糧にならない経験などないっぽい件

 

ハーバードのおっさん被害者側のいうことはすべて受け入れて謝りつづけろといわんばかりの論理を平然と並べてるんだが、つまり加害側は相手のまちがいすらも指摘しちゃいけないってことですかね。発言してはいけないということ?事実を知ろうとすることは被害者であろうと加害者であろうと戦争抑止に際していちばん大事なことだと思うんですが。相手を責める際に「犠牲者の数を偽る」てことは「事実などどうでもいい」と思ってるってことだよ。事実なんかどうだっていいと思ってる心持ちの人が「戦争の起きた理由」について真摯に調べますかねえ。嘘をまぜこむ時点でそんなことにはいっさい興味がないって言ってるのと同じなんだよ。事実から目をそむけさす精神状態を推奨したことが市民を戦時蛮行に巻き込ませた原因だろ。ハーバードのおっさんは体制のせいにするな的なこともゆってんだが、大方の蛮行は特定の思想が敷かれた体制下で仕事中毒人間と化して仕事遂行以外考えられなくなることで起きるんですよ。よい関係をつくるために加害者としていつまでも謝る必要があるとかいう考え方にしてもこの刷り込みまんますぎな発言で唖然となっちまったよ。「盲目的に謝罪しろ」なんて発言がでてくるってことはつまり「加害者・被害者はそれ以外の存在にはなれない」と思い込んでるってことなんだろうな。「暴力性」は人間全員に備わってる普遍的な要素なのに、暴力性を発揮した者に対して「加害者」ていうレッテル貼りして怪物視することで「自分にはそんな要素は無い」的に善人ぶりはじめてしまって、自らの中にある暴力性からずうっと目を背け続けるような盲目状態に陥ってしまうと思いますが。暴力性を持たない人なんてひとりもいないんだよ。それを踏まえているのであれば、だれかを責めるなんて本来的には誰にもできないはずなんだがな。「善人ぶって気に入らない相手を責め続ける・屈服さす」てのはさ、かつての権力者がやらかした「賤」側のヒトの排除と同じことなんだよね。賤も聖も存在しないように、善も悪も存在しないんだよ。悪や賤が存在する、と定義することで「排除していい相手」が生み出されてしまうんだよ。逆に「善が存在しないように悪もまた存在しない」という考え方を基本にしていれば、人を傷つけるような行いには加担しづらくなると思うんだが。戦争を本気でなくしたいと思うのであれば、責められるべき人間などひとりもいない、て考え方を推奨する以外にないと思うんですけどね。じゃあ領土に攻め込まれて乱暴されたらどうしたらいいの!て思うだろうけど、あつかましい人を追い払うにはそれを上回るあつかましさを発揮するしかないんだよ。天照さんなんて大国主さんから領土とっちゃったし。創価学会なんて嫌ってる人がわりにいるのにさ、批判にいっさい耳貸さずに政教分離原則すら無視していまだに政治の場に公明党としてのさばり続けてるしねえ。結局あつかましい人がのさばるんだよ。それと、あつかましいヒトとか暴力的なヒトに「あやまれ」つってもムリな話なんだよね。生まれもった性質なんだから。自然現象が気にくわないからって謝罪要求したって意味ないだろ。自分がヤな目に遭わされたことの口惜しさから相手の存在否定したくなる気持ちはわからんではないけどさ。真っ赤になりたきゃなればいいけど、そのヒトに出くわした際にうまく対処できなかったことの自省はいつするんだよ?いちいちそのテの御しづらいヒトに出くわすたびに存在否定して真っ赤になるのか。ちいさい子じゃあるまいし。あつかましい相手への対処策を編み出すために歴史の積み重ねがあるんじゃねーの?天照さんに領土とられた大国主さんは祟るわけだけども、祀ることでようやく鎮まるんすよね。その鎮め行為にあたるのが人間世界では交流や共同研究になるのかもしらん。そういやハーバードのおっさん談でいちばんおかしいのが「事実を知るための交流をつづける」ことを推進さすような言葉が文中にまったく出てこない点な。加害側はひたすら謝罪して相手の嘘も容認しろって、バカすぎるだろ。この人ほんとに平和をのぞんでるのかねえ。これまで何度も繰り返されてきた憎悪循環をまたはじめさそうとしてるようにしか見えないのだけど。そもそもさーいまだに拷問だの虐殺だのリアルタイムしてる中の国に「虐殺についてあやまる」てのも滑稽なことだよねえ。虐殺がなぜいけないのかわかってない相手にあやまったところで理解されない可能性大なんじゃなかろうか。ちなみに反省を前提にしてしまうと再犯防止しづらくなるのは多くが納得するための「形式(=謝罪)」を優先させるあまりに原因追求が二の次になるからだろうね。謝罪行為てのは「加害側が屈服する場面」を観賞することで被害(を受けたと思い込んでる)側が場当たり的に鬱屈発散するための行いでしかないから、原因知ることとは無関係な茶番でしかないと思うがなぁ。強制的に屈服キャラ演じさせて溜飲下げてるってだけでしょ。SMプレイでマゾ役やらして「ゆるす」て、どういう許しだよ。なんかさ…戦争や平和を語る際に犠牲者側の関係者の発言だけがさも「善」といわんばかりに大々的に取り上げられるのだけども、責められた人がクチを閉ざさなきゃならない世界て不穏すぎねえか。それこそひどい差別に思えるけど。悪者概念を是とすることで虐殺を起こしやすくなってしまう(この書き手さんも犠牲者側の関係者だね)精神性を持つのが人間てことを基本にしていればそんな差別は起きなくなるはずなんだがな。「聖・賤」「善・悪」概念を基底にすることで憎悪循環がはじまっちゃう件じゃないけどさ、サイコパスの人なんて決め事を破るのが楽しくてやってる場合がけっこう多いらしいから、聖という汚してはならないと見なされてる存在なんて目の当たりにしたら彼らの持ってる強烈なエネルギーの矛先が向きやすくなっちゃうんじゃねーのかな。ちなみに戦時暴力平時暴力の違いは「仕事かどうか」に尽きるとは思うけど、実行する側の心持ちは似通ってるんじゃねえのかな。元から暴力気質を持ってた人どさくさまぎれにフル発揮してる可能性もあるだけに。なにしても咎められない時なんてあったらぜったいむきだしにするよねえ。咎められるかどうか関係なく「勝・敗」概念を基底にしすぎたことで敗北状態に耐えられない人が殺人に至る図式これを証明するかのような光景ですな。ちなみに現実でうまくいかないことが重なると日頃の差別思想が暴力となって発揮されてしまうてのは…経営者のヒトなんかは気をつけてたほうがいいんじゃなかろうか。別離と降格がコンボでくると危機的な心理状態になるてのは当たり前のことだけども、その当たり前への対処策がまったくないというのもちょっと怖い。殺人スイッチついでに英語のキレる表現は郵便局員さんの事件からきてる件のせておきます。こうやってみてると殺人の手法てのは時代がなにを是としてたのかを如実に表す鏡になってるふうにもみえてくる。「賤」排除から念仏聖文化が生まれた件じゃないけどさ…差別されたことで誰も着目しない隙間に活路を見出せた件とか排除されたヒトがいなければ発展しなかった業界とかみると、戦争でしか生み出されなかったモノと同じく「排除されなければ生み出されなかったモノ」が確かに存在していて、それらを尊ぶと排除をも否定することができんくなるのよな…。「苦難」に感じる出来事て、各人にとってちがうんだよね。なにを楽しいと感じるのか各々ちがうようにさ。苦しく感じる経験てのはそのヒトだけの「成長のための糧」なんじゃなかろうか。わし、歯弱だから自分なりに歯磨き術を工夫してきて大体習得して、いまはもう口腔内は健康ですけども、それを知るのが必要で歯弱だったのかなと思った。苦難にかんじることって、克服したあとに「これは必要だったんだな」てなんとなくわかることが多いかんじがする。克服のために必要な時間はヒトによってちがう件じゃないけど、苦難にぶちあたるたびに被害者ぶってたら克服的な心持ちにたどりつけないままになっちゃうんじゃないのかな。どんなことが起きても態度や心持ちを変えないことが「負けない」てことだと思う。拷問されても冤罪にハメられてもグラつかずに過ごすのが大事なんだよ。だれにも支配されない生き方てそういうことなんじゃなかろうか。
ところでこどもの城終了の理由てなんですかね。売り上げよか維持費のが高くなっちゃったとかなのかしら。残せるもんを残そうとしないといえばこれとかこういうの(元記事)みてたら必死こいて漫画表現の自由を叫んでんのがバカらしくなってきた。「自分が興味ない文化なんてどうなってもいい」と思ってる人だらけってことなんだな。