日曜は映画いかずユー粒ざんまいでした

    
            
    

上記画像はこれこれこれのです。裁判員の女神は「被害者遺族は事件や失ったものに対してどう納得すればいいのか」みたいのが主題の話で、ある強姦殺人犯の裁判のために選ばれた市民裁判員と裁判官たちの葛藤が描かれるんですが、市民裁判員のなかにはテキヤのおっちゃんとかおかまの人とかのほかに、勝手な正義観から死刑を押し進めようとしてる新聞社社員がいて、そいつが裁判員同士の話し合いの際に加害者がいかに悪魔のようであるか、悪者イメージを煽った挙げ句ほかの裁判員に植え付けて死刑票を増やそうとするわけです。その記者は『被害者遺族が生きていく糧は「犯人を死刑にしたい」という憎しみだけ それを無くされたら一歩も動けないというのに!』という考えから死刑をやたらに推奨してるんですけど、「憎しみや怒りを抱えてだれかを殺す」ことは理由はどうあれ「死をもっての報復」であって、それはあらたな被害者遺族をうみだすことにほかならず、実行すれば被害者である自分がこんどは加害者そのものになってしまい苦しむ人が連鎖的に増えるだけで解決にはぜんぜんならない、という真実がだんだんあぶりでてくる展開です。殺意のわくほどの憎しみに支配されている状態は鬼畜そのもので、その鬼畜と同じことをしたら自分の人生も鬼畜になってしまい、それは加害者の弱さに同調してしまったも同然で結局出口がなくなってしまう=解決にはどうやってもたどりつくことができなくなるので、つまるところ前を向いて乗り越えることでしか克服できないのだと思う。それは被害者遺族になってしまうことに限らず、突然重病にかかったりとか事故に遭ったりとか形こそちがえど脈絡なく襲いくる困難に直面した際すべてに言えることですけど、そこで困難に向き合おうとせず、自暴自棄になったり逃避したりすると悪いことしか見えなくなってどん詰まりになってしまうのに対して、自分のちからではどうにもならない困難に見舞われた時にそれを納得して受け入れることで、前には見えなかったことやできることがみえてくるというか。被害者遺族の人には酷な表現かもしれんけど、苦しみをもたらしたものを憎悪するのって神様を憎むのと似てる。与えられた苦しみに同調せず歯をくいしばって歩くしかない。家族や近しい人を見ず知らずの他人に殺されるなんて理不尽すぎるけど、それをもたらした加害者と同じになったらいけないが唯一の対処方法なんだと思う。あといちいち「加害者と同レベルの苦しみの人になる」が繰り返されてると暗い人間ばっかりになって犯罪率の高い混沌とした国になってっちゃうと思う。それと作品中にでてきますけど「苦しんでるかわいそうな被害者をみてられないから加害者を死刑にしてなかったことにする」みたいのは第三者の身勝手な言い分にすぎないということがしみじみわかります。でもどうやっても更生しない大量殺人鬼とかはフツーに死刑でいいと思う。
苦しみから逃げてるとぜんぜん解決できないといえばこれの話はほんとかどうかはしりませんけど、平家の落人の霊から呪われ続けてる名家の人は出家でもして生涯をその落人の霊たちを鎮めることに費やさないことには子々孫々につきまとってくんじゃないんすかね。漫画をよんだカンジからして、落人の霊さんたち的には自分たちをひどい目にあわせたくせに代々安穏と生を謳歌してることが許せなくて、謙虚になって自分たちを敬うことを求めてその名家の血を祟ってるのでは。その気になれば殺せるはずなのに(まあ結局火事に飛び込んだらしいけど)、一息に殺さずトハンパに怖がらせつづけたのはそういうことを気づかせるためだったんじゃねーの?落人の霊さんたち的には名家の人間たちにその願いに気づかせようとしてるのに、部外者であるプロデューサーがしゃしゃり出てきて消し去ろうとかしたらすごい腹立って小僧ブッ殺すぞゴルァと思うのもしかたないと思う。名家の方は直接関係ない大昔のことでなんで出家なんかしなきゃならないのよ!アタシだってふつうに結婚したいわよ!とか思うかもしれませんけど、血筋のだれかが彼らのために生涯を捧げない限りは人並みの幸せは代重ねても得られないかもよ。理不尽だけど人生ってなんかそういう理不尽なことを乗り越える連続な気もするし。なんかだれでもあるんだよな…そういう「なんで自分が」みたいな意味わかんないひどいことを経験させられるときがさ。つーか名家の人はこの現代まで祟りが続いたってことは、血筋のだれひとり苦しんでる霊たちに向き合おうとしなかったってことですね。作品的には「なまなり」というものがいろんな人の怨念が組み合わさった話の通じない暴走体かのような描写がちょこっとされてましたけど、なんかこの名家の件に関してはちがうと思う。踏みにじった魂に人生かけて向き合うことが必要なのに、だれひとり向き合わないでいることが原因かと。いつもどうりただの推測ですけど。
えーと桜壱バーゲンさんは実録犯罪誌でおなじみの過剰に下品を全面にだす画風の漫画家さん(風俗いきすぎて性病かかって医者にちんこを穴だらけにされたんですっけ?)ですけど、表紙みるだにどうせ女キャラはやたらデカいケツのお色気ムンムンでイヤミキャラ(特に老人)は過剰に汚らしいいつものあの調子なんだろ…と思いつつよんでみたらまあそのとうりなんですけど、変身後のザムザのビジュアルがやりすぎなぐらいキモくて、家族をはじめとするヒトビトがザムザをみて怯えることへの説得力がものすごいでてきて感心した。いろいろある「変身」の漫画化とか映画化作品て、変身後の虫姿が過剰にキモいものって実はあんまりなくて(カナブンぽい甲虫系がそのまま巨大化したのだったり、あと姿は変わってなくて精神病という設定だったり)、ビジュアルがさしてキモちわるくもないのに劇中のキャラたちがやたらキモがってるのがなんかヘンなんですよね。そんなにうろたえるほどのアレじゃねーだろ…とか思えて。そこいくと桜壱さんの変身後のザムザってなんか宇宙生物にしかおもえない意味不明のビジュアル(しかも変身前の本人と同じ大きさ)で、あすこまでいくとキャラがやたらキモがってもしょうがないよなーとしみじみ納得できるものです。あと原作は虫になった主人公主観ですけど、桜壱さん変身はなんかニートの父親が主人公にされてて、きたならしいセクハラ親父の悲哀っぷりが全編にわたって描かれてるんですが、なんか…意外にもこの桜壱バーゲン版変身が漫画化版ではいちばんしっくりきてる気がする。これまでカフカをビジュアル化してきた人たちって名作ということを気にしすぎてるせいか、なぜか妙にコギレイというかシュルレアルがかった静かしいビジュアルばっかだった気がするんですけど、それよりも過剰な演出を厭わない扇情系テンションの人が手がけたほうがなんか…カフカのいわんとしていたこととすごく近いものを感じる。それはカフカはシュルツと同じくひとつの表現ごとに官能を感じて書いてたからかなーと思う。文章で気を抜いた箇所とか1行たりともねーし。ですので単に話を追うだけだと本人の熱情は表現されるはずもないんだよな。というわけでカフカ漫画化はいまのところ桜壱さん作品がなぜかいちばん近い気がする。当人が目指してたベクトルとはあきらかに違う方向のものにも関わらず。カフカは性関係の下品なことが好きじゃなかったみたいなんで、いわば真逆な桜壱さん版をみたらウゲーと思うかもしれないけど、それでもなんかちかいふうに思う。
ほかにこれも買いましたが、作画の霜月ってひとは大竹さんと同じ「ふつうに商業マンガ家でやっていけるプロの腕をもってるけどどう描いてもヤオイ作家の血がぜんぜん隠せない」系列の方ですね。なんかDの魔王っていう題に加えて帯にミステリがどうの…みたいに書かれてるとこにつられて買ったんですけど、フタ開けてみたらフツーにヤオイ的シチュエーションにしか思えないキャラづくりで。原作はそういうふうじゃないとは思うんですけど、どうにもみょうにキレーなツラ描写とか男男間の色気具合がヤオイ。濡れ場とかはまったくないんですけど、なんていうかひどくヤオイです。話は第2次大戦中の架空の日本のスパイ機関Dが舞台の話で、天皇万歳教育に染められた軍人がその機関を疎んじる上官からD機関に入り込んで潰すネタを探るよう密命を受けて入隊するもので、D機関に所属してる人間はいろんな角度から物事をみる訓練を受けているため、天皇をやみくもに敬うことはせず、仲間内の議論でも天皇制の是非を問うたりと当時としては革新的な思想がふつうにやりとりされており、上官の命令とはいえこの機関に入った軍人の主人公はカルチャーショックで混乱する感情をぶちまけたりするものの、D機関のベテラン隊員である年若い美男子にかるくあしらわれたりするわけです。そんな中、スパイ嫌疑のかかっている在日アメリカ人がスパイである証拠をおさえるため、なぜか軍部には内密にD機関がガサ入れすることになり、主人公とベテラン美男子が憲兵を装ってガサ入れすることに…みたいなスジ。直情型の主人公が年下の冷酷な美男子に翻弄されるふうなカラミぐあいがなんかヤオイ。おいらは後半にのってる冷酷美男子が主人公のスパイ話のがスキです。こういうのが本来的な忍者モノの醍醐味に思うんですけど、いまは全部スパイものに移行されちゃってんだな。なんか寂しいな。