糧にならない経験などないっぽい件

 

ハーバードのおっさん被害者側のいうことはすべて受け入れて謝りつづけろといわんばかりの論理を平然と並べてるんだが、つまり加害側は相手のまちがいすらも指摘しちゃいけないってことですかね。発言してはいけないということ?事実を知ろうとすることは被害者であろうと加害者であろうと戦争抑止に際していちばん大事なことだと思うんですが。相手を責める際に「犠牲者の数を偽る」てことは「事実などどうでもいい」と思ってるってことだよ。事実なんかどうだっていいと思ってる心持ちの人が「戦争の起きた理由」について真摯に調べますかねえ。嘘をまぜこむ時点でそんなことにはいっさい興味がないって言ってるのと同じなんだよ。事実から目をそむけさす精神状態を推奨したことが市民を戦時蛮行に巻き込ませた原因だろ。ハーバードのおっさんは体制のせいにするな的なこともゆってんだが、大方の蛮行は特定の思想が敷かれた体制下で仕事中毒人間と化して仕事遂行以外考えられなくなることで起きるんですよ。よい関係をつくるために加害者としていつまでも謝る必要があるとかいう考え方にしてもこの刷り込みまんますぎな発言で唖然となっちまったよ。「盲目的に謝罪しろ」なんて発言がでてくるってことはつまり「加害者・被害者はそれ以外の存在にはなれない」と思い込んでるってことなんだろうな。「暴力性」は人間全員に備わってる普遍的な要素なのに、暴力性を発揮した者に対して「加害者」ていうレッテル貼りして怪物視することで「自分にはそんな要素は無い」的に善人ぶりはじめてしまって、自らの中にある暴力性からずうっと目を背け続けるような盲目状態に陥ってしまうと思いますが。暴力性を持たない人なんてひとりもいないんだよ。それを踏まえているのであれば、だれかを責めるなんて本来的には誰にもできないはずなんだがな。「善人ぶって気に入らない相手を責め続ける・屈服さす」てのはさ、かつての権力者がやらかした「賤」側のヒトの排除と同じことなんだよね。賤も聖も存在しないように、善も悪も存在しないんだよ。悪や賤が存在する、と定義することで「排除していい相手」が生み出されてしまうんだよ。逆に「善が存在しないように悪もまた存在しない」という考え方を基本にしていれば、人を傷つけるような行いには加担しづらくなると思うんだが。戦争を本気でなくしたいと思うのであれば、責められるべき人間などひとりもいない、て考え方を推奨する以外にないと思うんですけどね。じゃあ領土に攻め込まれて乱暴されたらどうしたらいいの!て思うだろうけど、あつかましい人を追い払うにはそれを上回るあつかましさを発揮するしかないんだよ。天照さんなんて大国主さんから領土とっちゃったし。創価学会なんて嫌ってる人がわりにいるのにさ、批判にいっさい耳貸さずに政教分離原則すら無視していまだに政治の場に公明党としてのさばり続けてるしねえ。結局あつかましい人がのさばるんだよ。それと、あつかましいヒトとか暴力的なヒトに「あやまれ」つってもムリな話なんだよね。生まれもった性質なんだから。自然現象が気にくわないからって謝罪要求したって意味ないだろ。自分がヤな目に遭わされたことの口惜しさから相手の存在否定したくなる気持ちはわからんではないけどさ。真っ赤になりたきゃなればいいけど、そのヒトに出くわした際にうまく対処できなかったことの自省はいつするんだよ?いちいちそのテの御しづらいヒトに出くわすたびに存在否定して真っ赤になるのか。ちいさい子じゃあるまいし。あつかましい相手への対処策を編み出すために歴史の積み重ねがあるんじゃねーの?天照さんに領土とられた大国主さんは祟るわけだけども、祀ることでようやく鎮まるんすよね。その鎮め行為にあたるのが人間世界では交流や共同研究になるのかもしらん。そういやハーバードのおっさん談でいちばんおかしいのが「事実を知るための交流をつづける」ことを推進さすような言葉が文中にまったく出てこない点な。加害側はひたすら謝罪して相手の嘘も容認しろって、バカすぎるだろ。この人ほんとに平和をのぞんでるのかねえ。これまで何度も繰り返されてきた憎悪循環をまたはじめさそうとしてるようにしか見えないのだけど。そもそもさーいまだに拷問だの虐殺だのリアルタイムしてる中の国に「虐殺についてあやまる」てのも滑稽なことだよねえ。虐殺がなぜいけないのかわかってない相手にあやまったところで理解されない可能性大なんじゃなかろうか。ちなみに反省を前提にしてしまうと再犯防止しづらくなるのは多くが納得するための「形式(=謝罪)」を優先させるあまりに原因追求が二の次になるからだろうね。謝罪行為てのは「加害側が屈服する場面」を観賞することで被害(を受けたと思い込んでる)側が場当たり的に鬱屈発散するための行いでしかないから、原因知ることとは無関係な茶番でしかないと思うがなぁ。強制的に屈服キャラ演じさせて溜飲下げてるってだけでしょ。SMプレイでマゾ役やらして「ゆるす」て、どういう許しだよ。なんかさ…戦争や平和を語る際に犠牲者側の関係者の発言だけがさも「善」といわんばかりに大々的に取り上げられるのだけども、責められた人がクチを閉ざさなきゃならない世界て不穏すぎねえか。それこそひどい差別に思えるけど。悪者概念を是とすることで虐殺を起こしやすくなってしまう(この書き手さんも犠牲者側の関係者だね)精神性を持つのが人間てことを基本にしていればそんな差別は起きなくなるはずなんだがな。「聖・賤」「善・悪」概念を基底にすることで憎悪循環がはじまっちゃう件じゃないけどさ、サイコパスの人なんて決め事を破るのが楽しくてやってる場合がけっこう多いらしいから、聖という汚してはならないと見なされてる存在なんて目の当たりにしたら彼らの持ってる強烈なエネルギーの矛先が向きやすくなっちゃうんじゃねーのかな。ちなみに戦時暴力平時暴力の違いは「仕事かどうか」に尽きるとは思うけど、実行する側の心持ちは似通ってるんじゃねえのかな。元から暴力気質を持ってた人どさくさまぎれにフル発揮してる可能性もあるだけに。なにしても咎められない時なんてあったらぜったいむきだしにするよねえ。咎められるかどうか関係なく「勝・敗」概念を基底にしすぎたことで敗北状態に耐えられない人が殺人に至る図式これを証明するかのような光景ですな。ちなみに現実でうまくいかないことが重なると日頃の差別思想が暴力となって発揮されてしまうてのは…経営者のヒトなんかは気をつけてたほうがいいんじゃなかろうか。別離と降格がコンボでくると危機的な心理状態になるてのは当たり前のことだけども、その当たり前への対処策がまったくないというのもちょっと怖い。殺人スイッチついでに英語のキレる表現は郵便局員さんの事件からきてる件のせておきます。こうやってみてると殺人の手法てのは時代がなにを是としてたのかを如実に表す鏡になってるふうにもみえてくる。「賤」排除から念仏聖文化が生まれた件じゃないけどさ…差別されたことで誰も着目しない隙間に活路を見出せた件とか排除されたヒトがいなければ発展しなかった業界とかみると、戦争でしか生み出されなかったモノと同じく「排除されなければ生み出されなかったモノ」が確かに存在していて、それらを尊ぶと排除をも否定することができんくなるのよな…。「苦難」に感じる出来事て、各人にとってちがうんだよね。なにを楽しいと感じるのか各々ちがうようにさ。苦しく感じる経験てのはそのヒトだけの「成長のための糧」なんじゃなかろうか。わし、歯弱だから自分なりに歯磨き術を工夫してきて大体習得して、いまはもう口腔内は健康ですけども、それを知るのが必要で歯弱だったのかなと思った。苦難にかんじることって、克服したあとに「これは必要だったんだな」てなんとなくわかることが多いかんじがする。克服のために必要な時間はヒトによってちがう件じゃないけど、苦難にぶちあたるたびに被害者ぶってたら克服的な心持ちにたどりつけないままになっちゃうんじゃないのかな。どんなことが起きても態度や心持ちを変えないことが「負けない」てことだと思う。拷問されても冤罪にハメられてもグラつかずに過ごすのが大事なんだよ。だれにも支配されない生き方てそういうことなんじゃなかろうか。
ところでこどもの城終了の理由てなんですかね。売り上げよか維持費のが高くなっちゃったとかなのかしら。残せるもんを残そうとしないといえばこれとかこういうの(元記事)みてたら必死こいて漫画表現の自由を叫んでんのがバカらしくなってきた。「自分が興味ない文化なんてどうなってもいい」と思ってる人だらけってことなんだな。 

包皮は再生できても、失われた神経組織を再生することはできないんだよ







幼児期に受けた虐待が原因で殺人をなんとも思わなくなったサイコパスの人てのは(はけ口がわりに)動物虐待をすることが多いんだが、至極ふつうの家庭で幸せに育って虐待もされてないのにサイコパスな人てのは動物を大事にする傾向なのな。前者がどうかすると改心する場合がわりにあるのに対して、後者は改心しない。殺人や暴力をするようになった原因が生育時に受けた外的要因なのなら、改心さすにも外的要因でどうにかなるんだけども、外的要因関係なしに遺伝子の時点から備わって生まれた場合(過去世が影響してるんだろうか…?)、の手術でもしないかぎりは改心さすことはできない。ごく幼い頃からサイコパス気質が出始めてる件(こういう子に殺人させないようにするにはどういうふうに言うのが適当なんだろう)とかみると遺伝子の時点で既にサイコパス脳が備わってるとしか思えんよ。このテの生まれつきサイコパスの人が矛盾した発言を平然とかますのは、感情表現を生活を送るうえで必要な共通言語としか思ってないからみたいなんすけど、なんで感情に対してそんなドライにしか捉えられないのかというと彼らの中では常に強烈な感情がわいてきていて、それをそのまま言葉で表現するから意味をなさないモノなってしまうていうのが原因ぽい。ゲイシーの思考のとりとめのなさからしても、なんか小さい子がやたらとしゃべってるふうだなーと思ったら赤ん坊さんと同レベルの断片的視点しか持てないての読んで納得した。殺人を虫の足や羽をむしるのと同じにしか思ってないのもうなづける(サイコパスの脳に電極を埋め込みたいて発想はまま実験してみたいとばかりに人を切り刻むサイコパスの発想と同じなんじゃないのかなー。怪物といわれる存在を怖れるあまりに怪物と同じ行動をしてしまう件と似てる)。経験したことをまんま現実の人に対して試してしまうあたりのタガのはずれっぷりと思いついたことをぜんぶ言ってしまうタガのはずれっぷりが見事に合致してるんだもんな。ちなみに消防士の顔がぼやけて怪物みたいになって怖い(なんかリンチの絵に描かれてる人を思い出す)てのは、つまり走ってる中のもんをそんだけしっかり見ようとしてるってことなんだろうか。なにしろ生まれつきサイコパスのヒトに関しては赤ん坊時代の「体にぬりたくる」とか「クチの中にいれて確かめてみる」あたりの行動から派生する快楽具合に囚われっぱなしな感が濃厚なので、そこを解明しないことには生まれつきサイコパスの人の殺人動機はわからんままなんじゃないかと思う。個人的には「人と関わること」への強烈な欲求がなんらかでねじくれて「人体を自分の体に取り込む」にすり替わっちゃったんじゃないのかと踏んでますけどね。赤ん坊さんは心地悪さを感じた際にそれを泣きわめく事で表現→養育者がやってきて不快感が快楽に変わってく、て流れを体感して覚えることで「人間と関わること=心地よさ」つーふうに人を大事にする前提の情操が育つんじゃないかと思いますけど、なんか…サイコパスの人て「人を求める強烈な欲求」がどういうわけか強烈に関わることの極北行為(殺すとか食うとか)になってしまってるふうなんだよね。彼ら自身もどうしてそうなってしまうのか、自覚できずにいるんじゃないのかな(これは外的要因でサイコパス化した人にしか当てはまらないかもしらんが幼児期に発する不快感表現を養育者から暴力によって禁じられることで「強烈な欲求を引き起こさせる対象=禁じねばならない」と刷り込まれてしまって、欲求をぶつけたのちに[ぶつけた自分もぶつけられた相手も存在してはならないので]殺してしまうようになっちゃたんじゃなかろうか。母親から暴力と性虐待を繰り返されて育った殺人者とかみてると「愛されたい」と「禁止」がないまぜになってて、強烈なエネルギーを発するに際して前述の相反する観念がフィルターとなることで「人を求める行動」が殺人や火をみてスカッとする的な破壊の形となって出てきてるかんじがする。ちなみにサイコパスの人は夜尿症経験者という共通項がある)。なんだかわからんけど「人と関わりたい」ていう強烈なエネルギーが湧いてきてて、それにしぜんに従うと「捕まえて切り刻む」になっちゃってるふうに。男てのは「車をぶつけて怪我させてでも関わりたい(誰かを傷つけるときてのは性別関係なく強烈な振り向かせたい欲求が元になってる場合が多いんだよな)」的な強烈な欲求を女子に対して抱いてる、とかいうふうな書き込みをいつだかまとめサイトか2nnかでみた気がすんだが、サイコパスの人てそのへんの強烈なエネルギーがだだ漏れになったうえで根幹にあるはずのブレーキがすっぽり抜け落ちてるかんじがすんだよね。生まれつきサイコパスの人は自覚してないだろうけど母親への強い執着とかみじめな感情を覆い隠したい衝動とかを実は持ってるんだけども、単純に「思いやる気持ち」よか「関わりたい」欲求のが過剰すぎて他をぜんぶ覆い尽くしてるってだけで、実は無感情でもなんでもないんじゃなかろうか。それが強烈すぎるがゆえにヌルい感情いっさいが機能しなくなってるとか。マジに無感情で苦痛がわからないのであれば「人体で実験がしたい」となった際に真っ先に自分の体でやるはずじゃん。なのにサイコパスの人は自分の体を使わず、あくまで他者の体でしかやらないてことは「自分が痛い思いをするのはヤだ」と思ってるってことであって、そうなると多くの人と同じ情操観念を抱えてることになるんよね。略奪されないために略奪するサイコパス思考からすると「自分が痛みを与える側」になり続けることで痛みに耐えられないことを忘れようとしてるんだろうかねえ。サイコパスの人の特徴としてとにかく自分以外のもののせいだと考えることが徹底しすぎてるゆえにものすごく充実して生きているらしいあたりの話からすると、同時に「すべて自分のせいだ」という絶望を抱えて生きてるってことなのかもしらん。基本的に重罪とされる行為てのは責任転嫁する心持ちから派生してんじゃないのかなーと思いますがね(リンク画像の本はいちいち邪悪表現しすぎで理解から遠ざかりそうだよ)。責任転嫁殺人のひとつに宗教がらみの事件とかあるけど殺人の理由を神のせいにするたんびに崇めてる宗教の神を貶めてるも同然なんだがな。イスラムやヒンズー掲げてる過激派の人はそこらへんに気がついてないんだろうか。「神の名のもとに殺人をする」てのは自分の拝んでる神仏を自分で侮辱してるのと同じなんですよ。突然男が訪ねてきて「あなたのために殺しました」て死体持ってきたらどう思うよ。なんも関係ねーのに「殺しの原因はあんただ」とか言われてイイ気分になるかよ。都合よくあんたの殺しの道具にされた神が喜んでるとでも思ってるの?それとさ、いじめで死んだ原因は「死んだ子が考え方を変えられなかった」ことだよ。責任をいじめてきた人にあると考えてるかぎりは「考え方を変える」ことにたどりつけなくなっちゃうし、責任転嫁することで被害者がいつのまにか加害者になっちゃって、憎悪のたぎらせ合いがはじまっちゃうよ。あと前回日記で出した「悪口を言わせないようにしたところで何の解決にもならない」件じゃないけど、刃向かいそうもない相手を痛めつけないといられない子てのは家庭に問題抱えてることが多いんだよね。暴力行為を人前に出させないようにすることでその子が問題抱えてるかどうかもわかりづらくなっちまうんじゃなかろうか。ここらへんからして、いじめられた側てのはいじめてきた側に対して責任が発生してるのかもしらんな。いじめてる子に対してだけ「自分に問題がある」てことを表現してるようなもんだし。そこで立ちふさがって「お前それ違うだろ」て徹底抗戦してくれるような、責任もって本気で付き合ってくれる友達を求めてるんじゃないのかな。いじめられるまま自殺してしまったら、問題抱えてることを表現してくれてた子に対する責任放棄にしかならないよ。いじめっ子てのはもしかすると、ろくに会話もできないような、頭ごなしに命令に従わされるような家庭環境なのかもしれないよ(「自分より弱い相手を暴力で従わせる」て行動自体、養育者からそういう目に遭わされてる証左だよな)。「家庭内で自分が演じさせられてる役回り」と同じ役目の人間を学校でつくって鬱憤晴らししないことには生きていられないような心地を味わわされてるのかもしらん。暴行の仕方でどんな鬱屈抱えてるかわかっちゃう件じゃないけどさ、他者の体を痛めつける際にどの部分に固執するかで虐待がどういうものであったのかを探れるような気もする。拘束や拷問は意のままにならない養育者を従わせたいて欲求が下敷きになってて、つまるところ愛情不足みたいなんだよね。愛情が不足したままだと成長したときに鬼畜と化しやすいらしいですよ。父親から暴行されると男の子としてはだれかに同じことをしないかぎり解消されえない傷として残ってしまうらしいし。父親からさんざん貶されていたにも関わらず慕い続けてるふうなくだりを読むといかな殺人者といえど同情してしまう…。成長過程で養育者を持たなかった猿が社会性も性行動もできなくなった件からすると、若くして(愛されたい相手から存在否定されたことによる絶望感で)勃起不全に陥ったことから、発散できずに溜まった強烈なエネルギーを殺しで発散するようになってしまっても不思議じゃないかんじがするな。こういうのみてると犯罪者に対する精神疾患認定がわりとあやふやてのはごくしぜんなことにも思えるな。欲求がこじれたのを精神疾患人格障害のどっちにするか、てのはすごく難しい判別なんじゃないんだろうか。なにしろ精神疾患や自殺は幼児期の虐待が原因になってることが多いらしいので、自殺数がいまの日本に多いつーことは虐待もそれだけ多いてことなんですかね。そもそもさー人間社会で言う「道徳的な人」てのは「人間を痛めつけない人」て意味でしかないんだよな。たとえば害(と呼ばれる)虫を圧死させまくってても頭おかしいとは言われないけど、同じことを人間に対してやると頭おかしいとか暴力的だとか真っ赤になって言われるってだけでさ。しかし権力者の言うがまま暴力を出したりひっこめたりできる人間=常識人て観念もかなりブキミですけどね。殺す機械感あふれてて。そもそも人間が神仏分け御霊存在である以上は暴力的なのはごく自然なことなんじゃなかろうか。リンクした水木さんの山の神シーンじゃないけど、おんな拉致って監禁して生ませた子供喰っちゃう(子供喰いの心理てのは獲物がかわいいすぎて食べてしまう肉食獣の心持ちと似たナニかなんだろうか)とか、そういうの神仏がふつうにやるみたいなんだよね。かえって動物のがそういうことはあまりしないと思う(ただ動物の世界では子殺しはわりと頻繁に起きてるので人間の本能にも子殺しが組み込まれてる以上は自治体が目光らせるとかしないかぎり救える命も救えなくなる)。動物は強姦すらしないんじゃないのかな。メスに認められたときにしか交尾しない種のが多いだろうし。知能よりも本能が勝ってるゆえに生殖以外の無意味な行為はしないんだろうね。逆に知能の高いイルカなんかは快楽のためにセックスをしたり、シャチなんかは食べる前に捕らえたアシカの子を弄んでいたぶるんだよね。知能が高すぎるとその複雑な心を満たさなきゃならんくなって、おかしなことしはじめるかんじがする。ここらへんからすると、なんつーか…ヒトが人間以外への暴力行為をし続けなければ生きられない存在であるかぎり、自分を棚にあげて他者の暴力性をなじることは誰にもできないてことになるのかしら。近親相姦をあってはならないこととすると近親相姦で生まれた子を差別することになるしな。血族間性交からだと奇形が生まれやすくなるらしいからそれを避けるため、てのが近親相姦を禁じる建前なんだろうけども子への強烈な欲求だとか親しい相手を殺そうとする心理を根とする家族内の虐待(アメリカに於ける妊婦の死因第一位が殺人て怖ぇ)を何ら抑止できてないあたりからしてあんまし効力なさげな建前だな…。尚、自分がなにされてもグラつかないレベルの中道を体現してるヒトでないと虐待経験のある子を育てるのは難しい(子が暴れたことで養育者側も釣られて暴力をしてしまう)とのことなので、虐待されたヒトが親になる場合はそこらへん自覚持ってあたらないとうっかり虐待を継承させてしまうことになるのかな。いじめっ子が自分よか弱い者を探し出す能力に長けてる件じゃないけど、サイコパスの人が自信がなくて依存心が強い女性を嗅ぎ分ける能力が突出してる(ちなみにサイコパスの人が伴侶を殺さないのは自分の体の一部として見なしてるかららしい)のは、同じ弱さや依存心を持ってるからこそよくわかるってことなんじゃないのかな。弱みをみつけることに長けてるてところは一見して肉食獣が獲物を狙うのと似てるようにも思うけど、肉を喰らう目的じゃないので類は友を呼ぶ方向のもんだよね。弱いモノがいないといられない男といえばさー強姦する人て自分が快楽を得られればそれでいいって手合いなのかね。千人斬りを自慢する人とかいるけど、千人のなかでイッた女子てどれだけいただろうねえ。女子が千人いれば千通りの快楽ポイントがあるので、それを把握しもせずにセックスしたって女子側としてはなんの感慨もないと思うけどな。暴力を振るえばふるうほど女子の心は離れてくのに暴力的言動ですべて手にした気でいるなんて単細胞もいいとこだよなぁ。各々の女の快楽ポイントすら把握しないで1度まぐわっただけで所有物とみなす、てのはすべてに適用できるようなやり方などないていう5000人とヤッてみてたどりついた向井さんの結論とは真逆の思考停止でしかないよ。他者の不快が前提の自由な行動てのはつづけるホドに自分を不自由な状態に陥らせてくのにね。誰かを好きになることに関して本気で考えたことがないのかもしらんな。女子が心をつかまれるのはちゃんと心根に向き合ってくれたときだけだよ。ちなみに早漏なうえイクと泣き出す強姦魔は「異常なまでに支配にこだわる」性癖からして、自分が誰かから支配されてる、ていう被害者観念に囚われてる可能性大な。
 
本日題はここのです。ちんこの皮に神経末端が集まってることから皮があるヒトはまぐわる際にいろんな快感を受け取れる(おんなにとっても大事みたいすよ)のに対して皮がなくなるとちんこが乾燥して快感度がなくなるとのことです。包皮切除したネズミが交尾しなくなった件からして、包皮切除を勧める人てのは生殖を否定してるんじゃねえのかと勘ぐってしまうよ。そもそも生命に関わるレベルの重病でもないのに生まれつき備わってるモノを切り離すことを善行かのように喧伝する時点でなんかおかしいよなぁ。「そのままのお前では駄目だ」と頭ごなしに否定され続けてきたせいでそのままでいいと言われてもなかなか信じられないヒトと似てるな。包皮切除を是とする代表として ユダヤとか韓国とか有名ですけども、包皮切除してセックスでの快感を得られなくなったことから溜まった鬱屈を元にあちこちで憎悪煽りみたいなことしてまわってんのかな。解消しないままでいるとずうっと溜まって、その溜まったエネルギーをなんらかの形で出さなきゃならんぽいだけに。サイコパスの件も結局その出し方が歪んでるから理解されづらいってだけなんでしょうね。なにしろ自分の亀頭にやさしくすることは、結果として女性にやさしくすることにつながるてあたりからすると「ちんこを手荒に扱う者は女性も手荒に扱う」てことになるんだな。皮嫌いの件といい廃仏毀釈の件といい、篤胤てバカなんだろうか。

権力をコキおろすのっていちばん簡単に快楽が得られる方法なんだよね

リチャードなんたらさんじゃないけど、特定の人種を毛嫌いする人てのは「あからさまな嘘」を信じ込まされてきた、ていう被害感情を持ってる向きがすごく多いんじゃないかと思う。そこから陰謀論的なほうに考えが発展してしまって義憤を滾らせた結果「出ていけ」的な差別言動として表に出てきてるってだけじゃなかろうか。ユダヤのヒトにしろ韓国のヒトにしろ、なんだか保身のために事実の中にしれっと嘘を混ぜ込んで流布させてるんだよね。アウシュヴィッツで600万人殺されたとかさ。韓国のヒトなんか寿司が韓国発祥だとかありえないような嘘を数え切れないくらい流布させてるみたいなんだが、それを「嘘ついてました」て公式に言わないかぎり、ずうっと世界各地で差別されつづけると思う。差別される原因を自分らでバラまいてるのに、それに向き合わずに「私たちはどうして差別されるのでしょう(泣)」とかいい子ぶられてもねえ。ロンイー君は「かんこくじんばかやろう」と言った子が、どうしてそういうことを言うに至ったのかを問いただして根っこの原因を知るまでしないかぎりはずうっと言われ続けると思うよ。原因をつきとめもせず「悪口いうのはいけない」つって、ただ禁じるだけだといつまでたっても問題は放置されっぱなしでまた普通にくりかえすだけだよ。あと昨日のノンストップ!だったか。子供が蚊に刺されたから責任とれとかいうごく瑣末なことで文句つけてくる怪物親について取り上げてたんだけども、そのテのヒトって自分の人生が「割に合わない」と思い込んでいて、それの鬱屈をぶちまける目的でやってんじゃねーの?平等に固執する人だとか主役以外死ねと思ってる人も同じく、自分が不当にみじめな境遇に貶められてる(と思い込んでる)ことへの鬱屈をぶちまける場がどこにもなくて、とりあえず子供の通ってる学校にぶつけてるってだけなんじゃないのかな。鬱屈をぶつけるのが目的だから理由なんかなんでもいいんだよたぶん。怪物親的なヒトがでてきたら、そのヒトの話を根気づよく聞いて、根にある原因がなんなのかをあぶりださないかぎりは怪物親がいなくなることはないと思う。差別をはじめるヒトて、なんか…自分や誰かのために義憤に駆られてやってる場合がすごく多いかんじ。その精神の発露にある問題をあぶりださないかぎりは永久に解決されないんじゃなかろうか。被害者ぶって補償ばかり求めてると、加害側が非道を行った原因追及をしなくなりがちな件じゃないけどさ、自分の身になにかが起きた際は原因を知る努力をすることでしか問題は解決されないはずなのに、それをさておいて謝罪させて厳罰さえ与えれば済むと思い込んでるからいつまでたっても暴力的な出来事がなくならないんじゃないのかなーと思う。社会制度上の手続きを効率良く進めるための形式=免罪符でしかない「謝罪」自体に価値があるのだと思い込んできたからこそ、似たような問題がくりかえし起きっぱなしでいつまでたっても防止できないんじゃなかろうか。謝罪さえすればとりあえず許されるってのを詐欺師たちは見抜いてて、都合よく使い回してるんだよね。謝罪したからじゃあ一応は許そうか、みたいになっちゃうほうもおかしいし。なんにも問題解決されてないのにさ、共通言語を印籠みたいにだしたからってなぜそれで全部済むことになるのよ。謝罪して済む問題なんてほんとはひとつもないんじゃないの?たとえば暴力的な事件にしても「なぜ暴力をふるったのか」を受けた側が調べ続けて、暴力ふるった側がそういうマネをしなくなるまで根気づよく交流を続けてく以外にないんだよね。暴力ふるった側に原因をつきつけて「精神面での足りないモノ」を補う方向にしてけば大方の問題てのは解決に近づくと思うんだが。そういうことが面倒くさいから「謝罪&賠償」で済ます形で司法に丸投げしてるんだよね。中国韓国にしても「なぜ戦時に非道を行ったのか」て原因を共に知る為の交流がなさすぎるからもっと行いましょう、て勧告をするのならわかるんだが、謝罪&賠償請求をやらなくなったとたんに何にも言わなくなっちゃう、てことは戦争が起きた原因についてはさして興味を持っていないのかなと思う。日本を屈服さすことだけが目当てで、相手だけでなく自分に対しても責任を持つ気がそもそもなかったのかな。自分自身を被害者としか見なさない、てのは屈服目当てで加害者を責めつづける目的もあるんだろうけども、起きた出来事に対して「自分がうまく対処できなかったことから目を逸らすため」でもあるよね。責任を持つためには「自分に起きた出来事を受け入れる(=母権的意識)」が前提になるんですけども「戦って克服しようとする(=父権的意識)」精神から派生したと思しき「謝罪や賠償金を求める」を続けてるかぎりは「自分の人生に責任を持つ」ことから遠ざかるいっぽうなんじゃなかろうか。「相手がいいなりにならない限り自分を変えない」て態度でいるかぎり、自分の人生責任を放棄してるのと同じなんだよね。自然現象でひどい目に遭って「自然が謝罪しないかぎり許さない」つってるようなもんだし。新たな道をゆくには考え方をなおすしかないし、混濁した状態をどうかするにはそれぞれの世界に帰ることが最善の解決策であって、どちらも屈服から得られる快感とは無縁のもんですけども、被害・加害・罰・謝罪を是とすることで被差別者を生み出し続ける社会体制をなおしてくには避けて通れない要素なんでしょうね。尚、屈服感を満たそうとする心根には「待つことができない」幼稚さがあるような気がするので待つことでしか得られないモノの件とか禁欲体験を経なければ自らをのみこもうとする巨大なモノのちからの下生き抜くことはできない件とか出しておきます。苦難を通してしか美は生まれない件にちょっと似てる。ちなみに戦争の原因てのは権力者が人命よりも経済成長を優先させすぎてることから起きてる場合が多いみたいだから、マジに戦争の根を絶やすとなったら経済成長を止めるしかないんだよね。それができてる国って今どれくらいあるんだろ。
深町さんツイートは暴力行為を「天下統一のための云々」的なキレーごとに言い換えるのがヤだって意味で書いてるんだろうけども、そのキレーごと暴力の上に今の社会があることを考えると嫌いだとかなんとか言われましてもねえ。自国の血みどろ史をキレーごとでなくただの蛮行としか考えてない国てあんのかな。戦乱をキレーごとに言い換えてしまうことで非道を行う心は誰しもが持っているという事実から目を逸らしがちになってしまうて面はあるのだけども、ただの蛮行とみなすことで戦争や売春を「悪」としか見なせなくなって、そこからしか生まれ得なかったモノや関わった人間すべて悪と見なすことになってしまって、結局被差別者を生み出すことになってしまうんじゃなかろうか。弔うための墓とかもちゃんとあるのに、そこを考えずにいつまでたっても過去の出来事を悪としか見なさない、て考え方を是としてるかぎりは差別視や暴力の根はなくならなくなっちゃうんじゃないのかなー。なんか深町さんて妙に潔癖なとこがあんだよな。もしも権力にちかいとこにいったらイノセの人みたいな(作家時は正義を叫んでたのに実際なってみると金まみれになってた)事態に易々と陥りそうね。深町さんツイートといえばそのお金(結果的に被災者のために使われてるんなら正統派の使い道なんじゃなかろうか)が捕鯨以外の他の「文化」なら文句は出なかったんだろうかね。クジラ加工のできるデカい船を長期間だすんだからそれくらいかかると思うけどな。ちなみに地方自治体の年間予算からすると10分の1以下ね。文化にお金かけることについてどういう結果が出るかわからないかぎりは予算削らすだけを善みたいに思わす素人考えだけを是とするのもどうかと思う。捕鯨反対の人のよく掲げてる「一部の人が困るだけだから」「外国がイヤがってるからやめよう」て理由を通すと同じ理由でエロ漫画も弾圧されるでしょうね。
・成長期にとるカルシウムは予防接種レベルに重要ぽいので、なくさないほうがいいと思うよ。トシくってから慌ててとっても意味ないんだって(子供の頃炭水化物ばっか食べてたせいでいま骨がカスカスな夫人が医者から言われた件より)。なんか昨日のNHKのお昼あたりの番組だったか?小学校の教室かなんかで「給食に牛乳必要だと思うひとー」て手あげさせたら子供9割手あげてたのにね。牛乳嫌いの1割のために骨カスカスにさす気か。「ごはん食に牛乳は合わない」てのは大人の考えよね、とは実母談。ちなみにおいらも給食はずうっと牛乳付きだったけど、合う合わないとかぜんぜん考えてなかった。おかずがおいしいかったので牛乳あろうとなかろうとどうでもいい。和食マナーは家庭科あたりで仕込めば済むことなのでは。冠婚葬祭マナーと込みで。

バウボー怒りの性器露出


創価学会とかフリーメーソンてのは思うままにならない他者を「金と(人)数」のちからで従わす、てのを理念としてるのかな。 仏教に於ける「自分はさておいて他人を幸せにする(と巡り巡って自分が幸せになる)」と対極の「自分だけ満足すりゃいい」的な雰囲気を先の2団体からはかんじるんだがね。詳細な教義とかはしらんけど「自分の弱さ」に向き合うことから逃げまわるために権力をふりかざしてるだけにみえるんだよな。
  他者との本音の対話を拒んでるから、手痛い指摘をもいっさい受けつけない
                 ↓
       本音を交わす風通しのよい関係がいっさい築けない
                 ↓
   「自分が心地よく感じる」偽りの関係だけを良しとするようになる
…てカンジで。「寄り合い」てのは多くは相互扶助のためにあるんだろうけども、ヤなとこにアグレッシヴに向き合うことを理念としてないと「自分の弱さから目逸らしつづける」体質になっちまうんだな。そうなってしまうと固定観念を破壊する「持たざる者」は生まれづらくなってしまうだろうし、居たとしても排除しがちになるだろうね。特にフリーメーソンなんかは大企業の経営者みたいな社会的成功者をひっぱりこんでるみたいだから、大多数のコントロールが容易なだけにそこにも陥りがちなんじゃなかろうか。「他者が依存してくるのは許さないけど、自分はべったり依存する」て精神的弱さにいつまでも向き合わない象徴的存在である狂うスイッチ入りっぱなし人間が神仏のエネルギーを利用してヒモ生活を満喫しようとする光景にもどことなく似てる。自分がラクチンするために奴隷つくりだそうとする銭ゲバおばさんとかな。神仏に対して自分の意のままになる程度の存在だと思い込んでる(他者を操って済まそうとするカルト教団とおんなじだね)とか、ダキニさんのことずいぶんバカにしてんじゃん。神仏としては我欲にまみれた連中は本殿には近づいてもらいたくないらしいですわよ。ちなみにこのテとこは率先してお参りしてあげるようにしてる。あんまし自己中ばっか相手にしてるとスネちゃうらしいし>きつねたん。
人にしろ霊にしろ考え方の癖を直すことでしか囚われた「場」から解放されないらしいんだけども、そのきっかけになる要素のひとつとして「笑い」があるとのことで、昔話のなかでは笑いが「開く」ことの呼び水となるくだりがあったり鬼が笑うことで益神となったりするらしい。まんこまるだしにしたら鬼が大笑いしだすてのはこれと似た作用が働いてのことなんすかね。笑いによってすべてを無にする働き、てのは持たざる者が固定観念を破壊するのと似てるな。鬼を笑わせて益神に転じさす、てあたりからすると桃太郎の「鬼退治」てのは鬼を笑わせにいく話とみなすこともできそう。桃太郎といえば「鬼退治」にいくのは4人だし、イザナギの禊から生まれた3人に加えて蛭子が4人目の神てあたりからして、どうも四位一体(老人・子供・男・女)がヒトの精神のバランスをとるうえでいちばん合ってるんじゃなかろうか。悪魔がいなければヒトは自分や世界の姿を把握することができないことを考えると三位一体は理想論でしかないんだよな。日本の昔話の中で「賤」の者は神に近い存在にもみなされることだとか「無」が様々な隠喩で描かれているあたりからして、中道と空(相反する2者の交差ポイント)を保つバランスを体現するに「4」が必須ふうな雰囲気。そういえば原始キリスト教が笑いを禁じてたんじゃないか的な話をどっかでみた気がすんだが、笑い禁じたら閉じたもんを「開く」ことができなくなるじゃないのよ。
・ちょっと前に七福神がらみのもんつくったらなぜか稲だとか田んぼを意味するもんにたどりつくしかなくなってしまって、どうしてなのかなーと思ってたらこれで「石井の七福神と田植踊」てのをやるというのでみにいってみた。本殿前で各団体が奉納のためにいっせいに踊り出すんですけども、田植踊以外の団体さんたちの出し物が「客全員楽しませてやんぜー!!」的に洗練されてるのがよくよくわかるクオリティだったせいか本殿前につめかけたヒトたちが9割そっちにいってしまって、おかげさまでお目当てだった田植踊をじっくり凝視することができましたよ。しかし田植踊の赤枝(法被にそう印字されてた)の方たちも客がいねえからってやる気なくなってよけいに踊りがてきとうになってるかんじだった(やたら寒がってたなぁ)。そもそもの田植踊自体が「収穫後の宴で飲んだくれて大騒ぎしつつノリで踊り出した」みたいな地味でユルいクオリティの踊りっぷりだったんですけども、だがそこがいい。具体的な踊り内容としては、前列に着物きた女子たちが田植えふうな仕草の踊りをしつづけていて、その後列に田植えを手伝ってるふうな男子たちがいたんだったかな?脇に踊り進行の説明めくり紙が設置されてて、稲の種もみまき〜稲つきまでを解説してるふうだった。で、その田植え踊りをしてる2列の背後で、七福神の扮装したヒトたち&囃子役たちがいて踊ってると。最初に毘沙門天の人がでてきて踊るんだけども、なぜか刀と三つ又の矛をそれぞれ手に持って踊ってたな。あれは「まず厄払いをする」ために武闘派が踊る必要があるのかな。で…次が弁天様だったかな。おたふく面をかぶって琵琶をかき鳴らす仕草をしていた。その次…順番がちょっとわからんのだけど、寿老人あたりなのかな。この人員の順番はちゃんと把握してない。この七福神中に狐のお面をかぶってる白毛のメンツがいたんだけど、あれは誰にあたるんだろうか。で、最後に先っぽに鯛がかかったままの釣り竿もったエビスさんと、小槌をもった大黒様が2人で踊ってたんだけども、どうしてこの2人だけいっしょに踊るのか?と思って翌日神田明神いったら祭神説明んとこにエビスさん=少名彦名命て書いてあった。国づくりの2人だからなのね。なんつーか…田んぼを大事にすることは国家安泰につながる、てことなのかな。よくわからんがなんとなくそこらへんで七福神と稲が密接に絡んでるふうなことをかんじた。とりあえず夜間奉納に出てた団体中ではいの一番に衰退しそうなてきとうクオリティが気に入った。天中殺にしか手に入らないモノを象徴するとは思えないくらい地味てのもな(笑)しかし明治神宮の夜間参拝てのもなかなかオツなもんですね。木々をちょっとライトアップするだけでわりに見応えがでるもんなんだな。本殿前の両脇の2本のクスノキかなんかもすごくきれいだった。あんな暗い参道でけっこうな人手なのに全然ぶつからなかったのは、暗いほどよく見ようとするからなんだろうか。要所要所にたき火みたいのが設置されてたのもよかったな。ちなみに翌日は足が筋肉痛になりました。たぶん神宮内の砂利道を2往復歩いたからであろう。練馬まで全速力やっても筋肉痛にはならんかったのに…。おそるべし明治神宮の砂利道。あと表参道は行きも帰りもチャリでいくのがツラい。帰りもユル〜い坂が延々とつづくし。
あと余談というか…お付きが常に居て自動的にチヤホヤされる環境下ではちょっとした異質にも耐えれない精神性になってもおかしくはないのだけども、自分より優れた人と交わることを勧める意味の歌詞を書けるかんじからして昭憲さんてのはわりに自分に厳しいふうな方だったのかしら。美智子ちゃんと同じくちょっとやそっとじゃグラつかない強靭さを持ってたのかもしらん。くわしくはどういう方かはわからんけども。翌日は夫人から送りつけられた崇敬会員用の資料館拝観券とかもらったんで神田明神にいってみたり。資料館になぜか昔の祭んときに出されてたとゆう桃太郎の精巧な人形なんかがあってナゾだった。人神の説明のとこに靖国神社が出てて『幕末(戊辰戦争)以来大東亜戦争までの国事殉難の英霊246万6千座』が祀られてる、て説明がありましたけど、これは…単純に無くしていいとかいうもんでもないね…。〈神社とは?〉のとこには『神社で本来願うことは「何事起こらないこと」である。無事安全であることが我々にとっては一番の重要事である』て説明がでてたけど、祟ったことで祀られて江戸鎮守になったことを考えると「祟り」や怒りを一概に悪とも言えない気がする。あとアレだ、なぜか牛若丸の人形なんかもあったな。あのヒト源氏方で忠臣だったのに兄貴に殺されたんだっけか。追われた者、て共通点からココにあるんだろうか。あそうそう、あと将門さんが彫ったとゆう妙見菩薩像があったよ。『平将門公は妙見様を武神として篤く信仰致しておりました 妙見様は神仏混淆の時代には仏で言えば、妙見菩薩 神で云えば天之御中主神で、本体は北斗七星 北極星とも言われる星の信仰でありました この妙見尊像は、将門公お手彫のものとして、将門港 後商相馬家に伝えられたものであります』とのこと。
 
本日題はここのです。

性犯罪に及ぶ男のちんこの小ささ統計をとりたまえよ

捕鯨人から職を奪って大喜び&異国文化を潰したことを正義の行いかのように喧伝する人種差別首相(+お仲間12国ドゾ)の国の外交官が慰安婦の件で日本を悪者視したくてたまらないようですが、戦時慰安婦については「戦争が起きた際に売春所をつくらないようにするにはどうしたらいいか」てことについていっしょに考えましょう、てするのが真の解決方法なんじゃないのかなー。オーストラリアの人はどうも慰安婦さんに対して日本に謝罪&賠償させたいみたいだけども、先に書いた問題について明確な答を出さないかぎりは謝罪しようとしまいと繰り返しかねない問題だと思います。とりあえずオーストラリアの方は慰安婦問題については完全無欠に潔白なもようですので「戦争が起きた際に売春所をつくらないようにするにはどうしたらいいか」の完璧なお答えをお持ちでいらっしゃるのでしょう。テンガでも携帯させる気なのだろうか。それとも兵士全員にガマンさす気とかだろうか。ひと稼ぎしたい女子たちが勝手に自分らで戦地に慰安所つくったりしてしまったらどうする気なんだろうか。「食うに困ったヒトが生きるための最後の手段的な職業」てのは福祉からこぼれ落ちてしまうヒトのためにあるゆえに国家が禁じたりしたらいかんし、そこから目を背けながら戦時売春だけ悪業みたいにみなす、てのもおかしな話だよ。証人の身元がイマイチはっきりしないあたりも釈然としないねえ。2国間で交流しつつしっかり調べてけばいいことだろうに。そもそも売春はイクナイ!て叫ぶたんびにそれで食ってるヒトを差別してることになんじゃないの?それと同じく「性犯罪イクナイ!」て叫ぶと性犯罪に遭ったヒトを差別することになってる気がする。「ダメな人生」なんかないというなら「ダメな経験」だってないはずだろ。暴力にさらされた経験だって人生経験のひとつだよ。暴力に遭った経験を自分なりにどう噛み砕くかが大事なの。それと「こういう経験が原因でその後の私の人生はめちゃくちゃになりました」て考え方てさ、自分の生に対する責任放棄な気がすんだが。「被害者以外の生き方をしたくありません」て憎悪依存を正当化してくと、地縛霊とか怨霊と同じでそれ以外の生き方ができなくなっちゃうような気がする。なにしろさー「やってはいけないこと」てのをつくっちゃうと、それに関わったヒトをすべて差別することになるんだよね。性癖しかり。強姦された人が「被害者」としてしか見なされないような風潮だと、ひどく生きづらくなってしまうんじゃなかろうか。強姦されたことを警察に届け出る人が少ないのも、自分が世間から被害者視されるのがヤだからじゃねえのかな。慰安婦さんにしても、戦後に慰安婦経験のことで差別を受けたのなら、売春を蔑む社会風潮を放置しっぱなしにしてる権力者に問題の根源があるように思いますけどねえ。その根源を正す責任を自国の権力者にはいっさい問わず、敵がなにもかも悪い喧伝にノせられてちゃいつまでたっても問題は解決されんままでしょうな。現実がどうかよりも権力者からのプロパガンダを信じてしまう、て思考癖は中・韓の日本敵視ぐあいにまんまあらわれてる気もしますがね。児童ポルノ禁止法名目で「逮捕者増加!」てだされると、いかにも拉致られた子が無理やりスナッフフィルムに出演させられてる的犯罪が増加してるようにみえちゃうけど、実際には家庭に居場所のない女子がお金に困って自分からせびってヤってる件みたいな案件のが多かったりするのとなんとなく似てるふう。大々的に喧伝される文句にまどわされずに内容をきちんと精査できるか、てのを試す目当てでそのテの題つけた小説を書いたりもしましたがね。どうなんのかなアレ。内容もよまずに題だけみて真っ赤になる人がいたら名指しで笑ってやるのに。政府の抗日煽りにすっかりやられて真っ赤になってる中・韓の市民の方々はまさしくソレなんですよ。自分を被害者だと思い込むことで「加害者」を憎まなきゃならなくなる、てのは権力者にとってはたいへん利用しやすい精神状態なんですよ。
・賠償金制度ていつからはじまったのかなー。ヤクザの原点的存在のヒトたちは魂をカネで売り渡すような行為は万死に値するくらいに思ってたらしいんで、戦後のことなんすかね。ヤクザの前身だった渡世人たちの間では荒くれを統制するための厳しい掟があったくらいだから、そのままいってればむやみに排除されるようなこともなかったんじゃ…や、高度成長期はまぬがれないからムリかな。野生で生き抜く厳しさとほぼ同等の生き様で芸を磨くとかって、今そこまでやってるヒトているだろうか。
元夫に連絡先も教えず子連れでいなくなるて、奥さんすんげー夫を嫌ってるとかなのかな。事後もちゃんと追うようにね>朝日さん江。夫に会わされたお子さんにインタビューしたりして、どう思ったかとかいろいろ載せろよな。ちょっと前までハーグ条約加盟してない日本をアメリカ政府が必死こいて悪者喧伝しまくってたふうだったけど妻がDV受けてた件とか読むとDV夫たちが息巻いて母子を待ち構えてるようにしかみえないんですが。仮にDV夫側に子供が引き取られたりしたら誰の責任になるんだろ。ハーグ条約とかがまったく通用しないといえば北朝鮮は自分らの非道をなじられるのがヤで拉致った人を簡単に帰そうとしないんだろうけど、単純に帰してほしいだけなんですよ。北朝鮮が国として発展しないのは市民に対しても他国に対しても信用しなさすぎなのが原因なんですけどね。他人を信用しなさすぎてヒドいことになってる身近な例といえば介護に追われてる人がまるでズル休みをもくろんでるみたいに白眼視される風潮とか、ちゃんと働きながら子育てしていきたいだけなのにそれができないと白眼視されたりとかありますけど、なんだか…こまってるヒトをさらに痛めつけて排除するほうが利益になるとでも思ってるんだろうか。多忙すぎてこまってるヒトに手を差し伸べればもっといっしょうけんめい働いてくれるようになることのが多いと思うよ。「損したくない」ていうドケチ根性を発揮しちゃいけないところでフル発揮して敏腕経営者ぶってる人がいちばんタチ悪いね。かつての権力者がつくった「賤の排除観念」てのは形を変えてずうっと残ってるかんじがする。ちなみに大昔は女中さんがけっこう雇われてて子守りしてたんだっけかな(実母のちいさい頃はもうけっこうな金持ちしか女中さん雇ったりできなかったらしい)。ずいぶん前にツイッタでも書いた気がするけど、たしか部落出身のヒトが中心で、女中さんのお給金は当時としても安いほうだったんだが故郷の赤貧ぐあいがヒドすぎるくらいだったから、そこからすればまだ女中さん給金のがマシみたいだったかな。東南アジアのヒトよんで云々…てのみると、結局貨幣価値が低い国から…とかが当時の状況から連綿とつながってることを思わずにいれんとゆうかさ…。
エハラ氏催眠術の人と同じくわざとうさんくさい見世物師的なかっこしてるんだろうか。マジにいいと思ってやってるんだとするとなんかちょっと…。中山美穂に愛想尽かされた人て時代は絶対、中性ですよつってたらしいけど、あれは自分の内的欲求や覚悟に基づいてやってんじゃなく、流行に迎合するためにやってるって意味なんだろうか。服でもなんでも流行にながされてやってることってヒトから笑われたりすると即やめちゃったりするんだが、それは服装に対する責任を自分ではなく世間に仮託してるからなんだよね。着る服やナリに関して全責任を自分が負う気でやってるなら、誰かから笑われても即やめるようなことはぜったいしないわけ。誰からどう言われようと気にならないし。志茂田景樹中山美穂に愛想尽かされた人のナリをホメてたみたいだけど、志茂田さんはおそらく世間に背を向ける的なノリでやってるのだろうし、ちゃんと彼なりのスタイルが確立されてるぽいからいいんだが、中山美穂に愛想尽かされた人のナリはなんかそれとはちがうよ。ちなみに中山美穂に愛想尽かされた人の元カノさんはその後まったくちがうタイプの男性と再婚なさいましたね。よっぽどうんざりしたのであろう。
・あるヒトの奥さんが、旦那さんと会話するたんびに上から目線で罵倒したりけなしたりしかしなくて、なんつーか…対等にしゃべってくれないことに旦那さん側がすっごい悩んでるんだが、旦那さんに才能がありすぎるのをよくわかってるがゆえに、奥さんは自分にそのテの才能がなにもないことをひどく引け目に感じているんじゃないのかと思う。夜中に大騒ぎするあなたのお子さんは、あなたの固定観念をぶちこわすためにこの地球へ降りてきた尊い光の存在かもしれない件じゃないけど「持たざる者」はいつの時代も固定観念をこわすちからを持ってるヒトなので、そのままで尊いんすよ。自分の思ったようにフツーに会話してるだけで備わったもんが磨かれてくし(実母・実兄はそのクチで、このテの鋭い感性てのは万人に備わってるんだけども巷の損得的な観念では計れないんだよねー)。ある種の才能をずば抜けて持ってる旦那さんみたいなヒト、てのは常識面がわりとアホだったりするので、そこで「持たざる者」のふつうの観点が活きてくるんすよ。虚勢張る必要なんてないし、むしろ虚勢張ると持たざる者エネルギーが発揮されなくなっちゃうと思う。そのまんまでいいんすよ。誰かと比較して自分を卑下しはじめると、自分に備わるちからを把握できなくなっちゃう悪循環になってくからやめたほうがいいですよ。

坂上さんが厳しいのは相手に対する責任があるからだよね

魄=鬼と見なすと、昔ばなしに出てくる「鬼」はすべて怨霊ということになるんだろうか。すると桃太郎に於ける「鬼退治」は怨霊を鎮めたり浄化したりしにいくって隠喩なんすかね。桃は黄泉比良坂でゾンビ化して追いかけてきたイザナミイザナギが投げつける邪気払いのブツだし、キジがイタコ的な巫女か呪術師、イヌは現世と霊界を行き来する道案内、サルは太陽神の使い(神道系でとらえるならサルタヒコ)とみなすと、4人の霊能者がなんらか…強力な怨霊を浄化しにいった話がどういうわけかこういう形で伝承されてんのかな。神仏の眷属としてのトリは太陽がらみなことが多いことから、もしかすると桃太郎のお供は3匹ぜんぶ太陽がらみなのかもね。怨霊の浄化て太陽が必要だろうし。尚、猿を天台宗の坊さん、犬を真言宗の坊さんとみなすと「犬猿の仲」てのがなんとなく当てはまる雰囲気になりますね。ちなみにイヌを狛犬として見なすと密教系の側面がさらに強くなる不思議。
精神的苦痛に対しての賠償金を求めるてのは「カネよこせば黙っててやるからさっさと出せ」て持ちかけてるのと同じなんだよな。理不尽なことをされたときの真の解決方法てのは、相手がどうしてそういうことに及んだのかを調べたり、辛抱強く交流しつづけることであって、それをなにひとつせずにカネで終わらそうとする、てのは自分や相手の心や気持ちを「カネでどうにかなる」程度の安上がりなモノなのだと見下してるってことなんだよ。「出来事に対する責任」をどんなふうに保ちつづけているかで誠実さの度合いが計れるんですけども、カネで済ませたら誠実さを勘案することすらもできない。いくら被害者だとゆってても「カネで忘れてやる」て持ちかけた時点で相手を思いやる気持ちなんてどこにもないんだよね。それをやった時点で加害者になってしまったも同然なのに。そこから目を逸らしつづけて「金をむしることが解決」かのように思い込んできたんだな。道徳の教科書には賠償金についてどう記述されてるんでしょうな。「被害者の立場になったらカネむしって忘れましょう」とでも書かれてるんだろうか。そういえば最近の絵本で「悪者だからといって一方的に退治する話はよくない」的な理由から、降参した鬼が桃太郎に宝物わたして帰らす結末に改変されたバージョンがあるらしいけど、あれって「カネやるから黙れ」的なヤクザの手打ちこそがこれからの正義である、て言いたいんだろうか。ずいぶん殺伐とした思想だな。ヤクザにしてもさ、そのテのヒトがたくさんいるってことはそれだけ国家福祉が整ってない証拠なんだよね。養育上の事情から食うに困って路頭に迷ってるヒトなんかにも福祉が行き届いていればヤクザに拾われることもないんだから。にしても福祉が整ってなかったことでヤクザがたくさんでてきて、それによってヤクザ映画なんかもできたので、そういう意味では悪いとか不幸とか断言はできん。実兄がゆってた「カネのあるところからは面白いことは生まれない」てのはまさにこのことだな。今日の糧を得るためのギラついたエネルギーあるところから新たな文化が生まれる感。それにしたって「自分の心はカネで買われるような下卑たモノですー!」なんて自分で言いふらすようなマネはしないにかぎるよ。そんなこと繰り返してたら買い叩かれて終わるよ。カネの話しかできない人なのだと思われて。
シャルダン時の件と同じく今回の人もおいらの「目」を潰したいようだけど、キリストを拷問死させたヒトたちと同じく、自分に従わない輩を屈服さすことで不安を解消したいんだろうね。このテの人たちは「相手がなくしたら困る(であろうと思われる)モノ」を奪いとってしまえば屈服させられると思ってるみたいだけども、つまるところ全盲のヒトたちの境遇を「みじめな人生」としか思い込んでないってことなんだな。相手を引きづり下ろそうとするに際して、あの人をこんな境遇にしてやりたい的な「最悪な人生」基準てのを各々で持ってると思うんだけど、そこで思い浮かぶ「最悪な人生」てのはその境遇にあるヒトを差別してるも同然なんだよ。その境遇ならではの学びがあるのにさ。仮においらが全盲になったら書く系は全滅だし、今後もくろんでる美術系計画もすべて諦めるほかないし、なにしろ「見る」が大前提になる仕事はなにひとつできなくなるだろう。ガッカリはするものの、もしかしたら全盲状態でだけ学べることのほうがおいらにとって必要なのかもしらんのだよね。今の時点では「見る」前提の仕事していきたいな、て思うけども、仮に全盲になったときにその考えのままだと、全盲境遇ならではの世界観をなにひとつ学べなくなってしまうんじゃなかろうか。どんな境遇でも学ぶことはたくさんあると思うよ。モノ書きは目、アスリートは足、職人は手、音楽家は耳…「コレを失ったら生きていけない」と思い込んでいる要素を突然失う事態に直面したら、経験したことのない生き方からの学びが用意されてるってことかもしれないので、絶望するまえに新たな世界の実像をまず知ってみることが肝要だと思いますよ。「失う=不幸」とか思ってるから絶望するんだろうけども、その考え方自体が障害者を差別的観点でみなしてる証拠なんだがな。人生差別はよくないよ。

文化を潰した瞬間、路頭に迷う人が必ずでることを思い出すようにしてほしい


捕鯨業に従事する人の職業否定につながる取り決めについてルールとして決まったんだから従え(深町さんまで自分の納得のために捕鯨人から職を奪うべき的なこと言い出してて悲しい…)的な主張を捕鯨反対の人が繰り広げてるんですけど、法律をはじめとする決め事てのは常に「人間にとって善きもの」に変えてくためにあるんですよ。盲目的に従いつづけるためにあるんじゃないの。いちど決まったことに盲目的に従うのが善、なんてすると、たとえば「みんなと仲良くしましょう」なんつーおとなですら実現不可能な理想論にも従わなきゃならんくなるわけ。どうしてこんな頭の固い考えを他人にも強要するのかというと、単純に「相手が自分に従わないことに我慢がならない」だけみたいなんだよね。ちなみにルールに従わない者をバカ扱いするてのは「体制に逆らった者を怨霊呼ばわりする」のと似た観念ですな。捕鯨をやめさそうとする人て「女子供がかわいそうだから」つってエロ漫画描くのと販売両方を禁じる法律をつくらそうとしてた人たちとか「ツイート使われた人がかわいそうだから」つって会田誠作品の撤去を求めてた人たちとかと同じく「クジラやイルカがかわいそう(と思ってる人たちに配慮すべき)だから」的な考えに基づいてるみたいなんだが、この弾圧を是とする3者に共通するのは職業差別なのよ。漫画家、捕鯨人、芸術家、そのヒトたちから食い扶持を平然と取り上げることを善だ、て叫んでるのね。そのうえで職業差別の取り決めを至上として、もう決まったんだからおとなしく従え、て上から目線で命令してくるの。まるで法の番人にでもなったみたいにさ。ただ、食用ではない動物を保健所で処分し続けてる件とかユダヤ人だけをひたすら殺してた件だとかはその職に従事してるヒトにやめてもらわんかぎりは止めることができないのよね。野良の大量処分だとかアウシュヴィッツの人種殺戮の件てのは食べるためや調査のために数守って獲ってるクジラやイルカの件とはまったく別の話で、それと混同して対処しようとするとおかしなことになってしまうと思う。ちなみに「遠出してまで獲るのはおかしい」というなら遠洋漁業はなぜお咎めなしなの?て話になるし、オーストラリアにしても日本側と詳細な対処もせずひと足とびに禁止にしちまう時点で差別思考に基づいてるとしか思えんのですよね。まーしかし文化名目のムダに国費つかわれるなんて我慢ならない!と思ってる人がわりといる、てことがわかっただけでもよかったような暗澹たる気持ちになったような…。あーあ。獲り方のコツだとかも各々の場所ならではで違ってると思うんだよね。それもがすべて損なわれるのかと思うと…。人から職を奪うようなことをたやすく是とするなんてどうかしてるよ。見世物とは食うに困ったヒトが「最も財布のヒモをゆるませやすい芸はなにか」て考えたすえに編み出された娯楽の原点であるって件は前に書いたけども、彼らがなぜ商品の質を高めるよか「まがいもんをそれらしく見せる」ことに邁進していったのかというと「いいもの」をつくろうとすると手間もお金もかかるのに加えて、ほんとうにいいものができるかどうかわからないという不安定さをも抱えこまなきゃならなくて、それだと食うに窮したヒトが「今日の腹を満たす」を叶えるためには「割に合わない」てことになるんだよね。要するに「まがいものが多く世に出回ってしまう」のは排除された者が苦肉の策で編み出した「糧を得る」ための効率を優先させたことが原因なのだけど、排除されていない民(=今日明日食うには別段困らない人)からすると彼らの売る「いいかげんなクオリティのもの」を買うことは非効率てことになんだな。そんで食うに困らん者にとっての効率を優先させてゆくと、ふつうにアヤしげなクオリティの商品なんぞ買わなくなるから、排除されたヒトたちが効率よく稼ぐために編み出したテキトー商法が通用しなくなって、消え去ってしまう。彼ら独自のスタイルで編み出された見世物―固有文化と共に。文化の固有性を弾圧対象にしたり、自然発生した文化を消し去る、てのは排除対象民の存在を抹消するのと同じ事になってしまうんだな。つまり排除民が生きるために編み出した芸事、てのは福祉そのものなのか。食うに困ってる人の生活を国費で支援をする、てのと、国費で文化を守る、てのは同じなのだな。そこらへんからして「捕鯨のために税金使うのが許せない」てのは「あんな連中のために税金が使われるなんて許せない!」て生活保護受給者全員を犯罪者のように見なす観念とまるでおんなじになっちまうわけだ。生活保護を不正に受給しちゃう人てのもいるみたいなんだが、彼らもまたラクチンに生きるための効率を優先してった結果として不正受給がやめられなくなっちゃったクチなんでしょうね。そうなっちゃうと、もう「まっとうに働いて食ってく」生活になることへの心理的ハードルがものすごい高くなっちゃって、かえってたいへんなことになっちゃう気がするけどねえ。なにしろ排除対象とされ食うに困ってたヒトたちは、売るモノの質に関係なく「人の心を揺さぶる型」さえ身につければ客はお金を落としてく、てのに気づいたんだな。その「人の心を揺さぶる型」を洗練させたのがいまでは芸術だとか言われてるわけだ。芸術を扱うに際して現代では才能がうんぬん言われるけども、才能なんてあろうとなかろうと「今日食わなきゃならない」切迫からするとどうでもいいことだよね。そのがむしゃら感に伴う野蛮(と見なされがちな)要素が放送禁止的になりがちってのも差別でしかない気がするが。まー当時も結局見世物に関する才能が他よりも抜きん出てるヒトのがより稼いではいたんだろうけども。職業差別を是とする3者の件にもどしますけども、彼らに共通してるのは当事者たち(作品にツイート使われた人・子供・動物[…とはそもそも会話ができぬので捕鯨人か])の意見をまったく聞かない点なんだよね。そのうえで「彼らがかわいそうだから」て勝手な第三者観点によって職業弾圧を推し進めようとするんだよ。本来ならばいの一番に意見が尊重されなければならないヒトたちであるはずなのに、そのヒトたちそっちのけで「かわいそうな人のためにアイツらを排除しよう!」て大昔の権力者の聖賎観念まんまじゃないのよ。「あの人がかわいそうだから本音をだすのを止めなさい」てのがどういうわけか世の中を平和にする善き道徳観念かなにかのように思われてるんだけども、現実ではそれをやるたんびに世の中は不穏になってくんじゃなかろうか。目視できない排除対象者を暗黙のうちに生み出すから。自分を被害者と思い込むことで責任放棄思考になってしまう件じゃないけど、だれかを勝手に「かわいそうキャラ」と見なす、てのは一方的にかわいそうと見なされた人の固有性から目を逸らすことになりやすいんじゃなかろうか。かわいそうイメージだけがまかり通ってしまって、実像からかけ離れたまま事実を確かめることから遠ざかりがちになるんじゃないスかね。かわいそうな人だとか弱者だとか見なすことによって腫れ物に触るような態度しかとれなくなるふうに。まともに向き合っちゃいけない相手、みたいなふうに思考停止しやすくなる観念なんじゃなかろうか。それと、かわいそうな人を「守る」ためと称して「お前が生まれもった本性はあの人の存在よりも尊いのだ(=尊い人がイヤがるお前の本性を2度と出すな)」的に存在否定されるヒトがでてしまうよね。だれかをかわいそうキャラに見なす観念てのは「かわいそう」と見なされた人と、「かわいそうな人を傷つける人間」と見なされて黙らされた人、双方への差別になってしまうんだな。ちなみに自分の納得のために誰かを消し去るようなことを平然としだすのはなぜかというと2日のホンマでっかで「人は自分の言葉がいちばん心地いい」と澤口先生がゆってて思ったんだが、おそらく自分の言葉や観念が心地よすぎるがゆえに、その心地よさを継続させたい欲求が「自分の考えに反する者を駆逐する」方向に仕向けてしまうとかじゃねーのかな。自分に正直でいると満足感がすごく高くなって他人になにかを強要しなくなるとは書いたけれども、その「自分に正直でいる」が時の常識―かわいそうな人のために誰かを排除する―から派生してる場合に差別や弾圧として現れてしまいがちになんだろな。時の常識を捨ててマジに「自分に正直」な状態になれれば、時の常識に侵されてない要素が思考の中心に置かれるから、いろんな要素がしぜんにでてくるのよ。それと同時に世にある「いろんな要素」のことをふつうに認めることができるようになんの。アレしちゃいけないコレはなくせだとか、そうやって禁じる観念なんて「自然」に於いては存在しないんだよ。人間の中にある「自然」をぜんぶ出せるようになるとわかるんだけど、ヒトって巷に出回ってるような「あるあるキャラ」で判別がついてしまうようなペラいもんじゃないんだよ。それが出せてるヒトの表現てのはふつうにジャンルの垣根を超えてて克つ豊穣なの。いろんな観点から物事を考えられるからこそ、どっかでみたことあるような既存の表現なんかじゃ表現しきれなくなるわけ。そこらへんからして、どっかで見たような表現しか出来てない時点で自分の中の「自然」を思考の中心に置いていない証拠なんだよね。自分の心のなかで、どれが「自然」で、どれが「時の常識に侵された観念」なのか、しっかり感じ分けられるようになってくといいんだけども。「自然」を思考の中心に置けるようになった際には、先に書いた「自分の言葉から得られる快楽」が相乗効果になって、どんどん表現がでるようになってくふう。あと…これは他のヒトも同じかはわからんのだが、清いモノを汚そうとする気持ちだとか、愛されてる者を貶めようとする気持ちだとか、穏やかなもんを破壊しつくしたい衝動がいつも強烈に沸いてきてて、それを自覚しながら実行しないように常に気をつけてる。これがあるから色々長ったらしく書けてるのかなーとも思う。あの強烈さが自然だとか宇宙だとかのエネルギーであって善悪とは関係ないんだなーとちょっと思う。あの衝動を現実で実行してしまうとバランス崩れちゃうんだろな。そういえばさーこのまえ高輪神社の太子宮(←なんか…ダチんちにあがりこんだような妙に俗ぽいカンジがしたんだが…太子さんてそうゆーヒトなの?神社仏閣でお参りしたときのような爽やかなかんじが全然しなかった)お参りしつつ色々聞いてみたカンジからすると、どうもなんとなく空恐ろしいもんをかんじる地帯には太子のバランス崩した魄が封じられてるくさいすね。ヒドい目に遭って魄がそうとう荒れ狂っちゃったみたい…だけど、それを浄化できるヒトも生まれてるぽい。ある地帯ぜんぶ障るレベルに暴走する魄てどういうアレかなーて考えたんすけど、要するに「ゆるさん」が濃縮した塊なのかな。おいらの「ゆるさん」側面を全開にしたら…て考えると23区内くらいならどうにかなるかんじはする。そうはいきませんよ。バランス死守。そういえば高輪神社後によこの細い坂のぼってったらなんか高野山の姉妹店みたいのがあったよ。さらに道なりに進んでくとカソリックの教会(高輪教会て2コあんだけど、プリンスホテルの隣のほう)があって、そこの礼拝堂はなんか鉄骨むきだし内装でなんとなくメタルのライブ会場ノリです。あすこは入り口に筆字ふうの木の看板なんかあってビジュアル面のごった煮感がちょっと笑える。トイレ貸してくれたんでおもいっきしうんこしてきた。ありがとうキリスト。あそうそう、あとここの教会にはキリシタンの処刑についての説明なんかもあるし、千躰荒神さんとこ向かう前の「両極や複雑さを体感する」流れとしては正統派なルートに思います。荒神さんとこで挨拶したときにくる涼しい風てさわやかでキモチいいんだよな。物事へのケジメのつけかたがきっちりしてる性分に起因してるんだろうか。あれと同レベルな爽やか空気感を保持してるカソリックの教会てあんましねーんだよな。どうしてなのかなー。いちいち人をかわいそう視しがちな偽善人間が信者に多いからなんでしょうかね。慈悲だとか慈善てのは心持ちをまちがうと爽やかさとは無縁の気色悪いナニかになってしまいがちなんじゃなかろうか。ちなみに千躰さん後の帰途寄ったココもすごく気持ちのいいとこだったな。ちょうど鳥居前にある恵比寿さん石像の真上で色が濃いめの桜が咲き乱れてたし。そこの看板に明治天皇指定の神社とか出てたけど、あれはどういう基準で選ばれたもんなんすかね。単純に好みでか?それとも天皇自身がひそかに霊能力あって各神社のエネルギーの質や大きさなんかがわかる人だったとかか?指定されてる神社がどれもわりとよさげなとこばっかなんで。単純に政治の関係でか?よくわからん。そういや荒れた魄浄化&生きてるヒトの気質整え→地域バリヤ張るの流れは日本だけでなく色んな国でもやっとくとよいですよ。やりたいことを実現しやすくなるみたい。気質(考え方)整えがらみといえばまたホンマでっかネタだが2日の番組内で「よくしゃべる人は幼少期に母性愛が足りなかったことが多い(=自分のことをよくしゃべると脳内でドーパミンつー快楽物質が出て快感が高まるので、幼少期に刻まれた欠乏感覚を常に補っている)」てやってて明石家さんまがそれにあたるみたいだったけど、幼少期の愛情欠損が無二の才能が咲くための下地になったてことだよね。あと実兄から聞いたんだけど、作詞家の吉岡治さんはお父さんが女にだらしないロクデナシだったとか(当人がその旨語る番組を見たとのこと)で、そのせいで吉岡さんは幼少期に痴情のもつれのドロドロ場面をイヤというほど目の当たりにしてきたらしくて、でもその経験があるからこそおそらく濃厚な情念歌の歌詞なんかを書けたんじゃないのかな(その経験の反動からか奥様は地味で控えめなかんじの方なんだそうだ)。「母性愛に飢えさすような家庭環境」だとか「トラウマを植え付けるレベルの痴情のもつれを子供の前でくりひろげ続ける家庭」だとかって書くと「かわいそう」だとか「不幸」だとか思って義憤を抱きがちになるんだけども、ヒトにとってなにが幸いするかわからない以上は、人生上の出来事や経験について勝手なイメージで断罪するようなことはしたらいかんのではないかと思う。自分の人生で起きるいかなることについても「逃げない」ことがあたりまえになれば、かわいそうな人なんていない、てことがわかるんじゃないのかな。
いま当たり前に使われてる「災害」表現(自然現象を過度に怯えさす観念に固定してしまう)だとか、責任放棄しがちになる「被害者」「加害者」表現てのは、気をつけてないとおいらもつい使ってしまう。なんとかしたい。それに代わるシンプルな表現がありゃいいのか。うーん…。