負け戦こそ楽しいんだよ

『集合意識としての私がこのゲームを始めた張本人であったことを思い出すでしょう。貧者は私が創りだしたのだという事が、病の淵で喘いでいる人は私が産み出したのだということが。経済的苦しみに疲弊した人を、独善的に人の頂点に立とうとする人を創り出したのは私以外の何物でもなかったと・・・。でも安心して下さい。自分を咎める癖のある人や否定的なあなたはこんな事を思い出すことはありませんから。全く自分を咎めることの無くなった人だけがこの事実を思い出します。でないとあなたの自我がその苦しみに耐えられないからです。どうぞ自分を信頼し、自分の宇宙を信頼して下さい。あなたこそが「私」であったことを思い出すでしょう。そして「私」とはこの地球には一人しかいなかったことがわかります。「私」とはこの宇宙に一人しかいないのだという事に気付きます。あなたこそが宇宙に存在するただ一人の「私」です。あなたこそが宇宙生命です。』(空想と現実より抜粋)
被害者となったら加害者を責めることが善、責任も負わなくて結構ですヨシヨシ、みたいにされてるけど、これまで見てきたかんじからすると、その考え方が原因で問題解決から遠ざかってるようにしかみえないんだよな。蛮行三昧のテロリストにしてもテロリストとなってしまう原因解決について何も書かれずテロリストを悪者扱いしてるし、麻薬の密輸が増えてる件も根本にある貧しさの改善よか「犯罪者」をどうかすることが全面に出されてるよね。「自分の心を傷つけられるのは自分だけ」ていうふうに、自分に起きた出来事すべての責任を負うこと他人のせいにしなくなって犯人探しよりも原因を知ることに重きを置くようになるらしいのだけども、その精神性が無視されてるのはなぜなんだろうか。そもそも人間がなんで現世に生まれてるかってあの世じゃできない経験をたんのうするためなんすよ。不自由のなかでないと自由が味わえないという仕組み「ダメな経験」はひとつもないし。いじめにしてもそれがなきゃ「乗り越える」イベントも発生しないわけ。不幸がなきゃ幸せが発生しないのと同じで。虐殺死刑を経験すれば「平穏無事な生」がなによりの幸福になるだろうし難病のヒト看病するヒトは健康な状態が、体の一部を失ったのなら五体満足であることから幸福を感じるための前段階になるんだと思う。そのぜんぶ、あの世では肉体がないから経験できないんだよ。不快さは現世でしか得られないわけ。死後のことなんかどうでもいいだろ!とか思うだろうけど、自分の人生について「自ら望んでない不遇な生」と被害者感覚満載に捉えることでどれだけの人生差別を生み出してきたと思ってんの?その考え方こそが「あの人生はよくてこの人生はダメ」なんていう偏った観念を助長してきたんだろうが。「人が平等というなら意見もすべて等価」「この世に上下はない」て前提を置きながら戦争殺しを貴重な経験だと胸張って言えないのは「殺しや戦争はあってはならない経験」と思ってるからなんでしょ。苦しみをより多くかんじることこそが望みて観点からすればさっさと死なされた人はあの世で悔やんでるかもねえ。殺人事件の訴訟なんかで賠償金払わす判決がでた際に「これであの子も浮かばれます」とか言うけどカネむしるのと成仏したかどうかって別のことじゃねえのかな。原発が原因で避難生活おくるのや冤罪だってあの世じゃ起こりようがないでしょうしね。死んだあとになってもっとしっかり経験しとけばよかった…!つっても遅いんスよ。現世では被害者きどりでカネせびるのに忙しくて苦しみをたんのうする気持ちなんざビタ1文持てない社会体制ですからねえ。それと戦時のツラい経験を差別視するあまりに「カネもらわないと気が済まない」みたいに思い込ますってのもどうかと思うよ。人生経験をカネで済ます、て人身売買と同じだろ。それで満足するってどんだけ下卑た発想なんだよ。賠償金担当の財団理事長はやっぱり罪人概念ありきのキリスト教系のヒトなのなあ。この世でのすべての出来事あの世からすると娯楽だなんて言ったら激怒するかな。お金だした企業てのも「ナチスドイツを払拭したい強い動機」だった、てことは「戦争おこした連中と自分はまったく別の善人」てアピールしたくてやってるようにしかみえんのよね。「犯罪者」を切り捨てる思想を基になされてるでしょ。あと被害者のことばかり語るのはなぜなの?戦争おこした側のことがまったく話にでてこないよね。お金もらったあとでなぜあんなことをするに至ったのかを考えてる被害側ってどれだけいるのかね。もらったらそれで済ましてる人が大部分なんじゃないのかしら。なんで「被害者」側だからって出来事の責任負うことから自動的に免除されるんだろう。この経験をした人はすべて責任放棄してかまわない、て、それこそ原因から目をそむけることにつながってしまうんじゃないのかなー。つまりその経験は「してはならない」と世界中で思われてるってことだよな。「裁かれねばならない」て考え方自体被害側の責任放棄加速させるだけなんじゃないのかなと思えてならんのだよね。被害側の人はずうっと「他人が悪い」て言い張りつづけるんだろうか。「苦しい」経験に出会うたんびに被害者ぶってたら不自由である状態を望んでこの世にきた、て考え方には永久にたどりつけなくなっちゃうんじゃなかろうか。無条件の愛を実行するには被害者でなくなることが必須だそうなんですけど、そうなると被害者ぶってる人は無償の愛すらも持てないってことなんだな…。なんか無条件の愛が実行できないのは人に優しくできなかった記憶が原因になるらしいんですけども、加害者に対してはささくれだった気持ちしか向けられなくなるでしょうしね。被害者ぶることでムリめの課題をいろいろ負ってしまうってことなんすな。二極思考を軸にしてると差別が生み出されてしまうところからしてごく自然な成り行きではあるのかもしらんけども。人種差別のヒトじゃないが排除しだす人は他者に理想を求めすぎてる(=自分を変えようとしないので永久に理想は達成されない)あたりからして、二極のうちの一方の役割を負う自覚を持ってしまったことから差別から抜け出せなくなっちゃうのかもしらん。ちなみに答えが1つきりと思い込んでると自分の意見に自信がもてなくなる(=不完全な自分から発される意見は劣っている)そうで、唯一神大好物のキリスト教信仰のヒトは精神的にくたびれていそう。自分は劣ってるから優れた誰かにすがればいいてのも責任放棄そのものすな。たとえば超人だとか天才だとか神だとか?そういうもんを生み出すのは「自分ではどうにもできないから」ていうハナから諦める前提の心根からなんだな。自己否定を抱きながら他人批判するといずれ自分にかえってくるそうですけど、あらかじめキリスト教にゆるしてもらわないと生きていけない的な思想に染まりきってる、てことは批判の応酬が永久に止まらない運命であることを示唆しているのであろうか。ちなみに否定されたと感じるときは自分が否定したときであって拒否におびえるかぎり拒否がなくなることがないのだそうですよ。そもそもの拒絶根本原因には傷があるだとか沸き起こる感情は自分が断罪した情報から派生しているとか、拒絶の継承については並べだすとキリがないですけども。自分を責める心をもってるかどうかが他人という鏡によってようやく把握できるんすなぁ。他人を自分の分身とみなせばどんな意見を持ってても尊いと思えてくるのかもしらん。そういや前の勤務先で夫人から裁かれまくってたけどてきとうに受け流してた。「あるがままを肯定する」が 観察者としてあるべき姿勢らしいので一応正解だったのかな。 カッとなるネタこそが自分のバランスとれてない箇所てのと他人への評価自分の欲求を表しているてとこからして夫人はいろいろ限界だったのであろう。わがままさんに怒りをやりたい放題させとくとそのうちおさまってくるてのは実証済。要はコチラがぐらつかなきゃいいんすよ。相手はさんざんわめいてるうちにくたびれてきてやさしくなるよ。わがままを抑えようとするのは人間関係上での軋轢に怯えてる証拠とのことで、その怯えさえなくなれば自由奔放に生きられるようになるわけだ。被害者ぶってたらたどりつけない境地だねえ。とりあえずこの世対極にある要素がバランス取ろうと働く仕組みになってるらしいので、二極のうちの一方望む片割れも自動的にもたらされてしまう(真逆要素がないと喜びがもたらせないためらしい)とか。快適さを求めるほど不快の種も増幅するて考えれば、おばさんから命令されるままエロ雑誌をなくすことで差別のキツイ社会になってくのと似たようなもんだろうか。人間社会の尺度なんぞ宇宙エネルギーにとってはどうでもいいためにヒトが抱いた気持ちを片っ端から叶えてしまうので、その宇宙エネルギーをうまいこと使いこなすためにはクダクダ考えるのはむしろ邪魔になりやすいらしい。自己嫌悪に陥ると自己嫌悪像のままの自分になっちまうし自分の欠損部を気にしすぎたり心配ごとばかり抱えてると、心配ごとに悩まされる自分が実現してしまうとか。世話を必要とするヒトがたくさんでるてことはつまりそんだけ「看病したい人」がいる、てことなんすかね。地球救う願望もつヒトのために地球さんが救われるのにちょうどいい病み方をしてくれるてのはなんか可愛いな(ちなみに資源たりないと思えば思うほど足りなくなるらしいよ。有限と思い込むホドに争いが激しくなるのは恐怖に駆られてのことなんだろうけど)。宇宙エネルギーを利用する上では過去に感じたうれしさ幸せだった記憶に浸るほうがその感覚が増幅されて返ってくるようになるらしいので、言葉でアレコレ願うよか想像や記憶を働かすほうがいいっぽいよ。ほんとかどうかはしらん。あ…願望抱くにビクついてたら叶わないんだっけか。たのしい心持ちでさえいれば宇宙がうまいことやってくれるてことなんだろうけども、現世にいる以上はうれしいのとヤなことどっちも経験して等しく味わったあとでないと「次」にはいけないらしい。次てのがどういうとこなのかはしらんが。なにしろ神仏は単純に欲求に従ってこの世に人として生まれたそうなのでいいもクソもない(どうでもいいてことなんだろうか)とのことです。ちなみにとはナニかやダレかがなくなっても変わらずあるモノだそうですよ。もとからぜんぶ備わってることに気づくかどうかで精神的には真逆の状態(自分が責任負う=自立・自分の責任放棄する=依存)になっちまうあたりからして、なんだか現世の仕組みてのはすごくデリケートなのかもな。幸せ追求にしても狂うスイッチ的なほうと勘違いしないようにしとくと吉かと。

頭いたい時に痛い部分に意識向けると痛さがアチコチに動き回る時がある


・生理痛んときに映画館行って映画みてる間だけはなぜか痛さを感じなくなるんですけど、あれって脳の「痛さをかんじる部分」と「映画に集中するときにつかう部分」が同じとかでなのかな。家でDVDとかテレビみるだけだと痛いままなんだけど、映画館いってみると痛さが気にならなくなるんだよ。その脳の部位の切り替えを自分で出来るようになれば痛み止めいらずになるなあ。霊能力者はふつうにできるのやもしらんが。映画みるときに稼働する脳の部位、てのは「みる」つながりで霊が視えるようになる部分と近しいんだろうか。視えるヒトが霊を避けて通ろうとする(そういえば三巳華さんディスった回は霊を視るちからを欲しがるから与えたのに逃げまわってばっかいるのはどういうことだアァン?てのを代弁したつもりだったんだけど伝わったろうか)てのはヒトに受け入れてもらえなかった経験等からいちどは通る道みたいスけど、なんの能力でもその能力でしか出来ないことをするために備わってる可能性が高いんで、避ければ避けるホドに面白い出会いもなくなって「次」に進めなくなるんだろうね。向き合わなきゃならないナニかを放置したままでいると「次」に行けず立ち往生しっぱなしな状態になってヒマでしょうがないから、目立つ人の足引っ張るようなことしかしなくなっちゃうんだろうね(スレで悪口書いてるのは黒ヘビさん関係者なのかな)。逃げずにその都度ヤなことに対処しつづける人はヒマなわけないんだよ。次々にやらんきゃならん課題に向き合わされるから。ヒトの未熟さを笑うのが未熟だったころの自分を嘲笑するも同然なように、大抵の悪口て対極にあるブツがなければ存在できないたぐいのもんばっかしだからディスることで是とする側もけなしてるようなもんなんだよなー。
自分に都合よく従う相手を探してる人にとっては「かわいそうな人の世話をしたがる人」が鴨にみえてることだろうな。「かわいそうな人」のわがままならなんでも聞いてくれるあたり。従わせたい人はヤなことから逃げるために下僕がほしいんだろうし、かわいそうがる人は自分の問題に目を向けずに済ましたくてやってるのだろうから、双方が「逃げ」の心理で合致してるわけが。誰かをかわいそうがる、てのは「自分はかわいそうじゃない」て前提でやってるからバカにされてるのと紙一重なのでイヤがるヒト多そうですけどねえ。大抵の人間関係では「自分を変えれば相手も変わる」んだけども、いくら自分を変えても相手が変わらない場合は「ふつうのヒトには直すのはムリ」なほど性根がねくじれてるのかもな。そういう場合は神仏が関係を即切りすることを推奨したうえで必要とあらば「改心するに必要なだけの痛み」を与えるのかもしらん。仏教説話でよくある「怖い目に遭わされて改心する」的なのは痛い目に遭わないと自分の欠点を自覚できない性質を神仏側がよくよく把握したうえで必要なだけの「痛さ」を与えるからできることなんだが、個々の「痛さ」限度すら把握できん人間がやってもただの暴力になるだけなんだよな。改心さすに必要な痛みじゃないが対極のモノに生まれ変わる(霊のヒトに聞かないと真偽不明)ことを繰り返してくうちに凝り固まった考えがどんどんほぐされてったりするんだろうか。一時的にどっかにいってるだけの神社仏閣で祓った穢れが海で浄化されていつしか帰ってくるように。
これといい、霊方面でいかがわしいもんがブレンドされるとなぜか猿っぽくなる(経立は別モノ?)のはどういうわけなんだろうか。ヒトではないナニか、てのを象徴してのことなのかな。その猿っぽいもんが出てきたこの穴空也がいた時代あたりの権力者が「賤」として排除したヒトたちを怨霊に仕立て上げて使役する目的でつくったんだろうか。怨霊を単なるエネルギーとしてしか認識してない人は道具にするために殺すなんてことも平気でやっちまうんだな。証拠隠滅&共犯にするために周囲の人間に遺体の肉を食わせちゃうのと似通った冷血っぷりだ。あのブラックホールじみた穴から出てる手はつかんだもんを引き込んで食べたりすんですかね。霊の世界に於ける「食う」てのは現世での意味とはちょっとちがうみたいなんだよな。狼が狐を食う(ことで狐は解放される)らしいけどきつねたんが魄を食べるとその魄も解放されるんだろうか。明王さんが不浄を喰らうのや獅子が火を食うのと同じく。死んだヒトの霊が現世を離れる前に食べたいモノを求めてくることがあるらしいけど、その「食べる」は前述の解放のために「食う」とはまたちがった意味なのかな。五感ネタといえば小野照さんのにゃんこがおいらの子宮らへん(股じゃないよ)のニオイをしきりにかいでたんだが、ねこは「かぐ」ことで中にあるモノを検分してんのかな。気配をかんじとるのにニオイが役立つ件からしてもその可能性大。上記「もうあるんです」画像じゃないが…そういえば寺に遊びに行って観音さん(いまんとこ確認済なのは聖観音・千手観音)の前いくと、なんか…むかって右側の目(相手の左目)の瞳がおいらの右肩あたりをみつめながら、なにかを読んでるみたいな動きをするんですよね。もしかしてまだ書いてもない日記を読んでる…?のかな。如意さんの生まれ変わりさんも、足に入り込むときはなんだか瞳だけが動いてるんだよ。なんらか読んでるふうに。なんだろな?近日にやりそうなことは霊界ではすでに完成してるってことなんすかね。よくわからねえなあ。相変わらず霊の世界のシステムは全然わかんないよ。現世のヒトがどんなもんをつくるのかがあの世ではだいたい見当がついてて、それをもとに「偶然」的な出会いをアチラで仕込んだりすんですかね。ちなみに寺尾さんと視子さん阿弥陀さんのパシリじゃね。
あつかましさも個性な件じゃないけど、なんか…中道の考え方て差別的(とみなされがちな)考え方のたもとに埋まってたりするんで、怖がりだったり痛がりだったり、守らなきゃならんモノをたくさん抱えてたりするとよけいにたどりつきづらくなっちゃうのかもな。そういえば日本列島が真っ二つにならないように祈って欲しいてトランブレーさんとこで再三でるんだけど、ナニがどうなってまっぷたつになんのか、それをどうかすると防げるのか、こまけぇことがなにひとつわからん上それを憂う神仏にしても「まだ間に合う!」とか宝くじはお早めに!なノリで急かしてるし、なんともいいようのない事案だな。おそらくそれが防げたとしても目にみえる成果みたいのが一般的にはまったくわからんことから助力してくれる向きてのも限られてくんだろな。
このテの玉とかってもしかしてもっとちいさくて、ヒトによっては足のくるぶし付近に入ってたりすんのかな…。ちょっと前までそこらへんにちいさいふくらみが2ケほどあったんだけど、今はもうない。

敗北した側を善とすると妬みも善となってしまう件






相手の言動を取り消させようとする人てのは「傷つけられた」腹いせに原因となった存在を抹消(=屈服)さすことで怒りを発散させようとしてるんだろうけど、自分の心の状態を変えられるのは自分だけなので、いくら他者を消し去っても自分を変えないかぎりは永久に傷ついたままだと思うがな。ここらへんからして「傷つけられたくない」てのは「自分を変えたくない」て言ってるようなもんだよね。自分が考えを変えさえすれば大抵の悩みはなくなると思うけど、その心の安定基準を自分じゃなく「キリスト教」の教義とすることで「キリスト教に許されさえすれば心が安定する」のだと思い込ませてきたんだな。なんつーか自分自身の心の安定に対する責任を自分が負わず、キリスト教に丸投げしさえすればよい、的に思い込ますことで信者集めをしてきたというか。キリストが自分らの責任をぜんぶ負って死んだんだー!的に責任放棄思考を正当化さす手法が客寄せになる、て気づいたヒトがすごいよ。総本山が是としてきたキリスト教思想中の「地獄で死を生きるべく決定された罪人たち」てのは「法王庁が許さないかぎり許されない(=自分ではどうにもできない)」と思い込んで勝手に苦しんでる人たちで「天国に永遠の生をゆるされた、祝福された魂」つーのは「すべての人は生まれながらに祝福されてる・悪人などいない(=自分次第でどうとでもなる)」と気づいたヒトのことなんだろね。「バカものの天国は地獄より危険」とか書いてあるけど絵をみるにつけ至極平穏そうで、逆に天国(=生まれながらに祝福されてると気づいた状態)を避けさせたくてゆってんのかと思ってしまうよ。そんな思想が横行してる中でもヒト以外のもんの描写も手を抜かなかった画家たちは教会側の意向とは関係なく森羅万象の平等を自ずと表現してたり哲学者なんかも平等理念をだしてたというのに大元に「罪人はキリスト教会が許さないと許されない」的な発想があるもんだから、結果的に分裂した状態で適用されたりしてるのなあ。キリスト教のねじまげ具合についてさんざんカキましたけども、上記にだした画像の説明から察するに、欧州の西側あたりでは昔いろんな人種が入り交じった状態で、おそらく思想も文化もごたまぜだったろうから、それらをひとまとめにして納得さすにはキリストの教えをねじまげてちからづくでどうかするような思想をつくりだす必要があったのかもしらん。荒くれがひしめいてる地域では「オレが許さなきゃお前は許されない」くらいしないと反省させらんねーから、てことで人間性を根こそぎ否定するレベルの教義を編み出さざるを得なかったんだろうね。あつかましさをフル発揮した後に発生するうしろめたさをどう処理するかとか、あつかましい人を反省にたどりつかすにはどうしたらいいのか、てのに頭を悩ませた時の支配者が、即効性があって克ついちばん激烈な手法として「あつかましい人はすべて罪人」的に人間性否定しちまう=ひれ伏させる(ことで「あつかましくない」人の卑屈な心根を満足させる)ことで穏やかさを推奨していったのだろうけども、それって人間に備わった暴力性やあつかましい個性の否定であって、差別そのものなんだよね。あつかましい人を罪人呼ばわりするのを聞いてほくそ笑む思いを抱いた人がキリスト教の信者になるんだろうな。それと暴力ダメつーけど、天下統一した家康だって原爆落としたアメリカだって暴力で平和つくりだしてんじゃん。暴力循環ばかり起きていっこうに平穏をもたらさないハンパな暴力行為が問題なのであって、平和をもたらすきっかけとしての暴力は必須なんじゃねーの?神話でも神仏てあつかましい同士で戦ったり、領土とったりとられたりしてるんだよね。じゃあ領土ぶんどられていいのか!つーけど、他国の植民地になったとこで繁栄してた香港だのインドだのって「むしろ統治されてたい」ふうだったしな。領土を取られる自体はさして問題じゃなくて、その後に平和統治してくれるかどうかがいちばんの問題なんだよね。なんか…これまでのキリスト教思想からすると「領土ぶんどるようなあつかましい人」を罪人視するのを推奨してたっぽいんだが、それって領土とられた後の支配内容についてなにも考えさせなくするよね。「失敗を遠ざける理念」が失敗後にどうあるべきか何も考えさせなくするようにさ。権力者側は市民から反発くらうなら自分の政策がハンパな証拠だし、市民側は権力者に無視されるようならそれは自分らの言い方が悪いんだよ。「反発されんような仕事をする責任」と「無視されないような声のあげかたをする責任」をそれぞれが果たせばいい話。自分がうまくできないからっていちいち権力者や市民を憎んでたら、いつまでたっても自分を磨くところまでたどりつけなくなっちまうよ。相手が動かないなら動かすような言動をこちらが仕掛けるほかないんだよ。そうやって責任を各々がちゃんと負う精神性があればこそ、上記画像の「敵をつくらない勝利」が実現されてくんじゃねーのかな。そういう爽やかさって罪人を許さないとするキリスト教思想からは生まれようがないよね。領土とられて文句いうのもさ、後手に回った人の負け惜しみなんだよな。先手打てなかったことに後から文句ゆったってはじまらないよ。学校での勉強てそうやってうまくやるために自分磨きさすのが本来的な目的じゃねーのかね。なにしろ自分の考えを変えさえすれば理不尽なことを言いつけてくる人とだって楽しく付き合えるようになるんですよね。あつかましいヒトを穏やかな性質にねじまげさす必要なんかないんだよ。あの性質は善でこの性質が悪だなんてそんなバカあるか。この世にあるもんはすべて尊いと言えない時点でじゅうぶん差別的だろ。
ところで永久保さん夫婦とその周辺をしきりにディスってる人のたむろするスレがあるんだが、永久保さんが気になってしかたがないんだな。マジに嫌いだったら俎上にすらあげたくないてなるはずなんだが。この前のホンマでっか特番で悪口ばっかいう人は対象のイイとこもたくさんわかってるんだってやってたなあ。逆にホメてばっかいる人は心のなかでは悪口が渦巻いてるんだってさ。前述スレで書き込みしてる人は永久保さんの奥さんの容姿と学歴を再三けなしてるんだけども、容姿と学歴の良さを是とするのってバブル期の価値観だよね(イケメンで高学歴ならけなさないって優生思想じみててキモいな)。おいらなんてどっちもねーから仮に有名人なったら総攻撃されんだろな(笑)そういやおいらの通ってた高校て3B(バカ・ブス・仏教←笑)で有名だったからその点自信はある。永久保さんの絵については最近のが洗練されてると思うがなあ。シンプルでいいよ。まあたまに顔が崩れてたりするけど。脂がノッてる時期から外れた作品がイマイチなのは歌手でもなんでも同じなんでそこディスってもしかたないと思うがな(そもそもおいらと過去世のヒトビトが永久保漫画を介してつながった時点で霊的な意味でも重要な存在であることが証明されてるようなもんだしねえ)。あとアマゾンの客評で「三角形など幾らでも出来る」とか書かれてるけど、ふつうに三角形はできても二等辺三角ができる点てそうはない気がするけど。ところで仏教が女子校格付け的視点からするとマイナス要素とみなされるのって「(お経が)暗っぽい」「正座」「ハゲ」とか、おもにビジュアル面での陰気イメージからなんだろうけど、仏教はハナから備わってるもんに気づかせることで穏やかさを導きだす方向だからヒトにやさしいんスけどね。仏教に否定的なイメージ抱くヒトは単純にセントグレース大聖堂的なビジュアルに憧れて教会での結婚式とかやりたがるんだろうが、そっちはハナから備わったもんを否定するとこからはじまる差別前提のキリスト教思想が下敷きになってるんすよ。ビジュアルイメージと教義内容が真逆なのはなぜなんだ。まー単純に「白っぽいか黒っぽいか」てだけなんだが、人間性否定教義の側が白で覆われてるビジュアルなあたりからして詐欺師が善側イメージだけで固めてるのと似通ったテイストをかんじずにいれませんな。

自分を変えるには怒らないことが大前提なんよね






ミンク業者を摘発させたNPO法人てのが命の大切さを説くわりに皮革製品をスルーするのはなぜなのかを誰か調べたりしねーのかな。牛や豚は養殖だから問題ないというならミンクだって養殖だろうよ。ファッション業界も皮革製品扱ってるくせして「毛皮製品扱わないから動物愛護」的な商法してるみたいだけど、面倒な人から文句言われたくないだけの日和見人間なだけのくせしていっちょまえに善人ぶってるのな。毛皮業界を攻撃するためにファッション業界と愛護団体が結託してるとかだったりして。愛護団体が養殖の檻こわす的な言動て鯨やイルカ食うな論の文化弾圧感覚とつながってるとしか思えんくてなぁ。たとえば動物を殺すにしても治療目的ならいいのか?て話になって、それをも愛護団体が禁じるとなればヒトよりも動物の命を優先さす、てことになるよね。そこらへんの偏った「愛護」思想ぐあいからしても、愛護団体てのは特定の業界を得さす動機で活動してるようにしかみえんのよね。
・首相のヒトは 列強国になりたいというよりアメリカ頼りを止めたい名目自衛権固執してるふうだけど、外交上の譲歩と引換になんの怨みもない国と殺し合いするのってアルマジロとかみてると無駄でしかないんだよね。ろくに大義すらない殺し合いの巻き添えになるだけだよ。「日本は伝統的に戦争や植民地支配がヘタクソで関わるたんびにモメるので辞退します」て言えばいいのに。国防軍についてはみょうな論理こねくるよか「ウイグルと同じになってからでは遅い」とかゆったほうが説得力あると思うけどな。ウイグルの現状て要するに中国から侵略されたのち植民地支配されてる中てことだよねえ。日頃から戦争反対だの平和大好きだの言ってるテレビ・新聞がなぜそのテの表現をしないのか謎ですけど。そもそも国防軍なんかつくらずとも、忠臣蔵の討ち入り日に吉良邸の隣家が「領土に侵入したら誰であろうと全員ブチ殺す」て毅然と表明する的な態度を自衛隊に課すほうが縄張り感覚としては健全に作用する気がするが。ぜんたい改正案みるにつけ、なんか…特定の(事件起こした)団体に適用する目的でつくったふうな雰囲気がみなぎってるようにもみえる。21条のなんかオウム真理教的な事案にだけ使いたいふうな文言だし。どういう気で新設追加したのかわからんけど、あんまし禁止事項ばっかつくると市民側はいらん想像して怖くなっちゃって、よけいに反対したくなっちゃうと思うけどな。
観光地の店主さんが多忙中の細かな対処を面倒くさがってつい入店拒否の貼り紙しちゃうのはわからんくはないんスけど、来客過疎の東京ローカル地帯在住者からいうと贅沢きわまりない悩みにしか思えん。その面倒くさい事案への対処こそが「観光地で稼ぐ」幸いを手にしたヒトの最低限の義務なんじゃないのかなー。言葉がイマイチ通じないヒトへの注意書きをいちいち貼り出すのって、店側としては野暮きわまりないし出来りゃしたくないんだろうけども(そもそも外国人お断りにしたところで稼ぎはさして変わらないからやってるんだろうね)、だからって観光客のこないような静かな地域に移転する気もないんでしょ。その土地全体へのイメージを下げかねないような懐の狭い対処で済まさないことが「幸運な場所(に店を構えられたこと)」への礼儀というか恩返しになるんではないのかなー。「日本」のイメージを負ってる、て責任感があんましないからこそ拒否貼り紙みたいな即席の対処しちまうんでしょうけど。いろんな人種を受け入れる度量(とそれをこなすための機転)を観光地ごとにある程度は保つようにしてかないと、将来的にケツの穴のちいさい観光地として有名になっちまうかもよ。横断幕の件にしても対戦相手が差別的煽りを繰り返してるからつってそれに釣られちゃ同じ穴のむじあなと化しちゃうじゃんかよ。なんか…高潔であろうとするよりも安きに流れてしまうのはなぜなんだろな。カッコイイ大人の見本みたいのがあんましいないから、どうしたらいいかわからんくて憎悪に染まっちゃうのかね。とりあえず人生でツラい目に遭ってるときに差別思想に陥らないようにするためにはどうしたらいいか、て具体的な方法を義務教育なんかで教えこんだほうがいいんじゃなかろうか。差別に反対する人にしても相手がいなくなることを求めるかぎりは差別は増長してくよ。拒否しかされないとみるや怒りも増してくだろうし。人種憎悪に陥りがちな状況への対処法を教えてないといえば手術失敗が原因で自殺しただとか沈没船に乗ってた生徒の所属する学校の教頭が自殺したてのは「失敗した」際にどうやって生きていけばいいのか?てのを誰も教えないから、自殺しか考えられなくなってのことなんじゃねーのかな。いわゆる失敗だとか犯罪と呼ばれる行為と、それを隠すための隠蔽工作てのはどれも「やってはいけない」のだけど、「やっちゃダメ」で済ませてると仮にやってしまったあとの人生をどういうふうに生きればいいか、対処もなにも教えずに放置しっぱなしになってくよね。そもそも「やってはいけない」ことをやらずに済めばだれも悩まないよ。どうして失敗後の生き様について教えるようなもんがなにもないのかというと、やっぱり「失敗する奴=悪(=自分とは関係ない)」と考えて他人事として切り捨てる方向にしか考えてこなかったからなんだろうね。アメリカに住む韓国系のヒトたちがかつての「敵」ありきの方法でしか団結できないてのも「敵(=日本)が悪くて自分らは悪くない」と思ってのことだとしたら、永久に責任を負う気のない表明してるも同然になってしまうよ。
中国での日本軍による戦時暴力について、暴力をふるった側である日本が展示するなら反省になるんだけども、暴力をふるわれた側が展示すると「敵が悪いのであって自分は何も悪くない」て精神を是とすることになって、結局「戦争抑止するにはどうしたらいいか」て考えることからは遠ざかってしまうと思う。戦争でもなんでも自分以外の誰かが悪いて考えを軸にしてしまうと、いつまでたっても責任放棄したままになる気がすんだよね。日本軍に攻め込まれた中国政府の市民に対する責任はどうなるの?て話になるし。戦時暴力をふるった日本はどういう反省のしかたをすればいいのかというと、戦時に他国蹂躙をした事実を徹底して調べあげて、国内の展示施設なんかに常設しとくのがいちばんの反省行為になるんじゃないかと思う。やった側である日本が「徹底した事実調査」をしきれてないからこそ中国や韓国が嘘をまぜこんだ喧伝を繰り広げてるんだろうし。慰安婦さんが荒稼ぎしてた件だとかハンセン病に関する周辺事実だとかにしても細かい事実を詳細にしらべるごとにバラエティ豊かなネタがじゃんじゃんでてきて、知るほどにすごく面白いのよ。でも暴力をふるった側を一方的に責めたり謝罪さそうと罵倒したりすると、責められた側はクチを閉ざしてしまって、そのテの詳細な事実が出てこなくなっちまうんだよ。暴力ふるった側に洗いざらいしゃべらせるのが戦争の抑止に際していちばん役立つだろうに、黙らせちゃったら逆効果でしかないだろ。暴力ふるった側も誰かから責められるのとは関係なく、自分らが戦時にナニをやったか、てのをいろんな事実を列挙しながらみていけば、おそらく思いもよらないような事実がみえてきて、1面では切り捨てえない複雑さを多くが知ることができるようになると思う。念仏聖と部落と文学が直結してる件じゃないけど、現状でだれもが触れたくないと思ってることにこそ物凄く面白いネタがわんさと詰まってるんじゃないかと踏んでる。戦時のことだってたぶん同じかそれ以上にいろいろな要素が混乱を極めるほど凝縮されてるんじゃなかろうか。なので、いろんな国が責めるネタほど徹底して事実調査をして、常設展でいつでも観覧できるようにしとくべきだと思う。遊就館は本来的にそういう展示をしとくほうが外国の方に日本を深く知ってもらう上でも大切な場所になるはずなんだがな。なにしろ国家の反省の尺度として、その国が自国のやらかした蛮行について市民によく知ってもらう体制をしてるか、ていうのはいちばんの目安になると思う(あと暴力ふるった側の国民から慰霊担当の家系をだすとか)。「どっかの国が悪いんであって自国は悪くない」てしてるかぎりは反省からは程遠い体制敷いてるとみてほぼ間違いないと思うよ。文革に怒ってるヒトたちに対しては中国政府が市民殺した際の事実を詳細に調べ上げて常設展示にするほかないだろうな。それと、なんの対処にしても精神的苦痛をお金で補うのは解決にならんと思うけど、ヒドい目に遭った際にそれを拒否できるほどの高潔さを保っていられるかというと、結局それができるのは生活に余裕のある金持ちだけ、みたいな話になってしまうのかもしらん。
・公立小が荒んでるからって子供を私立小に入学させたがる風潮がわりに進んでるとのことを前の勤務先にいたTさんから実体験として聞かされたんだが、いじめっ子に向き合って暴力ふるわなくなるまで徹底的に話し合ってわかり合う、てのもそうとう貴重な経験になると思うがな。巷じゃ愛だのやさしさだの軽々しく喧伝してるけど、そもそも勇気がゼロだからそういうのが発動されずじまいなのな。いじめっ子が多い、てのはそれだけ無二の友や経験をするための機会がそこらじゅうにあるも同然なんだが、困難避けるを優先するあまりに「困難を克服することでしか得られない大きな喜び」をも手にすることはできなくなってくわけだ。まず自分が変わらなきゃ「相手を変えさす」なんてできっこないのにねー。誰かを傷つけずにいられない暴力行為、てのはその子に問題があることの現れなので、暴力自体を禁じることで問題があることすらも把握できなくなっちゃうから解決にはつながらないよ、てことは以前書いたけども、それと暴力行為についてだけ謝罪させてると「人間に備わった暴力性の存在をゆるさない」とかなって、キリスト教がさんざん喧伝してきた人間否定がはじまってしまうんだよな。暴力に抗するに「どんなことされてもグラつかない」が最上の対処法(グラついたら暴力ふるった側の思うつぼなんよ)ではあるんだけども、市井で実践するにはむつかしいか?グラつかされたほうが負けといえばさーノンストップ!で時間どうりに準備できない妻をなじる夫の意見がやりだまにあげられつつ「あらかじめ伝えておいたんだから間に合わすべき」て正論がでてましたが、そのテの正論て夫人みたいなわがままなヒトだと全然通用しないので「このヒトは時間指定しても間に合わないだろうから早めに設定しとこ」て急かさせたい側が勘案したほうが早いと思うよ。相手を変えさせたいんならまず自分が変わるの。相手の性質だとか個性を完全に把握すれば円滑にいくでしょ。セックスなんかでも同じことだと思うがなー。相手のツボどころをみつけないかぎり喜ばすことはできぬよ。この回で取り上げてた夫の人の言いぶんて大部分が「相手が自分の思いどおりにならないから」つってキレた系列の内容ばっかしだったなぁ。旅先でスマホいじるなんてありえない!つって車から奥さんおろしちゃったりさ。夫人と同じくわがままであつかましい人なんだろうなー。自分に従わないから、つって反乱分子の弾圧しまくる天朝の精神性とさしてかわらねーじゃん日本男児て思わずにいれませんでした。なにしろこのテのヒトの性質を完全に把握したうえでころがしてあげてると、しだいに落ち着いてきてやさしくなってくるよ。そういえばこの回のノンストップ!だったか?西川先生が旅先での予定をギッチギチ(激安パックツアーみたいだ)に立てた直筆の表を出してたけど、あれって「絶対損したくない(=得だけしたい)」て貧乏根性から派生したもんなんじゃねーのかなー。だから結婚もうまくいかなかったのね。て実母がしみじみゆってました。「予定通りに進ます」を結婚生活に待ち込むと苦しいことこのうえないだろうな。予定外の突発的出来事に対応できないってことだし。予定はたてず、臨機応変に対応する柔軟態勢でいるほうが人生の収支的には得になる気がするけど。そもそも離婚すら想定できないレベルの狭い了見だけで計った損得を物差しにする時点で全体的に損してるような気もする。ぜんたい上記にだした自己啓発本の広告漫画じゃないけど相手がすねちゃう場合は自分のほうの言い方をアレコレ工夫するしかないと思う。つーことで頭ごなしに否定する手合いは本音を聞き出すために酒のみにでも誘ってみたらいいんではなかろうか。ごくまれに同じ箇所にはいられないほどウマの合わない同士はムリに話し合ったところで逆効果になることもあるけどな。
荒行後に質素な料理に感謝したくなる件とか幽閉された生(での抑圧)があったからこその活動的な生(による開放感)とかみるにつけ、不遇(とみなされがち)な人生てのは…もしかして来世で幸福感を味わうために必要不可欠なイベントなんだろうか。ヤな思いしたあとにかんじる幸福感じゃないけど、ヤなことがなければささいなネタから幸せを感じることもなかっただろうし。ただ改善がよろこびにつながる悩みのタネは…それを見越して要求を持つ者が仕込んでるってことなんだろうか。

悪者叩きはするホドに問題解決から遠ざかってく件

観光名所にラクガキしたヒトは目立ちたいだとか面白半分でなんだろうけど「やったらいけない場所」だからこそやるんだよな。サイコパスの人が「法で定められてる」からこそ破るんだ的にゆってたらしいけど、厳重に禁じられてるモノを汚す、そうでなければいられない心持ちがどういう場合にわいてくるもんなのかを解明しないとまたふつうにやらかすヒトが出るでしょうなサイコパスといえば子供の裸撮りためてた人は小児性癖みたいだけど感受性が強烈な小児期に感じた欲求が深層心理に焼き付くことでその後の人生を支配する性癖となってしまうとすると、抑止てのは不可能だろうね。小児性癖の精神分析とかしてるヒトいないのかね。サイコパスと似た根なんじゃないのかと思ってる。なんらか強烈さに他の機能が働かなくなってる的なとこが。
・植民地支配した際にヘタクソだった者だけが責任を取らなきゃならんてことは、つまり「植民地支配をするに現地市民からの反感をださせずうまいことやった国はお咎めなしでOK」て論理なんだろうか。これが根源になって平和な世の中になったとしたら、それは「善き戦だった」として後世に語られることになるのと同じね。いま紛争地と呼ばれてる国にしても、現地から家康的なヒトが出ないかぎりは収まらないんだろうね。さんざん殺し合いした中でずば抜けたちから持ったヒトが現れておさまったうえで今の世が築かれた日本からしたら「戦乱がダメだ」なんて本来的には言えないはずなんだが。部外者がハンパに手出しするのがその国にとってほんとにいいことなのかどうかわからんし。
同性愛者差別だとか人種差別に陥っちゃうヒトがどうしてそういう考えを捨てられないのか、当事者と周辺がじっくり話し合って理解してくが真の解決策だとすると差別する人を追い出して済ましてるかぎり人種差別はなくならないんじゃなかろうか。「追い出す」てのは気に入らんモノを見えないとこへ追いやるだけで、なにも解決してないよね。アメリカあたりで差別が根にあると思しき状況がいまだに残り続けてるのは「差別を差別的行いで対処」してることの証なんじゃないのかなー。距離を置く方向の対処を続けてくにつれてどんどんその溝が深くなってしまうような気がする。その都度親密に話しこむ、て方向にはどうしてもなりづらいんだな。その方法は時間がかかるだけに結果がすぐ出ないから、せっかちなアメリカンとしては「とりあえず追い出す」方向の簡単な方法を選びがちなんだろね。差別といわれる言動は大方が不遇が原因で荒んでる人に陰謀論のっけて「叩く根拠」に仕立て上げたのちに個人的鬱屈をぶちまける対象にするが根源なんじゃないのかなと踏んでますけど、鬱屈ぶちまけが目的てとこからして「一体感欲求みたす目的の敵叩き」と似てますな。敵味方分かれて高揚さす、てのを市民に強いてたころから連綿と続いてるのな。マンデラさんにしても市民間の誤解を長期にわたって解消してくふうな政策を敷けなかったことが痛恨のやり残しだな。こういっちゃなんだけど、商売でもなんでも「一時的にうまくいかす」てのはわりと誰でもできるくさいんよね。それを政府が何百年単位で維持できるかどうか、てのがいちばんの問題でさ。特定のなにかを憎悪して発散対象に仕立てあげてしまう、てのは人間であれば誰しもが陥ってしまう心理である(そうならないように気をつけましょう)的な教えが義務教育なんかでされてないってことなんだろうけども。「差別してはいけない=してる人がいたら追い出しましょう」てのは「決め事に従わない人間の排除」であって、差別的心理に陥ったヒトを蔑む考えにつながってしまうんじゃなかろうか。それと同じく、ひっくりかえっちゃった船の船長だとか関係者を叩くヒトは「自分はそんなことするわけない(=自分は善・間違った相手は悪)」て思いながらやってるんだろうけど、他人ごとだと思う気持ちを抱いてるかぎり同じような事故が何度でも起きると思うよ。傾いた船からそそくさ逃げる船長さんとかも、事故なんざ他人事だと思って責任負う気がビタ1文なかったからこそさっさと船捨てたんだろうし。「誰しもいつその立場になるかわからない」ていう考えを多くが抱いてくほうが再発防止になる気がする。犯罪と呼ばれる出来事も同じで、誰しもがいつその立場になるかわからないのに、善人ヅラして「アイツらだけが悪い」なんて、誰にも言えないはずなんだけどな。人間であればいつそうなるかわからない、ていう考えこそが不遇な状況にあるヒトをも差別せず地続きで思いやることなんじゃなかろうか。中国や韓国がさんざんやらかした人に墓参りするのと同じだとして靖国参拝咎めるけど、かつて非道をやらかした権力者を「悪」として排除するのもまた彼らを見下して「他人事」として切り捨てる心持ちから派生してるだけに、なんの解決にもならないと思う。ヒトラーや東条だってみんなと同じ人間だったんだよ。同じ立場になったときに「彼らがしたのと同じ間違い」をしないようにするには、彼らを対等の存在として見なす心持ちが必須なんじゃないのかな。「罪を憎んで人を憎まず」を実践できてるヒトってほとんどいないのかもね。なんつーか、失敗したヒトだとか極端な心理状態にあるヒトを見下してるかぎり、その状況下で発生する問題について「責任をもって対処する」ことから遠ざかってしまうと思う。責任もつ、てのは自分の身になって考えるってことなんじゃないのかな。「悪者をみつけだして叩く」てのは憎悪をたぎらせることで、解決にはならないんだよね。それやってるかぎりは「自分がすべての責任を負う」て心持ちにいつまでたってもたどりつかないし。ちゅーごく(金が入り用で過去のことほじくってんのかねえ)にしても「自分以外の誰かが悪い」てしてるかぎり、国内の問題は解決されないままでどんどん悪化すると思うよ。自国政府がこれまでやらかした蛮行についての展示を政府がするのであれば、それだけで反省してることの証になると思うんだけども「敵によって自分の国がいかに蹂躙されたか」てやってるかぎりは物騒な考えにいまだにしがみついてる証にしかならんと思うがな。その点は日本やいろんな国ですら出来てないだろうけど(自国民の客足がのびないだろうしな…)。巨大な売り手市場であるちゅーごく様にソッポ向かれたくない一心でその思想に賛同する付き合いしかできないのもどうかと思う。「敵ありき」の思想こそがこれまで世界中に憎悪の種を植えつけた元凶なんだがな。それに賛同してくとなると、これからも紛争の原因を世界中にばらまいてまわるのを推奨する(現にウイグルで蛮行繰り広げてる中ですしね)形になりかねん気もするが。真逆なはずの「反省(=責任もつ)」と「叩く(=責任放棄)」を平然といっしょくたにして善行的に見なしてるふうなのが滑稽でねえ。書かずにいれんかった。
バチカンで逢いましょう(4/26。武蔵野館)て映画を夫人に連行されてみてきたんだが、スジとしては法王マニアのドイツ人の太ったおばあさんがローマに突入して、孫娘んとこに転がりこんだことで追いかけてきた娘ともども家族会議をする話で、なんか…このおばあさんが「ローマ法王に許しと祝福を与えてもらわないと生きていけない」的な考えなんだけども、だれかに許されなくても全員ゆるされてるし祝福されてるんだがな。神仏の分け御霊である自分を「だれかにゆるされないと生きられない存在」なんて貶めて考える自体が精神衛生上よろしくないような気がするけど。そもそもキリストの考えを「法王庁を崇め奉らせるための奴隷づくり思想」にねじまげた団体の管理者のどこらへんがありがたいんだろうか。信者の子を強姦せずにいられんくせして性欲否定し続けるつー時代遅れな思想強いる団体のどこが聖なるもんなのかビタ1文わからん。このおばあさんの孫娘さんは彼氏んちに居候してるかなんかで、その彼氏んちの壁には彼氏の描いた裸の女子絵が描かれてるんですけども、まーけしからん!とばかりにおばあさんがその絵のおっぱいと股のとこに法王の写真貼りまくっててさ。「敬虔なクリスチャン」からすると性欲と裸を否定する(=不自然)のが善なんだねー。あるがまま(=自然)を認められない時点で人間を憎んでるとしか思えんがなあ。そのわりにこのばーちゃんが彼氏かなんかにフラれた(そもそもあのベスバの爺さんがばあちゃんに偽装結婚持ちかけた理由が全然わからんかった。偽装結婚してどうする気だったんだろ?ひと儲けするのだとしてもそれに易々とのっかるおばあちゃんはクリスちゃん信念がカタいのかユルいのかよくわからない)際、やけっぱちになったかなんかで孫娘の働くバーかなんかで踊り出した挙げ句に「愛はすべてをゆるすのよー!」とか叫びだして、ばあちゃんホントはわかってんじゃんて思いました。なんかさー…世界中の「キリスト教徒」のヒトってはけ口として都合がよければなんでもいいんじゃねえの?て思わずにいれなかった。たまたまキリスト後の権力者が機関存続のためにつくりだした「オレらの決めた罪を犯したらオレらが許さないかぎりお前は許されない」てのに市井で自然発生する罪悪感解消観念が合致しやすかった、てだけでさ。それを信じるあまりに自分がハナから祝福されてる神仏の分け御霊だなんて受け入れられずにいるってだけなんでしょ。罪人なんてどこにもいないんだよ。見下す対象つくりだす思想にすがっておきながら何が世界平和だ。笑わせんな。余談だけど、前の勤め先にいたH部さんて女性(いまはアメリカ西海岸在住)がゴリゴリのプロテスタントなんだが、ジャーニーてバンドにハマってた過去話をしながら「前はわたしもそういう罪深いものを好んでて…」的に言い出してさ。その人はジャーニーだけじゃなくロック自体を罪だと見なしてたんだけども、ジャーニーやロック方面の才能持ってる人全員を差別してることに気づいてないんだなあと思ったっけ。ちなみにH部さんは同性愛もものすごく嫌っていた。物騒な宗教だねえキリスト教てのは。自分で憎悪ばらまいてることに気づきもしねーんだからな。ローマ法王庁を礼賛しながらキリストを踏みにじってるてわからんのだろうか。あんたらキリストを拷問にかけてる人と同じだぜ。まーこれまでのキリスト教は「なにが間違いなのか」てのを2千年来えんえんと体現してきたって意味では必要だったんだろうけどもな。それがなければ何が正しいのかってのもまたわからんよね。三位一体ではなく悪魔(=これまで全力で間違いをばらまいてきた法王庁)を加えた四位一体でなければ「世界を把握する」ことは不可能だった、てことをずうっと証明してきたようなものですね。

体が裸じゃなくとも心が裸の光景をみせられても後ろめたくなるんだな




アジア・アナーキー・アライアンス(3/12。TWS本郷)→ゴジラ(神保町シアター)→stay gold(3/27。空蓮房)→成田光房(4/23。湯島)→バルテュス展(東京都美術館)とみまして、バルテュスは服をはだけた少女が長椅子に寝そべってるふうな絵を多く描いた少女好きまっしぐらな画家さんの展ですけども、 このヒトの絵てなんか不自然さがみなぎってて、なんでなのかな…?と思いながらみたところ、人体のデフォルメ具合が針金人形ちっくだからなのかもしらん。上記画像の男の絵に顕著なんですけど「頭でっかち+足がスラリと長い+(足に比べて)短い腕・小さい手」ビジュアルな人(多くは少女)が、手足を無軌道に伸ばしきったうえで、すぐそばに他人がいるにも関わらず、まるで自慰をしてる最中みたいに「ある種の感情」に浸りきってるふうな表情を浮かべてるたぐいの絵が多いんすよね。上記に出した画像の鏡みてうっとりしてる少女じゃないけど、あの顔て他人にはぜったい見せない表情のひとつだよね。自分にみとれてるんだぜ。タンス預金をこっそり取り出して札束の枚数かぞえてるときの顔じゃないけど、自己愛にひたりきってる中のありさまが堂々と描かれてるもんだから、あの絵をみた瞬間にのぞきの現行犯目線にさせられてしまうふうな感覚に陥るんだよな。しかも少女がうっとりしてる系の絵の多くは薄暗い屋内で、そのうえで人体が木偶人形ちっくにデフォルメされてるから戯画感覚というか玩具遊び中の人形がほったらかしになってるみたいな「事後の空虚感」が漂ってる雰囲気が濃厚なんだよ。なんか…ヘンな浮遊感みたいなのがみなぎってんだよな。バルテュスの少女絵てさ。自己愛で閉じられていながら遺棄された人形の虚ろ感が漂ってるというかね。屋内少女絵の特徴として、展示作品中の16(Alice in the MIrror)・17(Cathy at her Toilette)・21(Therese Dreaming)に描かれたテーブルの脚と椅子の脚の影の伸びてる方向と、描かれた少女の目線や顔の向きが比例してるというか、少女が目線を向けてるほうから光があたってるふうな絵が多い(ちなみに上記画像の絵の少女は鏡を通して光源を見ているふう)。50(Katia Reading)なんかは光があたってるほうに目は向けてるにも関わらず、その光を遮断するかのように読んでる中の本を顔の真ん前に据えていて、克つ少女の目つきはなぜか疑るような雰囲気。光源遮断系の構図は34(The Week of the Four Thursdays)て作品に顕著で、椅子に座った少女が体のけぞらせて、着てるバスローブはだけてまで窓からの光から顔をそむけてるふう。日本語題の「決して来ない時」てのとやたら相俟ってる。光に目を向けてる少女が「受け入れ」を表してるとすると、光から目を背けてる少女は「拒否」を表してるんだろうか。34の習作と思しきD28(The Golden Days)は無関係かもしらんけど、窓から少女のほうへ2本の直線が描かれてるんよね。やっぱり光と少女の位置関係を重要視して描いてたってことなのかな。光の位置関係といえば38(The Window: Over the Cour de Rohan)ていう開かれた窓だけを描いただけの絵があるんだが、これって屋内/屋外との位置関係をけっこう重視してたあらわれなのかしらね。直線で構成された内装や家具と人間との位置関係を重視してる点はちょっとだけハンマースホイちっくでもある。そういえば17(Cathy at her Toilette)でも人物の背後にある戸棚の開き戸がすこしだけ開いてるんだよな。窓や戸棚の「開き具合」を盛り込まずにいれなかったのかなやっぱ。その絵に描かれてるのは少女じゃなく成熟した女性ですけども(でもまんこはツルツルのパイパンです)。なんか当時バルテュスが付き合ってた気難しい女性だとか説明にぐじゃぐじゃ書いてありましたけど、たしかに怖い顔してるしな。ほぼ全裸で靴だけ履いてる(このパターンがやたら多い)んですけども、むきだしのおっぱいなんかつーんと上向きながらもそれぞれの乳首が別のほうを向いてるという気性荒い感みなぎる描き方されすぎなのな。よっぽど怖いおねーさんだったのであろう。その脇で青年(たぶんバルテュス自身)が苦難をぐっと堪えてるふうな顔しながら、しがみつくように両手で椅子の背をつかんでいるのに対して、ほぼ全裸の怖いおねーさんは片手でかるく鏡台の枠木に触れている。気性の荒いにゃんこのそっけなさと、それをどうにもできずにいる真面目青年みたいなかんじの絵。怖いおねーさんとにゃんこ絵系列では33(Girl with Goldfish)つー金魚を見下すように見つめる少女と、その光景に背を向けて鑑賞者のほうに顔向けてるにゃんこの絵があったな。ふつう金魚と猫が描かれる場合、にゃんこは獲物(金魚)をみてることが多いんだけども、あのにゃんこは金魚には興味がないんだろうか。しかもあの少女、位置的に金魚じゃなく少年を見つめてるふうにもみえるあたり、ちょっとどういう絵なのかわからんかんじ。強烈な感情がみなぎってる空間にだけ漂う緊張感を絵にしてみる傾向なんだろな。なんらかの緊張感を感じさそうとする傾向の描き方は初期の絵にもすこしあらわれはじめてて、9(Storm in the Jardin du Luxembourg)のなかに描かれてる2人の男が言い争ってるかなんかしてるふうな、何事かが起きてる中を感じさす描き方をしてるし、13(The Jardin du Luxembourg)は輪っかを転がしてる中の少年がちょうど画面からいなくなる瞬間を描いた(つーかよく見ると少年は輪をつついてころがすための棒を持ってるほうの手を上に振り上げてて、それがどうしてなのかがよくわからない)…ふうな絵で、なんらかの劇的な瞬間を切り取る方向を模索してたのかなーと思える。劇的な感情がほとばしる瞬間の空間にみなぎった緊張感を描こうとしてたふうなのが顕著にでてるのがD4-D17の嵐が丘の挿絵ですけど、怖いおねーさん絵とほぼ同時期に制作されてんのな。どっちが先なのかな。そういえばバルテュスの絵に描かれてる人物て、全員クチをかたく閉じてるんですよね。なんらかの緊張状態にある、てことを表してるからなんだろうか。人物以外で緊張感を表してるふうな絵もたまにあって、24(Still Life with a Figure)なんかはテーブル上の食物を描いた絵なんですけども、飲み物がハンパに入ってるグラスと、器から飛び出しかかってる果物(36の伊勢海老絵に顕著なんですけど「皿からハミでるほどのブツ」描写好きなんでしょうね。長椅子から手足をだらしなく放り出してる少女と同様に)と、それとナイフが刺さったままのパンという、だれかが何かした痕跡だとか「途中」ふうをニオわせる状態のブツばかり配置してる。これがなぜかカーテン風の幕によって隠されてたらしくて、少女がその幕を手で持ち上げてるんですね。どういう状況なのか、前後を知りたくなる構図が多いんだよな。前後を知りたくなるといえば47(The Cardplayers)はトランプ遊び中と思しき少年少女の絵ですけども、目つきの不敵さから緊張感はもちろんあるんですが、なんか…人物の描き方がゴツい兵隊を小さい人形にしたふうなデフォルメがキツくて、幼年期の緊張感に漂う滑稽さを戯画化したとかなのかな。そこまで殺意みなぎらせる場でもねーだろ(笑)みたいなふうにも見える。真面目ぶってるふうなのでは31(The Room)てのが全裸にくつ下の金髪寸胴少女が真っ正面向いてキリスト風なポーズとってる絵とかはエロというより戯画風な側面がちょっと強いかんじ。でもその全裸にくつ下の金髪少女のうしろにいる女中風のおばさんが叩く道具(たぶん布団たたき)持ってたりする32(Georgette at Her Toilette)なんかはちょっとだけ不穏さをニオわせてたりする。なんか、描き手がしたいことを脇の道具でそれとなく演出してるふうな絵てのもけっこうあって、21(Therese Dreaming)とか顕著。パンツまるだしのまま両目閉じてる少女のすぐ脇で猫がミルクなめてるとか、あからさまですね。叩きたい。舐めたい。そうですか。直接描くとマズイので間接表現。上記画像とかみた瞬間「滾らせてんなー(笑」てふつうに思いました。今回は出品されてなかったけど、まんこまるだしの少女が女教師から折檻されてる中と思しき絵とか、けっこうあからさまだよな。大回顧てからにはあすこらへんの代表作もきてるかと思って期待してたんだけども、きわどいのは全然なかった。あからさまっていうには足りないけど、習作であるD50(Still Life with Basket)に描かれてる桃(杏か)の割れ目にだけ赤色をひかえめに乗せてたのがちょっとよかった。静物画系でも薄暗かったりするのが多くて、どうしても屋内感が充満してるのが多かったな。41(Morning Glories II)なんて上からみたせいか背景が焦げ茶1色だし。屋外ぽさや陽の光描写をぜんぜん描かないんだからな。後年の作品である51(Montecalvello Landscape II)なんかも暗めの色合いの風景中で、川だけが細く青白く光ってるふうな描き方してて、なんか汚濁の中の聖水なんだなと思った。そういえば1930年代に描かれた風景画で、絶妙の安定感を誇る作品があったな。19(Summertime[Study for The Mountain])ていう、背後の山々と同じようにゆったりと原っぱのうえで寝そべる絵と、あと23(The Cliff)つー手前に草原があって奥に山々があるというなんてことない風景画なんだけども、あの落ち着く感覚はなんなんだろうな。なんか…絨毯のうえにきたみたいな穏やかさをかんじる絵だった。バルテュスの風景画であんなに癒される作品があるとはね。他には1950年代のやたらに暗い雰囲気の大人の女の絵から成熟した女への興味なくしたんだな感をひしひしと感じたのと、1960年代の春画感あふれる女体絵から新たな覚醒をかんじた。49(Japanese Woman with a Red Table)は着物はだけた浮世絵風の色白女性が軟体動物ぽく描かれてるうえ、周囲の小道具なんかもちゃんと描き込んでるし、日本におけるエロ盛り上げ小道具使い回しすらもこなすって生粋の変態にしかできんよなぁと感心した。そういえば48に自作したと思しき粘土ぽいもんで出来た少女のトルソてのがありましたけど、なんかクオリティがボロボロでどうしたんだろう。それと展示で写真だとか来歴説明なんかもけっこうありましたが、バルテュスはデビッドボウイと並んで着物の似合う外人男子ですな。完璧に自分のモノにしていた。
stay goldは木漏れ日から差し込む陽の光をPC加工(なのか?)できらびやかに目立たせたふうな写真なんですが、ギャラリーの構造上、屋内にカドがないことから物陰的な部分が極端に排除されてまっさら感が強烈なので、展示された作品の表現する光がより際立たされたかんじだった。部屋のすみっこに座って観賞すると狭さを感じない。広い空間でじっくり向き合ってる味わい。浄土に恐ろしいモノや未知のモノがひとつもないのだとすれば、それは満ちた光によってすべてが白日の下にさらされるからだろう。光によってすべてが明らかにされ、安堵する。だが、その光が強すぎれば目がくらみ、なにもみえなくなる―ひいてはすべてが焼きつくされ、形あるモノが無くなってしまうだろう。木々の下にいるとき、木漏れ日をかんじるとき、なぜ心地よさを感じるのか?それは木々が「ちょうどよさ」によってしか育まれない存在だからだ。光、土、水―それらのうちのどれかひとつでも過剰になればたちまち干涸びるか、腐り落ちてしまう。生きるとは「ちょうどよさ」を体現してゆくことなのかもしれない。木々に囲まれるとき、わたしたちは「ちょうどよさ」に囲まれて心地よさを享受している。木漏れ日の輝きを宝飾品のように散りばめた武田陽介の写真をみると、女性が宝飾品を好むのはかの「ちょうどよさ」を身につけていたいからなのかもしれない、と思えてならなかった。武田陽介の際立たせたきらびやかな光は鋭く、ときに丸い。心霊写真と称されるモノに映し出されるオーブ―霊魂のたぐいがまるいのはなぜなのか。蜂の巣の六角、雪の結晶の風変わりな形状、丸と角の織りなす水と陽のかたち、そのなかで「色」とはいったいなんなんのか。影では見えず、光があたることではじめて見えるようになる色。ちょうどよい光だけがもたらす色彩は、調和の証なのかもしれない。
成田光房はなんか私塾もやってる美術家さんちにあがりこんでいろんな作品を拝見した。バルテュス展いく途中にチャリでフラついてたら八重桜の花びらで敷き詰められた小道を発見して、この先にギャラリーがある的な案内がでてたんで行ってみたっつー。成田秀彦さんは最初は写真表現をやってたそうなんですが、やってるうちに写真だけじゃ表現しきれなくなって絵や立体なんかも手がけるようになったもよう。おもに平面作品をいろいろ見せてもらったんですけども、上記画像にもあるように円形がなんだか出てきてしまうらしかった。当人は意識してないらしいんですけど、丸形だとか円が入ってる作品がすごく多い。上記画像の「吸い殻入り灰皿+たまご+稲」作品はつくった当人もなぜだか気になって、あの並びまんまで銅かなんかの立体をもつくったとのこと(みせてもらった)。なぜだかわからないけど、この並びは日本人にしかできないよ、とおっしゃっていた。ほかにもアメリカのサ店のカウンターに置かれてるような販促用マネキン的なのの写真とかわんさとあったけれども、自分から展覧会とかする気はないとゆっていた。そんなことする暇あるなら作品づくりしてたいとのことです。自分の内にあるモノをひたすら具現化するのが大事で、ヒトに知られるかどうかはどうでもいいとかそういうことらしい。成田さん宅には亡くなった美術家さんの残した作品なんかもたくさん保管されていて、なかでも田中繁一さんという方の絵がよかった。直線使いという意味ではモンドリアンの系譜なんだけども、モンドリアン絵が太めのタテ黒線とヨコ黒線で構成されたいろんな大きさの四角に、それぞれが引き立て合うような3〜4色の原色がまぜこぜに配置されてる(印象派の花畑表現とかカンディンスキークレーあたりの抽象表現をさらにデフォルメしたノリね。ドット画の走りなのかな)傾向なのに対して、田中繁一さんの絵は「直線使い」て点だけはモンドリアンと共通してるんですけども、隣合う色同士が同系色の淡いパステルカラーで構成されてるので、直線しかないのになにかやわらかさや儚さを醸し出してるふう。モンドリアン絵がカタくてガッチリ構成された直線なのに対して、繁一さん絵はふんわりやわらかな直線を色合いで表してるかんじ。無機的な「物」を有機的に感じさすにはどうしたらいいか?てとこからつくられた辰野登恵子さん絵だとか、ロゴマーク的な商業手法でもってエロ表現してる高橋秀さんの版画を思わせる。つーかこの2者の作品といっしょに展示してほしい。いまさらだけど、美術家さんてのは「説明はできないけど日頃からなんとなく感じてるモノ」について表現せずにいられんのだなーと思った。日頃目にはしているけれど、はっきりと言葉で表すことのできない心地よさや違和感について、いつか出さねばと思ってるんだろな。あとは中根明貴子さんて方の1976年の作品で、暴風が砂埃を巻き上がらせた瞬間に浮かび上がった輝くナニかを捉えた瞬間をまま形にしたふうな版画がよかった。中根さんは後年はこのヒトの作品のノリに近いコラージュ的な抽象画なんかを描いてたっぽい。他にも森田玖吾さんて方の鉄製のフクロウの立体だとかいろいろ面白いもんがあったんだけども、名前で検索してもインターネッツではあんましでてこないのな…。インターネッツにでないとなると埋もれたままになる確率が高くなる気がするんだが。トシくってからPC覚えるのってたいへんなんだよなー。身内でPCやるヒトがぜんぜんいないとなるとさらにハードル高くなるしな。
ゴジラは初めてみてみましたが、なんか…怪獣てよりふつうに生物扱いなのな。動物学者さんが調査に赴いたりしてたし。深海に住んでた恐竜の生き残りが水爆実験の影響で放射能吐くようになってしまって、都会を火の海にしてまわるってスジ。これどうやって収拾つけんのかなーと思ってたら天才科学者みたいのがでてきて、こっそり開発してた兵器(水中の酸素をすべてなくしたうえ生き物をすべて溶かしちゃう…んだっけ)を使ってやっつける、てオチだった。あのあと魚とれなくなっちゃったろうな。ゴジラもなんか…学者さんが調査にいった際、音もなく山陰からスッて現れて、意外と身軽なのかなと思った。いなくなるときも足音すらたてずに海に消えてたし。映ってるときは重たそうに動いてるのにな。みてないとこではフットワーク軽いのかもしらん。島にのこされたゴジラの足跡に三葉虫が残されてるくだりがほのぼのした。全体的に反戦映画なかんじだった。兵器を開発した者の苦悩とかもちゃんと描かれてたし。
アジアアナーキーは戦時プロパガンダの不穏さを静かに表現してるふうな傾向の作品が中心だった。しょっぱなに展示されてたジョンペット・クスウィダナントさんのはデモ隊の服装だけが立ち姿ままで展示されてて、近寄ると自動的に服装に付随されてる楽器が鳴り出すふうな作品でしたけど、頭部がすっぽり覆われてるふうな出で立ちってのはイスラム教関連のナニかってことなのかしら。イスラムに関する知識がまったくないおいらからするとあの「頭部が覆われてる出で立ち+デモ隊」の組み合わせからはどうしても過激派がよぎってしまっていかんな。付随してあるグッツは武器でもなんでもなく楽器でしかないのに。イメージて怖いもんだな。あとザッとしか見てないんですけど、義務教育の体操着みたいのを着たイイおっさんたちが商店街で体操してるふうなチェン・チンヤオさん作品とか、おそらくCG映像だと思うんですけど小舟1艘につき男がひとり乗ってて、それぞれが立ったまま信号弾みたいのを何分かおきに撃ちあげるチェン・ジンユエンさん作品(寄る辺なく漂い続ける不安感と、信号弾を撃ちあげ続ける―誰に伝わることもない状態から醸し出される逃げ場のない不穏感が妙に合致してますね)だとか、あと切り絵アニメ風な映像で自然に囲まれた平穏な地域がいろんな人種に踏み荒らされて次第に不穏になってくふうなドゥ・ペイシーさん作品もよかった。自然現象でいろんなモノが破壊されるとこをみるにつけ、そこから生まれた人間てのは元来破壊したい性質が備わってるのかもしらんなあと思う。映像作品ではヤオ・レイヅォンさんの「万歳ー!万歳ー!」て叫びをカメラが追ってくと廃屋の奥の広間壇上で軍服みたいなの着た男がひとりで叫びつづけてるとこまでたどりつく映像がよかった。だれも声高には言ってないけど「体制」ていうモノに対する漠然としたイメージを作品に盛り込んでるふうなのが中心だった気がする。日本人であるおいらがいうのもなんだが、暴力て心に刺さるからこそ芸術作品にしたときにもその効力を同じく発揮するんだよね。マジに平穏な世の中になったらこういう作品もまったく生まれなくなるかもしれんな。このアジアアナーキー展てTWS本郷だけじゃなくいろんなとこでやってたみたいだけど、各々が遠いからまわるのひと苦労に思えてしまって足が遠のいてしまったよ。ほんとはちゃんとみなきゃならんかったよなこれ。

誰かを叩く人はほんとの原因から目をそむけてる件

・寿司て、たしか忙しいヒトが食事をさっさと終わらすために編み出された江戸時代のファストフードなんだよね。それが今では国賓もてなすレベルの高級品になってるわけだけども、独自文化てのはやっぱし底辺というかモノのないところからしか生まれないんだな。なぜか。カネとモノのあふれたところからは生まれない。なので、独自文化の土壌とみなされるモノはそっとしておくが権力者としては賢いと思いますがね。たとえば夜通し踊るディスコとか。踊り禁止とかって、そのテの場では麻薬系列の違法ブツ取引が交わされやすいから、いちいち潜入捜査してチマチマ逮捕するような手間をぜんぶ省きたくてそんな乱暴な決め事したんでしょ>お巡りさん。それこそ「悪事が行われる場を根こそぎ無くせばいい」とばかりに。それじゃ生まれるもんも生まれなくなっちゃうよ。漫画なくせだのディスコなくせだの、自分らの手間省くのを優先させてお国の文化潰していいのかよ。お巡りさんを怠けさせた挙げ句に文化潰しに加担する政治屋てのもいいかげん焼きが回ってるよね。ディスコは解禁さしてお巡りさんはチマチマ潜入して違法ブツ取引を取り締まりなよ。怠けを正当化さすための決め事に堂々とすがってんじゃねえよアホ警察。寿司が高級食品化した件じゃないけど、高度成長期につくられた「高級ホテル」の部屋の内装とかデザインのそっけなさってヒドかったな。カプセルホテルの延長かってくらい事務的でさ。今になってようやく「客の心地よさ」を勘案するふうなデザインになってきたかんじがする。ヒトの気持ちに寄り添う的な変貌てのは突き詰めると快楽に近づくから、ヘタこくとラブホテルに近づいてしまったりしてな。デザインだとか食文化てのは社会的認識すらも時代ごとに変わり続けてしまうゆえに、神社仏閣なんかで捧げられる供物の変わらなさを保つ、てのはすごく大事なことなのかもしらん。
・殺害とか虐殺ていうとわかりづらいけどこれて要するに「部族間の抗争」に於ける行為とみなせば日本でも戦国時代にやってたことと同じなのかな?とも思う。戦の際に「健康な女を戦利品とする」のがどこの国でも変わらないのと同じで。そこで天下統一するヒトが現れればおさまるような気もすんだがな。そういう人はそう簡単にはでてこないか。同じ残酷行為でいえば動物の世界では子殺しはあっても大量虐殺はないんだよな。縄張り争いて観点からしても相手方を追い出すだけで皆殺しにする必要はないし、憎悪する必要もない(威嚇には憎悪ほど複雑な感情はない…と思う)はずなんだが、人間はてきとうな理由つけて憎しみを持っちゃうから色々こじれるんだろうね。あーでもトリなんかは生存本能が凄まじいんだけど、あれは憎悪的な感情に駆られてるんだろうか。人間を動物とみなせば本能に忠実に生きるサイコパスは生態系の頂点にいる存在なのかもね。ちなみに動物はつがいでずっといるのもたまにはいるんだけども、大方は「交尾したら解散」てのがふつうくさい。なので浮気て概念は人間にしかないと思う。
・虐待する人はといいベビーシッターといい自分にとって不利にしかならんから追求されるとクチを閉ざしてしまうわけだが、それと同じく自殺の背景について知ろうとして真っ正面から問いただすと、学校側は責められると思うからクチを閉ざしちゃうんだよね。原因を追求するに際して「相手を責める」てやり方はクチを閉ざさしてるとこからして逆効果なのになー。暴力をふるった人を「悪」とみなしてるから、その「悪」を排除しさえすれば解決すると思って責めるやり方しかしなくなってるんだろうけど、体制や家庭内の不備による歪みが出てしまってるだけで「悪」なんかどこにもいないんだよ。つーことで隠蔽体質を正したところで「部下いじめ」をせずにいられない原因のほうはほったらかしだから、またふつうに再発すると思う。現にずうっと前から歯止めかかってないしな。部下いじめって軍隊でも警察でも頻繁に起きてるんだよね。ベビーシッターが預かった子を虐待する件てのも色んな国で起きてるみたいだけど(海外映像番組でもたまに取りあげられてるし)、子供を虐待しがちな心理を持つヒトがなぜこのテの仕事をやるのか、てのが解明されないままほったらかしだからまたふつうに再発しまくるでしょう。虐待する人がどうして結婚したとたんに暴力をふるうのか、てのも虐待する側の心理面を治療しないかぎりは野放しだから被害者が増えつづけるだろうし。原因がほったらかしといえばさーこれボストンマラソンのテロ事件の余波で監視カメラつけまくる風潮が欧米ですすんでる旨とりあげてたけど「なぜテロリストが生まれるか」「テロをする精神性に陥らせないようにするにはどうしたらいいか」ていう根本原因がほったらかしのままだから、カメラ増やしたところでそのテの事件は今後もふつうに起き続けると思うよ。監視カメラさえ増やせばいいと思うのは「犯人=悪者」として切り捨てるヒステリー的発想(これを基底とした行いはなんであれ原因追及から遠ざかる)であって、目先の不安を場当たり的に解消さすだけでしかない対処法だから、世の中をより不穏にしてくだけだよ。必要なのは監視カメラじゃなく、不遇に生まれついた子を早急に支援できる福祉体制なのにね。ひどいことしでかす人が「悪」なんじゃなく、多くは生い立ちや環境が原因なんだよ(もっというと「誰かのせいにしてしまう考え方」そのもの)。監視カメラ肯定論てのは「それさえ付ければ解決する」とか思い込んで、根本原因に目を向けようとしない典型的な責任放棄思考から生まれてるよね。
このテの事故て「国が遅れてるから」起きるのじゃなく「安全より儲け」が優先されるようになると起きるっぽいよ。人命よか経済成長が優先されてきた証というか。たしか福知山線がマンションに突っ込んだ事故も遅れを取り戻そうと急いでて起きたらしいし、チッソの公害なんか「人命より儲け」を象徴してるような事件だな。儲けを優先しすぎててきとうな手術したり、美容系では皮膚が傷む化粧品なんかも同じ系列くさい。船の事故関連といえば…ここ数日朝日新聞の読者欄の川柳コーナーで「神よ荒れた海をなおしてください…」的な作品を何回か見かけた気がすんだが、わからんくはないが…あつかましいヒトに対して「その性格なおせ」てゆってるのと同じで不毛なんだよな。相手を知った上で上手に対処するのがヒトとして成熟するってことなんだが。そういえばこの前ひさしぶりにバイトに呼ばれたんだが、作業中にあきらかに夫人の間違いによって混乱を極めてる箇所が出てきたんだけども、無言で全部直してから後で「こういうふうにしときました」てなにげなく報告したら夫人はすんなり受け入れたし(間違いを見つけた直後に指摘すると逆上して事態がものすごくこじれる。てことが勤めてる中に何度もあった)、ランチに連行された際は「夫人より確実に早く食べ終えられるモノ」を注文したのでその日はすべてがスムーズにはこんだよ!!ミッションコンプリートしたぜ!!てグッとした。夫人の心理傾向をすべて把握してうまく付き合えるようになった。成熟したユーはなにしに火山家族のお父さんじゃないが、山の性質を知り尽くしたヒトが謙虚かつ愛情もってアタックしてくると山の神様としてはすんなり股を開いてくれるんだよね。逆に山の性質もろくに学ばず礼儀違反ばかりしてくる傲慢なバカは普通に殺されるわけです。あつかましいヒトを上回る。暴れ馬をのりこなす。それが自然とうまく付き合うコツなんであろう。コノハナさんがそう簡単に股を開くと思うなよ。まんがで読破版のキリスト教まちがい探し本じゃないが、あつかましいヒトの個性てのが疎ましいふうにしか捉えられてないよね。個性をぜんぶ尊ぶつーたらそのテのヒトの個性だって尊ばれてあたりまえなんじゃねーの?黙っててものし上がる奴を尊ぶ必要なんかない、と思っての事なんだろうけど、それって差別だよね。あつかましさを敵視したり疎んじたりしてると女性の社会進出なんかできなくなっちゃうと思うけどな。ビジネスでうまくやるのってあつかましさありきだしねえ。領土とるまでやると犯罪と見なされちゃうけど、でもそれを犯罪てするとアマテラスさんが犯罪者ということになってしまいますね。アマテラスさんて男の嫉妬とかどうやってかわしてたんスかねえ。男の嫉妬といえばノンストップ!で女子力でのしあがる女てどうよ的なことやってたけど、おんながマジに実力1本で勝負するとなると男の嫉妬をもろに受けることになって、セクハラよりヒドい(殺される)事案が続出する可能性が高いので、てきとうにブリっ子して男の嫉妬をやんわりかわす自衛機能を働かしながら世渡りしてた方が社会がギスギスしすぎなくていいと思う。ハウスワイフ2.0とかもそこらへんから派生したもんじゃないかと思ってる。
対話もいいけど、人種差別に走る向きは自分が向き合わなきゃならん問題から目をそむけつつ鬱屈のはけ口にするために「たたくのにちょうどいいモノ」を見つけると攻撃しはじめるわけですが、このヒトたちに「あからさまな嘘」なんかが見つかってしまうと、たちまち陰謀論につなげて「叩く」ための根拠を補強する要素として使われてしまうので嘘はつくもんじゃないよ韓国さんにしろユダヤさんにしろ。その嘘てのも有利な立場でいたくてついたんだろうけど、それが鬱屈抱えたヒトたちが攻撃対象を叩くための道具として利用されちゃうんだよ。自信をつけるために虚構にすがってる同士で憎み合ってるのな。ちゅーごくもさ、大昔は知識面で日本よかずっと進んでたってのに、今じゃさして意味すら把握しえない西洋由来の罰や謝罪の価値観にトハンパに踊らされてる有様じゃないのよ。文革で知識人殺したのが中国にとってどんだけマイナスだったか天朝はリアルにわからんのだろうねぇ。自分で自分のスゴいとこを潰したんだよ。その価値観があれば欧米も追随できないような思想でアジアを安定させられたろうに。人種差別のヒトもさ、嘘について淡々と論破すりゃいい話なのに外国人街までいって「出てけ」とか言える立場じゃないでしょ。中韓あたりとは下請けだの貿易だので密接に関わってんだし。不遇をこじらせるといえばこの番組で自己中な売れない芸人(子供3人の世話&生活全般すべてやってる奥さんが、夫であるその芸人になにひとつ手伝わないことを咎めると「じゃあ出てけよ」「離婚だ」「(子供は)施設に入れればいい」とか平然と言ってのけるのにキレた奥さんが子供連れて実家に帰っちゃったことでようやく改心する)が孤児院的なとこで育ったらしくて、そこで相当ヒドい目に遭ったかなにかでその時から「復讐のため」に芸人を目指したらしいんだけども「オレがツラいのは○○のせいだ」的な動機は「相手を屈服させたい」系の攻撃欲求に基づいてるから、笑いのツボどころからは遠ざかるばっかりでうまくいかなくなりがちになってたんじゃないのかなーとちょっと思った。この芸人さんが奥さん子供がいなくなったことで何が大事なのかをようやくわかったかんじだったんだが、仏教説話まんまだなーとしみじみした。損得関係なしで自分を気づかってくれるヒト、そばにいてくれるヒトてのはすごい大事なんだよ。この世にそうはいないよ。ただ、ここらへんを曲解してひたすら貢ぐ女子とかいるみたいだけども、それやってると男が逃げてくんじゃないのかな。貢ぐ女子がカネで相手の心を支配下に置こうとしてるのを感じ取って、気色悪くて逃げてくんじゃねーの?女子はなんでそんなことするかって、その男が自分に身をゆだねてくれるほどホレてない、てのに薄々気づいてて、その不安感をまぎらわすためにカネでつなぎとめようとしてるんでしょ。男としては漠然と「精神の自由」がないのを感じ取って逃げてくんだな。不毛な関係だな…。風や太陽を金で買おうとするのがバカげてるように、人の心を金で買うなんて傲慢を通り越してバカの考えることだ。そういえばこの前の金スマで西川先生の生い立ちを取り上げた際、母親から「世の中はカネとコネでどうにかなるのよ」とか刷り込まれつつ、勉強するのも金で釣られてやってた(心を金で買われた反発から豪遊しまくってたんでしょうね)再現映像が流れてたけど、西川先生のかーさんはどうしてそんなこと言うようになっちまったかねえ(リンク先に旦那が原因的なこと書いてあるな…)。人の心をカネで買う(=人身売買や奴隷と同義)を推奨するような心証でもって医者が育まれてるのかと思うと寒気がするねえ。患者にろくに向き合いもしない冷血な若手医師が増えてるって言われてもなんのふしぎもないよ。そういえば前に歯科医宅でアニキが妹を惨殺した事件とかありましたなぁ。医者てなんか…家ごとに自動的に継がせるふうな流れになってるくさいけど、西川先生んちの事情とか考えるとすげえ怖いね。いま医者で子供のいるヒトって傲慢さがなんであるか自覚できない貧乏根性もちばっかしなのかね。幸い西川先生は医師現場だとか結婚とゆう人生修行でさんざんしごかれて心を入れ替えたもようでしたが。親がバランス崩しててもそれを真に受ける必要はありませんよ的な道徳教育を学校やなんかで出来ればいいのにな。
・克服したときに成長できるような「苦難」てスゲー貴重なのかもしらん。「克服」て困難がなければ得られないもんだし。なんか…困難だとか苦難てのはあの世にいったらもう手に入らないぽいよ。この世で困難と感じること、てのは実はすべて糧になるのかもしらん。とはいいつつ「すべての経験を糧とする」ためにはまず善悪観念を手放す必要があるんだろうな。怪我したときに「前の体に戻れたらな…」的に考えるのは怪我を「失敗」や「マイナス要素」と見なしてるからだろうし。「すべての経験」には殺人や暴力といった非道と見なされるもんもあるんだが、他人にヘンなちょっかいださずにいられん向きには大まかに「自分に満足できないことから他者に危害を及ぼすヒト」と「叫びとして危害を及ぼさずにいられんヒト」の2つに分けられるんじゃないかと踏んでる。前者については「このままの自分ではダメだ」と思っているから、他者を自分の意のままにすることでその欠落(と思い込んでいる側面)を補おうとしてるんでしょうな。だれかを屈服させずとも「満足いくモノ」が元からぜんぶ備わってるのに。「自分でいい」のだと気づけば他人をどうかする必要なんかなくなるんだがな。後者については「叫び(=自分が暴力を受けたことのサイン)」として「せずにいられなくてやってる」場合が多いくさいので、それを目の当たりにしたときに当人から「痛めつけずにいられない理由」についてじっくり話を聞くといいと思う。「叫び」としての暴力の場合、その叫びの内容を検分しないかぎりいつまでたっても解決しない可能性大。暴力を受けた側は、叫びを発している(=暴力を振るう)者に向き合う義務が発生したも同然なんだよ。自殺してる場合じゃないんだよ。差別だとか暴力だとかを「ダメ」てすると、叫ばずにいれない側が受けた暴力のだす場がなくなってしまうんだよね。すべてあっていいんだよ。それをみつけたときにどうするかが大事なの。だすな、て言う人はじゃあ隠れた暴力をどうやって見つけるつーんだよ。あんたの見たくないもんを目立つとこに出させないようにしたいだけだろ。それは隠蔽ていうんだよ。基本的に「自分が幸せになるには他人を幸せにするのがいちばんの近道」てのを原理にして実践するようにしてれば危害を及ぼす必要なんかなくなるはずなんだがな。