お題とか縛りがあるほうが詩もつくりやすかったしなー

『昨年十二月十三日付ボストン・グローブ紙に、「反逆への道」と題する記事が掲載されていた。ジェフ・ジャコビイ記者は、裕福な家の子として生まれたジョン・ウオーカーがどうしてタリバンのテロリストになったかを彼の成長過程に焦点を当てていた。ジョンの両親は、父がフランク・リンド、母がマリリン・ウオーカーと言い、「多様な生き方」を信奉する別姓カップルだ。彼らは、ジョンが十六歳で高校を中退すると言った時も、マルコムXの自叙伝を読んで突然回教徒になると言った時も、生のアラビア語を習いたいからイエメンに行くと言った時も、ジョンの新しい友人にチェチェンでロシア人相手に戦った兵士がいると知った時も、彼の行動に対して"ノー"とは言わなかった。"ノー"と言わないどころか、父親は「違った生き方を追求する息子を誇りに思う」と言い、母親は「子供が夢中になる何かを見つけるのは良いことだ」と言っている。そして一つだけジョンに押し付けた価値観があるとすれば、「どんな価値観も押し付けられるべきでない」という価値観だった。

 こうした育て方をジャコビイ氏は次のように批判している。
 「子供たちには、規制を守り、期待に添う生き方をするように教える必要がある」
ニューヨーク・タイムズは、アメリカで最も自由で規制のない場所で育った少年が、なぜ最も自由のない規制だらけのイスラム教に走ったのか不思議だと言っているが、不思議でも何でも無い。ジョンは規制と規律を望んでいた。両親がそれを与えなかったから、与えてくれるタリバンに行っただけのことだ」

 最後に記者は、「両親が多様性と寛大性に心を配る前に、ジョンの道徳心の発達に心を配っていたら、ジョンは今ごろ、もっと別の場所にいただろう」「ジョンの反逆への道は、アフガニスタンで始まったのではない。それは、"ノー"といわない家庭の中ですでに始まっていた」と、結んでいる。』

上記『』内はここのものです。昨日のこの番組で室内で飼われてる犬の吠えグセがおさまらない理由として不安が原因とのことで、なんで不安なのかというと犬からした室内は人間でいう体育館のような広い空間と同じで、そんな広いところでなにも規律がなくひとりぽっち(犬だけがという意味だとは思う)なのがひどく不安になってしまうんだとか犬の調教師が言ってた(ケージのような居場所的なものを与えるといいらしい)んですが、犬とヒトを同列に片付けんのもちょっと乱暴ですけど、基本的な規律とかをいっさい教えないってのはよくよく考えると親や飼い主が責任を放棄してるようにもみえますな。子供や犬の生に深く関わろうとしていないというか。規律を何も与えない=なにをしても怒ったり悲しんだりしない=その子の行動に対していっさい感情を動かさない、ということだろうし。自由尊重とうそぶいての責任放棄って、つまるところ親自身が自分の考えに自信がもてないから、極端な他人の考えに安易に迎合するあまりに規律と自由さの配分を無視して放任すぎたり押し付けすぎたりしてんじゃないんすかね。そういえば某ホームレスの人が「子供の頃に親から叱られたり怒られたりしたことが1度もない」とか語ってたんですけど、ホームレスでいるのは当時の親の放任という名の放棄っぷりをなぞってのことなのかな。こまかい背景しるわけないからわからんけど。ああいう規律のなさが最上と思ってるとか。あとリンク先のなんたららしさの件はおいらはどうでもいいですが、まー女は女らしいほうがエロさは確実に増すでしょうな。ようは夜も昼も恥しらずのあばずれとしての生涯を全うしたいか、それとも一見清純派で夜がみだらな変化のあるエロスな人間としての生涯を全うしたいかでどのエロに美を見いだすかの判断基準を培うことがいちばん大事なような気も。つーか身近にかっこいい生き様してる人がいれば教えずとも勝手におぼえてくような気もする。根っから好き者には言ったって聞きゃしねえだろうし。

ところで昨日仕事後にV20さんとこ(やけにサイトころころ変えてるのはなぜなんだ。いい展たくさん取り上げてた過去ログもねーし。あとサイト名は前のがかっこよかったのに!!)で知ったこれに出てるベーコンのミュリエル・ベルチャーの肖像みてきました。生ベーコン初鑑賞。半透明で形のさだまらないぼんやりした肉が、無機的な直線に従うことでかろうじて本来的な姿がみえかかってるふうな描き方。人間の描き方が動いてる最中の人を撮ったふうなブレとボケ風のぼやけた描写なのに対して、それを囲む室内とおぼしき背景はドギツイくらいはっきりした単一色と直線だけで構成されてて、みようによってはひどい現代諷刺のようにもみえる。この展自体はおもに日本の絵画史といったもので、ゲージツ家さんたちがいかに挑戦してきたかがざっとみただけでもなんとなくわかるふうな内容で確実にひまつぶしにはなります。なんかゴーギャン展からついで的に流れてきたとおぼしきお客さんがいたせいかちょっとにぎわってた。藤田嗣治戦争画(南方の激戦みたいな陰惨なやつ)とか有名どころのあんましみたことない絵なんかもわりに出てて。絵画史なのでポンニ画壇の重鎮の絵とかもバンバン出てましたが、あのへんのって現代美術の人がほとんどおちょくってるもんだからオリジナルみても不謹慎な目でしかみられなくなっていることに気がつかされます。戦時とかの検閲が厳しいあたりの時代の絵に激しい筆致のが多いあたり燃えたんだろーなーとしみじみしますし、どの画家のも画壇に認められたり認められなかったりして闘い抜いた記録なんだなーと思った。でも今評価されてる作家さんのはリアルタイムはお偉い方にソッポむかれてたもののほうが多そう。重鎮の神経を逆撫でしないようなあたりさわりのないもんは時代を超える暴力性がないから作品自体の寿命も短いだろうし。娯楽と反逆の兼ね合いってむずかしいですな。
そういえば鑑賞中はさすがにうっとうしいんで帽子脱いでみてましたが、まったく別の女子2人組から「あのひとアンパンマンに似ててカワイイー」とかささやかれました。どちらかというとバイキンマンに加担したいほうです。
 
リ、リンチまでツイってる…!!