナーはポップな臓物部屋的な中にソファと映像モノが置いてあって、時間なかったんでちびっとしかみなかったけどなんかどっかを歩いてるふうなヒトが「ドッピドッピドッピュ〜♪ピッピピピー♪」的な調子の歌を延々と歌ってた。さいごのコーナーは会田作品中でもすごく有名で巨大な絵が一気に飾られてましたが、絵自体もモチいいんですけども「ヒトがゴミのように描かれた絵をヒトがみている」構図がなんかいいすね。鑑賞者を含むて意味で現場でみてこそだなと思った。「灰色の山」はリーマンたちがオフィス用具といっしょくたにゴミ山と化してる山水画的な巨大絵ですけど、これ渋谷駅の太郎絵のノリで新橋駅構内の壁なんかに展示したらリアルリーマンから抗議されるだろうか。テレビで毎日のようにCM流してる企業はああいう山を過去いくつも築いてると見なして遜色ないと思う。この絵のよこにはジューサーミキサーつう女子たちがミキサー中に入ってる巨大絵がありますが、やっぱし女性客がこの絵みてる有様も含めて面白いんだよなぁ。んで親子連れもわりとこの絵みてたんすけど、親子してにたような反応してたのが微笑ましいかった。
幼女1「ウワ!これ人間だよ!」
父親「下のほうぐっちゃぐちゃになってる!」
母親「ジューサーだよ」
幼女2ギューーーーーーーーーー
あの巨大絵群みて泣いたりする小さい子はひとりもいませんでしたね。ちゃんと人間が入ってる、てのを認識したうえでフーンてなってるかんじの子ばっかしだった。5歳以前の子とかはむしろオバケとかナマハゲ的なほうのが弱いのかな。人間がヒドい目に遭ってる系の絵なんかで怖がる子てのはあんましいないんだよね(でも地獄絵みせられながら「悪い子はこうなるかもしれない」て聞かされると居住まいを正すか)。なんでなのかそこらへんお子さんたちに聞いてみたい気もする。巨大絵部屋のいちばん大きい絵は「ジャンブル・オブ・100フラワーズ」ていう電脳世界の血も涙もなさをあっけらかんと描いてるふうな傾向の絵で、楽しげにハシャぐ裸の少女たちの肉体の壊れた箇所から苺とかスパンコール的なキラキラドットが飛び散っていて祝祭と残酷が入り乱れてるふうなかんじ。あの少女たちが戯れてる異形は微生物かなにかを巨大化さした的なモノなんだろうか。キャラデザ:会田誠/監督:庵野秀明非現実の王国でをアニメ化してほしくなった。ダーガーのも少女と異形が共存してんだよね。その絵の横には「滝の絵」というスク水着用した女子中学生たちが滝で遊んでる的な巨大絵がありまして、これみてたら横にいたアベックの女性のほうが絵みながら「これマトモだよね?」と問いかけたら男が「エヘヘヘヘ…」と困ったように笑ったまま答えずにいて、この絵がマトモでないことを男はよくわかってますよねーと思いました。だってこれエロ漫画だもん。男・会田誠の理想がこれでもかと詰め込まれてるんですよ。あの時代の女子をとりまく全てを愛でる男の妄執が。おそらく生理中で参加できず見学してるふうなコがいるとことか細けぇなー。この絵はよくよくみると枠の各中央に「奉 納」て書いてあって、そういえば絵のなかに小さい社が描きこまれてんのね。これってなんか意味あんのかな。会田さんの地元のナニか的なもんなんだろうか。巨大絵中ではおなじみのの他に新作とおぼしき電柱周辺にたむろするカラスたち(羽の色がきれいだったなー)が人間うめぇw的に人肉くわえてるふうな屏風がありましたけど、あれは災害後のアレとみなしてよいのかしら。人肉だけでなく女子中学生のセーラー服の一部をくわえてるふうなカラスも見受けられましたけど。あとは手足切り取った女子を描いた「犬」シリーズとか巨大フジ隊員(デカさがたまらんすね)、あと美味ちゃんシリーズが18禁部屋(入り口にはラブホテルの出入り口にあるビニすだれ付)に隔離されての展示でしたけど、アレとジューサーミキサーとのちがいがぜんぜんわからん。同じくらいの残酷さにしか思えないけど。この18禁部屋の絵はどれもすごくきれいなもんばっかしだよ。必見。いちばん最後の広間ではダンボール遺跡製作中のヒトビトがけっこういて、まんなかに会田さん本人がいたんで差し入れてきました。仕事後にいったから早くみなくちゃと思ってさして話しもせずに渡してまた展示みにいってしまった。お疲れさまでした。ぜんたい平和のなかで「残酷」が「効率」とすり替えられた結果かもし出された異様なまでの軽さ・明るさを表現してるふうなかんじ。他の命を喰らう残酷で日々生きてるくせして絵にそれが描かれると怒りだす的なバカさかげんつーのかな。笑いながら凄惨(=消費)が機械的に行われてる現代を描いてる傾向で。この平和って実は狂気なんじゃないのー?的に異世界を維持する軽い感覚を怒りであらわすエネルギーで貫かれてる雰囲気。天才でごめんなさい展を中止に追い込もうとしてる団体は会田作品のなかの戦争画シリーズとか目の当たりにしてないんだろうか。あれを駆逐する目的も含めてやってるならあのPAPSとかいう団体は極右とみなされかねないけど、それでもいいんですかね。あの展を中止に追い込むてのはつまり日本の行った非道への批判作品が大衆の目に触れないようにするも同然ですから。ところで会田誠作品はマグリットのようなシュルレアリストの作品と同じく「印刷物にしたほうが意図が明確に伝わる」的な特徴で共通してて、それは諷刺色が強い(伝えたい部分が大きい)せいなんだろうか。風刺がこめられた作品て平面がいちばん映えるんだよね。対話的だからなのかな。あと展いくといつも思うんだけど、映画と同じで「その場にいって見る」が大事だなーと思った。今展では特に強くそう思った。他のお客さんの有様とか会場の雰囲気をみるのって大事だと思う。それがつまらなかったとしてもつまらんという感想を抱けるのが大事というか。
コックファイターは負け続き試合でみじめさを噛み締めた日々から栄光(すぐに消えるであろうことがニオわされる切ないアレ)をつかむ日への道程を追うって点ではカリフォルニアドールズの裏バージョンというのかな…。それにしてもカリフォルニアドールズのような見た目の華やかさや茶目っ気はあんまないしな。それというのも闘鶏で自分のトリがやられっぱなしな時分に、お前はしゃべりすぎが弱点だな、とライバルからせせら笑われたことから一切しゃべらなくなったウォーレンオーツがラストまで始終黙りこくったまま闘鶏の買い付けや野外試合や彼女との逢引を黙々とこなす(しかもオーツと関わるヒト誰もがオーツが黙ってることを咎めたりせずさも当たり前みたいに受け入れて相手をするところがなんとなく微笑ましい)というありさまで、男臭さが全編にわたって貫き通されている。前に丘ですごしたあと、帰るときに近くの席に目をやったら30代前後で小太りの野球帽かぶった男ふたりが小さいテーブルはさんで座っててなにひとつしゃべらずに黙々とナポリタン食い続けてたんですけど、あれ思い出した。カリフォルニアドールズはやりきれないことは起きるものの死者はない(よな確か)ので陰惨さはあまりないんですけども、コックファイターはオーツのトリが相手のトリに殺されちゃうことが多くて、なんかやりきれない度が高いんすよね。闘鶏のトリは凶暴なんだな。オーツのトリに対するこだわりってのが端々にけっこうでてくるんですけども、あきらかに強そうなトリがいてもオーツを突ついたりすれば見向きもせず、べつの納得いくトリを買ったりする。ときには私的試合なんかも申し込まれたりして、ちゃんとオーツ側が勝ったというのに逆恨みして殺しにかかってきた奴を返り討ちにしてやったりと危ない場面もどうにかこなす。闘鶏業界ではあたりまえかしらんけどもなんだか同業者間の強盗みたいなことがわりにあるらしくて、強盗きてもちゃんとお金をあらかじめ隠してたりすんですよね。ダーティさが常識としてまかりとおっていて、でもその対処を心得て飄々としてるあたりがなんだかひょうきんな雰囲気。んでオーツは相棒や良きトリも得てすこしずつ試合をこなしていけるようになってくんですが、夢にまでみたメダルを賭けた試合中に結婚をせまってきてる彼女がみにきて…という展開。あのオチは結局なんだ、オーツにとっては彼女とうまくいくよりも「彼女から突きつけられた事実」のがずっと心地よかったということなんだろうか。言われてはじめて自分がどういうことで本当に満足できる人間なのかがわかった的なことなんだろうか。よくわからん。いつだかの映画秘宝の読者欄で「俺はウォーレン・オーツで抜いてんだぜ!」て投書がありましたけど、なんとなくわかる気がします。いいと思います。パンフには遠山さん訳のチャールズウィルフォードの撮影日誌が入ってるのでウィルフォードファンは買い逃すとつらいよ。
ロンドンゾンビ紀行は老人ライジングな話でよかったです。突発ゾンビ世界をくぐりぬけてく主人公たちは青年ですけど、その青年の爺ちゃんが入居してる老人ホームで攻防があって、歩行器使いのご老体とゾンビがちょうどおなじくらいゆっくり移動なんで追いつくー!追いつかない!追いつくー!みたいな鈍足ハラハラシーンがすごかった。見せ場がいろいろあってたのしくできています。
本日題はダイアナ・ヴリーランド中で語られてた談からの抜粋。ヴリーランドさんは世間が貼りがちなレッテルを全無視してすべてを面白がるところから新規ジャンルをどんどん開拓してった猛者ですけど、PAPSみたいな死や性の表現に対して俗悪視しかできないような狭隘なところからは新しい見識や思想など生まれようもないなとしみじみ思いました。