のいむくむくしてた

・またそうゆうバチあたりなことばかりやって!!!(もしくは「ブッダ」検索)みたところキリスト受(←ホモの女役を指す腐女子用語)なようですが、そもそも無害なメジャー宗教者は基本的にヤサシー人だからどれも受みたいなものなので、そこで攻受の分かれ目はというと「おとなびてるほうが攻」「チャイルドなほうが受」みたいな基準になるんですね。よくわかります。白人のクリスチャン女子的にはクリアすべき禁断の果実が増えてさぞうれしいことでしょう。同人誌でクジラの刺身に舌鼓をうちブッダにケツマンコ掘られて快楽にあえぐキリストでも描いて白人たちを真っ赤にしてやればいいよ。

・まなさんとこで出てたセンダック実写映画の件…超不安。叱られて部屋に閉じ込められたマックスの暴走はかーちゃんにも止められないぜ!でもさいごはおうちに帰ります。みたいなこどものガウーみたいなこころの風景をまんま描いただけのもんにヘンにリアルなドラマとかエモーショナルな展開をこじつけたりしないでほしい。まあ絵本とかさしてすきでもない一般の映画ファンの人はふつうに感動したりするんだろうけどさ…。センダックってちいさい子の脳内の無軌道さ(+幼さによる限界)を世界の中心かのように描く手法の人だからあまりおとなの姿は描かないしさ。おとなとか現実のしがらみとかでちゃうともうそれはセンダックではないような気がする(でもこれみたいにリアルなしがらみネタでもコメディ色が強ければちゃんとセンダックだ)。そういえばセンダック画集みたいなやつにちょっとしたラクガキ漫画みたいのがあって、赤ちゃんがペットの犬と中身が入れ替わっちゃって、よーし遊ぶぞ!となったら親からガミガミうるさくいわれることに変わりなくて結局どの生き方もそれなりにつらいよ!みたいなやつがあって、あれもコメディタッチだったし。とりあえずセンダックは基本ユーモラスがガチなのよ。ベターッとしたお涙頂戴やめてくれ。まあ原作者がちがう作品のときは大抵こういうふうにエモーショナルになってますけど。

本当はみんななんにも考えてないくせにといえば昨日みにいった中原さんイベント展のさわらぎのいさんとの対談で中原さんが「(ほんとはカネのこととか色々考えてるはずなのに)なにも考えてませんとかいうバカはほんっと死ねばいいんですよ!」とか力説してた。正しくは「部分的になにも考えてません」と言うべきだというアレなんでしょうけども。てゆうか中原さんの繰り広げる掘り下げどころ満載のあやしげな話に対して、のいがテンション低すぎて「ふーん…」「はあー…」みたいな受け答えしかしなくて見せ物なのに会話自体がとぎれがちでやきもきした。まあなんかふたりは以前からのおなじみさん同士なんでしょうけどさ…そういうの知らないおいらとかもみてるトークショーなんだからちゃんとアーチストにいちいち突っ込んでたずねたりしろよのい…。対談のテンション下げてどうすんだよ。おもに中原さんのが気をつかって話を盛り上げようとしてる始末だし。のいが現実味のうすいヨタ話にのっかれないカタブツってのはわかりましたけど。あと美術評論家が画家はなんで絵描くんでしょうね…めんどくさいですよね…とか言っていいのですか?対する中原さんもなんで絵描きつづけられるのかぜんぜんわかんないって言ってたんでトークショーの結果的にはよかったのかもしれませんが。とりあえず絵を先に見てからライブや対談にのぞむ姿勢でいたんですけど、練習してるとこに絵が飾ってあってみれなかった。休憩時間になっても絵のとこが中原さんでふさがってて半分みれずじまいでしたし。で肝心の作品ですが、ベタ塗りの絵とコラージュで切って貼った上から塗ったりしてるものとあるんですけど、大抵コラだろうと絵だろうと作り手の快楽とかを叩き付けてあったりなにがしかの伝えたいことが収まっててそれが読み取れるものなんですけど、そういうファインアートとしてあるべきものがなんにも感じないというか、メッセージみたいなものはまったく込められてなくて、でもオリジナルの原作品をCDジャケット使用時の完成図としてみるとすごくピッタシで、なんかデザイン寄りの仕事というか空間演出とか舞台配置とかのアートディレクション系のつくりかたなのですな。なんかCDジャケットのデザインとしてみればすごく異様で映えるんですけど、作品だけをみるとデザイン的な視点以外になんにも存在していないのでなにも思わないんですよね。中原さんがつくってる当時も「ジャケ」という観念しかなかったんだと思う。ただ、どうやって「ジャケにするとかっこいい配置のもの」を作り出してるのかというとそれは本能的に備わった美意識に従ってつくられているもんだと思うので、それを選びとる感性がずば抜けてるんだと思います。なにかとなにかを組み合わせて別の世界がたち現すことが巧みというか。その手法はコラージュ作家がやると一般的な美しいという感性に基づいてつくられて耽美色の強い少女的な雰囲気の作品になることが多いんですけど、中原さんの場合一般的な尺度からした美しいとかの観念はいっさい排除されてて、逆に逆撫でするような視点をもとにしたところからつくってて用いるものが下品でアナーキーではあるんですけど、それがジャケになるとふしぎに調和して形式美としてちゃんとおさまってる。組み合わせはむちゃくちゃなんだけどそのおさまりかたもちゃんと知ってるというか。めちゃくちゃにするけど自分なりに片付けもして、それはふつうではありえない方法だからええー?!みたいになるんだけど最終的に片付いてることは片付いてるから誰もぐうの音もでない、みたいな。文句はあるけどまあたしかにおさまってるし…みたいにしかたなく黙るみたいなカンジ。ライブはSF映画の効果音みたいのがわんわんと続けられるモノで。いちおう物語みたいのを決めといてやってるんですかね。それとも即興?音がすんごいわりに手先はこまかに調節したりアレコレいじくったりしてて、聞こえてるほうと作業してるほうが相反する雰囲気進行でやってた。あそうそう、あと絵に関してひとつだけ、瞳を描かないのがちょっとモジリアーニ入ってるかな。モジリアーニは心がわかった人の絵にだけ瞳を描きこんだそうですが、中原さんも女性の絵でひとつだけ瞳を描いてるものがあって、冊子のインタビューではあの絵について話したくないと言ってたそうで。なんか勘ぐりたくなる符合だな。
そういえば開演前に店内でサスペリアはエコールの原作本に影響受けてつくられたとか興奮ぎみに語り倒してた人がいたんで、ふーん?と思って調べたらもとはアザリロヴィックの勘違いだった(ウィキペディアにも)とかなんとか。

・オーストラリアの人が愛護団体に従いすぎて菓子もろくに食えなくなってるようで。スレ文中の『魚類の提供は行われているものの、海洋保護活動家などから「捕獲や消費に適している」と認められた種類に限られているという』って食っていい魚と食っちゃいけない魚ってこいつら何様のつもりで決めつけてんだ?つーか働かされてる現地の子供たち本人にはボイコットしていいかどうかとか直接意見を聞いたりしてるんですかね。こういうのって当事者たちが声あげてんならまだしもとりあえず白人の愛護団体の金切り声しか聞こえてこないんですよね。当事者の意見も聞かずに自分らの考えの押しつけで何かやるのが果たして正義なのかね。ボイコットすると現地で労働してる子たちは日銭すら手にできなくなるし、菓子会社の社員さんも給料にひびいたりリストラとかなる可能性があるしで誰かを不幸にすることばかり起こる気がしますけど。これが助けるってことなのかねえ。

・学級崩壊・家庭内殺人・無差別殺人のうちのどれかひとつを完全に無くすことができたらそれはそれでものすごいことだと思う。人類はじまって以来の偉業じゃんか。どういうふうに達成するのかがみものだなー。実践するとなるといやがおうにも千葉県の人たちが独裁政権のがんじがらめを経験せざるをえないことになるとは思いますが、まあご本人たちが選択することなので外野はなんにも言えません。

町山さんのおはなしがまもなく消去されるということですが、これはご本人のブログのほうに置いとくとかはできないんですかね。