「いくら改善しても増えない」て神父業界と先進国の人口に共通してますね

イリュージョニスト(23日。ぎろっぽんヒルズ)→メアリー&マックス(24日。武蔵野館)→エンジェルウォーズ(新宿ミラノ)→孫文の義士団(シネマスクエアとうきゅう)→ザ・ライト(27日。丸の内ルーブル)とみまして、ザ・ライトはてっとりばやく街を出るためにかるい気持ちで司祭の勉強をしてる無神論神学生が、奨学金をダシに半ば脅される形で神父から悪魔祓い講座に顔出すよう強要されて顔出したものの、講座で悪魔にとりつかれたヒトの実録映像とかみてもさっぱり信仰心がそなわらない様子なんで、じゃあっつーことでベテラン悪魔祓い神父であるアンソニーホプキンスんとこへ放り込まれる話。主人公である神学生は「悪魔に憑かれたとか言ってるヒトは精神病」で「悪魔祓いする神父は気休めマジシャン」て考えをかたくなに持ってるので、白目むいて罵詈雑言吐くヒトみるたびに早く精神病院連れてかないと!ていうか俺は神信じてねーし!とかおろおろするばっかりで祓う文句すらろくに唱えれないありさまなんですけど、死んだ身内が電話よこすわアンソニーホプキンスが白目むきはじめるわの超常現象つるべ落とし状態に陥ってようやく腹据えて悪魔を祓う決心をするんですが、悪魔を祓うにはまず目の前にいるモノが「悪魔」であるのを認めることが大前提で、悪魔の存在を認めるならば敵対者である神も芋づる式に認めることになるから俺の信仰心は無限大だッー!みたいになって大団円になるんですが…なんつーか「信仰心を得る+悪魔を追っ払う」のダブルの効果で少年漫画的なカタルシス画ヅラを狙ったってのはわかるんですけど、悪魔の存在を認める=「キリスト教の定める『悪』の存在を悪としてしかみない」という狭隘な思想にのっとって生きる誓いをすることを「神への信仰証明」とするのはどうかと思うけどなー。それって極端にいうと福音派的観点でしか判断しない宣言も同然じゃん。悪魔がいなくなったら神への信仰もなくなっちゃうのかね。ザ・ライトだけじゃなく欧米の悪魔祓い映画にでてくる「憑いてる悪魔」ってさ、祓いにきた神父に実は信仰心なんかねーんだろ!神はお前を嫌ってるぜ!お前のかーちゃん地獄で尺八!とりあえずそこのスケとまぐわっちゃえYO!とか鬱落ち&欲望焚きつけ雑言ばっかぶつけてきて、そのたんびに神父は「悪魔のいうことに耳を貸しちゃいけない」て言って聞こえないフリしてるけど、そのテの神父の悪魔言動しらんぷりって要するにキリスト教の教えに反する言論には耳を塞げって意味だよね。多くのキリスト教者が実はキリスト教批判をまともに論破できるだけの卓越した論理や深い信仰心をさして持っていないってことなのかな。憑いてる悪魔からうしろめたい事を突っつかれて毎度のようにグラつくんだよね。いくら信仰心があると口では言っても神を「すがるだけのモノ」としか考えてない人間はちょっとした批判にすら信仰がぐらついてしまうとゆう。実はかるくバカにされた程度でぐらついちゃうようなユルい心持ちの神父かどうか見極めるテスト的に神が地上に悪魔遣わしてたりしてな。悪魔祓い映画の憑く悪魔ってなんとなくツンデレ臭がすんだよなー。反面教師的な神様営業臭ってゆうかさー。ザ・ライトの主人公はホプキンスから憑いてる悪魔の言葉に耳を貸すなって再三言われてたのをガン無視してふつうに会話してお前を信じるぅー!みたいにシャウトしてたなあ。劇中で祓い完了を「憑いてる悪魔が名乗った瞬間」として描いてたけど、祓い終了って「めでたし聖寵満ちみてるマリア」部分を憑いてる悪魔に言わせる方法じゃなかったっけ?あとパンフ(内容充実の良パンフ)の島村菜津さん文で『聖ユスティノスは、異教徒の悪魔祓いで癒せなかった者たちを、キリスト教の悪魔祓いは一瞬で癒したと、異教のお祓いとの差別化を[聖書は]強調する。』て部分があるんですが、そのテの祓いには欧米の言語よりも日本語で唱える仏教や密教の言葉のほうが威力が段違いに凄いって美輪明宏が前にテレビで言ってたけどどうなんだろうな。聖ユスティノスさんのいう「異教徒」てのがどこの国のなんの宗教のヒトを指してるのかわからんのでなんともいえん。そもそもキリスト者を逆撫でするのが目的の憑く悪魔は異教徒がきてもつまんなくてバックレるかもしらん。それとカエルとかの爬虫類を悪魔の遣い的に描くのは可愛いもんしか愛護しないドーブツ愛護団体的でやだなと思った。悪魔の遣いやらすんならブルブル震えてるチワワとかにしなよ。
ぜんたい神の愛は空気や水や地球の存在そのものだと思えば今この瞬間も恩寵に満ち満ちているし、憑いてる悪魔に信仰問われても「お前が憎まれ口叩けてるのも神のおかげだよ」的に説き伏せることができると思うけどな。みえもしない異形を信じ込む路線を信仰とするのってふつうにムリじゃん。そういえば神様は救ってくれないから超冷たい、みたいに考えるヒトがわりといるっぽいけど、人間という存在に最大限の敬意を払っているからこそ手をださないんじゃねーのかなとちょっと思う。人間だけでなんとかできると信じ続けてる(異形が手だすと人間が努力する意味がなくなっちゃうし)つうか。手をだすのは相手を見下してる気持ちが多かれ少なかれあるような気もする。しかしたまには手をさしのべていただきたいときもあるのが人情とゆうモノです。
そういえばザ・ライトは前売り券買いにいったら回収されたとかで買えなかったけど、窓口でふつうに千円だったんでおトクでした。単におんなの日だっただけか。
エンジェルウォーズは財産を狙う男の悪巧みによって精神病院に閉じ込められたお嬢様がいくつもの戦闘を乗り越える妄想を心の支えにしながら脱出をもくろむ話。早い話がザックスナイダー版カッコーの巣の上で的なスジですが、男の血と汗まみれの300とうってかわって高いヒール履いてヒラヒラフリフリのかっこしたコスプレ女子たちが向かってくるメカ人間を刀や銃を振り回してなぎ倒してくビジュアル(「敵」が対話不能の異形ってとこはちょっとガルフォースくさいすね)だし、倒す相手は生き物ではないので血はでないし、そもそもその重戦闘シーンが完全なメタファーとゆうか妄想内での出来事だしでどうにも手に汗にぎることができず。精神病院を隠れ蓑にした高級娼館てことですが、そこにいる女子たちのお色気や被虐味がいまいちたりない気もする。ああいう状況なら諦めで倦んだ退廃色とかあってもよさそうですけど、踊り指導の妙齢女性にしろちょっといかがわしい部活動指導員程度の雰囲気しかなくて、なんとゆうか全体的に画ヅラが健康的なんだよなー。縛りが凄まじい環境のはずなのになんかその鬱屈感が感じられないっつーか…。わりとキャイキャイ楽しんで暮らしてそうだからべつに脱出しなくてよくねーか?て思ってしまう。是が非でも脱出しなきゃいけない理由としてロボトミー手術秒読み展開とかくっつけてあるけど、そのわりに仲間内で脱出計画練る際の手際がユルユルだからそこらへんの緊迫感は感じさそうとはしてないんだよね。なんかこうテンプレなドラマチックさを「撮りたい画ヅラ(少女達の重戦闘)」にてきとうにまぶしてあるPV感覚が全体を覆っててなあ。ドラマに重きは置いてないんだよな。かといって半裸の女子がわらわらでるわりに色気がさっぱり感じられないしなー。下着姿の女子さえ撮ればもうエロエロとか思い込んでるようなふしがあるっつーかさ…。童貞のオタク中学生男子の黒歴史ノートをみてるような。ラストのオチでなんとかまとまったとゆうか救われた感でしたが、リドリースコットといい男の熱き血潮作品を撮るヒトはなんか高確率で自己犠牲好きっぽいすね。とりあえずザックスナイダーは少女の色気は撮る気のない常識人なんだなと思いました。好きかどうかと向いてるかどうかは別です。少女の色気を撮れるヒト(=変態)はあの踊りをかならず撮りおさめて客にみせつけると思うよ。そうゆうたった1シーンだけが伝説になりうるやもしれんのだし。あれを見せないで済ますってのはつまり観客が美少女や美人女性のどういうところにエロシビレるかがわからないってことだと思う。カネ握ったオタクが「やりたいこと」を野放図にやりだすとティムバートン的な抜け殻末路になりそうで不安。たのむのでスナイダーはリドリースコット方面のストイックちんこ路線でイッてくれ。
『今回は敢えて屋外で、1000人のエキストラを動員してアクション・シーンを撮ろうと。そりゃ、こんな立派なセットがあるんだから、そうするべきだが、実際にやるのは大変。エキストラは、怖がらなきゃいけない時にドニーとカン・リーの見事なアクションに拍手したり(怒)、笑いながら逃げたり(怒)、見えないと思ってケータイをかけたり(怒)、リアルなケンカが始まって血まみれで運ばれて行ったり(呆)。日本じゃ、ありえん(笑)。』
上記『』内は孫文の義士団パンフの谷垣健治さん文から抜粋したモノ。ちゅーごくのエキストラさんは野放図でほのぼのしますなー。スジとしては中国の民主化蜂起計画を仲間内で練るために孫文が日本から香港にくるんですけど、その孫文と仲間との打ち合わせ1時間をだれにも邪魔されないよう孫文支持の者たちが命をかけて戦い抜く話。孫文がくるまでの数日間を描く前半で「中国の民主化のために!」ていうシーンがやたらにあるんですけど、過去の出来事を描いた作品とはいえ中共の検閲をよく通りましたね。孫文国賊として亡き者にしようとする西太后側の刺客たちはほぼ全員が同じ目的なんですけど、孫文を守ろうと奮闘する側は必ずしも孫文を支持してる向きばかりではなくて、たまたま個人的な利害が一致したから戦うというふうに様々な背景をしょって死闘に参加するあたりがたいへんドラマチックです。博打が原因で奥さんに見放されたドニーイェンが娘のために一念発起するあたりもいいですし、ひげボーボーのアヘン中毒の乞食が実は達人で、クライマックスで鉄扇ひとつで暗殺団に立ちふさがるシーンは当然かっこいいです。孫文側の者たちを踏みにじる敵役の暗殺団首領もなんかこう怪物かのように襲い来る風情で相手にとって不足無し感がバッチシ。この首領がドニーとサシで戦う際に街中を人ごみかきわけて追っかけるシーンで、通行人をいちいち蹴り倒したり殴り飛ばしたりしててかえって疲れないか?と思わずにいれなかった。マンドクサいのはわかるけど不器用すぎる。こまかい作業やらすと2秒でガシャーンてふっとばすタイプすぎ。最近のちゅーごく映画の作劇ってなんか少年アクション漫画的な「努力・友情」的なモノが多いすね(でも「勝利」はせず敗北展開がわりと多いのは滅びが涙をさそう画ヅラが過去から現状を反映しているせい?)。検閲があるせいで自然とそうゆうのが中心になっちゃうんだろうけど。なにしろ自分からスタント押しのけて壮絶アクションをやりたがる俳優さん続出とか、マジ日本かなわなくね。
メアリー&マックスは友達がいなくて寂しい思いをしている女の子がてきとうに出してみた手紙の受け取り人が生まれつき曖昧な感情部分に共感できない症の男性で、その症状が原因でやっぱり孤独なのでなんとなく返事を送ったり送られたりしてるうちに友達っぽくなってく話。その手紙のやりとりは数十年に及ぶんですけど、女の子のほうが成長して悩みのタネだった額のあざを手術でとってもらったり、大学での研究が評価されたり彼氏ができたりと努力で望みをかなえてった挙げ句、思い上がって文通相手のマックスの気持ちを踏みにじること(マックスは精神病ではあるけれどべつにそれを消し去りたいとは思ってなくて、あるがまま理解してくれればそれでいいと[多分]思ってるのに、メアリーはマックスの症状を勝手にネタにして手柄にしようとした上「はやくその病気が治ればいいわね(=「病気であるマックス」は認めないも同義)」みたいな事を送ってよこした)をよかれとばかりにやってしまって、それを知ったマックスが激怒したあまりに封筒の中に手紙をいれずに力任せに折り取ったタイプライターの1部品を送ってくるシーンは胸が痛んだ。どんな言葉よりもあれはショックだ…。その後はメアリーの夫がこっそり文通してたホモのとこに逃げちゃったりして、メアリーの過剰だった自信が音をたてて崩れてしまってもう自殺しようとするんですけど、ゆるすことを知ったマックスからの手紙で踏みとどまる。クレイアニメっつーとふつうまるっこくて可愛い造形の作品が多いですけど、この作品は「こころ」というのはひとつとして同じモノのない異形で、その「こころ」をまま形にしたような「この世のすべてはおぞましい」といわんばかりの造形が「だからこそ悩む必要なんかない」と語りかけてるように思えるビジュアルでした。なにかひとつを共通言語的な「美しい」形状にしてしまったらそれに安い感情移入しちゃいますからな。その点メアリー&マックスの世界の造形にはわかりやすいキレイさがなくて、すべてがどぎつくゆがんでいる。ほんとうはこの世界はああいう形なのかも。ゆがんだ世界のなかをくぐり抜けて相手を理解しようと思いやる心が暖かくて尊い
イリュージョニストは流しのマジシャンのおっさんにさんざん貢がせた挙げ句若い男みつけてよろしくやる鬼畜少女の話。あのガキどっかに売りとばしちまえよ。マジシャンのおっさんはヒトがいいからさっさとおいとましちゃうし。おっさんが興行に行く先々で老いかかって芸が見向きもされなくなってきてる流しの芸人がいっぱいいて、あまりのみじめさに自殺しようとしてるピエロがいるんですけど、鬼畜少女の差し入れで思いとどまったりします。アニメなんだからそうゆうかわいそうなヒトたちが一念発起して大団円になったりすんだろーとか思うやもしれませんが、そういうご都合展開はいっさいナシで、ただいろいろ諦めて落ちぶれる姿が映るだけです。現実そのものが淡々と映し出される。同じ欧州作品としてこれがよぎった。イビクスは「あんたは大金持ちになるよ!」て予言された狡い男がこれは予言のアレかも!とばかりに奪ったり奪われたりして強欲人生を歩んでく話で、勧善懲悪だの愛だの心温まる展開一切ナシ。ただただ欲に駆られた男のろくでもないありさまを淡々と描いててヤマ(ピンチを切り抜ける的展開はけっこうあるからヤマはあるか)もオチもない。なんか酸いも甘いも噛み分けた大人の達観がある。人生には期待も絶望も毒だよ、とでもいうようなあられもなさ。
人生に絶望して自殺しようとするキャラのでるアニメを同時期に2本みるってのはなんだかすごい。