山麓の「ろく」を平仮名にしたら言葉の意味がわかりづらくなっちゃうじゃねえかよ

『仕事を辞めてまで取り組む主婦業と子育てだ。自分の存在価値はそれしかない。「だから、さぼっちゃいけない」職場の同僚だった夫(38)とは「対等」なのだから、甘えてはいけない。子育てを人に頼るのは弱さ。母親が他人に子どもを子どもを預けて自分の時間をとるのは子どもがかわいそう—。周りにたくさん頼れる人がいるのに、そんなふうに自分で自分を「孤育て」に追い込んでいった。(中略)講座の一環で、子どもを他人に預けることについて市内の0〜3歳児をもつ母親243人にアンケートをする機会があった。分かったのは、若い人ほど誰にも頼らずに子育てをしようと考える傾向が強いこと。
「自分が縛られてた良妻賢母なんて考え、今の若い子にはもうないと思ったから、意外だった」
 いま、片山さんは思う。
「周りに手助けをしてくれる人がいても孤育てに陥ることはある。母親の思い込みが、自分自身を追い込んでいるかもしれない。気楽に周りに頼る方が、子育ても楽しい」』(2010年9月17日朝日新聞夕刊16面より抜粋)

男女平等だのなんだのと掲げる女性権利団体とかは「対等」にこだわるあまりに崩壊しかかる家庭の現状をどう考えてんのか聞いてみたいもんですな。平等だけが正義という理念の冷酷さったらない。心をもつ者に関するものが数値で割り切れるかよ。割り切ろうとすればするほど人間的な世界から遠ざかるだろうよ。しかも平等とか叫んでるわりにさっぱり平等じゃない件はまるでスルーという都合の悪いことからは全力で目を逸らすうんこっぷり。あとDV彼氏に殴られるまま過ごしちゃう子が続出してるっぽいとこからして人を「愛すること」や「大切にすること」の最低限の定義とさじ加減をしらないおとなで巷があふれかえってるってことなんですかね。愛は従ったり従わせたりする事じゃないよ。服従を強要したり生活費を払わないのが真の愛だと思うか?まともに愛されたことがないからついすがりつく恋愛スタイルになっちゃうてこともあるのやもしらんけどさ。人とつきあうに際して「対等」であることは大事なんだけど、それに際していろんな感情的塩梅のちまちました配し方も同じくらい大事なわけで、そのへんのコツを教えずにひたすら「対等」だけ押し付けたっておかしくなるだけなんだよな。本文が真っ白なのに、表紙にだけ「対等」て書いてある本をありがたい教典のように押し付けてまわってるカンジつーの。大事な肝部分がすっぽり抜け落ちてる。「人に対する愛」の万国共通の定義に関してはちょっと勇気があれば誰でも実行できるほど単純な理念なのに、今の権力者はそれすらも市民に伝えることができないのかしら。

金曜はシネマベーラで悪魔の往く町と、その前にやってたスイングホテルを途中だけちびっと鑑賞。スイングホテルはフレッドアステアとビングクロスビーがイチャイチャする映画。主演する女優が到着しない!かわりにアナタがなんかやってよ!みたいな展開になるとまったくしょーがないなァ…とか踊る気マンマンのアステアが華麗なタップ披露しだす展開のくりかえしです。踊る人なんでしょうがないんでしょうけど、踊るシーンでもなんでもないただ駆け込んでくるだけのシーンでも走る足がしぜんと華麗なステップ踏んでる風になってるあたり、もう染み付いちゃってんだなーと思いました。ぜんたい牧歌的な恋のさやあて的物語です。ビングクロスビーってジーパンはいてったら入店拒否された店にジーンズ地でつくったスーツでもういっかい訪れたってヒトでしたっけ。
悪魔の往く町は女性キャラの造形がジムトンプスンちっくでしたな。トンプスン先生の話は狭い人間関係上やりとりのスリリングさが中心なので、主人公の行く手を阻む役回りになる女性キャラの悪辣さやうっとうしさが濃縮されてひどいですけど、悪魔の往く町ではトンプスンキャラの濃厚さを半分くらい薄めたカンジの女性キャラが配されています。稼ぎの手法を知る酸いも甘いも知ったやり手の年増女と、可愛くて善良な(それだけに頭の回らない)若い女、それに社会的地位の高い抜群に頭の切れる美女。年増女にはカネのためだけに偽りの愛をささやいてまったく心をゆるさず、善良な可愛い女はてきとうに言いくるめて利用するという、自分より頭の悪い女をただの道具にしか思っていないということを勘づかれないようにうまいこと周囲の人間を操る騙しエンドレス人生を主人公の男は歩んでいくわけですが、いかな詐欺師といえど所詮ヒトの子。自分と同じかそれ以上と思しき頭の切れる女と出会うやとたんに心をゆるしてしまい、つい詐欺で儲けたカネを手渡してしまうわけです。生まれついての詐欺師であればこんな失態は犯さなかったろう。けれど主人公は生まれついて人間だった。語りでしか明かされないのでたしかではないんですけど、主人公は孤児として不遇の子供時代を送ってきたということで、そのへんの心情から派生した情緒的渇望を満たさずにいられなくてあの失態をおかしてしまったのかなとも思った。話としてはドサ回りの見世物一座の一員である主人公が、読心術のわざ(話し言葉の特定のアルファベットの発音を所定の声色で言うことによって答えを伝える)を身につけてから若い女を連れて読心術興行でどんどん成功していき…というアレ。金持ちのパーティなんかで興行してまわってるうちはよかったものの、精神科医の美女と逢瀬を重ねるうちにどんどん悪知恵がついて読心術興行に「あなたの隣に死んだ娘さんが!」的な心霊要素をいれることを思い立つ主人公。古巣の見世物一座にいたおばさんがタロット占いの人で主人公がこれから失敗することを言い当てたりしてくんですけど、西洋のヒト的には「吊られる」絵がそのまま「死」を予感させるからしかたないんでしょうけど、タロットの「死」と「吊られた男」は悪い意味で使われることはあまりない(死:絵の奥に日の出があることから再生の意、 吊られた男:頭が光っていることから「栄光に至るに必要な足止め」の意)のでどうかなあと思ったり。あと最初にのんだくれが死ぬ直前に、おばさんが出してたカードのなかにもろ剣の10がでてるのに「あのひとのカードひとつもない!」てなんだよ。でてるよ。剣10はどうにもならない絶望ですからね。よくみたからしってるよ(落)(あと映画やなんかでタロットがでる際によく「悪い結果だけだして終わり」てするけどそれは占う相手に対してのマナー違反で、占うならその後の身の振り方や努力の方向なんかもあわせてみるべき。不安煽って放り出すのはその後にすがりつかせる継続的な儲けを手にしようとしてる人です)。で、主人公が読心術興行で心霊現象演技をしだすと、新聞がこぞって取り上げるわまんまとだまされた金持ち連中が号泣しながら「礼拝堂をつくってください!」とか莫大な金を貢いでくるわといよいよ詐欺師の頂上へのぼりつめようとしていた矢先、「神」を騙ることに対する良心の痛みに耐えられなくなった奥さんが暴走して…みたいになってゆきます。ここでトンプスン先生なら確実にブッ殺してるなー(特に女を)て部分が展開上何回もありましたが、この悪魔の往く町の主人公はそっちの方向へは行く度胸はもっていないあたり、まだ救いがあるかなあと思いました。オチとしては自傷方向へいくし。アル中は自傷行為みたいなもんですしね。根本にヒトとしてのやわらかい部分があるかないかで物語の方向もだいぶちがってくるんだなーとしみじみと。ラストは原作どうりだとすると時代的に道徳教育的なモノにせざるをえなかったのかな。しかし詐欺師は手法を突き詰める(元手がゼロにちかいモノを売る=存在しないモノを売る)とどうも神へ近づいてしまうものなのですね。ゼアウィルビーブラッドのプレインビューさんが毛嫌いするたぐいの「ビジネスのしかた」ですな。 自分は貧乏だと吹聴するどこかの現代美術家みたいね。

ナイトメア・アレイはリメイクするといいんじゃないですかね。このネタならもっとスリリングにできるはず。