家に帰るまでがロシアンルーレットです

 『悪魔、あるいは悪魔憑きを描いた映画はセックスと切り離せない。
 身も蓋もないことを言ってしまえば、肉体を、セックスを、その快楽を、徹底的に抑圧し、あまつさえ罪とみなしてきたキリスト教に対する、あまりにも人間的な闘いこそが悪魔憑き現象の本質だからだ。その意味で、悪魔は常に人間中心主義だったし、これからもそうあり続ける。
(中略)どんなに見え見えであろうとも、童貞神父に対抗する悪魔には、常に下品で淫乱であってもらいたいものだ、と思う。キリスト教会や世間一般が後生大事にしている道徳心を踏みにじるのは悪魔の重要な使命ではなかったか。
(中略)
 何が人々を「悪魔憑き」に熱中させてやまないのか?
 答えはひとつしかないように思われる。悪魔は自由で、開放的で、放埒で、下品で、楽しそうだからだ。教会が抑圧の象徴たりえなくなった今もなお、人間は心の奥底で―それが悪魔との取引であろうとも―己のすべての欲望を爆発させたいと望んでいるのである。』

酔拳 レジェンドオブカンフー(26日。シネマート六本木)→プッチーニの愛人(シネマート新宿)→ロシアンルーレット(新宿ピカデリー)→エクソシズム(シアターN)で、エクソシズムもう誰が悪だかわからないー!みたいなアリスクリード級のどんでんがえしが後半で出てくるあたり悪魔祓い映画としてはなんとなしに異色でした。でもパンフのヨシキさん文からしてこの展開って歴代の悪魔祓い映画としてはわりとベタなほうなのかしら。毎度のアレですがキモを出さんといられませんので、純粋にこの作品をたのしみたい未見の方は以下の感想文を直視してはいけません。スジとしては教育的締め付けの超厳しい親をもつ高校生の娘さんが白目をむいて浮かび上がったりするので、知り合いの悪魔祓い神父にその娘さん自身が助力を仰いで自分に取り憑いてるなにかへの対処をたのむんですけど、この神父が祓いにきたはずなのになかなか祓おうとはせず、まだまだ時間がかかりますし…もっと偉い人を呼びますから…とかいってこれといった手も打たずに娘さんとその家族を半ば放置してるふうな形をとる。娘さんはとり憑いた悪魔によって自分の意志と関係なくヒドいことをしてしまうので、ふつうだったら人と会うことも外出も禁じて、祓いが終わるまでは部屋に閉じ込めとくのがエクソシスト的なスジなんじゃないかと思うんですが、なんだか神父は本来的にすべきであろうことを家族に課さず、野放しなかんじにしている。そんなふうなので娘さんは気晴らしにあちこち出向いては出くわした友人家族に確実に嫌われる言動をぶつけたり、あるいは死に追いやったりまでしてしまう。そもそもなんでこの娘さんに悪魔が取り憑いたのかというと、この娘さんの両親が独自の教育観念の持ち主で、子供は学校には通わせずに自宅で親が教えるスタイルなうえ、娘さんに対してもコンサート行くのは禁止だわ門限は厳しいわと締め付けが異常にキツくて、趣味も息抜きもろくにできない娘さんはまいってしまって知り合いの神父に相談にいったんですけど、そのときになぜか神父が「実際に悪魔に取り憑かれた人」の写真を娘さんにみせつけてくる。その写真中には悪魔を呼び出すための方法的な場面も写っていて、自暴自棄になった娘さんがその記憶をもとに悪魔召喚儀式をしてしまうわけです。そもそもなんで娘さんにそんな写真をみせつけたのかというと、この神父が過去の悪魔祓いに失敗して死亡者を出してしまっていて、その原因が憑かれた人の家族が悪魔だのなんだのの存在を疑るあまりに祓ってる中にトハンパでやめさせてしまったことらしいんですが(でも回想シーンで憑かれた女性がニヤリとしてたんであの時点ではまだ生きてたんよね?)、そのときの悔いと自分に着せられた汚名をはらすため、どうにか悪魔の存在を証明しようとしている。てっとりばやいのが映像なので、今回憑かれた娘さんの祓う儀式もデジカメで撮影してるんですけど、祓っちゃうと悪魔パワーらしきモノを映すことができないので、悪魔のちからを濃縮して放出さすために神父が一計を案じてしまった。劇中設定では憑いた人間の自己嫌悪や自己否定の気持ちが強ければ強いほど悪魔をチョーシこかせるらしく、より悪魔パワーを強めて「いい画」をカメラに収めるべく歩く危険物と化した娘さんを自由に出歩かせたり生活させたりしておいている。神父も一応「娘さんとふたりきりになっちゃいけない」て娘さん家族に対して言ってはいるんですけど、家族のほうも真剣に受け取るけはいもなく精神的にも肉体的にもふつうに崩壊してゆく。事故にみせかけての殺し(こういう場面でちゃんと凄惨場面を映してたらそこそこのホラー映画になったろうに…)もあるんですけど、親友にレズビアン的なモーションかけてノッてきたら「あんたレズだったの?超キモいし」とかあざ笑ったり、真面目一徹なお父さんにむかって「ねえ、弟ってお母さんの職場の同僚のイケメンの人の顔に超ソックリなんだけど。ほんとうにお父さんの子なの?」などと夫婦不和誘発投げかけをして大胆かつ細やかに人間関係を着々と壊してゆく。自分が原因で愛する家族や友人が死んでしまったとなると、いいヒトほど自己否定の気持ちを強めてしまいがちですが、この娘さんも根はいい子とみえて家族が傷つくところをみるたびに憑いた悪魔の支配が強くなってゆく…ものの、いいかげんなんかおかしいと思ってた娘さんが神父の撮りためた悪魔祓い映像をこっそりみると「フーやっと撮れたー」とか言いながらなんにも祓わない神父のなりふりが映し出されていて、それを問いつめると上記の件を吐いたものの、だいぶパワーのたまった憑いた悪魔がでてきて「クックック…よく働いてくれたな。」と神父をねぎらう。結果的に悪魔の手先と成り下がった神父はもはや役に立つわけもなくいたぶられるんですが、最後に娘さんの心の強さによってどうにか救いがあるふうな展開になります。従来の悪魔憑き映画での悪役は憑いてる悪魔だけなモノですが、この作品では憑いてる悪魔以外にも悪者がでるんで悪魔の悪役カタルシス感はすこし欠けてる傾向ではあります。ところで劇中で娘さんに対して異常に締め付けの厳しいお母さんは、勉強押しつけの理由を「娘は大人になったら必ず私に感謝するから」て恩着せがましく言いはるんですが、感謝されるのは娘さん自身が納得して勉学に勤しんでる場合にだけで、このときに感じた異常な嫌悪感とそれを押し付けてきた人間への憎悪はその後ずうっと記憶に残り続けるよね。たとえ勉強自体が給料を稼ぐ上で役に立ったとしても、そのとき叶えられずにいた渇望感はかなり癒しがたく刻み付けられて情操面は歪むと思うよ。食べ物じゃないけどさ、たべたいときにたべられなくて、ずっとあとでどうでもいいときに差し出されてもあんまし意味ないじゃん。トシくってからどうぞっていわれてもなー。いくら摂取しても満たされなそう。勉強を押し付ける人はどうして欲求を軽視したり甘く見たりしがちなのかねえ。そもそも「子供のためを思って」るはずなのに、当の子供を納得させられてないってのがなんか本末転倒じゃね。ここらへんの「親が子供の問いかけに答えられない」光景って、悪魔がちょっとした言葉で神父の信仰をぐらつかす光景となにか似てますね。実は自分の信仰に際してのまっとうな論理を持ってすらいない=自分の頭で納得ゆく結論を出した事がないにも関わらず、教科書どうりに従わせようとすることだけを正義とするあたり。いちど悪魔祓いに失敗した神父のとこには必ずまた悪魔が憑いた形で現れるってのは試練的なもんだからなんでしょうね。てめえ神父業なんとなくやってんだろうが?実はパイオツもみしだきたいんだろアァン?みたいにさ。とゆうわけでさしたる信念もなく実はちょっとした言葉でぐらついてしまうのに、頭ごなしにしがちな人のところに悪魔的なモノはやってきます。余談ですが、新しいモノをつくりだしたり見出すヒトは常に悪の側のキャラクタに惹かれるよね。旧態依然の周知ブツにかじりついて新しいもんから耳目そらしてる向きにはそのちからの重要さがわからんだろ。怒りや嫌悪を感じるもんには凄いちからが備わってんだよ。その時代にだけ有効な優れたしろものが。
なにしろ娘さんは自由ほしさに「束縛を破壊してもらいたくて」超常現象的なモノに漠然とすがってしまったようなんですが、犬のしつけじゃないけど自分が直面してる問題を自分で解決しようとせず、だれかに丸投げするとたいていおかしなことになりますな。ところで上記『』内は エクソシズムのパンフの高橋ヨシキさん文より抜粋したブツ。ヨシキさん文1本で売るパンフ態勢いさぎいいな!

ロシアンルーレットは大金が入り用な崖っぷちメンツが各地からかき集められて、富豪の人命軽視ギャンブル大会の競走馬にさせられる話。円形に並んだ13人が1発だけ弾丸こめた銃を自分の前に立ってる人間の後頭部にむけて引き金ひいて空砲だったら勝ち、当たったら負け、というルールで、各富豪はその13人のうちのひとりに賭けてるわけです。賭ける額はだいたい数千万〜億単位。もしも自分の賭けてる人間が死んでしまった場合は、他の所有者の生き残ってるメンツに賭けなおすことができるみたいなんですが、その場合はもとの所有者に何割か手数料を払わないとならんシステムらしい。で、その人命軽視ギャンブル大会は1回きりじゃなく、1発装填回が終わると次は2発装填、3発装填となって、トリは生き残ったメンツでくじ引きしてサシで4発装填ロシアンルーレットとなる。いちおう主人公目線で話が進むだけに主人公が生き残るであろうことはハナから誰もが予想してることなんで置いとくとして、 大枚はたいて人命を踏みにじるとゆう究極の貴族の遊びの場に正式に関わってる連中の濃ゆいキャラ鑑賞が個人的にツボでしたので、そうゆう意味でのみたいへんおもしろい作品でした。この人命軽視ギャンブルでいちばんおトクなポジションは一見賭けに参加してる富豪たちにもみえますけど、実は場を取り仕切ってるスタッフたちだよね。特にマイケルシャノン演じるレフェリー役。あの役回りでどんだけアガリ手にしてんのかしらないけど、とりあえず絶対安全な立場だし(13人のだれかに撃たれないとも限らないけど)、なによりモラルが逆転してる狂った場で海千山千の連中を威圧しつつキチッと統率するあたりの手慣れた司会進行っぷりを淡々とブレずに続けてるところが怪物すぎる。ツラといい度胸のよすぎるなりふりといい、ふだんなにしてる人なんでしょうね。あの肝の据わりっぷりからしてなんらかのプロではあるんだろうけど。マイケルシャノンすきなんだよな。狂う1歩前みたいな顔つきがたまらなく不穏。画面にでるだけで異常な光を放つ存在感。あとはミッキーロークにちょっと翻弄されかかるいかにも悪者エリートそうな50セントさんもイイですけど、個人的には主人公のセコンド役になるアレックススカースガードさんがよかったです。このヒトってなんか…イースタンプロミスのヴィゴのような色気があるように思うんですけど。たまたまこの作品の役づくりがそんなかんじだったからなのかな。スカースガードさんは主人公に賭ける富豪の手下らしくて、とんでもない場に参加してしまって脂汗垂らしてガタガタ震えてる主人公を終始いたわるような優しげなそぶりをしていて、命はってる主人公からしたらそんなのはどうでもいいから払いのけてるんですけど、なんかスカースガードが主人公のことをじっと優しい目で見守ってるんですね。劇中でその件についてはハッキリ描かれないですけど、間違いなく母性本能的な行動であってスカースガードは主人公にときめいています。ひと目みた瞬間から「なんて可愛い子!守ってあげたいぃ!」て思ったに違いない。13人に賭ける各富豪はスカースガードさんのようなボディガード兼手下的な人間をみんな連れてるんですけど、なんかほとんどはチンピラ上がりらしくて、ミッキーロークと関わる50セントさんも、助かりたい一心のロークから大枚チラつかされてぐらついたりしちゃうんですね。富豪はどの人も「生き残った者に干渉するんじゃない」と言ってロシアンルーレットで生き抜いて大金手にした人間にちょっかい出そうとした手下を諌めるんですけど、手下は富豪ではないのでつい下心がでてしまう。富豪は人命軽視ギャンブルをたんのうする鬼畜なわりに、生き残った勝者に対してはやたら敬意をはらってんのな。このテの老いた富豪キャラが今作では特にたくさん出ますけど、たまにウォールストリートのようなビジネスがらみの映画みてると出てくる「老獪な富豪」てすきなんですよねー。老いてなお悪辣さはまったく枯れてないカンジなとこが。あの富豪たちがどんな仕事手がけてんのかしらないけど、デカい額の売り買いやる業者で「てっぺんからつま先までシロ」なんてヒトはいないんだよね。うまくやるってのはつまり先取りしたり出し抜くってことで、クリーンさを標榜してたらいつまでたっても抜きん出ることはできない。ただ先んじることばかりにかまけてるとマジに悪党になってしまうので、自分なりの自制ルールとか道徳線引きをキチッと定めて常に「踏み越えたらいけない領域」を認識できる状態にしとかないと自滅する。だからロシアンルーレットで賭け遊びしてる富豪たちは悪党ではあるのだけど、各自妙な抑制があってそのストイックさから醸し出される色気がすごいんだよね(命張ってる参加者に「哲学がどうこう」とか説いてた爺さんはまあ狂ってるけど。いかにも古い世代の悪党らしいよねああいうの)。マジにデキる奴って肉体は衰えても仕事に対するダーティさと自制心はぜんぜん失わないんだよ。身近でみてるからよくわかる。公平だとか平等だとかクリーンさをよかれとばかり叫ぶのは世間知らずのバカ女で、エリートになればなるほどそうゆうことをうまくこなせないと駆逐されるだけ。昨今エロや暴力はなんであろうとダメとか真っ赤になってる若い母親はてめえのガキを偏差値高い学校だの大企業だのに突っ込みたい向きが多いんだろうけど、ガキが生まれつきの間抜けだとそんなとこ無理に入れてもついていけないだろうと思う。「みんな仲良く平和で」てのはビジネスの世界には関係のない標語です。嫌な奴になる覚悟がないとね。そんな欲望渦巻く混沌の場にも関わらず、主人公と関わるスカースガードさんは純粋に主人公を心配していたのです(富豪のほうは生き残って大金手にした主人公にスカースガードがちょっかい出すんじゃないかと勘ぐってたようですが)。主人公はおうちの近くまで富豪の車で帰ってればよかったのにねえ。たとえ手下に下心があっても、生き残りに対しての尊重をああまで徹底してるところからして富豪がいっしょにいる限りはおそらくなにもされなかったと思うよ。マフィアがらみだとたいてい「俺のカネなんだからさっさと返せ」みたいにされちゃうけど、あの場での富豪たちに関してはどの人もそういうかんじではなかったふうに思う。過去数回ロシアンルーレットで生き抜いてきたヒトがいるだけに。いちいち不正があったらとっくに参加しなくなってるはずなのに、参加し続けてるってのは参加する者の権利についての富豪と主催側のよほどの尊重があるからだと思う。報酬についていちいち不正されてたら生き残った人間がとっくにタレこんでるもんね。でも、それすらも尊重されないラストからしてあの集まり自体がもう成り立たなくなるってことでもあるのかもしらん。そのラストに関わるジェイソンステイサムが賭け主のひとりなんですけど、どうも抜き差しならない状況らしくて、他の賭け主である富豪たちと違ってなにか焦ってるふうなんですね。理由のひとつとしてロシアンルーレットに参加してるおっさんがステイサムの兄貴で、かなり末期状態の重病人のようなんですけど、過去3回にわたってこの人命軽視ギャンブルに参加しては生き抜いてきてる強運の持ち主で、今回も生き抜く気マンマンなんですけど、ちょっと欲かいて弟であるステイサムを脅迫するようなことをしでかしてしまったところから雲行きがアヤしくなってゆく。なんかこの兄貴の強運は弟であるステイサムの支援ありきだったみたいで、ステイサムを怒らせてしまって運が逃げてしまう的な展開になだれこんでゆきます。富豪たちもだけど、ステイサム兄弟がこの状況に身を投げ打った理由とか、なぜステイサムが大金を必要としてるのかがまったく提示されないのでいやがおうにも想像がカキたてられます。サスペンスモノの醍醐味ですな。

酔拳は前半が少年ジャンプのビジュアル重視(なわりにダサい)&スジがよくあるパターンなアクション漫画で、後半がイップマン2に感化されて急ごしらえしたと思しきかんじ。なんか…とりあえずどこの国のどの時代のかわからないファンタジー鎧デザインとかやめたほうがいいと思う。デザインがどうっつーより中二病すぎて痛々しい(特に前半の悪役のダサかげんがヒドい)。演出がリアルさ皆無なのでドラマもいちいち空々しい。頬のふっくらした子供の顔に汚れつけただけで「飢えた浮浪児」とか言われても…。奥さんの埋められた場所探しでもどのみち死んじゃうなら埋まってる場所がわからずじまいのほうが自然だしふつうに悲しいじゃんよ。「息絶えた奥さんを抱きながら泣く」画ほしさにむりやり雨降らさしたんだろ。学芸会か。こんな御大層にこねくったスジにしてコケるんなら「師(もしくは家族)の命を奪われた弟子が相手道場に仕返し」話をしっかりやってくれたほうがよかったよ。リアル演出がもともとできない人がなにかを勘違いして「(この人の考える)リアル風」に撮ってみたら才能中のマイナス面ばかり詰め込まれてしまったふうな。こちとら酔拳のかっこよさと赤い鼻の老師がみたいんであって、中二病の鎧とかマジいらないんですけど。あんたのやりたいことじゃなく、客がみたいモノの事についていまいちどよく考えてくれたまえ>監督さん江。
プッチーニの愛人赤ずきんが満杯でみれなかったんでしぶしぶみた。なんかカツサンドをくう音ですら響き渡ってしまうレベルの静かしい作品で。本編前にあらすじ説明みたいのが2回もでるんですけど、血縁が複雑なキャラばかりなうえプッチーニに愛人がわりといて、そんで召使いがどうこうっていまだによくわからない。早い話嫉妬深い奥さんがプッチーニのリアル愛人には怒らずに、なんにも関係してない召使いとプッチーニとの情事を妄想でふくらました挙げ句ヒス起して醜聞流して召使いを自殺にまで追い込んだってことらしい。召使い全員おとこにすればいいのに。それかプッチーニが召使い全員を平等に孕ませるか。絶倫で芸術家ってもう二重の意味で止められないだろ。