マヤデレン終わっててガックリした

昨日はエルスール(真文芸坐)→エクトプラズム 怨 霊 の 棲 む 家 (丸ピカ)→ラブリーボーン(丸ピカ)とみましたが、そのあとにみた町山さん番組がいちばんおもしろかった。トキソプラズマ 猫 に 棲 む 菌 。エクトプラズムはクチからなんかでるのをたのしみにみにいったんですけど、肝心のでるとこがなんか回想シーンぽい中だけな上、1〜2回ぽっちしか映らなくてすごいガッカリした。クチからなんかでてる販促物をつかう以上はくる客はほぼ全員それ目当てってわかりきってるんだから、1回だしたらあとはもうつるべ落とし的に最低でも500ショットくらいはマナーとしてだすべき。長男がでて兄弟姉妹がでたからにはすわ両親も!と思ったらタバコの煙かフゥーと思ってる隙にバアちゃんからでたー!みたいにあっちでもこっちでもエクトプラズマー続出すんの。なのに今作ときたら回想でのチラ見せのみで傷んだ死体ゴロゴロだして終わりだよ。あやまれ!!エクトプラズムにあやまれ!!その上実話に基づいてます、とかでるんですけど、白骨化してるならまだしも傷んだ死体あんなにあったらニオイでわかりそうなものですけどね。小動物もパネェ涌くだろうし。呪いってニオイも消せるんですかね。でこの傷んだ死体の元持ち主だったヒトの霊もでたり消えたりするわけですが、出るぞ〜みたいな雰囲気シーンのとこでブキミに屋内の電灯が点滅しはじめて、フッと暗くなった際に傷んだ霊がでるんですけど、ちいさい末娘の子が電気消えちゃったーだれかつけてーというと傷んだ霊がすぐつけてくれたりして、こわがらせシーンのはずなのになんかほのぼのした。ぜんたいエクトプラズムがメインの映画なはずなのに、家族の事情を描きすぎで緊張感が間延びして薄まっちゃったカンジでした。そのわりに突然ギターひきはじめたりアル中になるおとうさんの描写も唐突すぎるし、こわがらせ目的な映画のはずなのに家族のヒトがあんましこわがってるふうでもないし。俳優さん中ではとりあえずフォースカインドにもでてたアメリカン霊モノでおなじみのコーティアスさんという俳優さんが役立たたずの霊能者(でもないか。まあ神父)を好演してらっしゃいます。コーティアスさんが霊モノにでてきたら十中八九役に立たない自称霊能者とみてまちがいないです。結局見世物としてエクトプラズムをだしやすくするために死体集めてたってことなんすかね。気味悪がりながらも地下の実験室の道具を捨てたりせずなぜかそのままにしてるし。フツーのご家庭だったらいの一番に捨てるだろあそこに置いてるもんは。なぜとっとく。
ラブリーボーンは変質者に殺された女の子の霊が、現世の家族のありさまをみて右往左往してから千の風になる話。成仏しきれない死者の霊魂が現世に干渉して超常現象を起こすとかじゃなく、なんか自分や家族のありさまを受け入れられるようになってく過程の話なので娯楽的な要素はあまりないです。実際に近しい人を亡くしたひとに納得してもらうための癒し啓発映画みたいな感じ。ラストの変質者のヒトの末路みたいな形での超常現象おこすんだったらむしろゴミ捨て場で金庫の扉開けちゃうほうが映画娯楽としてはいいんじゃないすかね。まあ現実にはそんな都合のいい偶然がおこりっこないからそういうことやってっちゃうと移入から遠ざかってっちゃうってわかりますけど、それにしても客ののぞむ画ヅラがぜんぜんないっつーのもどうなんすかねえ。つうか被害者の髪の毛とかとってある日記帳みたいのは決定的な証拠な気がするんですけど、ああいうのがあってもお縄にならないものなんですかね?法の裁きや長い苦しみよりも一瞬の死が因果応報的に描かれるってのもなんかなあ。なんかさー…ピータージャクソンは指輪物語が監督としての絶頂で終わったのかなー。ぜい肉と共に「かえるに かたつむりに こいぬのしっぽ」も全部なくなってしまった気がしてならない。なんでこんな逆撫でしない「おさとうと スパイス」の映画ばっかし撮るんだろう。逆撫でのない映画といえば町山さん番組で町山さんが語ってて思ったけど、アメリカの保険会社はぜんぶ滅んだらいいと思った。皆保険にさせず治療の必要なひとから大枚巻き上げるわ映画はつまらなくさすわ、社会にとって害悪すぎる。ところで上記画像はここのエクトプラズムです。

エルスールは密かな激情を家族にしられて死ぬデリケートなお父さんの話。スジにするとミもフタもないごく単純な話なのに、丹念な生活描写の積み重ねでああいうふうに濃厚につくれるあたりが巨匠ってことなのだなーと思った。子供だけが感じるおとな世界の神秘的な雰囲気のことをエリセさんはすごくよく知ってる。