全員とケンカしたってのは家族も同然てことになんのか


ラストスタンド(8日。シネパレス)→リンカーン(TOHOシネマズ渋谷)→恐怖と欲望(オーディトリウム渋谷)→フッテージ(17日。ヒューマントラストシネマ渋谷)→ハートレス→ものがたり グレゴワール・ソロタレフの世界展(19日。群馬県立近代美術館)→談山能(20日。多武峯)→彼岸の花(21日。空蓮房)→ビル・カニンガム&ニューヨーク(22日。バルト9)→ふたりのイームズ(アップリンク)→アントン・コービン 伝説のロックフォトグラファーの光と影とみまして、彼岸の花は新井卓さんという写真家?の方の作品展なんだが、展示されてる作品数は4点ぽっちなうえ展示されてる場所も3畳+2畳程度の密室内とゆういろいろと極小なアレなんですけども、なんかツボった。作品・建物の内どれかひとつがどうというのでなくその流れ全体がよかったというか。長應院というお寺があって、玄関まで訪ねてくとそこのお坊さんから蝋燭を手渡されるですよ。展示室とおぼしき場所の黒い戸が開けられて、蝋燭を手に入室すると戸が閉じられるわけです。部屋のなか真っ暗。蝋燭の灯りをたよりに奥へすすんでくと部屋があって、そこに新井さんの写真(銅板かなにかに彫ったモノなのかな?)が展示されているという。ここ、閉所恐怖症のヒトはたぶん無理なんじゃなかろうか。せまくてくらいし。作品自体も蝋燭を近づけなければ見えないからちょっと緊張する。つーか手に持った蝋燭の管理が完全に自分ひとりにゆだねられてるからなんか緊張するですよ。ふつうの展みたいに監視のヒトがいるわけでもないしさ。そこの場の安全も、展示されてる作品の運命も、そこにいるかぎりはみてる人間だけが握ってるわけで。完全予約制で住所氏名告知必須、てのはもしも破損があった際の保険的な意味も含まれてるんでしょうね…。しかしココ、予約は必要なものの観賞は無料なんで、長應院的には一銭にもならないのに手間ばっかしものすごいかかってるんだろうな…と思って親指を立てたくなった。宗教でガッツリ儲けたゼニをドブにつっこ…芸術家に注ぎ込むってのはマジ浄財だなーとしみじみした。ニヤニヤしながらあのお坊さんの背中をバンバン叩きたくなった。んで肝心の展示作品なんですけども、銅板に写った写真は花だったり屋内の光景だったりして、画像だけではなんてことないんですけども、作品がとじられてるガラス板がのった鉄棒の前枠に蝋燭の灯りを握ったまま手を置いて作品をみてると、なんか蝋燭の火がゆらゆら揺れる効果で写真もなんとなく微動してるふうにみえるですよ。彼岸花もだけど、そのへんのゆらぎ効果が顕著なのが古びたピアノが置かれた廃屋の写真で、蝋燭を近づけてじっとみてるとなんかちょっと映像みたいなふうにみえる。朽ちかけた夢、みたいなふうに残像がふるえてるふうな。ゾエトロープとかマイブリッジ以前の、もっと原始的な映像の原点とでもいうのかな。闇と蝋燭のゆらぎだけで映像を思わせる要素が構成されるものなんだなーと思った。蝋燭の火を作品に近づけたり遠ざけたりしながら作品のうしろの白い壁をみてみると、作品をのせてる鉄枠とガラス板の影が映し出されるんですが、これもやっぱり蝋燭の火のゆらぎ効果で映像的に動いてるふうにみえるんですよね。たった1本の蝋燭程度でこんなに映像ぽくなる?!てちょっとびっくりした。基本的に1時間程度の時間制限らしいんですが、じっくりゆっくりといろんな見方を発見するにはちょうどいいやも。奥の部屋には丸っこい菊の花が写された作品があるんですけど、それの見方はちょっとわからなかったな。あれはゆらぐでもないしなにかよい見方があるんだろうか。しかしやりかた次第でどんなに狭くて数少なくても面白くすることは可能なんだなと思った。おいらが行ったときはとりあえず場所だけ確認しとこうと下見のつもりだったんだが、たまたま他の予約のヒトがいてそのついでにみせてもらってしまったんだけども、基本はHPからの日時指定予約必須ということで、それは所在確認以前に予約する時点から展示であるという長應院の方の理念なんだそう。それはお坊さんから何度も念を押された。予約・対話・観賞、その1セットすべてが必要、という考えらしい。なんか雑誌にでたアレで突然きちゃうヒトが増えてるらしいんだが、手順すべてを通して空蓮房を味わってほしいそうですよ。スマン>お坊さん。突然いってみせてもらってしまった。
談山能は摩陀羅さん関連でなんとなくみにいった。開催場所にはバスでいけるつーんで桜井駅からバスのったらバスがどんどん山に登ってくので震え上がった。談山神社、むちゃくちゃ山の中なのな。神社前までたどり着いたら屋外でお茶を立ててたので頂きましたけど、お茶もモチおいしかったですがお茶菓子もまたイイの用意してたなあ。緑におおわれた山(もしくは苔むした岩)に花がいくつか咲いてるふうなお菓子で。内側があんこなのでちょうど地面ぽくみえるし。味もモッチリおいしかった。神社境内はいろんな社はあるし(本殿脇に布で仕切られてる箇所があって、なんなのか聞いたら神様に捧げる供物づくり専用の台所なんだとか)、太い木もたくさんあってすごい気持ちのいいところなんですけど、徒歩での行き来はむりなとこですね。能目当てに近隣のヒトがけっこうきてたけど、全員自家用車だったしな…。んで肝心の能なんですけども、ねないようにがんばってたんですがいかんせん始発でしたし移動時間が長過ぎて到着時にはクタクタで、気づいたら寝てました。いちばんの目的だった翁から2番目のなんとかいうのの最後あたりまでガクリとしてはもちなおすくりかえしで、なんとかねむけをはらおうと目をがんばって開けかかって朦朧とする意識のなか舞台をうっすらみてたら、舞台で演じてるおじさんにカッとみつめられたとたんに眠気が霧散してすごかった。あれ貴重だったな。確実に目からナニかが脳へ入ったかんじだった。すっきりした。意識がもどったところでお侍さんとこに蜘蛛がたずねてくる話がはじまって、退治する進行になったのかな。戦うシーンとかで蜘蛛が放つ糸が客席にまで絡み付いてきてておもしろかった。言葉づかいや所作がわからんかったけど、あの蜘蛛とお侍さんとの戦いのくだりはなんとなく興奮したな。あと全然わからんけど、あの脇で声と音だすヒト、声がすごく鋭くて耳や腹に刺さるかんじだった。あの迫力はテレビではまったくわからんのだな。あれは…たぶんだけど、当時の音響効果てのはわかるんだが、明確な音や鳴き声ではなくて場に漂う緊張感のようなモノを表してるのかなーとちょっと思った。しずかな夜に聞こえてくる猛禽類の声(オウォゥォゥォゥォゥ…みたいな)とか、具体的に「何」というんではなく、その時間ならではの雰囲気をあらわしてるというのかな。あの脇の音と声、特に蜘蛛とお侍さんの戦闘シーンで凄かったんだけど、イヨーォ!の声のときはあれ歌舞伎の「決め」と同じ緊張感をあらわしてたんだろうか。演じてるヒトは「型」どうりに機械的にしか動いてないはずなんだけど、あの脇の刺すような声と相俟って妙な緊張感があったよ。あの声てのは悲鳴をあげてるときについ裏返っちゃうときの感覚をあらわしてたりするんだろうか。狂気とかヒステリーとかそういう状態の。あとあのドン、という踏み込みは「なにがなんでも押し通す」という気持ちをあらわすキャラがやるのかな。どうしても殺す、とかそういう心理のあらわれというか。ひととおり舞台が終わったあとにおじさんの説明がすこしあったんですけど、なんか談山能やったとこてのは大昔にはたくさんいた僧兵が酒のんで騒いだりしたとこだったらしい。「能演じたあとに翁の面かぶったままで酒のむとその面まで赤くなった」とかいう重要なのかなんなのかよくわからん摩陀羅さん情報が追加された。摩陀羅さんの面は談山能の能舞台の真裏にある屋根裏(天袋?)におさまってるらしくて、そこの前にお供えをだしてるらしい。舞台裏をみせてもらえましたが、なんかふつうに玄関ぽくなっててなんとなく気持ちがいいところだったな。さわやかで明るくていいとこだった。旅館だったら泊まりたくなる。その後はお開きだったんでまたバスで帰るかーと途上にある矢印どうりに歩いてきたらバス亭はみつからず車道に放り出されてしまってなんだよ!!と歩いてたんですが、東京からきた若いご夫婦の車が乗せてくれて、なんだか橿原神宮にいくというのでそのままのせてってもらった。途中でわしと同じように歩いてたおねえさんも乗ってきて、そのヒトも談山能みたヒトだったんですけど、なんかそのヒト能マニアらしくて談山能がいかに規格外の舞台だったかを語っていた。ふつうの能は客席が舞台からけっこう離れてるらしいんですけど、談山能の舞台はもう演じてるすぐそばから客席で、客に蜘蛛の糸が絡みつくなんてありえないんですってね。たしかにリングサイドに客が座ってる感覚ではあったし、脇のだす声や演じ手のだす足音が体に直接ひびくかんじではあった。そのおねえさん、海だか湖だかの真ん中に舞台がある能をみたらしいんだが、波の音しか聞こえなかったとか言ってた。若いヒトでも能マニアているんだねえ。運転してる夫婦の奥さんのほうも能がわりとスキらしくておねえさんと盛り上がってたな。能のたのしみかたを聞いたけどなんか教えてくれないんだよな。どのへんをたのしめばいいかたったひとつポイントを教えてくれればいいんだが。そのおねえさんが「あっ猿石だー」とか言ってなにか指してた。亀石?とおなじでなぜあるのかわからん物体なんだそうだ。いろんなヒトがいるもんだなーとしみじみした。とりあえずおねえさんは横浜にかえるということで橿原神宮駅でお別れして、ご夫婦はホテルに向かったのでわしは橿原神宮に向かった。橿原神宮、なんかあったかくてすげーいいところ。すき。境内にある休憩所でごはんもたべれるし。本殿前のお賽銭のとこでぼんやりしてすごしたい。橿原神宮の脇に大きい池みたいのがあって、おっさんたちがまったりしてた。その池の向こう側になにか森的な場所があって、とりがたくさん集まってた。鵜とかいろいろ。あすこ入れるのかな。そのあとはタクシーで入鹿神社にいったけど、町内会の内輪神社的にすごくちいさいとこだった。脇には大日如来まつってるお堂あったけど。本殿内の脇に荒神さんの入ってる小さい社があったな。あとでパンフみたら『小網で生れたものは蘇我入鹿を暗殺した中臣鎌足を祀る多武峯へ参ると腹痛が起るとか』記述があってうわあごめんなさいーと思った。多武峯後に入鹿神社は禁忌であったか。すまなかった>入鹿さん。中村真理子さん漫画に影響されてなんとなくいってしまった。

ソロタレフはこれがスキなんでみにいった。子供(特に男)の破壊衝動をそのまま描いただけの絵本てのがわりとあって(これとかこれとか)、それの系譜だなーと思いつつみにいったら鼻やクチをやたらにながーく描くのが好きらしくて、ちんこそのものなのかなーと思った。顔の先っぽがのびきってるモノはしっぽまでのびて両方が地面についちゃってるのとかもあった。体から飛び出たところが地面にくっつくほど長い、てのがソロタレフの納得いく長さなのかな。あのながーい部分の醍醐味を味わわすためには平面より立体でつくって子供たちに触らせるといいと思う。巷で売れてるとおぼしき狼の絵本(絵本にありがちなんだけど「仲良くする」を至上とするために肉食獣と草食獣が友達になって結果的に肉食獣側が肉食でなくなる的な自然のしくみに反する系列のスジなので、基本的に男根作風のソロタレフの本領ではないように思う。そもそも自然のしくみに忠実に絵本つくると肉食獣=悪者概念からどうやっても離れられなくなるしな…)の原画とかはあったけども、おいらがスキなうさぎのジャンさん絵本の原画はなくて残念だったな。あと長年ナゾを抱いてきたこれへの言及もまったくなかった。ソロタレフ作品に描かれる極悪キャラや衝動の側面ついて知りたいんだが、なんか展企画するヒトはそこらへんに全然興味なさげななんだよな。いまだにソロタレフについていちばん知りたい部分にまったく触れられなくて歯がゆいことこのうえない。展示でソロタレフがつくった映像作品(最近映像づくりにハマってるらしい)があって、これ全編フランス語なうえ日本語字幕がまったくなくて話がさっぱりわからんかったのですが、ユ(ユニコーンのユ)ていう作品で主人公格のお姫様がなんか…鼻と耳が異常にながーい異形なんですけども、成長してくにしたがって鼻も耳もどんどん長くなってタレ下がってくうえ、長い鼻の先っぽからさらに針のような鋭いなにかが飛び出ていてすごい正直な造形だなーとしみじみした。しかも女の子だし(上記画像参照)。成長して付き合う男の子の異形のほうはべつに長い部分ないんだぜ。映像中ではキャラの身体部分もタレ下がりが激しかったけど、背景にある樹の枝や葉っぱもかなりタレ下がってる造形多かったな。そこらへんに着目して今度展やるならソロタレフのタレ下がり感を満喫さすふうな方向でやればいいのに。あの伸びきった箇所やタレ下がりぐあいにさわりたい。ソロタレフはどんな感触を想定してあのタレ下がりを描いてるんだろうか。男の子の衝動を描いた絵本作品だけかき集めた展とかやればいいのになー。客あつまらんかな。おもしろいと思うけど。ソロタレフ後は美術館内の常設展をかるくみましたが、なんかローランサンのテリア犬抱いてる少女の絵、ちょっと離れたとこからみても目ぢからの色気アピールがやたらにあったな。あのまなざしの吸引力、どうなってんだろ。ほかのをなんとなく見渡してる中でもあの少女の目の惹き付け力がすごかった。油彩画もわりとあったけど、現代美術もけっこうあって面白かった。最後のほうにあった田中功起(勃起に空目しがちですね。)さんの映像作品で、スニーカーが階段をひたすら転げ落ちてくやつとか、たらいが大量に落ちるだけのとか、単純で好感。ビニール袋を風にのせて飛ばしてく映像もなんとなく面白いですけど、突然寄ってきたおばさんの説明によると「本当は日本でやりたかったけど、日本でやるとゴミになるでしょ云々騒がれて何もできなかったのでニューヨークでやったのよ。」とのことです。ニューヨークあたりでは何やってんのか聞きにきたヒトに「美術作品づくりでやってます」とゆうとたいていは理解してくれるらしい。芸術にもアニメにも理解のない村社会、それが日本の市井。ところで群馬県立美術館は群馬の森という広大な公園の中にあるんですけど、ここは木々に囲まれたなかに広々とした芝生があっていいとこですね。おいらいったときも親子やチビッコたちが遊んだりまったりしたりしてほのぼのしてた。あすこでゆっくり弁当でもたべたかったな。その後は館内チラシで知った高崎市美術館ジパング展をチラリと。会田さんの女子高生が群れてる屏風絵はじめてみたな。有名どころがちょっとずつ置いてあってわりと充実した展だった。なんか、それまでさして興味なかった作家さんになぜかこの館きたら俄然興味がわいてきてどうしてなのか。町田久美さんの画集とか買ってしまった。仏像の目を拡大したふうな絵とかグッとした。あと天明屋尚さん、まったく興味なかったけどあの刺青入ったヤクザもん風のフンドシ男が鎧動物に乗ってる絵とかグッとした。エッ…なにこれカッコイイ…?!てじゅんとした。うーん…あともうひとり、山口晃…。あのおなじみのチマチマ描いてるやつはいまだにさして興味ないんだが、グッツ売り場に置いてあったこれにわしづかみされていま大事な棚に置いてある。なぜか。山口さんはふつうのエロ絵が抜群にいいですね。ホラードラコニアはどれもふつうに知ってたんだがなあ。なんかあすこの館いったらひと味ちがうアレを開発されたふうだった。ところで群馬県立美術館いくために駅降りたら無人駅なうえ、近隣にろくに店もないわ人歩いてないわのけっこうな田舎で少し死ぬ気を味わった。でも群馬の森付近はちょこっと食べるとことかあるけど。群馬の森入り口前あたりにある焼きまんじゅうの店の焼きそばがおいしいよ。焼きまんじゅうは小さい醤油パンみたいなかんじだった。ぐんまわりと好き。高崎駅八高線でしたっけ?あのホームで立ち食い蕎麦(330円にしては美味しかった)をすすりながらSLがみられるのな。カメラ小僧が老若とわずけっこういた。ほのぼのしてるなあの駅。
ビル・カニンガム&ニューヨークニューヨークタイムズに週イチで掲載される街角ファッション欄をながいこと担当してる写真家のビルカニンガムさん(80歳)のドキュメンタリーですけど、たまーにいるんだよなこういう「好きなことに没頭できさえすればあとはどうでもいい」生き方してるヒト。日本でいうとさかなくんとか。衣食住も結婚にすらもまったく興味がなくて、ただ好きな事だけしてれば満足という。ふつうだと他に注ぐちからもぜんぶ好きな事に投入してるもんで、その出来に関して他の追随をゆるさないレベルになってるふうな。ビルさんはもう変わったかっこしてるヒトみるといてもたってもいられなくなって唐突にパチパチ撮っちゃうヒトで、誰に対してもその態度を貫くもんで多方面で好かれてるふうだった。自転車でニューヨーク中を走ってて、撮りたいヒトがいると駆けつけて撮り始めるスタイルで、撮られてるヒトも照れ笑いとかはするものの嫌がったりせずにわりと撮られっぱなしなんだよな。そもそもこだわり抜いた服着て街あるいてる時点でわりと撮られたいのかもしらんしな。みんなまんざらでもないかんじで。新聞にのるときは1回ごとに「同じ傾向」でまとめたりするのが面白い。緑色の服着てるヒト特集とか雨降ってきて飛び跳ねてるヒト特集とか。誂えた構図じゃなくて「暮らしてる中にある1部分」として撮るのがスキなんだろな。生きて動いてるヒトの身につけてるモノというか。ファッションショーにも撮りにいくんですけども、多くのカメラマンたちがいちばん前の写しやすいところに陣取るのに対して、ビルさんはモデルたちが歩いてく真横の席に陣取って納得いく構図で撮るよう心掛けてるんだそう。あくまで「動き」の中のベストショットがほしいのかな。最後のほうで職場のヒトがビルさんの誕生会をやるシーンがあって、ビルさんには内緒で部屋まで連れてきてびっくりさせてましたけど、驚いたビルさんがカメラ取り出して祝ってるヒトを撮りだして、あすこだけ林家パー子みたいなノリだった。撮ることに特化して暮らしてるあたり林家パー子紙一重すぎる。撮ることを全然恥ずかしいなんて思ってない技っぷりがさ。こんなふうに撮る一徹でたのしく生きてるふうなビルさんですが、撮影者がビルさんに対して信仰についての質問を投げかけると途端にビルさんが涙声になりはじめてものすごい暗くなってしまったシーンがあって、あれどうしたんだろうか。親御さんとの別れの際になんかあったとかなんだろうか。このさー…カメラマンを生涯の仕事としてるヒトが宗教と密接な関わりともってる、てあたりがアントンコービンでも色濃くでてきてどうしてなのか?と思わずにいれなかった。ビルさんはカソリックなのかな。コービンさんは欧米のロック歌手なんかをおもに撮りおさめてる有名な写真家なんですけども、なんかお父さんがプロテスタントの牧師だったとかで、このヒトもビルさんと同じく色白でデリケートそうな出で立ちでいて、克つ禁欲的で仕事中毒なんだよな。ふたりともなんか似てる。根に絶望感(それが何から派生してるのかはわからないけど、おそらく「宗教による自己否定」が少なからずあるんじゃなかろうか…)が横たわってるかんじとか。コービンさんの写真はモノクロで石に刻まれたふうな作風なんだよな。それがロックやメタル方面の硬派なキャラクタのヒトにしっくりくるんだろう。なんていったらいいかわからんのだが、ものすごくよく似合う服をまとってるヒトの「ちょうどいい感」と、その人らしさがものすごくよく出てる写真てなんか同じなんよ。コービンさんはアニーリーボビッツほどじゃないけど「その人の雰囲気がよりよく醸し出せる」演出をしたうえで撮るスタイルの写真家さんで、然るべき場所やなんかに赴いて撮ったりしてたけど、ポーズを撮らせたり何か着せたり、どこへどう立たせるか、歩かせるか、走らせるか、どの組み合わせをしたら「いちばんその人らしさ」が出せるかってのをよくよくわかっていて撮るんよね。それは何を着せたらいちばんそのヒトにぴったりくるかってのを即見抜くことができるファッションデザイナーと似てる。よい写真家の定義があるとしたら被写体のもつ個性が万人に即伝わる撮り方をできるヒトなんじゃないかなーとコービンさん映画みながら考えてた。最後のほうでコービンさんが「もっと人と関わっていかなきゃな…」ふうにつぶやいたシーンがあった気がすんだが、写真家てのは被写体の持ち味はしっかり把握してあげたうえそれを作品化することもできるのに、なんか…なぜか実際の関わりは持てないでいる向きがわりと多いのかな。相手のことはよく理解できてるのに自分は理解されようとしないというかさ。ビルさんもコービンさんもなんか孤独なんだよな。コービンさん、仕事中毒すぎて妹さんに心配されっぱなしだった。結婚とかするとまた作風が変わったりするんだろうか。それともぜったいに結婚なんかしないか。キリスト教の修験者的というか、苦行を負ってるかんじがした。それがなんなのかはわからないんだけど。
『最初のほうはオーソドックスなドキュメンタリーかと思いきや、20分あたりで元スタッフによる悪口大会がはじまって、中盤はアメリカ国策とイームズ映画の関係が濃密に描かれしっかりしたドキュメンタリーだなあと感心しているうちに最後にはまさかの”愛人登場”で吹きました。』(ふたりのイームズ パンフ掲載 平塚桂さん文より抜粋)
『椅子のデザイナーだったチャールズ・イームズが、コンピュータへの恐怖を和らげる宣伝映像をつくり、冷戦下のソ連向けに、アメリカ人の生活を喧伝するプロパガンダ映画をつくっていた事実に驚かされる。なるほど、デザイナーとはコミュニケーターであり、イデオロギーを表象する者であり、煽りV職人なのか。』(ふたりのイームズ パンフ掲載 速水健朗さん文より抜粋)
ふたりのイームズはちょっと寝ちゃってこまかいことがわからんのですが、イームズの名を冠した商品は今でこそ当たり前だけど、あれは実際にはイームズ夫婦以外のデザイナーとか工房で働いてたスタッフ何人も関わってつくりあげたモノで、イームズ(特にチャールズのみ)だけがクレジットされることに不満を持ってたヒトがわりといたとかなんとか。特に奥さんのレイさんがわりと重要な働きをしてたとか。中心になって指揮してたチャールズさんは家具づくり以外にもいろんな活動してて、工房のなかには映像作品だの美術品だのいろんなもんが雑多に置いてあっておもしろいとこだったらしい。あの椅子はデザインだけはすでに考えられてたんだけど、合板を滑らかな曲線にする技術がなくて、それにかかってた…んだったかな。不可能と思われてるもんをつくりだすことがまあ先にすすむってことなんすね。イームズさんは2人とも家具デザイナーじゃなくふつうに芸術家なかんじだったな。いろんなもんに興味があったからこそああいうもんができたってことなんだろうか。平日にいったけどわりと盛況で客席9割埋まってたよ。休日は早いうちに行って整理券確保したほうがいいやも。
ラストスタンドは化け物じみたパワーの車で国境越えをもくろむ凶悪脱獄囚を迎え撃つ元凄腕刑事のシュワー!!的なアレ。ジャッカスのおにいさんが銃バカキャラでよかったです。強奪した車を駆る悪役のノリエガさんもセクシー克つ女に媚びないキャラでかっこいいですなぁ。ノリエガさんに国境越えさそうと渓谷に橋建設する悪者たちもちゃんと悪者然としてて。シュワが老いている、てのをちゃんと描いてるとこもよかった。ウィテカー演じる警部さんが後手後手すぎて大変そうだった。うーん。ちゃんとつくってあるけどちゃんとしすぎな感もある。意識的に破綻をまぜこむのってのもむずかしいか。
フッテージはいわく付きの物件に家族で越してきたホラー作家が、そこの屋内で前住人一家が惨殺されてる中のスナッフフィルムを発見してこれはー!!とばかりに創作意欲をあふれださしたところで超常現象が起き始める話。その超常現象は被害者の霊がやらかしてるんですけども、その大元には人食い邪神がいて…ていうのが大筋で、そもそも人を喰う神様てのはインド由来の神様に多いんですが、有名どころはだいたい仏教方面の神様に説得されたりして善神になってるですよ。人食い、て部分だけがキリスト教圏でひとり歩きしすぎていまだに悪魔扱いされてんだな。人間を喰らう、てのは人間が食物連鎖の頂点でなくなる恐怖感もあって物凄く恐ろしいことと見なされがちだけど、牛肉だの豚肉だのに舌鼓を打つ向きならば普通に理解できるはずなんだがな。食われたくない向きが「人間の肉を食べる種族はおかしい」と思いこみたいだけで、実際には人肉は不味いわけないすよね。大きさとかいろいろ超越した存在がいたとして、人間を他の獣と同じ食肉だと見なしても何ら不思議はない。そうゆう嗜好のままでちょっとガマンしさえすればちゃんと善神になれるってあたり、菜食主義てのは「聖性」に際しての意味がさしてないようにも思えますな。荼枳尼さんとかふつうに肉とか魚介好きだし。摩陀羅さんにしても死ぬ前に内臓食うし。
ハートレスはよくわからんのだが、悪魔に魂を売って悩みのタネだった体の痣をなくして彼女ゲットしたんだけど世の中そう甘くはありませーん的な話なんだろうか。エンドクレジットぼんやりみてたら劇中歌の歌詞のとこ、ぜんぶに監督の名前が書いてあってなんとなくキモい。
恐怖と欲望は敵地にまよいこんだ兵士たちがのんびり逃げ道をさがす話。出くわした美人を見張る兵士が血迷って美人に狂って死んでた。音響をどうかしてうまくつかいたいかんじだった。
リンカーンは大幅にねたのでわけわからんのですけど、対立側を造反さすのってたいへんなんだなと思った。