バウボー怒りの性器露出


創価学会とかフリーメーソンてのは思うままにならない他者を「金と(人)数」のちからで従わす、てのを理念としてるのかな。 仏教に於ける「自分はさておいて他人を幸せにする(と巡り巡って自分が幸せになる)」と対極の「自分だけ満足すりゃいい」的な雰囲気を先の2団体からはかんじるんだがね。詳細な教義とかはしらんけど「自分の弱さ」に向き合うことから逃げまわるために権力をふりかざしてるだけにみえるんだよな。
  他者との本音の対話を拒んでるから、手痛い指摘をもいっさい受けつけない
                 ↓
       本音を交わす風通しのよい関係がいっさい築けない
                 ↓
   「自分が心地よく感じる」偽りの関係だけを良しとするようになる
…てカンジで。「寄り合い」てのは多くは相互扶助のためにあるんだろうけども、ヤなとこにアグレッシヴに向き合うことを理念としてないと「自分の弱さから目逸らしつづける」体質になっちまうんだな。そうなってしまうと固定観念を破壊する「持たざる者」は生まれづらくなってしまうだろうし、居たとしても排除しがちになるだろうね。特にフリーメーソンなんかは大企業の経営者みたいな社会的成功者をひっぱりこんでるみたいだから、大多数のコントロールが容易なだけにそこにも陥りがちなんじゃなかろうか。「他者が依存してくるのは許さないけど、自分はべったり依存する」て精神的弱さにいつまでも向き合わない象徴的存在である狂うスイッチ入りっぱなし人間が神仏のエネルギーを利用してヒモ生活を満喫しようとする光景にもどことなく似てる。自分がラクチンするために奴隷つくりだそうとする銭ゲバおばさんとかな。神仏に対して自分の意のままになる程度の存在だと思い込んでる(他者を操って済まそうとするカルト教団とおんなじだね)とか、ダキニさんのことずいぶんバカにしてんじゃん。神仏としては我欲にまみれた連中は本殿には近づいてもらいたくないらしいですわよ。ちなみにこのテとこは率先してお参りしてあげるようにしてる。あんまし自己中ばっか相手にしてるとスネちゃうらしいし>きつねたん。
人にしろ霊にしろ考え方の癖を直すことでしか囚われた「場」から解放されないらしいんだけども、そのきっかけになる要素のひとつとして「笑い」があるとのことで、昔話のなかでは笑いが「開く」ことの呼び水となるくだりがあったり鬼が笑うことで益神となったりするらしい。まんこまるだしにしたら鬼が大笑いしだすてのはこれと似た作用が働いてのことなんすかね。笑いによってすべてを無にする働き、てのは持たざる者が固定観念を破壊するのと似てるな。鬼を笑わせて益神に転じさす、てあたりからすると桃太郎の「鬼退治」てのは鬼を笑わせにいく話とみなすこともできそう。桃太郎といえば「鬼退治」にいくのは4人だし、イザナギの禊から生まれた3人に加えて蛭子が4人目の神てあたりからして、どうも四位一体(老人・子供・男・女)がヒトの精神のバランスをとるうえでいちばん合ってるんじゃなかろうか。悪魔がいなければヒトは自分や世界の姿を把握することができないことを考えると三位一体は理想論でしかないんだよな。日本の昔話の中で「賤」の者は神に近い存在にもみなされることだとか「無」が様々な隠喩で描かれているあたりからして、中道と空(相反する2者の交差ポイント)を保つバランスを体現するに「4」が必須ふうな雰囲気。そういえば原始キリスト教が笑いを禁じてたんじゃないか的な話をどっかでみた気がすんだが、笑い禁じたら閉じたもんを「開く」ことができなくなるじゃないのよ。
・ちょっと前に七福神がらみのもんつくったらなぜか稲だとか田んぼを意味するもんにたどりつくしかなくなってしまって、どうしてなのかなーと思ってたらこれで「石井の七福神と田植踊」てのをやるというのでみにいってみた。本殿前で各団体が奉納のためにいっせいに踊り出すんですけども、田植踊以外の団体さんたちの出し物が「客全員楽しませてやんぜー!!」的に洗練されてるのがよくよくわかるクオリティだったせいか本殿前につめかけたヒトたちが9割そっちにいってしまって、おかげさまでお目当てだった田植踊をじっくり凝視することができましたよ。しかし田植踊の赤枝(法被にそう印字されてた)の方たちも客がいねえからってやる気なくなってよけいに踊りがてきとうになってるかんじだった(やたら寒がってたなぁ)。そもそもの田植踊自体が「収穫後の宴で飲んだくれて大騒ぎしつつノリで踊り出した」みたいな地味でユルいクオリティの踊りっぷりだったんですけども、だがそこがいい。具体的な踊り内容としては、前列に着物きた女子たちが田植えふうな仕草の踊りをしつづけていて、その後列に田植えを手伝ってるふうな男子たちがいたんだったかな?脇に踊り進行の説明めくり紙が設置されてて、稲の種もみまき〜稲つきまでを解説してるふうだった。で、その田植え踊りをしてる2列の背後で、七福神の扮装したヒトたち&囃子役たちがいて踊ってると。最初に毘沙門天の人がでてきて踊るんだけども、なぜか刀と三つ又の矛をそれぞれ手に持って踊ってたな。あれは「まず厄払いをする」ために武闘派が踊る必要があるのかな。で…次が弁天様だったかな。おたふく面をかぶって琵琶をかき鳴らす仕草をしていた。その次…順番がちょっとわからんのだけど、寿老人あたりなのかな。この人員の順番はちゃんと把握してない。この七福神中に狐のお面をかぶってる白毛のメンツがいたんだけど、あれは誰にあたるんだろうか。で、最後に先っぽに鯛がかかったままの釣り竿もったエビスさんと、小槌をもった大黒様が2人で踊ってたんだけども、どうしてこの2人だけいっしょに踊るのか?と思って翌日神田明神いったら祭神説明んとこにエビスさん=少名彦名命て書いてあった。国づくりの2人だからなのね。なんつーか…田んぼを大事にすることは国家安泰につながる、てことなのかな。よくわからんがなんとなくそこらへんで七福神と稲が密接に絡んでるふうなことをかんじた。とりあえず夜間奉納に出てた団体中ではいの一番に衰退しそうなてきとうクオリティが気に入った。天中殺にしか手に入らないモノを象徴するとは思えないくらい地味てのもな(笑)しかし明治神宮の夜間参拝てのもなかなかオツなもんですね。木々をちょっとライトアップするだけでわりに見応えがでるもんなんだな。本殿前の両脇の2本のクスノキかなんかもすごくきれいだった。あんな暗い参道でけっこうな人手なのに全然ぶつからなかったのは、暗いほどよく見ようとするからなんだろうか。要所要所にたき火みたいのが設置されてたのもよかったな。ちなみに翌日は足が筋肉痛になりました。たぶん神宮内の砂利道を2往復歩いたからであろう。練馬まで全速力やっても筋肉痛にはならんかったのに…。おそるべし明治神宮の砂利道。あと表参道は行きも帰りもチャリでいくのがツラい。帰りもユル〜い坂が延々とつづくし。
あと余談というか…お付きが常に居て自動的にチヤホヤされる環境下ではちょっとした異質にも耐えれない精神性になってもおかしくはないのだけども、自分より優れた人と交わることを勧める意味の歌詞を書けるかんじからして昭憲さんてのはわりに自分に厳しいふうな方だったのかしら。美智子ちゃんと同じくちょっとやそっとじゃグラつかない強靭さを持ってたのかもしらん。くわしくはどういう方かはわからんけども。翌日は夫人から送りつけられた崇敬会員用の資料館拝観券とかもらったんで神田明神にいってみたり。資料館になぜか昔の祭んときに出されてたとゆう桃太郎の精巧な人形なんかがあってナゾだった。人神の説明のとこに靖国神社が出てて『幕末(戊辰戦争)以来大東亜戦争までの国事殉難の英霊246万6千座』が祀られてる、て説明がありましたけど、これは…単純に無くしていいとかいうもんでもないね…。〈神社とは?〉のとこには『神社で本来願うことは「何事起こらないこと」である。無事安全であることが我々にとっては一番の重要事である』て説明がでてたけど、祟ったことで祀られて江戸鎮守になったことを考えると「祟り」や怒りを一概に悪とも言えない気がする。あとアレだ、なぜか牛若丸の人形なんかもあったな。あのヒト源氏方で忠臣だったのに兄貴に殺されたんだっけか。追われた者、て共通点からココにあるんだろうか。あそうそう、あと将門さんが彫ったとゆう妙見菩薩像があったよ。『平将門公は妙見様を武神として篤く信仰致しておりました 妙見様は神仏混淆の時代には仏で言えば、妙見菩薩 神で云えば天之御中主神で、本体は北斗七星 北極星とも言われる星の信仰でありました この妙見尊像は、将門公お手彫のものとして、将門港 後商相馬家に伝えられたものであります』とのこと。
 
本日題はここのです。