朝さむい

マルタ(7日。イメージフォーラム)→実験工房展 戦後芸術を切り拓く(13日。神奈川県立近代美術館 鎌倉別館)→桑山忠明展HAYAMA(近代美術館 葉山)→最初の人間(15日。岩波ホール)→もうひとりのシェイクスピア(19日。しね)→東ベルリンから来た女(20日。ル)→ルビースパークス(シネクイント)とみまして、マルタは上流階級出(だっけ)の女性マルタが、身分的な条件のよさだけで結婚した男からさんざん手酷い扱いされてるにも関わらず「鬼畜男をつかんだ挙げ句に離婚した」という醜聞まみれになるのがヤなあまりに、夫が鬼畜である事はおろか心身共に痛めつけられているという事実すらもろくに認めることができずにどんどん地獄のような状況に吸い込まれていくさまを描いたお話。夫となる男は相手が痛がったり泣き叫んだりすることに快感をおぼえるらしくて、付き合ってる中のセックスの段階でマルタさんはその性癖にさらされたというのにろくに咎めることもせず、そのまま結婚してしまう。結局夫の鬼畜性癖が性交時限定なわけがなく、妻であるマルタが自分の親のそばで暮らしたい(金銭的な理由ではなく、もともと会話が少ないと精神が不安定になってしまう理由から)と言ってもまったく聞き入れずに田舎の豪邸を住居と決めたうえ、夫は勤めにでるとなぜか1週間に1度しか帰宅しない。この男との結婚前からマルタは図書館的なところに勤めていたんですけども、結婚後に出勤してみたら自分がすでに退職したことになっていて、なんか夫が勝手にだした退職届が職場で受理された(当人の許可もなくできるもんなんですかね?)とのことで驚きながらも「そ…そうだったわね…」とか言って愛想笑いしながら職場を後にするマルタ。1週間に1度帰宅する夫へその件について問うものの、働かなくていいようにしてやった的な返答をされつつマルタの音楽の趣味が頭ごなしに全否定され、夫の好きな音楽だけを聞き続けるよう強制されたり、夫の仕事である化学系の研究書を熟読するよう押し付けられたり、夜は夜で痛めつけられるようなセックス(性交後にマルタが泣いていると平謝りしてくるDV気質全開な夫)を強要される始末で、この男との結婚生活は地獄の責め苦そのものでいいことなんてなにもないのに、夫に対して怒ることもろくろくせずにひたすら従いつづけるマルタ。話し相手がだれもいないから女友達をよびだして会うものの、友達から結婚生活について聞かれると醜聞をたてられることへの怯えから「夫がすこし…変わっているというか…なんというか…」的なあたりさわりのない表現でしか話すことができず「なにかひどいことされてるの?」などと核心に迫られるふうなことを聞かれると「なんてこというの!そんなわけないじゃない!あなたってひどい人ね!」みたいに逆ギレしだして夫が鬼畜であることを周囲に打ち明けることすらせずにいる。家に帰りゃ趣味思考・意志すべてが全否定されて好きでもない音楽だの本だのを読まなけりゃならんうえ孤独で精神が不安定になりかかっているんで、兎に角だれかと会話しようと前の職場の同僚のおとなしい男を呼び出して話しているうちにすこしずつ夫の鬼畜性癖について打ち明けられるようになってきて、それによって人心地ついてきたマルタがある日夫から押し付けられたモノを「こういうの好きじゃないの。」と正直に言いながら夫へと突き返すと、夫がとつぜん家から出てってしまう。あせったマルタが夫がいそうな箇所に連絡するもとりあってもらえず、家の電話もなぜか使用不能になり、夫を捜しにでて姿をみつけて追いかけるも即座に姿をくらましてしまう。マルタはあたふたしつつ、何事か思いつくと即座に夫から押し付けられた研究書を丸暗記しはじめる。だいぶして帰宅した夫のうしろから丸暗記した研究書の文をマルタがそらんじはじめると、それに興奮した夫がマルタを激しく抱き始める。うれしげに笑うマルタ。夫はもどってきたものの引き続き鬼畜性癖や暴力性交にさらされるので、前の勤め先の元同僚のおとなしい男との会話をどうにか日々のはけ口にしてやりすごしてるんですけど、ある日その元同僚と会っているところを鬼畜夫に知られてしまい、ぜったい夫に殺される…どうしたらいいの…とマルタが怯えきっているところへ夫が「贈り物があるんだよ。」と言いつつ微笑みながら帰宅してきて、お、贈り物って、殺しの?!とか勝手に勘違いしたマルタが半狂乱で家から飛び出し、ようやくたどりついた元同僚んちで元同僚をせきたてて車をださせ、うしろからきた車を勝手に夫が追いかけてきたのだと勘違いしたマルタがもっと早く!早くしないと殺されちゃうー!!と大騒ぎするもんでハンドルまちがえた元同僚の車が土手をころがり落ちてしまう。元同僚、死亡。病院で気がついたマルタは半身不随となり、花を手に笑みを浮かべながらやってきた夫の押す車椅子に乗せられて地獄へ向かうのでした。END。精神的に自立できない女がいかに地獄人生を味わうかを淡々と描いたモノですが「クソ野郎と結婚しちゃった&離婚した」よりも「クソ野郎と結婚しちゃった&でもずっと耐え続ける」を良しとするってのはつまり自分を大事にすることより世間の目に迎合するを選択してるってことで、どうひいき目にみても後者のが損が多すぎるんだが。判断基準がどうなっとるのか。マルタさんがいいとこ出の嬢ちゃん(=世間しらず)で精神的に自立して暮らすってのがどういうことであるのかを具体的にわかっていないってこともあるんでしょうが、映画冒頭でお父さんと連れ立って歩いてるとこで、なんかお父さんがマルタに冷たくあたってるシーンがあったんですけど、お父さんが鬼畜だったから似たような奴をつかんじゃって、男をそれしかしらないもんだから鬼畜の世話をできない自分が悪いみたいに思いがちだったんすかね。よくわからん。その直後にお父さんが倒れてしまうんですけど、マルタは倒れたお父さんよりも自分のバッグがないことにばっかりかまけてて、つまりあれはマルタ自身が人を大事に思っていないということなんでしょうかね。「人を大事にする」というのがどういうことであるのかわかってないヒトは、鬼畜から踏みにじられてもそれが踏みにじられているのかどうかすら判別できないというのかな。一見マルタが可哀想にみえるんですけど、あれは多分マルタ自身も冷たい気質に支配されていて自分のあたたかい部分をたいせつにすることができないでいるってことなのかなと思う。鬼畜性質の夫はもちろんヒドいんですけど、それを鬼畜と判別できない時点でおそらくマルタ自身にある冷たさも自覚できてないんじゃないんすかね。どれが冷たくてどれがあたたかいのかの区別がつかないんだから、どれをどの程度どうしたらいいのか、なんもわからないんじゃないだろうか。監督さん、そういう男と付き合ったことがあったのかな。もしくはそういうアホな女をまのあたりにしてショックだったとか。なんかしら見たり体験したりしないとこういうのつくれないと思うし。マルタさん役やってる女優さんはなんか肌が真っ白けで頬はこけてるし全身はか細くて骨と皮だけみたいだし、なんかこう…被虐味全開なビジュアルの方ですね。サディストからしたらいかにも痛めつけがいがあるふうな。うまい人選だな監督さん。そんな枯れ枝的ビジュアルで精神不安定状態の女性が唯一頼ってくのがまたいかにもおとなしそうで頼りなげな男、という調子で不安感煽りの道具立てがこれでもかと並べられているもんでマルタさんに感情移入せずにいられんのですが、救いの手をさしのべてくる友人をぜんぶマルタさん自身が遠のけてしまうんで、かわいそうだけどかわいそうじゃないです。鬼畜は鬼畜で「相手の意志剥奪&趣味全否定」「自分の趣味と意志が至上」「相手が苦しむところをみるのが快楽」とサディズムの基本をすべてキレーに踏襲していますし、なにしろ絵に描いたような被虐と鬼畜が映画内にキチッと配されてますよ。
最初の人間は作家カミュ(劇中の主人公の名前は変えられてるけど多分このヒト自身のことだと思う)が子供時代を過ごしたアルジェリアに赴いて思い出の場所をたどりながら当時の出来事を思い出してく的な映画。カミュは女手一つで育てられて貧しかったんですけど、カミュの頭のよさを見抜いて支援してくれた先生や知恵おくれだけど気のいい伯父さんのおかげで健やかに育つことができ、作家として名声を得て故郷にもどってきてアルジェリアの現状についての講演をしたり、お世話になったヒトたちまわりしたりしてるうちに昔からある国内問題はまだぜんぜん解決してないふうな状況があぶりでてくるふうな展開。カミュは知己まわりで子供時代にいじめられたアラブ人少年(今はおっさん)のもとにもいくんですけど、カミュに会うやいなや息子が殺人容疑で死刑判決受けてしまったからどうにかしてくれとすがりついてくるんですね。息子さんはフランス憎しのテロリストになってしまっていて、人死にがでたテロ事件の実行犯としてお縄になってて、カミュがその息子さんに会いにいって助けてやりたさから「知らないうちに関わってしまったんだよね…?そうだね?」て持ちかけても「いえ自分は正真正銘のテロリストであって誰かが死ぬのもわかってやりました。」て言い続けていて、嘘の証言で助かることなど微塵も望んでいないという堂々たる態度でカミュの申し出をつっぱねる。このシーンの前後にカミュが小学生時代にいじめられてたシーンがでるんですけど、このテロリストになってしまった子のお父さんが子供時代に同じクラスのカミュをいじめてて、止めに入った教師から「どっちが先に手をだしたんだッ!?」て怒られた際に、普通の姑息な奴なら怒られたくなさから「いじめられてたほうが先に手をだしたのだ」的な嘘をつきそうなもんですけど、このいじめっこは「ぼくがいじめました。」て堂々と胸張って先生に向かって言い放って、罰で立たされたりするんですけど、そこらのいじめっことはひと味ちがうというか信念のもとにやったことで逃げも隠れもしない、という気高い態度をもってるんですね。いじめるのはよくないけど、こんなふうに公明正大な態度されるとそれ以上諭したりすることができないしな…。これって咎められたり罰されたりすることを承知のうえでやってるってことで、つまり神風や人間魚雷と同じく捨て身の自爆行為なんだよな。そのアラブ人親子間で自爆気質がきっちり受け継がれてしまっていて、子供のポカスカしたいじめ程度ならまだ済むけども、それを人命をリアルに踏みにじる方向でやっちゃっているので、お父さんは息子へと受け継がれたその堂々たる自爆気質によって悲しみに苛まれているわけです。嘘にすがって生きるようなことを選択しないってことはその厳しい生き様を自分だけでなく周囲や社会(テロ行為の犠牲者)にも強いているということで、いつまでたっても優しさや幸福感が増えづらい体制になってしまいがちだろうね…。カミュとしてはかつてのいじめっ子とはいえ人命助けたさから「友人の息子はまちがって逮捕された」的な嘆願をするのですけども、殺人行為に及んだ当人が堂々と胸張って死ぬ気でいるのに対して、人命救助したいほうが嘘つくような姑息な手段にたよるしかないってもなんだかモヤりますな…。アルジェリアはフランスの植民地なもんで、フランス憎しのアラブ人テロリストがけっこうテロを起こしてるんですけども、カミュがフランス(だっけ)に帰る段になってアルジェリア在住の母親といっしょにご飯たべてる最中に、カミュが母親にフランスいって同居しないかと打診するんですけども、母親はここで住みたい、と移住を断るんですね。カミュが理由を問うと「フランスにはアラブ人がいないから」。うーん…。なんだろう。本来的にはフランスはアルジェリアから手を引くのが筋なんだろうが…。実際に居座って住み込んでしまうと自分の居場所はここしかない、という愛着がわくんですね。「母国」と「敵国」てのはいったいなんなんだろうと思った。土地を愛したモノ勝ちということなんだろうか。この映画みると「愛国」て意識がわりと曖昧なモノというか、その境界がなんなのかちょっとわからなくなる。特定の土地・人々と生活レベルで関わってしまった瞬間からもう母国感覚がはじまってしまう、という自覚しえない理不尽な土着愛の件は東ベルリンから来た女でも貫かれていて、ドイツが東西で厳しく分けられてた時分に、東ベルリンの大病院勤務の女医が西側の恋人のもとへいくために出国申請したら罰として田舎の小児科病院勤務にさせられちゃったうえ秘密警察にまで目をつけられてしまう話なんですけど、西ドイツに住んでる彼氏はなんか秘密ルートを知ってるかなんかでたびたび東ドイツの田舎病院にとばされた彼女(バルバラ)に逢引にくるうえ、秘密ルートづたいに西ドイツに呼び寄せて結婚しようとすらしてるんですが、嫌々勤務していた田舎病院ですごすうちに同僚の医師の優しいアタックにほだされ…的な展開になるとゆうスジとしてはごく単純なんだが、なんかカミュの故郷映画と似通った感覚があった。当初主人公のバルバラさんは西ドイツへの移住しか考えてないんですけども、田舎病院の同僚医師の男がイイ男でねえ、包容力もあるし料理はうまいし仕事熱心だし、申し分ないのよ。そういうのが全力でバルバラさんに好きアピールしてくるんで、バルバラさんグラつきそうになるも西ドイツでの生活と彼氏との結婚を果たしたいがゆえに始終冷たくふるまってるんですが、バルバラさんの持つ「困ってるヒトがいると助けずにいられない性分」がクライマックスでしずかにフル発揮されてメデタシメデタシになります。最後のほうでバルバラさんを監視してる秘密警察のヒトと同僚医師が関わってるシーン、心暖まるどんでんがえしですな。理由がどうであろうと住んでちょっとでも愛をみつけてしまったらもう最後、そこから離れられなくなる、という事実を描いていたふうだった。ラスト手前にバルバラさんにはもう会えないよ、と秘密警察から言われてしゅんとしてる同僚医師さんが可愛いかった。
もうひとりのシェイクスピアは若き日のエリザベス女王との恋路を、女王の宰相を務める養父(義父)に御破算にされた貴族の男が、その怨恨を根に持ちつつ義父の推す女王の後釜(スコットランド王)とは別の英国貴族の男を女王の後釜に就かせる目的で女王の気持ちをつかむために書かれた演劇が舞台で上演されたものの、あるなりゆきからその作品の作者ではない者の名が作者名=シェイクスピアとしてまかりとおってしまったのではないか、という仮定をもとにつくられた話で、spear-shakerの通り名もってて博識で物書きが趣味、てパンフの説明からしてもエドワード・ド・ヴィア=シェイクスピアで正解なんじゃないのかなあ。ド・ヴィアがお忍びでみてた演劇で、セシルという名ではないもののどっからどうみても宰相セシルにしかみえない役が演じられていて、いかにも憎々しいふうな演出のところで権力者のアレやコレやを思い出してカッとなって怒りが噴出する観客たち(市民)をまのあたりにして、民衆が暴動おこすほど宰相セシルを嫌ってる、と女王が知ればセシルの擁立するスコットランド王が後釜に据えられることもなくなるのではないか、と目論んだド・ヴィアがよーしとばかりにこれまで書きためた戯曲だの物語だのを作家であるベンジョンソンに託して、それをベンジョンソン名義で上演するよう半ば脅迫するかたちでジョンソンに押しつける。でもベンジョンソン自身それまで戯曲だの詩だのを書いてるいっぱしの作家なので、他人が書いたもんを自分の名で公表するなんざプライドがゆるさんわけですよ。
ジョンソン「誰かの書いたものを自分の名前で公表するなんてできるか!俺だって自分の作品書かなきゃならないのに!」
ド・ヴィアおまえの作品はクズだ!
んでド・ヴィア作の戯曲を上演してみるとやんやの喝采、感動の嵐でこれ書いたの誰ー!!て客席が大騒ぎになって、ド・ヴィアとジョンソンがまごついてるさなかにいきなり主演俳優がしゃしゃりでてきて「作者で〜す!」とか言い出してまあそいつの名がシェイクスピアだったんで原作者シェイクスピアとなってしまったとゆう。ド・ヴィアの作品は政治的な含みで公表されたことからド・ヴィア名はそもそも最初から出せない=とにかく世に出すことが第一義なのでまあ結果よかったはよかったんですけども、そのシェイクスピア名乗った役者がアルファベットすら書けないほどのド文盲なんですよね。そのうえド・ヴィアが本物の作者であるのを突きとめてしまって、名が明かせないことにつけこんで強請りはじめたりする下衆野郎なんだわ。まあこの俳優は汚い野郎であることはたしかなんだけども、なんとなく商才というか経営者の素質があるらしくて、せしめた金でつくった劇場が大当たりしだしたりする。ベンジョンソンはこの俳優が大嘘ついてるのも知ってるし、ド・ヴィアが優れた大作家であることも知ってるので、嘘俳優のとこいって嘘を暴いてやろうとすんですけど、嘘俳優がけっこうな権力もっちゃったりして逆にベンジョンソンが劇場から閉め出されてしまって、ベンジョンソンが書いた戯曲を上演しないようお達しをだされてしまう。真実ぜんぶ知ってるジョンソンがいちばんみじめな境遇に。ド・ヴィアのほうは地位も頭もあって順風満帆かと思いきや、実は地位も頭もあるのに小説書くのに人生の大半を費やしてきたけっこうな穀潰しライフをおくっていて、その理由のひとつとして養父である宰相セシルによって想い人である女王と引き離されたうえ、セシルの娘とむりやり結婚させられたもんで、そもそもセシルの娘は好きではないうえ仇の親族なもんで怨みの対象なわけですよ。だから穀潰し生活をしてやることが唯一の仕返しというか、そんなもんで地位も時間もぜんぶ突っ込んで物書きに費やしてる生活をしてるわけです。当然嫁であるセシルの娘からは愛想尽かされてるし、貴族でいながら赤貧とゆう状況で書き続けている。これはネタバレなんで未見のヒトはよまんが吉なんですけども、最後のほうで実は宰相セシルが文武に秀でたド・ヴィアを王にしたがっていたのだけれども、ド・ヴィアがぜんぶ放り出して物書きにふけりはじめたので見損なってそれを諦めてしまった旨がセシルの息子から明かされるんですよね(じゃあアツアツの時にそのままくっつければよかったのでは…?)。仇ではないヒト(セシル)を憎みつづけたうえ、なにもかも台無しにしたのは誰あろう穀潰しの物書きである自分自身だったのだ、という事実をド・ヴィアは思い知って頽れてしまう。同時にド・ヴィアの目論んでいた観劇興奮効果によるセシル辞めろ市民蜂起は、作家としてどん底にあったベンジョンソンによって密告されてしまい頓挫。ド・ヴィアが王座に据えようと擁立していた青年貴族は実はエリザベス女王とド・ヴィアの息子で、ド・ヴィアの計画頓挫によって息子は謀反をもくろんだとみなされて処刑の沙汰がでてしまう。ド・ヴィアは一応沙汰をまぬがれはするんですけども、財力もないし病身で隠遁状態のなか、やっぱり物語は書き続ける。作家としての賞讃はあの文字も書けない偽者へ集まり、作品の売上すらも手にすることはない。自分の存在証明のためだけに書き続けられる物語。呼びつけたベンジョンソンへ、病床からド・ヴィアは書きためた物語を持ってゆき出版するよう促しながら、君は私の作品が上演されているときにいちども拍手をしていなかった、あの作品の本当の作者が誰なのか知っている君の口から私の作品の評価を聞かせてくれ…とベンジョンソンに乞う。ベンジョンソンは涙ながらに告げる。このような素晴らしい作品は見た事がない。あなたこそ時代の体現者だ。シェイクスピア作品は数百年にわたって世界中で読み継がれ上演される傑作となるわけですが、もしもこれがほんとの話ならリアルタイムに当人にむけて賞讃したヒトはたったひとりきりだったということになりますな。ド・ヴィアの嫁は夫であるド・ヴィアも、ド・ヴィアがなにかを書くことについても毛嫌いしていて、ベンジョンソンがド・ヴィアから託された手稿を手に部屋からでてくると罵声を浴びせかけるのですけども、ジョンソンは「あのような大作家と同時代に生きられたことを誇りに思います」と淡々と言い放って屋敷を後にする。で、ド・ヴィアの書いた作品は当時の政治屋にとっては都合の悪い(市民が当時の政府に反感を抱く)ことが書かれてることから、宰相セシルの後釜についた息子によってジョンソンがお縄になって、ド・ヴィア作品のありかを聞き出さんと拷問にかけられるのですけども、セシルの息子ロバートはかつての自分の姿をジョンソンから見出してジョンソンを見逃してやるんですね。才気あふれる若者だったド・ヴィアは宰相セシルによって養子にされたんですが、セシルの実子であるロバートは奇形(せむし)で病弱だったことも手伝って、文武両道のド・ヴィアに悔しい思いを抱きつづけていて、ベンジョンソンが作家としてド・ヴィアにかなわず悔しい思いでいることを見抜き、縄を解いてやりながらベンジョンソンに対して「あんな作品よりもっと凄いのを書け」と言うんですね。でもジョンソンは「無理です」とひとこと言って、隠したド・ヴィアの原稿を取りに向かう。ベンジョンソンは自分も作家だから、ド・ヴィア作品がどれだけすごいのかを正しく判別できるんですよね。それでいて自分の作品がド・ヴィア作品からするとどうなのかもわかってしまう。一流の作家によってむりやり編集者にさせられてしまった一流ではない作家の悲哀というか…。そんでさあ、この映画にものすごい悪いヒトていないんだよ。みんなそれぞれがんばってて、ただすごく勘違いしてるだけっていう。セシルですらもエリザベス女王にとっては良き側近だったろうし、なんかひとつの側面だけみて悪とは決めつけられないヒトばっかしなんだよな。勘違いやボタンの掛け違いがもの悲しい。作家として書かずにいられないヒト、書きたくてもそれ以上のモノは書けないヒト、書かれては困るヒト。あと権力の頂点にいる人間が必ず演劇や創作物がだいすき、てのもなんかなるほどなーと思った。創作物をたのしめるヒトは良き想念をもってると思いたいね。お父さんのほうのセシルさんは小説を偶像崇拝だと言って弾圧するんですけども、偶像はつくった者の鏡であって、偶像をつくらないと自分らの姿がみえないんですよ。偶像はつくりかたによってはみた者を青くさせたりもできるんで「偶像」のあとに「崇拝」と枕詞的につけて表現してばっかりいるのもちょっとどうかと思う。べつに崇拝しない場合もあるし。いかな偶像も結局自分の中にある材料でしか判断できないのだし、崇拝しなけりゃならないなんて誰も決めてない。
ルビースパークスはしがない作家が夢にでてくる女子をふと小説風に書き出してみたら書いたまんまのコがいつのまにか自分の部屋で暮らしてて、いよいよ病気がー!!とばかりに妄想として片付けようとするも自分以外のヒトがふつうにそのコと関わるのをみてようやく実在認定して狂喜しながらひととおり済ませるものの、付き合いが深まってゆくにつれ作家のほうの幼稚っぷりがあぶり出てきて、ある程度おとなでなければいかな幸運や理想の相手もつかんでおくことはできないという真実にぶちあたるお話。この主人公のしがない作家がポールダノなんですけど、 基本的にヒトづきあいがニガテでせっかくバカ明るい家族がいるとゆうのに帰省してもさして向き合わずに閉じこもりがちだし、夢の彼女が外部で学んだり働いたりしようとすると途端にやめさそうとするし、自分が身勝手でわがままで根暗であることを自覚してないんですね。その性質を押し通そうとするのが原因で夢の彼女とも家族ともうまくいかなくなりつつあるというのに、原因は自分ではなく自分以外の全員が悪いのだ、と思いこんだまま、自分がタイプライターで打ち込んだとおりになるのをいいことに夢の彼女の意志や性質にどんどん勝手な設定を盛り込んでくんですけども、ポールダノの考える「理想」を打てば打つほどに稚拙な「女」像しか出てこず、そうして身勝手な設定によって変質させられた夢の彼女の性質がまるで3歳児のようにキャーキャーはしゃいだり突然ままごとはじめだしたり、24時間ポールダノに密着していなければ精神不安定になるメンヘラぎみになりだしたりと、せっかくの夢の彼女が「自立してない女」像の寄せ集め的な性質になってしまう。相手のあるがままを認めたうえで自分とは合わない箇所の折り合いをお互いにすこしずつつけながらより納得いくふうな共存方法をみつけていく、てのが多分おとなの関係かと思いますが、ポールダノは「彼女」を自分の欲求を満たすための道具としかみなしていないもんだから「理想の女」像をつくりあげる段になっても貧相な「女」像しかでてこないんですね。夢の彼女に盛り込んだ設定がままポールダノの幼稚さを反映してしまってるわけです。偶像は自分が持つ観念でしか判別できないというのかな。結局ポールダノと付き合えない女が悪いのではなく、自立した女とは付き合えないポールダノが幼稚だったという。んで幼稚設定を盛り込まれすぎた夢の彼女の性質がめちゃくちゃになってきて、クライマックスでポールダノは自分がタイプライターで打ち込んだ設定がまま現実になるのだ、と夢の彼女に告白するんですけど、その直前に彼女を目前にしてあらゆる幼稚設定をやたらめったら打ち込むシーンがあって、ダノがいろいろ打ち込んだ直後に夢の彼女がタイプライターをはさんだダノの前で飛び跳ねながら「あなたは天才!あなたは天才!あなたは天才!」て壊れたレコードみたいに連呼しはじめて、幼稚な「他人観」からでた狂気にちょっとゾッとなった。事実を伝えられた夢の彼女はショックのあまりに閉じこもってしまい、やっと自分のバカさかげんがわかったポールダノも彼女を解放する設定を打ったあとに終止符を打つのですけども、ポールダノのイラつくキャラ物件としてはなかなかよくできてる作品です。
桑山忠明は同じ形状の長い四角が並べられてるだけなのに異空間がつくりだされてるふうな傾向の展。白い長方形が部屋の内側にたくさん並べらて貼付けられてるふうなのはなぜか神社の神域みたいな雰囲気だし、床に薄めの四角い板がすこし傾けられて据えられてる部屋はなんとなくゆらいでるふうだった。毎度思うけどほんのすこしだけ位置をずらしただけの四角や丸で食っていけるってすごい。