自分を変えるには怒らないことが大前提なんよね






ミンク業者を摘発させたNPO法人てのが命の大切さを説くわりに皮革製品をスルーするのはなぜなのかを誰か調べたりしねーのかな。牛や豚は養殖だから問題ないというならミンクだって養殖だろうよ。ファッション業界も皮革製品扱ってるくせして「毛皮製品扱わないから動物愛護」的な商法してるみたいだけど、面倒な人から文句言われたくないだけの日和見人間なだけのくせしていっちょまえに善人ぶってるのな。毛皮業界を攻撃するためにファッション業界と愛護団体が結託してるとかだったりして。愛護団体が養殖の檻こわす的な言動て鯨やイルカ食うな論の文化弾圧感覚とつながってるとしか思えんくてなぁ。たとえば動物を殺すにしても治療目的ならいいのか?て話になって、それをも愛護団体が禁じるとなればヒトよりも動物の命を優先さす、てことになるよね。そこらへんの偏った「愛護」思想ぐあいからしても、愛護団体てのは特定の業界を得さす動機で活動してるようにしかみえんのよね。
・首相のヒトは 列強国になりたいというよりアメリカ頼りを止めたい名目自衛権固執してるふうだけど、外交上の譲歩と引換になんの怨みもない国と殺し合いするのってアルマジロとかみてると無駄でしかないんだよね。ろくに大義すらない殺し合いの巻き添えになるだけだよ。「日本は伝統的に戦争や植民地支配がヘタクソで関わるたんびにモメるので辞退します」て言えばいいのに。国防軍についてはみょうな論理こねくるよか「ウイグルと同じになってからでは遅い」とかゆったほうが説得力あると思うけどな。ウイグルの現状て要するに中国から侵略されたのち植民地支配されてる中てことだよねえ。日頃から戦争反対だの平和大好きだの言ってるテレビ・新聞がなぜそのテの表現をしないのか謎ですけど。そもそも国防軍なんかつくらずとも、忠臣蔵の討ち入り日に吉良邸の隣家が「領土に侵入したら誰であろうと全員ブチ殺す」て毅然と表明する的な態度を自衛隊に課すほうが縄張り感覚としては健全に作用する気がするが。ぜんたい改正案みるにつけ、なんか…特定の(事件起こした)団体に適用する目的でつくったふうな雰囲気がみなぎってるようにもみえる。21条のなんかオウム真理教的な事案にだけ使いたいふうな文言だし。どういう気で新設追加したのかわからんけど、あんまし禁止事項ばっかつくると市民側はいらん想像して怖くなっちゃって、よけいに反対したくなっちゃうと思うけどな。
観光地の店主さんが多忙中の細かな対処を面倒くさがってつい入店拒否の貼り紙しちゃうのはわからんくはないんスけど、来客過疎の東京ローカル地帯在住者からいうと贅沢きわまりない悩みにしか思えん。その面倒くさい事案への対処こそが「観光地で稼ぐ」幸いを手にしたヒトの最低限の義務なんじゃないのかなー。言葉がイマイチ通じないヒトへの注意書きをいちいち貼り出すのって、店側としては野暮きわまりないし出来りゃしたくないんだろうけども(そもそも外国人お断りにしたところで稼ぎはさして変わらないからやってるんだろうね)、だからって観光客のこないような静かな地域に移転する気もないんでしょ。その土地全体へのイメージを下げかねないような懐の狭い対処で済まさないことが「幸運な場所(に店を構えられたこと)」への礼儀というか恩返しになるんではないのかなー。「日本」のイメージを負ってる、て責任感があんましないからこそ拒否貼り紙みたいな即席の対処しちまうんでしょうけど。いろんな人種を受け入れる度量(とそれをこなすための機転)を観光地ごとにある程度は保つようにしてかないと、将来的にケツの穴のちいさい観光地として有名になっちまうかもよ。横断幕の件にしても対戦相手が差別的煽りを繰り返してるからつってそれに釣られちゃ同じ穴のむじあなと化しちゃうじゃんかよ。なんか…高潔であろうとするよりも安きに流れてしまうのはなぜなんだろな。カッコイイ大人の見本みたいのがあんましいないから、どうしたらいいかわからんくて憎悪に染まっちゃうのかね。とりあえず人生でツラい目に遭ってるときに差別思想に陥らないようにするためにはどうしたらいいか、て具体的な方法を義務教育なんかで教えこんだほうがいいんじゃなかろうか。差別に反対する人にしても相手がいなくなることを求めるかぎりは差別は増長してくよ。拒否しかされないとみるや怒りも増してくだろうし。人種憎悪に陥りがちな状況への対処法を教えてないといえば手術失敗が原因で自殺しただとか沈没船に乗ってた生徒の所属する学校の教頭が自殺したてのは「失敗した」際にどうやって生きていけばいいのか?てのを誰も教えないから、自殺しか考えられなくなってのことなんじゃねーのかな。いわゆる失敗だとか犯罪と呼ばれる行為と、それを隠すための隠蔽工作てのはどれも「やってはいけない」のだけど、「やっちゃダメ」で済ませてると仮にやってしまったあとの人生をどういうふうに生きればいいか、対処もなにも教えずに放置しっぱなしになってくよね。そもそも「やってはいけない」ことをやらずに済めばだれも悩まないよ。どうして失敗後の生き様について教えるようなもんがなにもないのかというと、やっぱり「失敗する奴=悪(=自分とは関係ない)」と考えて他人事として切り捨てる方向にしか考えてこなかったからなんだろうね。アメリカに住む韓国系のヒトたちがかつての「敵」ありきの方法でしか団結できないてのも「敵(=日本)が悪くて自分らは悪くない」と思ってのことだとしたら、永久に責任を負う気のない表明してるも同然になってしまうよ。
中国での日本軍による戦時暴力について、暴力をふるった側である日本が展示するなら反省になるんだけども、暴力をふるわれた側が展示すると「敵が悪いのであって自分は何も悪くない」て精神を是とすることになって、結局「戦争抑止するにはどうしたらいいか」て考えることからは遠ざかってしまうと思う。戦争でもなんでも自分以外の誰かが悪いて考えを軸にしてしまうと、いつまでたっても責任放棄したままになる気がすんだよね。日本軍に攻め込まれた中国政府の市民に対する責任はどうなるの?て話になるし。戦時暴力をふるった日本はどういう反省のしかたをすればいいのかというと、戦時に他国蹂躙をした事実を徹底して調べあげて、国内の展示施設なんかに常設しとくのがいちばんの反省行為になるんじゃないかと思う。やった側である日本が「徹底した事実調査」をしきれてないからこそ中国や韓国が嘘をまぜこんだ喧伝を繰り広げてるんだろうし。慰安婦さんが荒稼ぎしてた件だとかハンセン病に関する周辺事実だとかにしても細かい事実を詳細にしらべるごとにバラエティ豊かなネタがじゃんじゃんでてきて、知るほどにすごく面白いのよ。でも暴力をふるった側を一方的に責めたり謝罪さそうと罵倒したりすると、責められた側はクチを閉ざしてしまって、そのテの詳細な事実が出てこなくなっちまうんだよ。暴力ふるった側に洗いざらいしゃべらせるのが戦争の抑止に際していちばん役立つだろうに、黙らせちゃったら逆効果でしかないだろ。暴力ふるった側も誰かから責められるのとは関係なく、自分らが戦時にナニをやったか、てのをいろんな事実を列挙しながらみていけば、おそらく思いもよらないような事実がみえてきて、1面では切り捨てえない複雑さを多くが知ることができるようになると思う。念仏聖と部落と文学が直結してる件じゃないけど、現状でだれもが触れたくないと思ってることにこそ物凄く面白いネタがわんさと詰まってるんじゃないかと踏んでる。戦時のことだってたぶん同じかそれ以上にいろいろな要素が混乱を極めるほど凝縮されてるんじゃなかろうか。なので、いろんな国が責めるネタほど徹底して事実調査をして、常設展でいつでも観覧できるようにしとくべきだと思う。遊就館は本来的にそういう展示をしとくほうが外国の方に日本を深く知ってもらう上でも大切な場所になるはずなんだがな。なにしろ国家の反省の尺度として、その国が自国のやらかした蛮行について市民によく知ってもらう体制をしてるか、ていうのはいちばんの目安になると思う(あと暴力ふるった側の国民から慰霊担当の家系をだすとか)。「どっかの国が悪いんであって自国は悪くない」てしてるかぎりは反省からは程遠い体制敷いてるとみてほぼ間違いないと思うよ。文革に怒ってるヒトたちに対しては中国政府が市民殺した際の事実を詳細に調べ上げて常設展示にするほかないだろうな。それと、なんの対処にしても精神的苦痛をお金で補うのは解決にならんと思うけど、ヒドい目に遭った際にそれを拒否できるほどの高潔さを保っていられるかというと、結局それができるのは生活に余裕のある金持ちだけ、みたいな話になってしまうのかもしらん。
・公立小が荒んでるからって子供を私立小に入学させたがる風潮がわりに進んでるとのことを前の勤務先にいたTさんから実体験として聞かされたんだが、いじめっ子に向き合って暴力ふるわなくなるまで徹底的に話し合ってわかり合う、てのもそうとう貴重な経験になると思うがな。巷じゃ愛だのやさしさだの軽々しく喧伝してるけど、そもそも勇気がゼロだからそういうのが発動されずじまいなのな。いじめっ子が多い、てのはそれだけ無二の友や経験をするための機会がそこらじゅうにあるも同然なんだが、困難避けるを優先するあまりに「困難を克服することでしか得られない大きな喜び」をも手にすることはできなくなってくわけだ。まず自分が変わらなきゃ「相手を変えさす」なんてできっこないのにねー。誰かを傷つけずにいられない暴力行為、てのはその子に問題があることの現れなので、暴力自体を禁じることで問題があることすらも把握できなくなっちゃうから解決にはつながらないよ、てことは以前書いたけども、それと暴力行為についてだけ謝罪させてると「人間に備わった暴力性の存在をゆるさない」とかなって、キリスト教がさんざん喧伝してきた人間否定がはじまってしまうんだよな。暴力に抗するに「どんなことされてもグラつかない」が最上の対処法(グラついたら暴力ふるった側の思うつぼなんよ)ではあるんだけども、市井で実践するにはむつかしいか?グラつかされたほうが負けといえばさーノンストップ!で時間どうりに準備できない妻をなじる夫の意見がやりだまにあげられつつ「あらかじめ伝えておいたんだから間に合わすべき」て正論がでてましたが、そのテの正論て夫人みたいなわがままなヒトだと全然通用しないので「このヒトは時間指定しても間に合わないだろうから早めに設定しとこ」て急かさせたい側が勘案したほうが早いと思うよ。相手を変えさせたいんならまず自分が変わるの。相手の性質だとか個性を完全に把握すれば円滑にいくでしょ。セックスなんかでも同じことだと思うがなー。相手のツボどころをみつけないかぎり喜ばすことはできぬよ。この回で取り上げてた夫の人の言いぶんて大部分が「相手が自分の思いどおりにならないから」つってキレた系列の内容ばっかしだったなぁ。旅先でスマホいじるなんてありえない!つって車から奥さんおろしちゃったりさ。夫人と同じくわがままであつかましい人なんだろうなー。自分に従わないから、つって反乱分子の弾圧しまくる天朝の精神性とさしてかわらねーじゃん日本男児て思わずにいれませんでした。なにしろこのテのヒトの性質を完全に把握したうえでころがしてあげてると、しだいに落ち着いてきてやさしくなってくるよ。そういえばこの回のノンストップ!だったか?西川先生が旅先での予定をギッチギチ(激安パックツアーみたいだ)に立てた直筆の表を出してたけど、あれって「絶対損したくない(=得だけしたい)」て貧乏根性から派生したもんなんじゃねーのかなー。だから結婚もうまくいかなかったのね。て実母がしみじみゆってました。「予定通りに進ます」を結婚生活に待ち込むと苦しいことこのうえないだろうな。予定外の突発的出来事に対応できないってことだし。予定はたてず、臨機応変に対応する柔軟態勢でいるほうが人生の収支的には得になる気がするけど。そもそも離婚すら想定できないレベルの狭い了見だけで計った損得を物差しにする時点で全体的に損してるような気もする。ぜんたい上記にだした自己啓発本の広告漫画じゃないけど相手がすねちゃう場合は自分のほうの言い方をアレコレ工夫するしかないと思う。つーことで頭ごなしに否定する手合いは本音を聞き出すために酒のみにでも誘ってみたらいいんではなかろうか。ごくまれに同じ箇所にはいられないほどウマの合わない同士はムリに話し合ったところで逆効果になることもあるけどな。
荒行後に質素な料理に感謝したくなる件とか幽閉された生(での抑圧)があったからこその活動的な生(による開放感)とかみるにつけ、不遇(とみなされがち)な人生てのは…もしかして来世で幸福感を味わうために必要不可欠なイベントなんだろうか。ヤな思いしたあとにかんじる幸福感じゃないけど、ヤなことがなければささいなネタから幸せを感じることもなかっただろうし。ただ改善がよろこびにつながる悩みのタネは…それを見越して要求を持つ者が仕込んでるってことなんだろうか。