アマゾンからTRASH-UPの宣伝きた

爆音みにいったら売ってたこれにインタビューのっててあらためて思いましたけど、三家本礼さん(ここも参照)て北斗の拳掲載時の黄金期ジャンプ漫画の正統な継承者すぎなんじゃね。スプラッタだからホラーMじゃないと、みたいな考えってなんか「ユダヤ人だから問答無用にゲットーに押し込める」みたいでおかしな話だな。こういうのだけじゃなくなんだかわからんジャンルの作品て小学生当時に読んでた少年漫画誌にはどこでもふつうに載ってたもんだし。なんかジャンルの厳密な棲み分けがふつうになっちゃうと知らないジャンルへの食わず嫌いとか偏見が増えちゃいそうな気もする。よくしらんけどたしか昔の学者さんほどいろんなジャンルの知識をもってて、だからこそ考え方の切り口も多くできて新しい価値観とかを生み出せたとかいうし。とりあえず現行の週刊少年ジャンプで三家本さんに好き放題描いてもらってチビッコたちに暴力巨乳の快楽を植えつけちゃえばいいのにねえ。特に興味のなかったジャンルのすごさをなりゆきで目の当たりにするからこそ許容度は広くなってくものだろうし。そういうついで的なことがないと知らなかったり好きってわけでもないものは一生触れずに終わりかねないよな。見た目が悪いからとかきもちわるいからとかいってろくにみることもしないでいると許容度や理解度もそこ止まりなんだよなあ。こういうのって女子とかに多いけど、「未知のものに分け入って知らないものを理解する」をしないかぎりはどんなに知識つめこもうとも活かせないから意味がないように思う。仏教かなんかの考えで自我を捨てるみたいのがあった気がしますけど、未知のよくわからないものに身を投じるときって自分のこわいとかいやだとかいう感情はおろか自分を捨ててる(「なくしてる」に非ず)状態で、いったん自分を捨てて相手をすべて受け入れるところからはじめて次に歩を進めることができるっつーか。胸くそ悪くなるような創作物を禁止しろしろ叫ぶ連中とか潔癖性の人たちとかって、自分の許容度を超えてるものを許すことができない心根からそういうパラノイア的行動として結実してしまってるような気もする。相手をゆるすことができないのはつまり自分を守るほうがずっと大事で、弱さや恐怖を捨てられないからこそ「理解」という次の段階に進めずにいるんだろうし。
最近夫人と話す際によくでるネタでさっき晩飯のお供時も話してましたけど、ポンニでのいちばんよかった時代はやっぱ景気がよくて人口も多かった60〜80年代で、教育や生活インフラが行き届いてて、働き口がたくさんあってバイトよりも社員のほうが多くて、給料も長く居座るほどにたっぷりもらえて、ほとんどの国民がみんな似たような中流生活で、創作物はひどい場面だろうがスジマンだろうがテレビでバンバン流しててもへっちゃらでみんな楽しんでたその時代がポンニの理想郷ピークだったんですかね。やっぱなんにつけても景気に左右されんのかなあ。ちょっとへんなものみるや少しも許せないとばかりに攻撃すんのって余裕がぜんぜんないからこそでしょうし。余裕がなくてなにかを叩き潰さずにいられないほど妄執に駆られてる奴がよく人権どうのと謳えるよなあ。