バウボー怒りの性器露出


創価学会とかフリーメーソンてのは思うままにならない他者を「金と(人)数」のちからで従わす、てのを理念としてるのかな。 仏教に於ける「自分はさておいて他人を幸せにする(と巡り巡って自分が幸せになる)」と対極の「自分だけ満足すりゃいい」的な雰囲気を先の2団体からはかんじるんだがね。詳細な教義とかはしらんけど「自分の弱さ」に向き合うことから逃げまわるために権力をふりかざしてるだけにみえるんだよな。
  他者との本音の対話を拒んでるから、手痛い指摘をもいっさい受けつけない
                 ↓
       本音を交わす風通しのよい関係がいっさい築けない
                 ↓
   「自分が心地よく感じる」偽りの関係だけを良しとするようになる
…てカンジで。「寄り合い」てのは多くは相互扶助のためにあるんだろうけども、ヤなとこにアグレッシヴに向き合うことを理念としてないと「自分の弱さから目逸らしつづける」体質になっちまうんだな。そうなってしまうと固定観念を破壊する「持たざる者」は生まれづらくなってしまうだろうし、居たとしても排除しがちになるだろうね。特にフリーメーソンなんかは大企業の経営者みたいな社会的成功者をひっぱりこんでるみたいだから、大多数のコントロールが容易なだけにそこにも陥りがちなんじゃなかろうか。「他者が依存してくるのは許さないけど、自分はべったり依存する」て精神的弱さにいつまでも向き合わない象徴的存在である狂うスイッチ入りっぱなし人間が神仏のエネルギーを利用してヒモ生活を満喫しようとする光景にもどことなく似てる。自分がラクチンするために奴隷つくりだそうとする銭ゲバおばさんとかな。神仏に対して自分の意のままになる程度の存在だと思い込んでる(他者を操って済まそうとするカルト教団とおんなじだね)とか、ダキニさんのことずいぶんバカにしてんじゃん。神仏としては我欲にまみれた連中は本殿には近づいてもらいたくないらしいですわよ。ちなみにこのテとこは率先してお参りしてあげるようにしてる。あんまし自己中ばっか相手にしてるとスネちゃうらしいし>きつねたん。
人にしろ霊にしろ考え方の癖を直すことでしか囚われた「場」から解放されないらしいんだけども、そのきっかけになる要素のひとつとして「笑い」があるとのことで、昔話のなかでは笑いが「開く」ことの呼び水となるくだりがあったり鬼が笑うことで益神となったりするらしい。まんこまるだしにしたら鬼が大笑いしだすてのはこれと似た作用が働いてのことなんすかね。笑いによってすべてを無にする働き、てのは持たざる者が固定観念を破壊するのと似てるな。鬼を笑わせて益神に転じさす、てあたりからすると桃太郎の「鬼退治」てのは鬼を笑わせにいく話とみなすこともできそう。桃太郎といえば「鬼退治」にいくのは4人だし、イザナギの禊から生まれた3人に加えて蛭子が4人目の神てあたりからして、どうも四位一体(老人・子供・男・女)がヒトの精神のバランスをとるうえでいちばん合ってるんじゃなかろうか。悪魔がいなければヒトは自分や世界の姿を把握することができないことを考えると三位一体は理想論でしかないんだよな。日本の昔話の中で「賤」の者は神に近い存在にもみなされることだとか「無」が様々な隠喩で描かれているあたりからして、中道と空(相反する2者の交差ポイント)を保つバランスを体現するに「4」が必須ふうな雰囲気。そういえば原始キリスト教が笑いを禁じてたんじゃないか的な話をどっかでみた気がすんだが、笑い禁じたら閉じたもんを「開く」ことができなくなるじゃないのよ。
・ちょっと前に七福神がらみのもんつくったらなぜか稲だとか田んぼを意味するもんにたどりつくしかなくなってしまって、どうしてなのかなーと思ってたらこれで「石井の七福神と田植踊」てのをやるというのでみにいってみた。本殿前で各団体が奉納のためにいっせいに踊り出すんですけども、田植踊以外の団体さんたちの出し物が「客全員楽しませてやんぜー!!」的に洗練されてるのがよくよくわかるクオリティだったせいか本殿前につめかけたヒトたちが9割そっちにいってしまって、おかげさまでお目当てだった田植踊をじっくり凝視することができましたよ。しかし田植踊の赤枝(法被にそう印字されてた)の方たちも客がいねえからってやる気なくなってよけいに踊りがてきとうになってるかんじだった(やたら寒がってたなぁ)。そもそもの田植踊自体が「収穫後の宴で飲んだくれて大騒ぎしつつノリで踊り出した」みたいな地味でユルいクオリティの踊りっぷりだったんですけども、だがそこがいい。具体的な踊り内容としては、前列に着物きた女子たちが田植えふうな仕草の踊りをしつづけていて、その後列に田植えを手伝ってるふうな男子たちがいたんだったかな?脇に踊り進行の説明めくり紙が設置されてて、稲の種もみまき〜稲つきまでを解説してるふうだった。で、その田植え踊りをしてる2列の背後で、七福神の扮装したヒトたち&囃子役たちがいて踊ってると。最初に毘沙門天の人がでてきて踊るんだけども、なぜか刀と三つ又の矛をそれぞれ手に持って踊ってたな。あれは「まず厄払いをする」ために武闘派が踊る必要があるのかな。で…次が弁天様だったかな。おたふく面をかぶって琵琶をかき鳴らす仕草をしていた。その次…順番がちょっとわからんのだけど、寿老人あたりなのかな。この人員の順番はちゃんと把握してない。この七福神中に狐のお面をかぶってる白毛のメンツがいたんだけど、あれは誰にあたるんだろうか。で、最後に先っぽに鯛がかかったままの釣り竿もったエビスさんと、小槌をもった大黒様が2人で踊ってたんだけども、どうしてこの2人だけいっしょに踊るのか?と思って翌日神田明神いったら祭神説明んとこにエビスさん=少名彦名命て書いてあった。国づくりの2人だからなのね。なんつーか…田んぼを大事にすることは国家安泰につながる、てことなのかな。よくわからんがなんとなくそこらへんで七福神と稲が密接に絡んでるふうなことをかんじた。とりあえず夜間奉納に出てた団体中ではいの一番に衰退しそうなてきとうクオリティが気に入った。天中殺にしか手に入らないモノを象徴するとは思えないくらい地味てのもな(笑)しかし明治神宮の夜間参拝てのもなかなかオツなもんですね。木々をちょっとライトアップするだけでわりに見応えがでるもんなんだな。本殿前の両脇の2本のクスノキかなんかもすごくきれいだった。あんな暗い参道でけっこうな人手なのに全然ぶつからなかったのは、暗いほどよく見ようとするからなんだろうか。要所要所にたき火みたいのが設置されてたのもよかったな。ちなみに翌日は足が筋肉痛になりました。たぶん神宮内の砂利道を2往復歩いたからであろう。練馬まで全速力やっても筋肉痛にはならんかったのに…。おそるべし明治神宮の砂利道。あと表参道は行きも帰りもチャリでいくのがツラい。帰りもユル〜い坂が延々とつづくし。
あと余談というか…お付きが常に居て自動的にチヤホヤされる環境下ではちょっとした異質にも耐えれない精神性になってもおかしくはないのだけども、自分より優れた人と交わることを勧める意味の歌詞を書けるかんじからして昭憲さんてのはわりに自分に厳しいふうな方だったのかしら。美智子ちゃんと同じくちょっとやそっとじゃグラつかない強靭さを持ってたのかもしらん。くわしくはどういう方かはわからんけども。翌日は夫人から送りつけられた崇敬会員用の資料館拝観券とかもらったんで神田明神にいってみたり。資料館になぜか昔の祭んときに出されてたとゆう桃太郎の精巧な人形なんかがあってナゾだった。人神の説明のとこに靖国神社が出てて『幕末(戊辰戦争)以来大東亜戦争までの国事殉難の英霊246万6千座』が祀られてる、て説明がありましたけど、これは…単純に無くしていいとかいうもんでもないね…。〈神社とは?〉のとこには『神社で本来願うことは「何事起こらないこと」である。無事安全であることが我々にとっては一番の重要事である』て説明がでてたけど、祟ったことで祀られて江戸鎮守になったことを考えると「祟り」や怒りを一概に悪とも言えない気がする。あとアレだ、なぜか牛若丸の人形なんかもあったな。あのヒト源氏方で忠臣だったのに兄貴に殺されたんだっけか。追われた者、て共通点からココにあるんだろうか。あそうそう、あと将門さんが彫ったとゆう妙見菩薩像があったよ。『平将門公は妙見様を武神として篤く信仰致しておりました 妙見様は神仏混淆の時代には仏で言えば、妙見菩薩 神で云えば天之御中主神で、本体は北斗七星 北極星とも言われる星の信仰でありました この妙見尊像は、将門公お手彫のものとして、将門港 後商相馬家に伝えられたものであります』とのこと。
 
本日題はここのです。

性犯罪に及ぶ男のちんこの小ささ統計をとりたまえよ

捕鯨人から職を奪って大喜び&異国文化を潰したことを正義の行いかのように喧伝する人種差別首相(+お仲間12国ドゾ)の国の外交官が慰安婦の件で日本を悪者視したくてたまらないようですが、戦時慰安婦については「戦争が起きた際に売春所をつくらないようにするにはどうしたらいいか」てことについていっしょに考えましょう、てするのが真の解決方法なんじゃないのかなー。オーストラリアの人はどうも慰安婦さんに対して日本に謝罪&賠償させたいみたいだけども、先に書いた問題について明確な答を出さないかぎりは謝罪しようとしまいと繰り返しかねない問題だと思います。とりあえずオーストラリアの方は慰安婦問題については完全無欠に潔白なもようですので「戦争が起きた際に売春所をつくらないようにするにはどうしたらいいか」の完璧なお答えをお持ちでいらっしゃるのでしょう。テンガでも携帯させる気なのだろうか。それとも兵士全員にガマンさす気とかだろうか。ひと稼ぎしたい女子たちが勝手に自分らで戦地に慰安所つくったりしてしまったらどうする気なんだろうか。「食うに困ったヒトが生きるための最後の手段的な職業」てのは福祉からこぼれ落ちてしまうヒトのためにあるゆえに国家が禁じたりしたらいかんし、そこから目を背けながら戦時売春だけ悪業みたいにみなす、てのもおかしな話だよ。証人の身元がイマイチはっきりしないあたりも釈然としないねえ。2国間で交流しつつしっかり調べてけばいいことだろうに。そもそも売春はイクナイ!て叫ぶたんびにそれで食ってるヒトを差別してることになんじゃないの?それと同じく「性犯罪イクナイ!」て叫ぶと性犯罪に遭ったヒトを差別することになってる気がする。「ダメな人生」なんかないというなら「ダメな経験」だってないはずだろ。暴力にさらされた経験だって人生経験のひとつだよ。暴力に遭った経験を自分なりにどう噛み砕くかが大事なの。それと「こういう経験が原因でその後の私の人生はめちゃくちゃになりました」て考え方てさ、自分の生に対する責任放棄な気がすんだが。「被害者以外の生き方をしたくありません」て憎悪依存を正当化してくと、地縛霊とか怨霊と同じでそれ以外の生き方ができなくなっちゃうような気がする。なにしろさー「やってはいけないこと」てのをつくっちゃうと、それに関わったヒトをすべて差別することになるんだよね。性癖しかり。強姦された人が「被害者」としてしか見なされないような風潮だと、ひどく生きづらくなってしまうんじゃなかろうか。強姦されたことを警察に届け出る人が少ないのも、自分が世間から被害者視されるのがヤだからじゃねえのかな。慰安婦さんにしても、戦後に慰安婦経験のことで差別を受けたのなら、売春を蔑む社会風潮を放置しっぱなしにしてる権力者に問題の根源があるように思いますけどねえ。その根源を正す責任を自国の権力者にはいっさい問わず、敵がなにもかも悪い喧伝にノせられてちゃいつまでたっても問題は解決されんままでしょうな。現実がどうかよりも権力者からのプロパガンダを信じてしまう、て思考癖は中・韓の日本敵視ぐあいにまんまあらわれてる気もしますがね。児童ポルノ禁止法名目で「逮捕者増加!」てだされると、いかにも拉致られた子が無理やりスナッフフィルムに出演させられてる的犯罪が増加してるようにみえちゃうけど、実際には家庭に居場所のない女子がお金に困って自分からせびってヤってる件みたいな案件のが多かったりするのとなんとなく似てるふう。大々的に喧伝される文句にまどわされずに内容をきちんと精査できるか、てのを試す目当てでそのテの題つけた小説を書いたりもしましたがね。どうなんのかなアレ。内容もよまずに題だけみて真っ赤になる人がいたら名指しで笑ってやるのに。政府の抗日煽りにすっかりやられて真っ赤になってる中・韓の市民の方々はまさしくソレなんですよ。自分を被害者だと思い込むことで「加害者」を憎まなきゃならなくなる、てのは権力者にとってはたいへん利用しやすい精神状態なんですよ。
・賠償金制度ていつからはじまったのかなー。ヤクザの原点的存在のヒトたちは魂をカネで売り渡すような行為は万死に値するくらいに思ってたらしいんで、戦後のことなんすかね。ヤクザの前身だった渡世人たちの間では荒くれを統制するための厳しい掟があったくらいだから、そのままいってればむやみに排除されるようなこともなかったんじゃ…や、高度成長期はまぬがれないからムリかな。野生で生き抜く厳しさとほぼ同等の生き様で芸を磨くとかって、今そこまでやってるヒトているだろうか。
元夫に連絡先も教えず子連れでいなくなるて、奥さんすんげー夫を嫌ってるとかなのかな。事後もちゃんと追うようにね>朝日さん江。夫に会わされたお子さんにインタビューしたりして、どう思ったかとかいろいろ載せろよな。ちょっと前までハーグ条約加盟してない日本をアメリカ政府が必死こいて悪者喧伝しまくってたふうだったけど妻がDV受けてた件とか読むとDV夫たちが息巻いて母子を待ち構えてるようにしかみえないんですが。仮にDV夫側に子供が引き取られたりしたら誰の責任になるんだろ。ハーグ条約とかがまったく通用しないといえば北朝鮮は自分らの非道をなじられるのがヤで拉致った人を簡単に帰そうとしないんだろうけど、単純に帰してほしいだけなんですよ。北朝鮮が国として発展しないのは市民に対しても他国に対しても信用しなさすぎなのが原因なんですけどね。他人を信用しなさすぎてヒドいことになってる身近な例といえば介護に追われてる人がまるでズル休みをもくろんでるみたいに白眼視される風潮とか、ちゃんと働きながら子育てしていきたいだけなのにそれができないと白眼視されたりとかありますけど、なんだか…こまってるヒトをさらに痛めつけて排除するほうが利益になるとでも思ってるんだろうか。多忙すぎてこまってるヒトに手を差し伸べればもっといっしょうけんめい働いてくれるようになることのが多いと思うよ。「損したくない」ていうドケチ根性を発揮しちゃいけないところでフル発揮して敏腕経営者ぶってる人がいちばんタチ悪いね。かつての権力者がつくった「賤の排除観念」てのは形を変えてずうっと残ってるかんじがする。ちなみに大昔は女中さんがけっこう雇われてて子守りしてたんだっけかな(実母のちいさい頃はもうけっこうな金持ちしか女中さん雇ったりできなかったらしい)。ずいぶん前にツイッタでも書いた気がするけど、たしか部落出身のヒトが中心で、女中さんのお給金は当時としても安いほうだったんだが故郷の赤貧ぐあいがヒドすぎるくらいだったから、そこからすればまだ女中さん給金のがマシみたいだったかな。東南アジアのヒトよんで云々…てのみると、結局貨幣価値が低い国から…とかが当時の状況から連綿とつながってることを思わずにいれんとゆうかさ…。
エハラ氏催眠術の人と同じくわざとうさんくさい見世物師的なかっこしてるんだろうか。マジにいいと思ってやってるんだとするとなんかちょっと…。中山美穂に愛想尽かされた人て時代は絶対、中性ですよつってたらしいけど、あれは自分の内的欲求や覚悟に基づいてやってんじゃなく、流行に迎合するためにやってるって意味なんだろうか。服でもなんでも流行にながされてやってることってヒトから笑われたりすると即やめちゃったりするんだが、それは服装に対する責任を自分ではなく世間に仮託してるからなんだよね。着る服やナリに関して全責任を自分が負う気でやってるなら、誰かから笑われても即やめるようなことはぜったいしないわけ。誰からどう言われようと気にならないし。志茂田景樹中山美穂に愛想尽かされた人のナリをホメてたみたいだけど、志茂田さんはおそらく世間に背を向ける的なノリでやってるのだろうし、ちゃんと彼なりのスタイルが確立されてるぽいからいいんだが、中山美穂に愛想尽かされた人のナリはなんかそれとはちがうよ。ちなみに中山美穂に愛想尽かされた人の元カノさんはその後まったくちがうタイプの男性と再婚なさいましたね。よっぽどうんざりしたのであろう。
・あるヒトの奥さんが、旦那さんと会話するたんびに上から目線で罵倒したりけなしたりしかしなくて、なんつーか…対等にしゃべってくれないことに旦那さん側がすっごい悩んでるんだが、旦那さんに才能がありすぎるのをよくわかってるがゆえに、奥さんは自分にそのテの才能がなにもないことをひどく引け目に感じているんじゃないのかと思う。夜中に大騒ぎするあなたのお子さんは、あなたの固定観念をぶちこわすためにこの地球へ降りてきた尊い光の存在かもしれない件じゃないけど「持たざる者」はいつの時代も固定観念をこわすちからを持ってるヒトなので、そのままで尊いんすよ。自分の思ったようにフツーに会話してるだけで備わったもんが磨かれてくし(実母・実兄はそのクチで、このテの鋭い感性てのは万人に備わってるんだけども巷の損得的な観念では計れないんだよねー)。ある種の才能をずば抜けて持ってる旦那さんみたいなヒト、てのは常識面がわりとアホだったりするので、そこで「持たざる者」のふつうの観点が活きてくるんすよ。虚勢張る必要なんてないし、むしろ虚勢張ると持たざる者エネルギーが発揮されなくなっちゃうと思う。そのまんまでいいんすよ。誰かと比較して自分を卑下しはじめると、自分に備わるちからを把握できなくなっちゃう悪循環になってくからやめたほうがいいですよ。

坂上さんが厳しいのは相手に対する責任があるからだよね

魄=鬼と見なすと、昔ばなしに出てくる「鬼」はすべて怨霊ということになるんだろうか。すると桃太郎に於ける「鬼退治」は怨霊を鎮めたり浄化したりしにいくって隠喩なんすかね。桃は黄泉比良坂でゾンビ化して追いかけてきたイザナミイザナギが投げつける邪気払いのブツだし、キジがイタコ的な巫女か呪術師、イヌは現世と霊界を行き来する道案内、サルは太陽神の使い(神道系でとらえるならサルタヒコ)とみなすと、4人の霊能者がなんらか…強力な怨霊を浄化しにいった話がどういうわけかこういう形で伝承されてんのかな。神仏の眷属としてのトリは太陽がらみなことが多いことから、もしかすると桃太郎のお供は3匹ぜんぶ太陽がらみなのかもね。怨霊の浄化て太陽が必要だろうし。尚、猿を天台宗の坊さん、犬を真言宗の坊さんとみなすと「犬猿の仲」てのがなんとなく当てはまる雰囲気になりますね。ちなみにイヌを狛犬として見なすと密教系の側面がさらに強くなる不思議。
精神的苦痛に対しての賠償金を求めるてのは「カネよこせば黙っててやるからさっさと出せ」て持ちかけてるのと同じなんだよな。理不尽なことをされたときの真の解決方法てのは、相手がどうしてそういうことに及んだのかを調べたり、辛抱強く交流しつづけることであって、それをなにひとつせずにカネで終わらそうとする、てのは自分や相手の心や気持ちを「カネでどうにかなる」程度の安上がりなモノなのだと見下してるってことなんだよ。「出来事に対する責任」をどんなふうに保ちつづけているかで誠実さの度合いが計れるんですけども、カネで済ませたら誠実さを勘案することすらもできない。いくら被害者だとゆってても「カネで忘れてやる」て持ちかけた時点で相手を思いやる気持ちなんてどこにもないんだよね。それをやった時点で加害者になってしまったも同然なのに。そこから目を逸らしつづけて「金をむしることが解決」かのように思い込んできたんだな。道徳の教科書には賠償金についてどう記述されてるんでしょうな。「被害者の立場になったらカネむしって忘れましょう」とでも書かれてるんだろうか。そういえば最近の絵本で「悪者だからといって一方的に退治する話はよくない」的な理由から、降参した鬼が桃太郎に宝物わたして帰らす結末に改変されたバージョンがあるらしいけど、あれって「カネやるから黙れ」的なヤクザの手打ちこそがこれからの正義である、て言いたいんだろうか。ずいぶん殺伐とした思想だな。ヤクザにしてもさ、そのテのヒトがたくさんいるってことはそれだけ国家福祉が整ってない証拠なんだよね。養育上の事情から食うに困って路頭に迷ってるヒトなんかにも福祉が行き届いていればヤクザに拾われることもないんだから。にしても福祉が整ってなかったことでヤクザがたくさんでてきて、それによってヤクザ映画なんかもできたので、そういう意味では悪いとか不幸とか断言はできん。実兄がゆってた「カネのあるところからは面白いことは生まれない」てのはまさにこのことだな。今日の糧を得るためのギラついたエネルギーあるところから新たな文化が生まれる感。それにしたって「自分の心はカネで買われるような下卑たモノですー!」なんて自分で言いふらすようなマネはしないにかぎるよ。そんなこと繰り返してたら買い叩かれて終わるよ。カネの話しかできない人なのだと思われて。
シャルダン時の件と同じく今回の人もおいらの「目」を潰したいようだけど、キリストを拷問死させたヒトたちと同じく、自分に従わない輩を屈服さすことで不安を解消したいんだろうね。このテの人たちは「相手がなくしたら困る(であろうと思われる)モノ」を奪いとってしまえば屈服させられると思ってるみたいだけども、つまるところ全盲のヒトたちの境遇を「みじめな人生」としか思い込んでないってことなんだな。相手を引きづり下ろそうとするに際して、あの人をこんな境遇にしてやりたい的な「最悪な人生」基準てのを各々で持ってると思うんだけど、そこで思い浮かぶ「最悪な人生」てのはその境遇にあるヒトを差別してるも同然なんだよ。その境遇ならではの学びがあるのにさ。仮においらが全盲になったら書く系は全滅だし、今後もくろんでる美術系計画もすべて諦めるほかないし、なにしろ「見る」が大前提になる仕事はなにひとつできなくなるだろう。ガッカリはするものの、もしかしたら全盲状態でだけ学べることのほうがおいらにとって必要なのかもしらんのだよね。今の時点では「見る」前提の仕事していきたいな、て思うけども、仮に全盲になったときにその考えのままだと、全盲境遇ならではの世界観をなにひとつ学べなくなってしまうんじゃなかろうか。どんな境遇でも学ぶことはたくさんあると思うよ。モノ書きは目、アスリートは足、職人は手、音楽家は耳…「コレを失ったら生きていけない」と思い込んでいる要素を突然失う事態に直面したら、経験したことのない生き方からの学びが用意されてるってことかもしれないので、絶望するまえに新たな世界の実像をまず知ってみることが肝要だと思いますよ。「失う=不幸」とか思ってるから絶望するんだろうけども、その考え方自体が障害者を差別的観点でみなしてる証拠なんだがな。人生差別はよくないよ。

文化を潰した瞬間、路頭に迷う人が必ずでることを思い出すようにしてほしい


捕鯨業に従事する人の職業否定につながる取り決めについてルールとして決まったんだから従え(深町さんまで自分の納得のために捕鯨人から職を奪うべき的なこと言い出してて悲しい…)的な主張を捕鯨反対の人が繰り広げてるんですけど、法律をはじめとする決め事てのは常に「人間にとって善きもの」に変えてくためにあるんですよ。盲目的に従いつづけるためにあるんじゃないの。いちど決まったことに盲目的に従うのが善、なんてすると、たとえば「みんなと仲良くしましょう」なんつーおとなですら実現不可能な理想論にも従わなきゃならんくなるわけ。どうしてこんな頭の固い考えを他人にも強要するのかというと、単純に「相手が自分に従わないことに我慢がならない」だけみたいなんだよね。ちなみにルールに従わない者をバカ扱いするてのは「体制に逆らった者を怨霊呼ばわりする」のと似た観念ですな。捕鯨をやめさそうとする人て「女子供がかわいそうだから」つってエロ漫画描くのと販売両方を禁じる法律をつくらそうとしてた人たちとか「ツイート使われた人がかわいそうだから」つって会田誠作品の撤去を求めてた人たちとかと同じく「クジラやイルカがかわいそう(と思ってる人たちに配慮すべき)だから」的な考えに基づいてるみたいなんだが、この弾圧を是とする3者に共通するのは職業差別なのよ。漫画家、捕鯨人、芸術家、そのヒトたちから食い扶持を平然と取り上げることを善だ、て叫んでるのね。そのうえで職業差別の取り決めを至上として、もう決まったんだからおとなしく従え、て上から目線で命令してくるの。まるで法の番人にでもなったみたいにさ。ただ、食用ではない動物を保健所で処分し続けてる件とかユダヤ人だけをひたすら殺してた件だとかはその職に従事してるヒトにやめてもらわんかぎりは止めることができないのよね。野良の大量処分だとかアウシュヴィッツの人種殺戮の件てのは食べるためや調査のために数守って獲ってるクジラやイルカの件とはまったく別の話で、それと混同して対処しようとするとおかしなことになってしまうと思う。ちなみに「遠出してまで獲るのはおかしい」というなら遠洋漁業はなぜお咎めなしなの?て話になるし、オーストラリアにしても日本側と詳細な対処もせずひと足とびに禁止にしちまう時点で差別思考に基づいてるとしか思えんのですよね。まーしかし文化名目のムダに国費つかわれるなんて我慢ならない!と思ってる人がわりといる、てことがわかっただけでもよかったような暗澹たる気持ちになったような…。あーあ。獲り方のコツだとかも各々の場所ならではで違ってると思うんだよね。それもがすべて損なわれるのかと思うと…。人から職を奪うようなことをたやすく是とするなんてどうかしてるよ。見世物とは食うに困ったヒトが「最も財布のヒモをゆるませやすい芸はなにか」て考えたすえに編み出された娯楽の原点であるって件は前に書いたけども、彼らがなぜ商品の質を高めるよか「まがいもんをそれらしく見せる」ことに邁進していったのかというと「いいもの」をつくろうとすると手間もお金もかかるのに加えて、ほんとうにいいものができるかどうかわからないという不安定さをも抱えこまなきゃならなくて、それだと食うに窮したヒトが「今日の腹を満たす」を叶えるためには「割に合わない」てことになるんだよね。要するに「まがいものが多く世に出回ってしまう」のは排除された者が苦肉の策で編み出した「糧を得る」ための効率を優先させたことが原因なのだけど、排除されていない民(=今日明日食うには別段困らない人)からすると彼らの売る「いいかげんなクオリティのもの」を買うことは非効率てことになんだな。そんで食うに困らん者にとっての効率を優先させてゆくと、ふつうにアヤしげなクオリティの商品なんぞ買わなくなるから、排除されたヒトたちが効率よく稼ぐために編み出したテキトー商法が通用しなくなって、消え去ってしまう。彼ら独自のスタイルで編み出された見世物―固有文化と共に。文化の固有性を弾圧対象にしたり、自然発生した文化を消し去る、てのは排除対象民の存在を抹消するのと同じ事になってしまうんだな。つまり排除民が生きるために編み出した芸事、てのは福祉そのものなのか。食うに困ってる人の生活を国費で支援をする、てのと、国費で文化を守る、てのは同じなのだな。そこらへんからして「捕鯨のために税金使うのが許せない」てのは「あんな連中のために税金が使われるなんて許せない!」て生活保護受給者全員を犯罪者のように見なす観念とまるでおんなじになっちまうわけだ。生活保護を不正に受給しちゃう人てのもいるみたいなんだが、彼らもまたラクチンに生きるための効率を優先してった結果として不正受給がやめられなくなっちゃったクチなんでしょうね。そうなっちゃうと、もう「まっとうに働いて食ってく」生活になることへの心理的ハードルがものすごい高くなっちゃって、かえってたいへんなことになっちゃう気がするけどねえ。なにしろ排除対象とされ食うに困ってたヒトたちは、売るモノの質に関係なく「人の心を揺さぶる型」さえ身につければ客はお金を落としてく、てのに気づいたんだな。その「人の心を揺さぶる型」を洗練させたのがいまでは芸術だとか言われてるわけだ。芸術を扱うに際して現代では才能がうんぬん言われるけども、才能なんてあろうとなかろうと「今日食わなきゃならない」切迫からするとどうでもいいことだよね。そのがむしゃら感に伴う野蛮(と見なされがちな)要素が放送禁止的になりがちってのも差別でしかない気がするが。まー当時も結局見世物に関する才能が他よりも抜きん出てるヒトのがより稼いではいたんだろうけども。職業差別を是とする3者の件にもどしますけども、彼らに共通してるのは当事者たち(作品にツイート使われた人・子供・動物[…とはそもそも会話ができぬので捕鯨人か])の意見をまったく聞かない点なんだよね。そのうえで「彼らがかわいそうだから」て勝手な第三者観点によって職業弾圧を推し進めようとするんだよ。本来ならばいの一番に意見が尊重されなければならないヒトたちであるはずなのに、そのヒトたちそっちのけで「かわいそうな人のためにアイツらを排除しよう!」て大昔の権力者の聖賎観念まんまじゃないのよ。「あの人がかわいそうだから本音をだすのを止めなさい」てのがどういうわけか世の中を平和にする善き道徳観念かなにかのように思われてるんだけども、現実ではそれをやるたんびに世の中は不穏になってくんじゃなかろうか。目視できない排除対象者を暗黙のうちに生み出すから。自分を被害者と思い込むことで責任放棄思考になってしまう件じゃないけど、だれかを勝手に「かわいそうキャラ」と見なす、てのは一方的にかわいそうと見なされた人の固有性から目を逸らすことになりやすいんじゃなかろうか。かわいそうイメージだけがまかり通ってしまって、実像からかけ離れたまま事実を確かめることから遠ざかりがちになるんじゃないスかね。かわいそうな人だとか弱者だとか見なすことによって腫れ物に触るような態度しかとれなくなるふうに。まともに向き合っちゃいけない相手、みたいなふうに思考停止しやすくなる観念なんじゃなかろうか。それと、かわいそうな人を「守る」ためと称して「お前が生まれもった本性はあの人の存在よりも尊いのだ(=尊い人がイヤがるお前の本性を2度と出すな)」的に存在否定されるヒトがでてしまうよね。だれかをかわいそうキャラに見なす観念てのは「かわいそう」と見なされた人と、「かわいそうな人を傷つける人間」と見なされて黙らされた人、双方への差別になってしまうんだな。ちなみに自分の納得のために誰かを消し去るようなことを平然としだすのはなぜかというと2日のホンマでっかで「人は自分の言葉がいちばん心地いい」と澤口先生がゆってて思ったんだが、おそらく自分の言葉や観念が心地よすぎるがゆえに、その心地よさを継続させたい欲求が「自分の考えに反する者を駆逐する」方向に仕向けてしまうとかじゃねーのかな。自分に正直でいると満足感がすごく高くなって他人になにかを強要しなくなるとは書いたけれども、その「自分に正直でいる」が時の常識―かわいそうな人のために誰かを排除する―から派生してる場合に差別や弾圧として現れてしまいがちになんだろな。時の常識を捨ててマジに「自分に正直」な状態になれれば、時の常識に侵されてない要素が思考の中心に置かれるから、いろんな要素がしぜんにでてくるのよ。それと同時に世にある「いろんな要素」のことをふつうに認めることができるようになんの。アレしちゃいけないコレはなくせだとか、そうやって禁じる観念なんて「自然」に於いては存在しないんだよ。人間の中にある「自然」をぜんぶ出せるようになるとわかるんだけど、ヒトって巷に出回ってるような「あるあるキャラ」で判別がついてしまうようなペラいもんじゃないんだよ。それが出せてるヒトの表現てのはふつうにジャンルの垣根を超えてて克つ豊穣なの。いろんな観点から物事を考えられるからこそ、どっかでみたことあるような既存の表現なんかじゃ表現しきれなくなるわけ。そこらへんからして、どっかで見たような表現しか出来てない時点で自分の中の「自然」を思考の中心に置いていない証拠なんだよね。自分の心のなかで、どれが「自然」で、どれが「時の常識に侵された観念」なのか、しっかり感じ分けられるようになってくといいんだけども。「自然」を思考の中心に置けるようになった際には、先に書いた「自分の言葉から得られる快楽」が相乗効果になって、どんどん表現がでるようになってくふう。あと…これは他のヒトも同じかはわからんのだが、清いモノを汚そうとする気持ちだとか、愛されてる者を貶めようとする気持ちだとか、穏やかなもんを破壊しつくしたい衝動がいつも強烈に沸いてきてて、それを自覚しながら実行しないように常に気をつけてる。これがあるから色々長ったらしく書けてるのかなーとも思う。あの強烈さが自然だとか宇宙だとかのエネルギーであって善悪とは関係ないんだなーとちょっと思う。あの衝動を現実で実行してしまうとバランス崩れちゃうんだろな。そういえばさーこのまえ高輪神社の太子宮(←なんか…ダチんちにあがりこんだような妙に俗ぽいカンジがしたんだが…太子さんてそうゆーヒトなの?神社仏閣でお参りしたときのような爽やかなかんじが全然しなかった)お参りしつつ色々聞いてみたカンジからすると、どうもなんとなく空恐ろしいもんをかんじる地帯には太子のバランス崩した魄が封じられてるくさいすね。ヒドい目に遭って魄がそうとう荒れ狂っちゃったみたい…だけど、それを浄化できるヒトも生まれてるぽい。ある地帯ぜんぶ障るレベルに暴走する魄てどういうアレかなーて考えたんすけど、要するに「ゆるさん」が濃縮した塊なのかな。おいらの「ゆるさん」側面を全開にしたら…て考えると23区内くらいならどうにかなるかんじはする。そうはいきませんよ。バランス死守。そういえば高輪神社後によこの細い坂のぼってったらなんか高野山の姉妹店みたいのがあったよ。さらに道なりに進んでくとカソリックの教会(高輪教会て2コあんだけど、プリンスホテルの隣のほう)があって、そこの礼拝堂はなんか鉄骨むきだし内装でなんとなくメタルのライブ会場ノリです。あすこは入り口に筆字ふうの木の看板なんかあってビジュアル面のごった煮感がちょっと笑える。トイレ貸してくれたんでおもいっきしうんこしてきた。ありがとうキリスト。あそうそう、あとここの教会にはキリシタンの処刑についての説明なんかもあるし、千躰荒神さんとこ向かう前の「両極や複雑さを体感する」流れとしては正統派なルートに思います。荒神さんとこで挨拶したときにくる涼しい風てさわやかでキモチいいんだよな。物事へのケジメのつけかたがきっちりしてる性分に起因してるんだろうか。あれと同レベルな爽やか空気感を保持してるカソリックの教会てあんましねーんだよな。どうしてなのかなー。いちいち人をかわいそう視しがちな偽善人間が信者に多いからなんでしょうかね。慈悲だとか慈善てのは心持ちをまちがうと爽やかさとは無縁の気色悪いナニかになってしまいがちなんじゃなかろうか。ちなみに千躰さん後の帰途寄ったココもすごく気持ちのいいとこだったな。ちょうど鳥居前にある恵比寿さん石像の真上で色が濃いめの桜が咲き乱れてたし。そこの看板に明治天皇指定の神社とか出てたけど、あれはどういう基準で選ばれたもんなんすかね。単純に好みでか?それとも天皇自身がひそかに霊能力あって各神社のエネルギーの質や大きさなんかがわかる人だったとかか?指定されてる神社がどれもわりとよさげなとこばっかなんで。単純に政治の関係でか?よくわからん。そういや荒れた魄浄化&生きてるヒトの気質整え→地域バリヤ張るの流れは日本だけでなく色んな国でもやっとくとよいですよ。やりたいことを実現しやすくなるみたい。気質(考え方)整えがらみといえばまたホンマでっかネタだが2日の番組内で「よくしゃべる人は幼少期に母性愛が足りなかったことが多い(=自分のことをよくしゃべると脳内でドーパミンつー快楽物質が出て快感が高まるので、幼少期に刻まれた欠乏感覚を常に補っている)」てやってて明石家さんまがそれにあたるみたいだったけど、幼少期の愛情欠損が無二の才能が咲くための下地になったてことだよね。あと実兄から聞いたんだけど、作詞家の吉岡治さんはお父さんが女にだらしないロクデナシだったとか(当人がその旨語る番組を見たとのこと)で、そのせいで吉岡さんは幼少期に痴情のもつれのドロドロ場面をイヤというほど目の当たりにしてきたらしくて、でもその経験があるからこそおそらく濃厚な情念歌の歌詞なんかを書けたんじゃないのかな(その経験の反動からか奥様は地味で控えめなかんじの方なんだそうだ)。「母性愛に飢えさすような家庭環境」だとか「トラウマを植え付けるレベルの痴情のもつれを子供の前でくりひろげ続ける家庭」だとかって書くと「かわいそう」だとか「不幸」だとか思って義憤を抱きがちになるんだけども、ヒトにとってなにが幸いするかわからない以上は、人生上の出来事や経験について勝手なイメージで断罪するようなことはしたらいかんのではないかと思う。自分の人生で起きるいかなることについても「逃げない」ことがあたりまえになれば、かわいそうな人なんていない、てことがわかるんじゃないのかな。
いま当たり前に使われてる「災害」表現(自然現象を過度に怯えさす観念に固定してしまう)だとか、責任放棄しがちになる「被害者」「加害者」表現てのは、気をつけてないとおいらもつい使ってしまう。なんとかしたい。それに代わるシンプルな表現がありゃいいのか。うーん…。

エンディングの手抜きっぷりも辟易しますね


昔ばなしリメイク版のトチの実話のなかでこのトリによく似た小鳥が自分の体と同じくらいの大きさのトチの実をなぜかつついてるシーンがあったんですが、それってカエルキャラさくらんぼのたねを食べちゃうのに近いレベルの間違い描写なんですけどね。トリはクチバシの形によって食べられるものが違うんすよ。あの形のクチバシのトリは小さくてやわらかい虫か、花の蜜だとか小さい実しか食べれないと思いますよ。作り手の方にとってはどうでもいいんでしょうけど。トチの実みたいなガッチガチにカタくてデカい実をあの小鳥がつつく意味がわからない。最悪クチバシ割れますよ。子供むけの創作物で「動植物の習性について間違ったことを平然と盛り込んでる」てのは鑑賞者である子供に対して責任もつ気持ちがみじんもない作り手な証ですねえ。子供むけの娯楽物は教育ブツとしての役割も兼ねてるんだよ。昔からの知恵を継がせてくもんでもあるんだから。先のアニメは場当たり的にウケ狙ってるふうなサイバラ絵の小手先媚び売り手法もウゼエな、と思ったらキャラデザ本人やってんじゃん。30%見損なった。いけちゃん絵本は傑作なのに。ごく一時期に生きてる人にだけウケる表現を使って昔話やるのって、原話のもつわけのわからんエネルギーを削ぐことにしかならんような気がするがなぁ。数百年前からなにひとつ変わらない人間のもつ猥雑さとか強烈な生命力を伝えるのが昔話なんだが、4〜50年経つと流行ってた事すら忘れられるたぐいの一過性の風俗要素で固めてしまうと、次世代には受け継がれづらくなってしまうんじゃなかろうか。なんつーかな…ごく限定的な期間にしか通用しない「受け狙い」てのは「流行りに迎合した」ことでもあって、それだけ手垢にまみれた証拠でもあるわけ。多くの目に晒されて使い古されたがゆえに、時が経つにつれ色褪せかたがより激しくなってしまうとゆうかね…。既存の人間からすると「真新しさ」がどこにもないから、時代が更新されるたんびに不要なモノと見なされてしまいがちになるというか。ところがオリジナル版の日本昔ばなしって、当時のアニメなんかで流行ってた絵柄とは無縁なスタイルの絵ばっかりだったんだよね。いっときの流行りになんら汚されてない表現だけを使う、てのは場当たり的な稼ぎはあまり見込めないものの、いつの時代にみても「新しい」んだよ。時代に迎合してないゆえにどの時代のヒトにも受け入れられやすいの。声優についても超のつく巧者2人だけを使う、てのもすごくよかったし。作り手の観念がどっしり定まった子供向けのアニメだとか絵本をみると、道徳観念のしっかりした大人からおはなしを聞かされてるような気がして、とっても安心するんだよね。ポターや、彼女の作品を訳したいしいももこ先生、それにオリジナル版の日本昔ばなし、すべてそういう安心感をかんじれるものだった。ぐらつくことのない骨太の世界観、つくりかた、そういう作品を目の当たりにすると、すっごく安心して語られる物語に身をゆだねることができるの。その安心感を知ってるから、ガキなんか小手先で騙せるだろとばかりにてきとうなつくりをしてる絵本や児童むけアニメ映画なんかをみせられると我慢ならないんだわ。先の作品にあるような安心感なんて皆無で、作り手が子供をバカにしてるのが透けて見えるんだよ。あのクソこのクソと同じく、子供を楽しますことに本気になってないでしょ。恐ろしいシーンはチビらせるほど恐く、笑えるシーンは這いつくばって笑わすほど面白くつくるんだよ。「ちゃんとつくろうがテキトーにつくろうがガキにはわかるわけねえ」とでも思ってんのかね。幼い頃の感動がいろいろ刺さったままだからこそこの日記なんかも書けてるわけですが。絵本に興味のないヒトて、根拠ゼロの空虚な理想論しか並んでないような、児童書的には下の下クオリティの作品と同じことさえやれば「子供向け作品」として合格点になるとでも思い込んでんじゃないスかね。「みんな仲良くしましょう」なんて大人だってろくに実行できないくせに、それを子供に強要するって暴力に近い押しつけですよねぇ。ところが有名な絵本作家さんはヤな人が入り込まないように工夫するような描写を子供むけのもんにちゃんと描いてたりすんだよね。後世まで何百刷とかなって売れ続けてる児童書て夫婦のモメごとだとか妻に対する夫のボヤキだとかライバル店が閉店するや即値上げに踏み切る同業とか、おとなの世界でのあつかましさを「面白い要素」としてふつうに盛り込んであるんだよ。読み手である子供をバカにしてないの。それをなんとなく感じ取るからこそ世代なんぞ関係なくチビッコたちに愛され続けてるんじゃなかろうかね。児童書によくある「めでたし」的結末としては「無事おうちに帰ることができました」とか「みんなでいっしょにごはんをたべました」みたいな安心感に包まれる的な描写が多いのだけど、ポターのだとうまいこと儲けられるようになって安楽に暮らしましたとかいう現実に即した描写で締められてたりすんのよ。あとケンカシーンをいかんなく描いてる話に顕著なんだがポターの絵本てあつかましい人がけっこう出てくるんだけども、出てくるキャラが極端な性質なホドに出来事も大きくなって面白くなんだよね。たいへんなことが起きたときの取り乱しかたについてもちゃんとリアルに描いてるし。「おじいちゃんは めんぼく まるつぶれです。」てあんまり絵本ではお目にかからない表現だな。かわいいもんを出すときはそれをおびやかす残酷要素をセットにする、て娯楽描写にしても観察によって裏打ちされた自然に関する知識を下敷きにしてつくってるからこそ見世物として冷静に扱うことができたんじゃないだろうか。ちなみに児童書で自然に反する描写を思いっきりしてもいいジャンルとして空想たのしむジャンル(同系統では激怒中の心象風景を描いた作品とか形状から空想したホラ話的な作品とか)とかあって、それは空想世界をたんのうするのが目的だから、その世界のなかでならなんでもしていいんだよね。チビッコはそこらへんのジャンルのちがいをちゃんとわかると思うよ。「お人形さんゴッコ」なんかも空想ふくらませ遊びだしね。骨太なオトナネタをぶちこむポター作品では、なんか空想世界と現実世界が並行して同時に存在してる、てのをわからせようとしてか擬人化動物たちが、自分らの怯えてる巡査が人形ということをわかっているうえ本物の巡査がいることもわかってるなどという、よく考えるとなんか複雑な世界観として描かれていて、なんかすごい。空想と現実を誠実に描こうとしすぎるとかえってなんだかわからんことがあぶりでてきてるふうな。ぜんたいどんなジャンル作品だろうと手抜きせずにつくる、てのが吉ですな。

不快に感じるもんが存在するのが許せないんでしょ


※下記「IWC」部分リンク先を要参照のこと
・日本の捕鯨についてIWC商業捕鯨がダメだつーから調査捕鯨名目にしたんでしょ。日本側の譲歩を無視してそれすらも禁じるてどういうことなんだろうか。 クジラを食べる文化なんだから商業捕鯨でいけるならそうしたいに決まってるのに、それがダメだというから調査名目にしたんだっつーの。IWCが日本に対して商業捕鯨を禁じた時点で「鯨を食べる文化をなくせ」て意味だったんですかねえ。捕鯨反対の人ってさー人間が何者からも脅かされない至上存在と思い込むための象徴にしようとして「知能」を理由にクジラやイルカを躍起になって守ってるふうなんだが、それって人間中心主義なんだよね。人間(=クジラ・イルカ)だけは何者からも食われない!なぜなら知性を持っているから!ていうふうな人間だけを特別視したい傲慢さから派生した嘘を信じ込ませようとしてるというのかな。人間だって食われることがあるよね、て考え方してるほうが動植物と地続き―人間も動植物のひとつである―視点をもって世界をみることになるから、自然に対して謙虚に接することができるようになるのでは。なんつーか… 差別反対を掲げる際に「多様性を守る」を大前提にしてないと「自分の守りたいもの」のために他はすべて弾圧されて殺されてもいい、て事態になってしまうんだよ。差別撤廃を掲げる思想団体に顕著なんだけども「片方を守るため」といいながらもう片方を弾圧する人てのは個性を潰してるも同然なんだよね。小学校の学芸会で主役ばっかり並んでる件にしても「主人公以外はすべて死ね」て発想なんだよ。わたしの大事に思うモノだけがこの世でいちばん大事で、ほかはなくなっていい、ていう最悪の差別思想なの。シーシェパードのコーネリセンにしてもグリーンピースジャパンの佐藤潤一にしても「大多数に従うために日本文化を踏みにじれ」と善人ヅラで主張してるようにしかみえないんだよねえ。右へならえの精神状態を至上とかしてたら決め事の間違いすら正せない心持ちになっちまいますけど。つーか人間の固有性弾圧を正義とか考えてる差別人間がイルカクジラ保護だけを掲げただけで動物全体を守った気になってるあたりとか相当に滑稽ですけどね。ちなみにマジにイルカが大事なら中国あたりにいたカワイルカとかはなぜ絶滅してしまってるんだろうか。ほんとにイルカが大事なんでしょうかねーシーシェパードにしろグリーンピースジャパンにしろ。彼らに加えてIWCもオーストラリアも、動物愛護を叫ぶフリしながら実は森羅万象すべてを神とする日本の八百万思想を潰そうとしてるんじゃないのカナー。動物愛護を隠れ蓑にしてプロパガンダをうのみにしてしまう精神状態を道徳であるかのように思わせつつ「気に入らないもんは潰せ」て人間至上の傲慢思想を正義喧伝してまわるのに加担している中のIWCシーシェパードグリーンピースジャパン、そしてオーストラリア政府は最悪の人種差別判決に加担した張本人という事実を今後も永久に語り継いでゆきます。追記(4/2)。ICJの判決には控訴できないてことは、上記4団体が最悪の人種差別者であるという事実も永久に変わらないということですね。
外務省の怠慢ぷりこれに似てるかんじな。なんつーか五輪プレゼンでガッチリ頑張ったのと対極に位置する雰囲気だったわけだ。人種差別主義者たちにうまいこと言いくるめられても仕方のない心持ちだったのな。アホども。あんたらマジに文化を守る気あんのか。
・自分を被害者だとか犠牲者だと思いこむのって、自分の人生に対する責任放棄になりがちなんじゃねーのかな。特定の立場でしかモノを考えない言動しかできないようにする自縄自縛観念つーかね。アイツが悪いコイツが悪い、あの人のせいでこうなった、あいつさえいなくなれば、それはぜんぶ「責任を負う」ことから逃げる考えなんだよね。どんな出来事からも逃げない、すべて受けて立つ、てのが「責任を負う」てことなんだよ。ところが自分のことを被害者だと思うことで、自分以外の誰かに責任をなすりつけることしかしなくなるような、向き合わずに逃げ出す心持ちになってしまうんだわ。誇りを失ってしまいやすくなってしまうというかね。責任転嫁することなく「どうやったらうまくいくか」て考えたり行動したりするのが自分に対して責任をもつ、てことなんでは。政府の嘘を信じちゃって苦労した件もさ、結局詐欺師の口車にノせられて嘘の投資話にのっかっちゃった人だとか、もっというと戦争に向かわされた市民と同じことなんだよね。だました政府に賠償金求めるのも「だまされた自分が悪い」て事実から目を背けてるに過ぎないんだよ。だまされちゃったけど、じゃあそこでどうしようか、てなるのが「すべてに責任を負う」てことなんだけど。どんな来歴で心持ちなのかわからない他人に対して「勝手なイメージで判断する」てのが失礼きわまりないように、自分に対して単一のキャラでしか考えない、てのもまた同じく自分に対して失礼なことなんだよ。ちゅーごくにしてもさ、世界各地で日本を悪者視さそうと躍起になってるけども「戦時に非道を行った相手を叩き続ける」てのは福祉政策ゼロ時代に権力者が身体欠損や疾患もつヒトを「賎」とみなして部落に追いやって排除したのと同じことなんですよね。オーストラリアがらみでいうなら先祖が囚人だった件(こういうので詳細な背景とかもわかれば面白いけどね。そうしなければ生きていけなかった、とかが多くの原因なんじゃないかと思う)について、孫やひ孫の代になっても執拗に犯罪者扱いしつづけるのと同じ。中国・韓国は「日本を差別対象にしましょう!」て言いふらしてるも同然なんだよ。それがなぜわからんかって、特に中国政府はいまだに逆らった市民を拷問したりして排除してるでしょ。そんなだから「どういうことをしたら差別になるのか」はおろか「なぜ排除したらいけないのか」の基準自体がリアルにわからないでいるんでしょうねえ。日本が!戦時に中国市民を殺したんです!どうですヒドイでしょう!とかすがりついてきたら「文革自国民他国民を相当数殺したあなたが人間の命について具体的にはどう大切に思ってるんですか?」て突っ込んでやりゃいいのに。いまだに陳情にきた中国市民を拷問にかけたりしてるくせして「犠牲者へあやまれ」て、そこは天朝さん自身がいちばん向き合わなきゃならない部分なんじゃないんですかねえ。市民をマジに大切に思ってるなら国民主権体制である民主主義になっていないのは最大限の矛盾だし、福祉政策についても日本よりも手厚い体制をつくってないかぎりはいくら自国市民のことを大事に思ってるとか言われても説得力ゼロだよ。欧米のお偉いさんがた、あんたらが懇意にしようとしてる国の権力者は自国民の命をリアルタイムに踏みにじりつづけていますよ。まー中国様とよいビジネスさえできればどんなに相手国で人権人命が踏みにじられていようと全力でみてみぬフリするんでしょうけど。言論の自由よか儲けのが大事てのが本音なんでしょ。天朝さんとさして変わらない精神性ですな。アメリカに於ける日本叩き&憎悪煽りみたいのもさ、韓国系がアメリカになじめないことが原因だそうじゃないの。根源はアメリカの不寛容なんですねー。

ショック描写を忌避してるかぎり人の心をゆさぶる表現を駆使することはできないよ



・ネコていちど怒るとゆるすまで凄く時間がかかるらしいけど、それは生まれついた本性に忠実なだけで悪でもなんでもないんすよね。真に個性を尊ぶというのなら、どれくらい怒っていつ許すか、感情の納得どころの固有性も尊重してあたりまえですし。そこらへんからすると、怒ってる人に対して「もうゆるしてあげなさい」てのは相手の感情について否定してるようなもんだよねえ。憎悪や怒りを手放しやすくなる観念として「執着を捨てろ」てのがあるけれども、それは効率よく「ゆるし」にたどりつくまでの手間を省く為の観念であって、納得へと続くゆったりした感情体験を全否定してるも同然なんじゃねーのかなー。自分の怒りや執着具合にじっくり向き合って、どうやったらゆるせるのかな…?て腰据えて考えつづけるのだって立派な道徳体験なんじゃなかろうか。ゆるしにしたって苦しみが伴うからこそ尊いんじゃないかと思うけど。ゆるしや反省にたどりつくまでの方法や期間てのは個々人でまったく違ってるんだから、「ゆるせ」にしても「あやまれ」にしても納得へたどりつくための道程を踏みにじる強制行為なんだよな。中国・韓国双方の権力者は市民に「被害者」であることを強要してきたわけだが、その立場でしか物事を考えられない状態(=憎悪をたぎらせて生きることだけが善という刷り込み)がいかに権力者にとって都合がいいかてのをそろそろ自覚しといたほうがいいよ。日本を憎まなきゃ生きられないなんておかしいだろ。どんな出来事も受け止め方次第で「自分を成長させる要素」にも「地獄」にもなるんですよ。その経験をどう活かすかは自分次第なの。憎悪をぶつけて屈服感得るために謝罪させて、手打ちのための金巻き上げて、被害者としてしか生きられない人生を送ってほんとうに満足なの?その「満足」は権力者の満足感であって、あなた個人の満足感とは別のシロモノなんじゃないのかな。自分自身の感覚を権力者のモノとさも同じであるかのように錯覚しだしたらいいように操られてしまうよ。戦争してない状態を続けてる自体が反戦体制である証拠、てのを中韓の人がいつまでたっても理解しないままあらゆる国に対して中国=被害者イメージを刷り込もうと躍起になってるてのもどうかしてるしねえ。賠償金に関してなんだけどさ、痛い目に遭ったヒトのために生活費とか治療費を出さす、て決め事はいいと思うけど、精神的な納得のために金で済まさせるてのはヤクザの手打ちの方法だよね。カネ握らされて黙っちゃう、つー道徳的解決からはかけ離れたやりくちだよ。苦しみや痛い目に遭ったほうが遭わせた相手を知るためにマジに努力してれば、厳罰や賠償なんて必要なくなるんじゃないの?なにしろさー中韓の権力者は市民に対して「被害」「加害」の立場でだけ生きるよう強要しつつ、物事について多様な見方をさせないようにしてきたんだね。日本では「かわいそうな目に遭った人の気持ちを考えろ」という前提で本音や生まれもった本質を封じ込めさすことに躍起になっています。それは本当の気持ちを否定して生きろという個性全否定の差別だよねえ。禁止を強要するほどに差別がどんどん生まれてしまうんだな。思いやりでやってる、つーても弾圧相手がでる時点で暴力正当化のためのいいわけにしかなってないじゃねえかよ。相手への思いやりてのは互いに本音ぶつけあって強烈な感情を抱いたときに「相手はこういうことで怒るんだな」「自分はこういうこと言われると悲しいんだな」て把握してから初めてわかることであって、相手と自分がわからない状態で思いやりなんて持てるわけないんだよね。それと「批判をするな」「キツイこというな」つー「思いやり」至上体制を推し進めてると、例えば企業内で商品の品質向上なんて永久にできなくなるんだがね。「ホメて伸びるタイプなんで」つって他人の意見から耳閉ざしてるモヤシっ子は自分の短所を放置しっぱなしだろうから、伸びるにつれて短所も同じく増長してくでしょうな。そのうえで手痛い指摘もいっさい受けつけないとなれば人を踏みにじるのをなんとも思わない鬼畜と化してもふしぎじゃないスね。そういえばフジのALSドラマの主人公の弟が「思ったことをすぐ言ってしまう」性質なんだけども、それがドラマ中で病気かなにかのように描写されてたのがヒドかったなー。あれは「本音をいう人間は病んでいる」とでも言いたいんですかね。ありのままの姿を否定したり、本音を弾圧するのを善と思わせる心持ちこそが精神疾患の原因だと思うがなあ。ぜんたい日本にしろ中韓国にしろ「ありのままの自分」を許さない思想を市民に強いてきたんだな…。「イヤだ」「嫌い」「見たくない」「興味ない」と思うモノにイヤイヤでも向き合っていったいどういうモノなのかを知ろうとすると、自分に潜む意外なちからを知ることがあるんだよな。シャブロル映画なんて特にそうで、夫人に連行されなかったらまともに見ることもなかったしなぁ。なんつーか自分と程遠いと思い込んでるもんに向き合うことで、自分の知らない部分がでてくるんだよ。ヤだ、て思ってる部分を詳細に分析してたりね。町内で苦手な人の家の前に自分の好きな花が出てたりすると、コレをキレーだと思う感性をもってんだな…と思って複雑な心境になる。好きな人と自分の共通点てのは誰から言われずともつい探してしまうモノだけど、嫌いな人と自分の共通点を探してみる、てのも物事の多面性認識を鍛えるにイイ方法なのかもしらん。いつだかのホンマでっかで植木先生が具体的な素材とデザイン挙げながら「こういう服装の人はキレます」とか力強く断言してたけど、アレはおそらく「こだわりの強い人」の許容範囲が異常に狭いので、その範囲から外れたことをされるたんびに激怒するって意味なんでしょうな。そういや「もうゆるしてあげなさい」とか言い出す某菩薩の生まれ変わりさんとかっていちいちウゼエんだよなー。上から目線で屈服させたいだけって気づかねーのかな。善意(笑)で目が曇っちゃって内観しても何もみえないんだろな。ここらへんからして神仏がいっしょにいながらも何もいわないでいるのは信頼してくれてるからなんだなーと最近気づいた。うるさく言われずとも一応実行しますしねー。逆にそばにいて常になんか言う、てのはそれだけ信頼されてないってことなんだろな。言わねーとやらないからとかで。とはいいながらもメシくってるときに品のない食べ方してると片アゴをズレさせられて、クチが動かせなくなったりする(刺すような痛みなんだコレが…)。下向いたまま食べつづけてたり、クチんなかにつめこみすぎたりすると必ずそうなる。ただ…今回の日記にしてもこれまでも、某霊の人がおいらと意見を戦わせてくれたおかげで色々削ぎ落とされた結果書けたモノがとても多いので、人間に生まれた以上は本音をぶつけ合うのが吉に思う。
・保健所で数十万匹殺処分されてるありさまが後世に「動物のホロコースト」と呼ばれても不思議じゃないね。ルドルフヘスが悪人でもなんでもないことを今の日本に生きるヒトたちはよくよくわかるんじゃなかろうか。食用でもない動物が数十万処分されてるのになぜ誰も文句いわないかって、野良が排泄物で道汚すのに我慢ならないからだし、病気感染するのがヤだからですよねー。非道がまかりとおるのは単なる「処理」を効率良くやってる認識を多くが共有してるからなんですよね。それがわかってる者はだれもヘスを責めることなんて出来ないはず。売買用動物の供給が過剰すぎることが原因だから、本来的に現行のペットショップを禁じるくらいしないかぎりは動物のアウシュヴィッツはなくならないでしょうね。チェコの厳しい体制がいちばんいいと思うが。